『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

北海道出張、ありがとうございました

2018-09-21 | 2018年
整体施術者としてデビューしてから4、5年は、「出張」をメインとしていた時期がある。
これにはさまざまな理由があるが、一番大きなものは、「通えないほど大変な状況にある方の施術」を熱望していたからだった。
さらにいえば、俗にいう「場数を踏む」ことを強く欲していた。

実際、待っているばかりではなかなか目の前に現れないような方々の施術をする機会に恵まれた。
ある程度経験や知識を得てから…と、普通は考えるような「重い」症状の方々。

膠原病といわれ、ずっと薬を飲み続けているも歩けなくなってしまい、その当時(22年前)車イスで生活していた男性…
大腸ガンで3回開腹手術をし、肝硬変やどこかの膜の癒着やら、多くの病気を持っておられた女性…
更年期で飲用した精神系の薬の、その後遺症で苦しんでいた女性…

などなど、思い出深い。
これらの方々は、医療でも実質的にサジを投げられているような方々だった。



さて、今年は久々に「出張」づいている。
これは以前のような「場数を踏む」的なものではなく、単純に「来て欲しい」という要請があるということ。
とはいえ、ただ「来て欲しい」だけでは動かない。
そこには、それ相応の条件がある。


今回は、



北海道、札幌在住のNさん。
3年前に引退された元・開業医の方(80代)。
ご息女は長野県で歯科医をされていて、指南塾に3期生として来ていただいていた。
今回、そのご息女の強い希望により実現した北海道出張。

ご両親ともずっと体調が悪く、特にお母様が肩の腱断裂と医療で診断されていて、大変不都合だという。
さらには下肢のむくみ、顔の神経マヒなど多彩な症状を訴えられていた。

ご両親ともの施術を3日間、計3回。




元医師のご家族ということもあり、こういった施術は初めての経験だったらしい。
受け容れていただけるのか…と思ってはいたけれど、結果的には心身ともにだいぶ楽になり、気に入っていただけたご様子だった。



2018年9月6日の北海道胆振東部地震の影響は様々だった。
新千歳空港では、出発、到着階は稼働しているものの、グルメなどのフロアは軒並み営業停止。
私の行く前日も揺れたようで、札幌でも節電状態だった。
歯科医の方のご子息は、北海道の医療系大学に通っている。
札幌駅からすぐの所に住んでいるらしいのだが、その当日は全面停電で、スマホの充電が切れれば外部との連絡もできないような状態。
コンビニは入場制限がかかり、長蛇の列ができていたという。

被災された方々にはお見舞い申し上げます。




セッションにおける〈 時間 〉について

2018-09-04 | 2018年
ようやくウェブサイトの更新もできた。
こちら
ここ数年、あまりウェブサイトを丁寧に読み込む人というのは少なくなったように感じる。
そういうこともあって、内容をどうするかサーチしたり検討したりしていて、結局「なるべくシンプルに、でも伝わるように」を念頭において作ることにした。
実際は、書きたいことはヤマほどあっても、医師でもない私には書けるものでもなかったりする。
術前術後みたいな写真や広告も規制されている昨今、たとえ相談者様の感想でも、掲載には気を遣う。
事実をそのまま語らずに事実を伝えるには…という妙なテクニックがいるんだな、これからは。


さて、
『Tamuratic.』でたまにある問い合わせの内容の一つに「時間の長さ」がある。

「何分くらいかかりますか?」「長くやってもらえるんですか?」「すぐ終わりますか?」…など、ご自分の整体を受けた経験や、初めての場合はマッサージなどの「〇〇分〇〇円」というイメージから聞かれることもあるようだ。

こういうところにも、いいとか悪いとかでなく、人それぞれの思考のクセみたいなものが出るなと、感じる。
この場合では、

・「マッサージ」「指圧」といった業態と「整体」などは同じグループ
・他でそうなのだから、ここでもそうだろうという先入観
・「時間を長くやってもらう」ことが希望、あるいは「短くサッと終わらせてもらう」ことが希望
・いづれの場合も、「時間」が、一つのキーワードになっている

というように。

「時間」を、価値の一つとして考えている方は多い。
それはそれで価値の持ち方であり、人によってちがうのは当然といえば当然。
ただ、『Tamuratic.』のセッションに関しては、「時間」の長短というのはあまり意味を持たないので、その点は明記しておく。
短ければ数分、長ければ一時間を超える場合もある。
それは、「時間」が基準でなく相手の方の「度」が基準になるからだ。

整体には、「機・度・間」という概念がある。
「時間」は、その全てに関連があるが、特にといえば「度=度合」というカテゴリーに分類されるだろう。

少し引用すると、

「操法の技術もとより処を得て押さえ放す事なり。その処に指がピッタリ当たっているか、その指が型によって用いられあるや見定めること必要なるもただ格好のみ見て度のこと見究むるに非ざれば、実際に操法を用うる人見出だせざるなり。
度とは強弱也長短也遅速也多少也。時間長く操法しておれば丁寧なつもりの人あるも時をただ多く費やしているは度を知らぬ也。度のこと知らず自分の満足のために時間多く費やしていても之丁寧なるに非ず。当てずっぽーなる也。度を知りて長き時間を費やさねば不安なるは技鈍き也。一秒間の長さが瞬く間に過ぎ去る人也。一秒を活かして捉え得ねば十分間も一時間も活かし得ぬ也。時を活かし得ぬ人二時間三時間操法を繰り返してもお互いに疲れるだけのこと也。
度を過すことを怖れて弱く長く操法している人あるも同じこと也。度の適を得ねば効無き也。
操法ということ長ければ親切と思い弱ければ丁寧と思い短ければ鮮やか思い強ければ自信あると思う人あるも度の適を得ざれば長くも短くも強くも弱くもまた中位なるも不可也…続く」
(「整体操法 中伝」より引用)

言葉使いも古いので少し読みにくいとは思うが、なんとなく言いたいことはつかめるだろうか?
ちなみに、文中「処」というのは、たとえば「急処」というような使い方をする。
わかりやすくいえば整体版の「ツボ」で、「ツボ」と同じ場所の場合もあるがそうでない処もある。

また、私事で恐縮だが、最近、病院で身内が亡くなった。
その時に、同じ野口先生のこの文章を思い出した。

「治療術というと何かすることだと思っている人が多いが、治療術ということは何かすることだけではなくて、何もしないことも治療術なのである。そしてその何もしないことの方が大切な治療術なのである。何もしないということが最高の治療術であることを知っている人もいるもいるが、何もしないということを治療術とする技術があることを判っている人はまことに少ない。何もしないということと、何もしないということを治療術とすることとは違うのである。この違いが判らねば何もしないということを治療術として活かすことはできない」(「治療の書」野口晴哉)

「手を尽くす」ということが、何か履き違えられている。
そう思わざるを得なかった。
とはいえ、

「今は世の中の全体が何かすることの方に偏っている。それは人間の生きているはたらきを故意に無視することから治療ということが考えられている為であろう」(「治療の書」)

この傾向は、この書が書かれた昭和26年より、何も変わらない。
というより、もはや意識できないほどに偏った、ともいえるかもしれない。。。