昨今、「言葉」が軽い…。
あなたは、そう感じることはありませんか?
たとえば、「先生」という言葉をフィーチャーしてみましょう。
この言葉の持つ意味の重さ、というのは、いまから20年~30年、あるいはそれ以前は現在よりもずっと重かったのではないでしょうか?
まさに「師」というイメージをそこに含んでいた、というか、その存在にどこか畏敬の念を抱かせる存在にこそ、ふさわしい言葉であったように、思います。
しかし、現代においては、もはや「便利語」化してしまった言葉のひとつかもしれません。
不肖このわたくしも、「先生」と呼称される立場ではあります。
そう呼ばれるようになってからだいぶ経ちます…けれど、未だにどこかむずがゆい。
「わたくしは、そう呼ばれるに足る人物となったのであろうか』…このように無意識的に内省しつつ、常に足元を見つめ続けています。
さて…
「あなたに眠る無限の愛を…」
「無限の叡智への絶対の信頼と魂からの覚醒を…」
「超越した知性への飛翔により、深い愛を…」
…的なフレーズのウェブサイトや何かの雑誌などのコマーシャルを、見たことはありますか?
特に、ネット時代になってから、だいたい2000年代後半あたりから格段に増えたように思いますけれど…いかがでしょうか?
それまでももちろん、たくさんあったのでしょうけれど、「一般的に」みかけるようになったのは、だいたいそのくらいではないかな、と。
いわゆる精神世界系・自己啓発系はいうに及ばず、セラピー・ヒーリング系や占い系でも、こうした「手法」は使われますね。
心理的なアクセスを多様に使い、感情を揺さぶるマーケティングというのは、アメリカなどではもはや常識(というか、もはや古いかも)なので、そのあたりの「手法」を巧妙に盛り込んでいるウェブサイトは増加したなと、数年前あたりから思っていました。
買わせるための「手法」、売るための「手法」というのは、相当なレベルで随分前に確立されているので、それを日本に持ち込んだだけですから、何の不思議もありませんね。
それ自体は、ごくフツウのことです。
ただ、
それによってなのか、また別の理由によってなのか…実際は多様な要素が複合的にミックスして作用しているのでしょうけれど、先ほどの「言葉」を扱ううえでの、ひとつの「言葉」の持つ「意味の重さ」という面でいえば、明らかに変質したなと、個人的には感じています。
「あなたを心から信頼しているわ」
「君を自分の命にかえて守り抜く」
「あなたとわたしは前世からの絶対の信頼関係…」
…こういうことを、「軽く」言えてしまうようになった、ように、感じているということです。
わたくしも、立場上「先生」と呼ばれ、来ていただく方のなかには
「先生を心から信頼しています」
ということを伝えていただくことも、あります。
もちろん、そう伝えていただく方のなかには、長くお付き合いいただいている方もいますし、そう思われていることで、足元を見つめ続けていく確たる力にもなるもので、とてもありがたいなと、常々感謝しております。
しかし…なかには、その方の意にそぐわぬ言動(たとえば、キビシめの指導)によって、ヘソを曲げてその後パッタリ…ということも…まあ、一度や二度ではありません。
そうした方々にとっての「心からの信頼」というのは、早い話
「私の期待を裏切らないヒトであるうちは…」
というフレーズをアタマにくっつけることで成り立つのでしょうから、まあ、それはそれでよいかな、と。
古来、日本では「言霊」という発想がありました。
口に出した言葉は、現実に何らかの作用をする、とされていました。
日本の神々は、「~ミコト」と尊称します。
その「ミコト」は、「御言」あるいは「御事」である、とも考える説もあります。
神職の唱える祝詞は、言葉を媒介として神により唱えられた時空を現出させる(折口信夫)とも…。
また、弘法大師・空海は『声字実相義』において
五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身これ実相なり
と、深遠なる言語の本質を顕しています。
言葉は、霊。
文字であれ、音であれ、と。
口から音となって発される「言葉」。
その響きは、その瞬間から宇宙を漂い、何らかの作用を促すということです。
「愛しています」
「信頼しています」
「命をかける」
…わたくしはやはり、こうした「言葉」は大切に、それこそ「心からの言葉」として使っていきたいと、思っています。
幼い子どもや、いきがっていたい年代ならばともかく、「ごっこ」で使うような「言葉」でもない、と。
さて、あなたは、どのように思われますでしょう、か?
あなたは、そう感じることはありませんか?
たとえば、「先生」という言葉をフィーチャーしてみましょう。
この言葉の持つ意味の重さ、というのは、いまから20年~30年、あるいはそれ以前は現在よりもずっと重かったのではないでしょうか?
まさに「師」というイメージをそこに含んでいた、というか、その存在にどこか畏敬の念を抱かせる存在にこそ、ふさわしい言葉であったように、思います。
しかし、現代においては、もはや「便利語」化してしまった言葉のひとつかもしれません。
不肖このわたくしも、「先生」と呼称される立場ではあります。
そう呼ばれるようになってからだいぶ経ちます…けれど、未だにどこかむずがゆい。
「わたくしは、そう呼ばれるに足る人物となったのであろうか』…このように無意識的に内省しつつ、常に足元を見つめ続けています。
さて…
「あなたに眠る無限の愛を…」
「無限の叡智への絶対の信頼と魂からの覚醒を…」
「超越した知性への飛翔により、深い愛を…」
…的なフレーズのウェブサイトや何かの雑誌などのコマーシャルを、見たことはありますか?
特に、ネット時代になってから、だいたい2000年代後半あたりから格段に増えたように思いますけれど…いかがでしょうか?
それまでももちろん、たくさんあったのでしょうけれど、「一般的に」みかけるようになったのは、だいたいそのくらいではないかな、と。
いわゆる精神世界系・自己啓発系はいうに及ばず、セラピー・ヒーリング系や占い系でも、こうした「手法」は使われますね。
心理的なアクセスを多様に使い、感情を揺さぶるマーケティングというのは、アメリカなどではもはや常識(というか、もはや古いかも)なので、そのあたりの「手法」を巧妙に盛り込んでいるウェブサイトは増加したなと、数年前あたりから思っていました。
買わせるための「手法」、売るための「手法」というのは、相当なレベルで随分前に確立されているので、それを日本に持ち込んだだけですから、何の不思議もありませんね。
それ自体は、ごくフツウのことです。
ただ、
それによってなのか、また別の理由によってなのか…実際は多様な要素が複合的にミックスして作用しているのでしょうけれど、先ほどの「言葉」を扱ううえでの、ひとつの「言葉」の持つ「意味の重さ」という面でいえば、明らかに変質したなと、個人的には感じています。
「あなたを心から信頼しているわ」
「君を自分の命にかえて守り抜く」
「あなたとわたしは前世からの絶対の信頼関係…」
…こういうことを、「軽く」言えてしまうようになった、ように、感じているということです。
わたくしも、立場上「先生」と呼ばれ、来ていただく方のなかには
「先生を心から信頼しています」
ということを伝えていただくことも、あります。
もちろん、そう伝えていただく方のなかには、長くお付き合いいただいている方もいますし、そう思われていることで、足元を見つめ続けていく確たる力にもなるもので、とてもありがたいなと、常々感謝しております。
しかし…なかには、その方の意にそぐわぬ言動(たとえば、キビシめの指導)によって、ヘソを曲げてその後パッタリ…ということも…まあ、一度や二度ではありません。
そうした方々にとっての「心からの信頼」というのは、早い話
「私の期待を裏切らないヒトであるうちは…」
というフレーズをアタマにくっつけることで成り立つのでしょうから、まあ、それはそれでよいかな、と。
古来、日本では「言霊」という発想がありました。
口に出した言葉は、現実に何らかの作用をする、とされていました。
日本の神々は、「~ミコト」と尊称します。
その「ミコト」は、「御言」あるいは「御事」である、とも考える説もあります。
神職の唱える祝詞は、言葉を媒介として神により唱えられた時空を現出させる(折口信夫)とも…。
また、弘法大師・空海は『声字実相義』において
五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身これ実相なり
と、深遠なる言語の本質を顕しています。
言葉は、霊。
文字であれ、音であれ、と。
口から音となって発される「言葉」。
その響きは、その瞬間から宇宙を漂い、何らかの作用を促すということです。
「愛しています」
「信頼しています」
「命をかける」
…わたくしはやはり、こうした「言葉」は大切に、それこそ「心からの言葉」として使っていきたいと、思っています。
幼い子どもや、いきがっていたい年代ならばともかく、「ごっこ」で使うような「言葉」でもない、と。
さて、あなたは、どのように思われますでしょう、か?