『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

慌てふためくその前に…

2019-05-31 | 2019年
人間、というか生命にとって大切な要素。
 
それは「動き」。
「変化」と言い換えてもいいでしょう。
 
いついかなる時も、この世界にあるもの全ては「変化」し続けている。
このことを仏教的にいえば「無常」といい、このことを真に理解したときヒトは悟りに至るといわれます。
 
たとえば、
 
「腰がスッと抜けるうような感じがして・・・」
「イスから立ち上がろうとした時に、お尻の筋肉がなんかヒュッと下に落ちるような・・・」
「あくびしたらいきなり腰から下が固まった感じがして・・・」
 
…日常のなにげない動きをした刹那、巻き起こるこれらの身体的反応。
いわゆる「ギックリ腰(急性腰痛症」は、通称「魔女の一撃」という表現をされることもあります(2016年ブログ記事参照ください)。
それくらい、「ギクッ」ときたその瞬間の痛みや驚きは、衝撃的なのです。
 
けれど、
これらの反応が起きたところで、慌てることはありません。
どのような身体的反応が起きたとしても、それが永久に起き続けることはないのですから。
痛みは痛みで、不安は不安で仕方ないですが、「永久に続くことはない」とあらかじめ(真に)知っているのなら、随分と気は楽になります。
 
ヒトは、その性質上どうしても「非日常」を畏怖する傾向があります。
ホメオスタシス(恒常性)は「変化」を嫌い、「不安定」を怖れます。
ですから、ヒトは、どうであれ「そのまま」でいたいという欲求を誰しも持つものです。
 
「変わりたい」「〇〇のようになりたい」「このままではいけない」…確かにアタマには、このように浮かびます。
きっと誰もが、その経験はあることでしょう。
でも、その先。
その思いがアタマの理想のカタチで成就することは、割と少ないかもしれません。
 
自分自身の「日常」を超越する。
「非日常」を「日常」へとシフトする。
ココが、「変わりたい」という思いを遂げる、はじめのターニングポイント。
 
 
 
たとえば、どこかの小高い丘で、まばゆいばかりの新緑の風景を眺めているとします。
風がそよぎ、木々はその風に乗り、時にわずかに、時に激しく揺れ動きます。
燦々と太陽は照りつけ、流れる雲が時々その光を遮り、明るさの中に穏やかな日陰をもたらします。
 
このような情景、このような場面においても、全ては変化し続け、変わらないものはありません。
 
たとえば、自分自身の掌を眺めてみます。
ただ眺めていると一見何も変化していないように思えるかもしれません。
けれどジッと見ていると、その内側で起きていること、たとえば脈動、たとえば皮膚の色、たとえば掌の筋肉の硬くなっている箇所などに、微妙に変化が起きていることに気づくでしょう。
 
見ていること、聞いていること、香り、味わい、触れるもの…これら全ては、止まぬ変化が本質です。
いま、たとえば苦しみの真っ最中にいたり、老いて身体がかつてのように動けないことを嘆いたり、あるいは死が間近に感じられて仕方がないとしても、それもまた変化の顕れ。
慌てふためき、不安や怖れから身近な愛する方々を傷つけたりすることをくり返すのではなく、ただ落ち着いて、起きていることをジッと眺めてみたらいい。
 
もしそれができたのなら…
本当は、
ただどこまでも続く静寂が、そこにあるだけ。
不安も怖れも、実際はどこにもないことに、あなたは気づくことでしょう。
 
この世界は、ただいつも「変化」している。
ただ、それだけのことなのだと。
 
 
 

抵抗の一形態

2019-05-17 | 2019年
いま起きている症状が好転、軽快すれば誰でも喜ぶはず…
たぶん、これが常識的な見解だと思います。
私も、いまから20数年前に、整体施術を始めた当初は、そう思っていました。

たとえば腰痛でも、ごく単純に身体的な過労や偏った姿勢によるものであるなら、それに対応すればよく、スムーズに軽快するものです。
けれどそこに、たとえば誰かへの怒りや訴えのような、感情的な要素が含まれている場合には、多くの場合再発してきます。
あるいは、症状の入れ替えが起き、より軽快しにくいような痛みや不具合を、どこかに作り出すこともあります。
こうした例に限らず、実際の現場では想像もつかないようなことが、起きてきます。



ある男性は、最初、もう15年くらい前になりますが、私が主催していたタイプ論の講座に来ていました。
その講座に参加される方々の目的はさまざまでしたが、一般の会社員から学校の教師、お寺の住職などに参加いただいていました。
ほとんどが男性で、その中でも彼はそのタイプ論を習得しようととりわけ熱心に取り組んでいました。

講座終了後も、彼は整体施術を受けに来ていました。
そのころはずっと強烈な咳とともに来室し、そのほかあちこちの体調不良を訴え、毎回のように「あんまり変わらない」と言いながら次回の予約をしていくのです。

その後、僕が心理療法も行うようになり、彼はそのセッションを受けるようになりました。
そうしてほどなく咳も止みました。
止んだ、というよりは、出すことができなくなった、という方が本質的かもしれません。
咳を出さなくなると、いろいろと細かい身体的な症状を出すようになりました。
しかし、これらもすぐにセッションにより消えていきます。
どんどん、身体的な症状に出すワケにはいかなくなり、ここにおいてようやく彼の内面世界と彼自身が対峙するステージとなったワケです。

実は、彼は以前、ある方から催眠誘導の施術を受けていました。
この先生が施術をやらなくなったこともありこちらに来ていたという事情もあるのですが、彼曰く「僕は誘導されると寝落ちします」と言う。
そして、実際に私の誘導でも彼は寝落ちしました。

こうした「抵抗」は、実はあまり珍しいものではありません。
人は、自身の持ちうるあらん限りの知恵を用いて、いまある状況を保とうとします。
つまり、いまある症状が消失してしまうことが、潜在意識では決して喜ばしいことではないのです。
僕のセッションは、こうした「抵抗」についても最初から折込済みで創案したもので、それゆえにいわゆる催眠誘導は使用する必要がないのです。

およそ想像しうる限りのさまざまな問題も、そのほとんどが問題ではなくなっていきました。
そのプロセスの中、彼が口で「これをどうにかしてください!」と喚かんばかりに訴えてくる案件がその度に消失していくときですら、彼が喜ぶ事はほとんどありませんでした。
どちらかといえば、どうにかして解決しないよう、記憶の改ざんや捏造はもちろん、さまざまな心理的抵抗をずっとし続ける事は毎回のセッションでのスタンダードな事でした。


そして、つい先日。
「『憎む』ことを止められない…」
こういう彼に問うても、もはや憎むべき対象は、外側には何もないのです。
すでに、終わっています。
どこにもないのだけれど、「憎む」ことを止められない。
こうした場合、「憎しみ」という言葉のイメージにこちらが引きずられることなく、起きていることを眺めてみます。

率直にいえば、彼は「(惨めな自分を)憎くて仕方ない」と言っていることになります。
突き詰めていくと、彼自身もこれを否定はしません。
そう言ってのち「この憎しみを変える(無くす)気は全然ない」と言い切ります。
それでも、どうにかしてセッションを受けようと熱心にやってくるのです。

惨めな自分という、自らの心に創作した強力なイメージは、それと同じ量だけの自己愛の裏返しでもあります。
人は、いわゆる「幸せ」にまっすぐ突き進んでいける人ばかりではありません。
「幸せ」をどうにか回避しようと、懸命になる人というのも、あるのです。

ただ、これもまた、その人なりの「幸せ」である事は、確かなことなのだけれど。







タイプ論

2019-05-02 | 2019年
たとえば、〝怒り〟という感情が起きると、途端に強気になり前に出ることができるヒトがいます。
そうかと思えば、反対に〝怒り〟という感情が起きた途端に、思考や行動がフリーズして動けなくなってしまうヒトもいます。

起きている感情が同じであっても、次の瞬間に目に見えて現れる行動様式は、千差万別。
内面で展開される感情の流れは、やはり一人一人で異なります。

人間という生物のこうした違いは、医聖・ヒポクラテスの体液病理説など、古代よりさまざまな形で研究されてきました。
内向・外向という分類をしたユングの分析心理学なども、その一つの試みだといえます。

主に心理系のセラピーに役立てるために研究されてきたこれら「タイプ」分類は、ともすればヒトをコントロールするためのツールとなり得るもの。
そういうことからボクは、ある時期からこうした「タイプ」分類でのセミナーやワークショップには、あまり積極的ではありませんでした。
こうしたメソッドを欲するその心には、多くの場合「他人より優位に立ちたい」「誰かをコントロールしたい」という願望のようなものが、つきまといますからね。
そうした傾向を助長するのは、ボクの本意ではありません。

ただ最近は、『コア・セッション』などで個人の潜在意識の深層にダイブすることも増えました。
そのプロセスを通じ、誰かや何かをコントロールしたい的な願望が形成されるメカニズム、しくみもおおまかにはわかってきました。

「誰かや何かに動かされている」
たとえば、ポケットに忍ばせたスマホ、タッチ一つで買い物が完了し、スーパーのレジ、電車の改札もどんどん人の気配が薄くなっていく世界。
この自動化の流れは止まることなくドンドンと加速し、その流れの早さに溺れ、アップアップしている状況にある方も、同じようにドンドンと加速的に増えていくことでしょう。
自分の存在価値、足場を見失い、戸惑いながら日々を生きているのなら、否が応にも自分が立っている(と感じられる)何かを欲するのはヒトにとって自然なことです。

シンプルにいえば、本当は「誰か」ではなく「自分」をどうにかしたいのです。
ちゃんと立っていたいし、「自分はここにいる」と主張もしたいし、大切にされたい。
そのシンプルな思いが、人間社会では往々にしてねじれてしまう。



6月、九州の2カ所で「タイプ論」のセミナーを行うことになりました。

人間は、シンプルです。
口から咀嚼した後に出てくる言葉、他者に見られることを前提とした行動に、真実はありません。
でも、実際はいつも真実を語っています…自分自身の体によって。

体はウソをつけません。
その体の見方、そして観方をお伝えいたします。
フワフワした理論ではなく、整体施術やセッションで実践の中で磨き洗練されてきた「タイプ論」。

まっすぐ、自分自身を見つめることを希求する方に。

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