ラッカ市にはアッバース朝の宮殿があったが、現在残っていない。宮殿があった場所は住宅地となり、古代・中世のラッカ市街地には現在住宅が建っている。アッバース朝時代の工房地区も消えてしまった。
1950年代、朝鮮戦争で世界的な綿花景気が発生し、ラッカの農業は前例のない成長をとげた。ユーフラテス川中流域の再耕地化が進み、綿花はラッカ地方の主要農な産物となった。
ラッカ市近郊を流れるユーフラテス川
ラッカ市は2014年になって、ISISの首都として有名になったが、元来反政府勢力が弱い街である。アラウィ派の都市と同程度に親アサド的であった。2011年と2012年、反政府勢力の動きはなく、2013年になって、隣県アレッポの反政府勢力が進出して来た。
2011年、ラッカ市でも数回デモが起きたが、広がらなかった。反政府的な連中も2012年の末までおとなしくしていた。部族連合は政府を支持していた。
イドリブ・デリゾール・アレッポから、50万人のの避難民がラッカに逃れた。ラッカが安全な街だったからである。
2012年6月、アサド大統領は親政府的なラッカを訪れ、モスクの礼拝に参加した。
2013年になると、武装勢力がラッカ県に進出してきた。3月3日、イスラム系のいくつかの旅団がラッカ市を包囲した。市の北端を突破した後、市内の政府施設を攻撃した。3月4日、イスラム系旅団は市の中央広場を占領し、ハフェズ・アサドの黄金の像を引き倒した。
3月5日、反政府軍は政府軍を市から追い出した
彼らは県知事のハッサン・ジャラリとバース党のラッカ支部長スレイマンを逮捕した。
県の首都が反徒の手に落ちたのは、これが最初である。ラッカ市制圧に参加したのは、次の諸グループである。
①自由シリア軍 ②ヌスラ戦線 ③アフラール・シャム ④フサヤ・ビン・ヤマン旅団
戦闘で最も活躍した2つのグループの指導者が死亡した。ヌスラのラッカ県司令官とアフラール・シャムのラッカ部隊の最高指揮官である。
政府側も、警察長官が死亡した。
住民は反徒に「市内に入らないでくれ」と懇願した。政府軍の砲撃と空爆を予想したからである。
ラッカの政府軍が少数とはいえ、反徒は簡単に勝利した。市の北端を突破されてからは、政府軍は戦わず退却した。憲兵将校と国境警備隊の将校たちは、軍の装備を17師団の本部に移動させた。17師団の本部は市に隣接しており、非常に近い。この間反徒たちは手を出さなかった。かれらも戦闘を避けた。政府軍は市から東西に向かって退却した。一部は、60㎞離れたラッカ空港に退却した。
反徒によるラッカ占領後、シリア空軍が20回ラッカを空爆した。10人の反徒と29人の市民が死亡した。
<17師団の基地をめぐる戦い>
ラッカ市から政府軍は去ったが、彼らは17師団の基地に移っただけである。今度は、ラッカ市の北にある第17師団の基地が戦場になった。2013年4月4日、自由シリア軍が基地の4分の3を占領した。師団の中枢である司令部は、政府軍が守り抜いている。戦闘で政府軍兵士80人が死亡し、250人が負傷した。
< ISIS、シリアに登場>
反政府軍と第17師団との戦闘は決着しておらず、第17師団の基地をめぐる攻防は続いた。反政府軍側に新たにISISが加わった。ISISはこの時初めてシリアに登場した。
ISISは今や反政府軍の支配下にあるラッカ市内に入り込んだ。ISISは新参者であり、実力者ヌスラのすそを分けてもらうようにして、市内の一画に自派の拠点を築いた。わずかな支配地を得ると、さっそく住民を処刑した。
2013年7月の勢力図には、ISISの支配地はない。ISISはまだ実績がなく、反政府軍の小さなグループにすぎない。地図上で赤く示されているのは反政府軍の支配地である。
タラビヤド(=テルアビヤド)はクルドの支配地の中にありながら、反政府軍が支配している。コバニの西隣りのジェラブルスも反政府軍が支配している。
<ISISと反政府諸軍とのみぞ深まる>
8月15日、ISISは17師団の包囲作戦から離脱すると宣言した。彼らはラッカ市の行政に専念するつもりであり、ラッカ県の最も緊迫した戦線から兵をひきあげた。
ヌスラ戦線と他のグループは17師団の攻撃に全力をあげていた。その間、ISISはラッカ市の独占支配に集中した。肩身の狭い新参者が、ラッカを独り占めにしようとした。政府軍と戦わず、反政府軍の成果を横取りする行為だった。当然ヌスラはじめ諸グループは怒った。
17師団の基地をめぐる攻防はえんえんと続き、その間ISISの横取り行為は着々と進められ、ラッカの単独支配にあと一歩となった。
ISISはラッカ以外でも同様の行為をしており、2014年1月3日、イドリブとアレッポの反政府軍の怒りが爆破した。反政府軍が団結して両地域のISISを総攻撃した。
12月の初め、自由シリア軍本部の武器の管理がずさんであることが発覚して、米国は自由シリア軍に対する援助を停止した。参謀長のイドリス将軍は落ち込んでいた。年が明け、ISIS討伐に参加する将軍は、元気そうだった。
イドリブとアレッポの反政府軍の怒りが先に爆破したが、ラッカの反政府軍の怒りも頂点に達していた。3日遅れて、1月6日、ヌスラに率いられたラッカの反政府軍がラッカ市内のISISを攻撃した。東部地区にあったISISの大きな収容所を打ち破り、50人の囚人を解放した。これは手始めであり、ラッカ市内のISISの全拠点に対する攻撃が、一日中続いた。攻撃に参加したのはヌスラの他に、以下の部隊である。
①アフラール・シャム ②リワ・タウヒド ③自由シリア軍系の小さな諸部隊
ISIS指導部は、自軍の部隊をすみやかに撤退させた。1月7日、ISISはアフラール・シャムの司令官と停戦協定を結んだ。
ISISはラッカから消えた。ラッカ県の北部、トルコとの国境の町テル・アビヤド(=タラビヤド)からも撤退した。
ISISはラッカ市から追い出されたが、立ち直りがすばやかった。1月7日の停戦協定を2日後に破った。9日、ISISはラッカ市の南側の橋を封鎖した。翌日、東部地区の大部分を制圧し、市の中心部に進んだ。
1月12日、イラクとの国境からISISの援軍が大挙して到着した。デリゾールからも援軍が来た。大軍勢となったISISは、13日ヌスラの本部を攻撃した。翌日ISISはラッカ市の大部分を制圧し、ヌスラの最後の砦となった知事の宮殿を包囲した。
アフラール・シャムは犠牲者が増えるのを恐れ、ISISの要求を受け入れ、立ち去った。これがISISの迅速な勝利を助けた。
ISISは追い出される前の状態を回復しただけなく、ラッカ支配が完成された。ヌスラとアフラール・シャムがラッカから消え、ISISはラッカの単独支配者となった。
ハサカ市とデリゾール市と違って、ラッカ市内に政府軍は残存していない。しかし政府軍は、市の北側に隣接する17師団の基地を拠点としている。政府軍にはさらに、市から少し離れたところに、2つの拠点がある。北方の第93旅団基地と南西のタブカ軍事空港である。
次に、3つの基地を含む、狭い範囲の地図を示す。ネットでかなり探して、やっと見つけた。ただラッカ県全体の中での位置がわからないので、上に広い範囲の地図を示した。
続いてISISはラッカ県の他の町を奪いかえした。1月13日、国境の町テルアビヤドをアフラール・シャムから奪いかえした。この時アフラーラル・シャムの戦闘員を処刑し、彼らの家を焼いた。翌14日、ラッカ市の西隣りのタクバに入った。リワ・シャウヒドは町を明け渡すことに同意した。
同日14日、オマール・シシャニ司令官が率いるISISの部隊が、アレッポ市の北東のアル=バーブを攻略した。
ラッカのISISの部隊にアレッポを撤退した部隊が加わった。(アル=バーブの位置は2つ目の地図も参照)
ISISはラッカ周辺が安定したので、兵力に余裕ができ、アレッポ方面の作戦を続けた。
1月23日、アル=バーブの北東のマンビジを攻略した。マンビジの位置は上下の地図参照。
ISISは東からアレッポに迫っている。ラッカの支配地を延長する形で、アルバーブとマンビジに進出した。
ISISは本拠ラッカ市のすべての入り口に検問所を設け、特に市内に入る車両の検査を厳重にした。市内の住民に古風で厳格な宗教的規律を押し付け、残酷な処罰をした。このことでISISは批判されるが、統治しようという姿勢は評価されるべきである。自由シリア軍の多くは、統治についての自覚がなく、自ら無法者の振る舞いをし、町は無警察・無行政の状態に放置されている。
5か月後の6月10日、ISISはモスルで勝利するが、その時、ラッカ県におけるISISの課題は、政府軍が3拠点に残存していることだった。
(参考)
- The Battle of Raqqa
- ISIS governance of Syria: Institute for the Study of War
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