人間、というか生命にとって大切な要素。
それは「動き」。
「変化」と言い換えてもいいでしょう。
いついかなる時も、この世界にあるもの全ては「変化」し続けている。
このことを仏教的にいえば「無常」といい、このことを真に理解したときヒトは悟りに至るといわれます。
たとえば、
「腰がスッと抜けるうような感じがして・・・」
「イスから立ち上がろうとした時に、お尻の筋肉がなんかヒュッと下に落ちるような・・・」
「あくびしたらいきなり腰から下が固まった感じがして・・・」
…日常のなにげない動きをした刹那、巻き起こるこれらの身体的反応。
いわゆる「ギックリ腰(急性腰痛症」は、通称「魔女の一撃」という表現をされることもあります(2016年ブログ記事参照ください)。
それくらい、「ギクッ」ときたその瞬間の痛みや驚きは、衝撃的なのです。
けれど、
これらの反応が起きたところで、慌てることはありません。
どのような身体的反応が起きたとしても、それが永久に起き続けることはないのですから。
痛みは痛みで、不安は不安で仕方ないですが、「永久に続くことはない」とあらかじめ(真に)知っているのなら、随分と気は楽になります。
ヒトは、その性質上どうしても「非日常」を畏怖する傾向があります。
ホメオスタシス(恒常性)は「変化」を嫌い、「不安定」を怖れます。
ですから、ヒトは、どうであれ「そのまま」でいたいという欲求を誰しも持つものです。
「変わりたい」「〇〇のようになりたい」「このままではいけない」…確かにアタマには、このように浮かびます。
きっと誰もが、その経験はあることでしょう。
でも、その先。
その思いがアタマの理想のカタチで成就することは、割と少ないかもしれません。
自分自身の「日常」を超越する。
「非日常」を「日常」へとシフトする。
ココが、「変わりたい」という思いを遂げる、はじめのターニングポイント。
たとえば、どこかの小高い丘で、まばゆいばかりの新緑の風景を眺めているとします。
風がそよぎ、木々はその風に乗り、時にわずかに、時に激しく揺れ動きます。
燦々と太陽は照りつけ、流れる雲が時々その光を遮り、明るさの中に穏やかな日陰をもたらします。
このような情景、このような場面においても、全ては変化し続け、変わらないものはありません。
たとえば、自分自身の掌を眺めてみます。
ただ眺めていると一見何も変化していないように思えるかもしれません。
けれどジッと見ていると、その内側で起きていること、たとえば脈動、たとえば皮膚の色、たとえば掌の筋肉の硬くなっている箇所などに、微妙に変化が起きていることに気づくでしょう。
見ていること、聞いていること、香り、味わい、触れるもの…これら全ては、止まぬ変化が本質です。
いま、たとえば苦しみの真っ最中にいたり、老いて身体がかつてのように動けないことを嘆いたり、あるいは死が間近に感じられて仕方がないとしても、それもまた変化の顕れ。
慌てふためき、不安や怖れから身近な愛する方々を傷つけたりすることをくり返すのではなく、ただ落ち着いて、起きていることをジッと眺めてみたらいい。
もしそれができたのなら…
本当は、
ただどこまでも続く静寂が、そこにあるだけ。
不安も怖れも、実際はどこにもないことに、あなたは気づくことでしょう。
この世界は、ただいつも「変化」している。
ただ、それだけのことなのだと。