『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その7・総括~

2012-12-04 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年



悲喜こもごも、実に多彩多様な三日間でした。
そこで展開されるさまざまは、まさに「おそうじ」そのまま。
人がヒトであるということ、そしてそのヒトの深層に優しくたたずむ何か…。
個人的には、「おそうじ隊」のある面での本領が、今回で極まった感もないではありません。

また、この記事では、「熊野=腰」というひとつの概念提起をしました。
御参加いただいた皆様においては、少なくとも読んでいただけていたとは思いますが…。

自らの「腰」は、定まりましたでしょう、か?

何はともあれ…
今回ご同行いただけましたこの御縁に、心よりの感謝を。
そして、御参加いただいた皆様一人一人に、心よりの感謝を。
本当に、ありがとうございました。




『神社おそうじ隊 見参! 番外編』を発想したときに、真っ先に浮かんだのが「伊勢」「出雲」、そして今回の「熊野」でした。

そこに、何か特別な理由があるワケではありません。
しかし、実際にその場と空間に身と心を置くと、奥底からさまざまな「想い」が浮かび上がります。

それぞれ異なる場、違う空間のようでいて、深層で複雑に絡み合う意識のリンケージとでもいえばよいのか…ある一貫した大きな流れのようなものが、漠然としながらもありありと、感じられるのです。

それをさして「神道」というのか…それはいまはわからない。
しかし、個人的には「番外編」のおけるこの三カ所で、明らかにそれまでの「神道」という概念への認識とは違った地点に降り立ったように感じています。



さて…
来年以降、『神社おそうじ隊 見参!』の活動は、さらにヒートアップいたします。
現在決まっているところでは…

まずは一月。
十二日・十三日には、滋賀県・近江八幡の御猟野乃杜・賀茂神社でのご神事に参列。
八月の「ご当地隊・近江」は、想像を遥かに超える素晴らしい道行きでした。
賀茂神社に現存する古代祭祀跡、そこはこの道行きのなかでも、深く魂に響く神域でもありました。

そして二月。
昨年・今年と重ねてきた神奈川県内での「レギュラー編」は、六月の鎌倉で一旦完了とし、来年より磐座・巨石を基準とした新たな展開へとスケールを拡大。
そのオープニングには、九日・十日常陸ノ國・下総ノ國へ。
鹿島神宮の要石というオープニングアクトに相応しい「場」、そして香取神宮ほか…興味は尽きません。
加えて十日は、旧暦元旦でもあります。
御参加頂いた隊員の皆様と、新年の御来光をお迎えする予定です。

三月には京都。
鞍馬・貴船、そして伏見稲荷へと。
こちらは、けっこうハードな巡拝ロードとなるようですが、さてさて…。

そして、四月。
「番外編」の時期となります。
今回は、いよいよ奈良(大和ノ國)へと見参、です。
神社、そして日本そのものに想いを馳せてみた時に、やはり奈良、そして京都は外せません。
今後もさまざまなスタイルで巡拝することになりますが、「番外編」となる今回は、「山の辺の道」へと、身と心を運びます。


…まずは、ここまで。
これ以降も、続々浮かんできています。





「熊野」。
「よみがえり」。

腰の力を決めるものは、さて何か。
それがひいては、「よみがえり」の、礎ともなるもの、かと。。


そして、来る年。
伊勢、そして出雲での「遷宮」。
過去、重なることはなかったといわれるこの一大神事の行われる年でもあります。


「よみがえり」。
何やら大きな流れの、うねりゆく予感。。。




今回も、ありがとうございました。






2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その6~

2012-11-20 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年
*各神社のご由緒やご祭神は、特に理由がない限り割愛しています。
 それらは『神社おそうじ隊 見参!公式ブログ』をご覧ください。




最終日、朝。
本宮大社すぐ近くということもあるのだろうか…この地で迎える朝は、際立って印象的だった。


…深夜、ふと意識を外に放ってみると、都会ではまず訪れ得ない、深い静寂がそこにはあった。
ある一定の振り幅の中で、ただただゆらぐようなその静寂。
こうした静寂の中に身と心を浸すことを、今回は望んでいたのだと、気づく。

そして、早朝。
川の音、澄み渡った空気、緑濃く連なり合う木々…
まさに「神域」…そのなかに溶け入っていくかのような感覚を、ほんのしばし、愉しんでいた。




全員で、大斎原へと、向かう。
明治二十二(1889)年まで、本宮大社の社殿が在ったところである。
身をそこに置いている間、その時空間にあたかもタイムスリップしているかのような、妙な感覚があった。

川のほとり、水際まで歩く。
平成十二(2000)年に建てられたという、高さ33.9メートルの大鳥居が、その威容を誇示するかのようだった。
残念ながら写真はないので、その様相は『神社おそうじ隊 見参!公式ブログ』で、紹介されることと思う。






そして、いよいよ…
『熊野本宮大社』へ。
熊野三山の中心であり、中辺路、小辺路、奥駈道といった古道の到達地でもある。




参道脇には、「熊野大権現」の幟(のぼり)がはためく。







拝殿。
今回は、「神社おそうじ隊 見参!」として、初のご祈祷をお願いいたしました。

















圧倒的な何かを感じつつも、精妙にして柔らかい…
それは、本宮大社の主神・家津御子(ケツミコ)神(スサノオノミコトと同神とされる)のご神威なのか、はたまた、「蟻の熊野詣」といわれていた時代から継承される、人々の憧憬の念が積み重なっているゆえなのか…。


またこちらでは、「近江ご当地隊」の際に参拝させていただいた賀茂神社の岡田禰宜のご好意により、熊野本宮大社のO権禰宜に社伝や社史を案内いただくこともできた。
こうした神縁をいただけることに、まずは感謝。
そして、岡田禰宜のお心遣いに、厚く感謝。






…ここでカメラの充電はこと切れた。
そんなことも初めてで、カメラもそれだけ活躍した今回。。。

このあと、昼食をとり空港へと向かうなか、古道・中辺路入口の滝尻王子→胎内くぐり。

そこから熊野三山の別宮的存在である、田辺市の『闘鶏神社』を参拝。
三山全ての祭神をお祀りしていることもあり、こちらを参詣することで三山を遥拝し、山中を行くことなく引き返していた人々も多かったと聞く。
田辺市は弁慶生誕の地としても有名らしく、闘鶏神社はその父ともいわれる熊野別当湛増ゆかりでもあるそう。
社務所には、弁慶産湯の釜、熊野湛増着用の鉄烏帽子、源義経が奉納した笛「白龍」などがあり、実際に拝見させていただいたが、特に笛は勇壮ともいえるような独特の風格を醸し出していた。。。




今回の「おそうじ隊」は、ここまで。
ここから、急ぎ空港へと。。。

次回、今回の「まとめ」を。






2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その5~

2012-11-02 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年
*各神社のご由緒やご祭神は、特に理由がない限り割愛しています。
  それらは『神社おそうじ隊 見参!公式ブログ』をご覧ください。



『熊野速玉大社』
この日、まったく予定の外であったが、「例大祭」。
神馬(しんめ)で阿須賀神社に赴き、神霊を遷して速玉大社から御旅所に向かう渡御神事だということ。

午後二時、御神霊が神馬へ遷されるまさにその瞬間。







境内は、多くの人々で賑わっていた。
そのなかを、拝殿の奥から聞こえる「オォーー」という警蹕(けいひつ)の声。


速玉とは、「映え輝く御霊」の意であるという。
朱塗りの社殿は、鮮やかに明るく、かつ神々しさを称えていた。











そして、熊野根源の地ともいわれる、『神倉神社』へ。




参道は、五百三十八段といわれる石段。





ご神体(磐座)ゴトビキ岩、高さ十二メートル、幅十メートル。



古代祭祀場…かと思わせる磐座の亀裂。
ちなみに、「ゴトビキ」とは、この辺りの言葉で「ヒキガエル」を意味するらしい。




このあたりから、何となくヒンヤリ。
途中道の駅にて夕食を食べるも、全然箸が進まず…。
わたらせ温泉にて身と心をゆるめ、本日の宿蒼空げすとはうすへ。

貸し切り状態であったこともあり、深夜まで宴は続く…。





2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その4~

2012-10-27 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年
*各神社のご由緒やご祭神は、特に理由がない限り割愛しています。
 それらは『神社おそうじ隊 見参!公式ブログ』をご覧ください。





いよいよ「熊野三山」へと向かう朝。


海に面した宿から空を仰ぎ、蒼く広がる空に今日を感謝。。


熊野古道の象徴ともいわれる、全長約600メートル、267段の石段の続く大門坂より、神域へと入る。







そこはまさに異界への入口でもあるかのように、歩を進めていくその度ごとに、心のざわめきは自然に鎮まっていく。
杉、檜、楠…木漏れ日がたわむれに揺らぎ、参詣者を優しく包んでいく…。







ほどなく、熊野九十九王子の終点、多富気王子に。

熊野の参詣路に点在する小社や小祠を総称して「九十九王子」という。
「九十九」は正確な数字ではなく、それだけ多くあるという意味。
王子は熊野権現の御子とされ、参詣者を守護するという。


樹齢800年・楠大樹。


蛇にも遭遇…。



大門坂を登りきり、参道を多少賑わせたあと。
ようやく…


『熊野那智大社』
私はおそらく、この鳥居をくぐり境内へ上がったその感覚を、忘れることはないだろう。














熊野は、生と死の混淆した世界、だという。

人はひたすら死者の冥福を思いながら、ゆきなやんでいるとき、心の面影にめぐりあうのも不思議ではない。だがこの冥界を、だからといって、いちがいに死の国と決めつけるのに私は疑問を感じる。
熊野にせよ、長谷にせよ、とかく現代人は、生の国、都を離れたところに死者の国を置き、それを峻別しようとする。しかし、たとえばいま飛鳥の古都にこれほど多くの古墳が都市のなかに取り込まれていることは、死と生の区別について、今日とは違った感じ方をしていることを示している。なるほど、熊野は死者たちに親しい土地であったかもしれない。だが、それは死だけが占めていた国ではない。熊野を死の国と規定する説が多いだけに、私はこの問題に関心を持たざるを得ない。配置の関係からいえば、たとえば古代エジプトでの有名なピラミッド群のあるサッカーラは、首都メンフィスの死の都市だし、ナイル河中流のルクソールにある古代の首都テーベは対岸に死者の国であるいわゆる「王家の谷」をひかえている。もちろん、これは死者を死者として意識しているが、しかし、時に、生前の王宮よりも見事な墓を、それも一地域に集約してつくりあげている。つまり、生よりも死の世界への重視がうかがわれ、逆に、永遠なる死後と生との連続が、現実的に信じられている。
私のいいたいのは、死が、生と断絶していない実感なのである。
これは、少なくとも近代以後の私たちの死生観に根本からの反省をうながすものである。熊野が死の国だというときも、いちがいに、断絶と不浄としてとらえるのには疑問がある。むしろ、生と死との連続、不浄よりも浄化と再生の空間としてみるべきであろう。
(「熊野古道を歩く」栗田勇氏の論考より)






青岸渡寺

那智は観音の聖地でもある。
元々は神仏一体の境内であったことが伺われた。




さて、いよいよ大滝へ。













今年初め、以下のようなブログの記事を書いていた。
「死と再生」

大滝の下では、いまも復興への工事(いのり)が続けられている。

思えば、那智大社の御祭神は、熊野夫須美(ふすみ)大神。
イザナミノミコトとされるこの神は、フスミ=ムスヒ(産霊=結び)を示してもいる。
ムスヒは、衰えゆく魂に力を与え活性化するという、活動や生成発展の根本力を意味する、といわれる。

死も生も、連続した混淆したエネルギーの流れの顕れ。
どのような状況であっても、変わらず山から勢いよく流れ落ちてゆくその清冽な水流に御魂をつなげることで、カミなる何かを人はその意識の奥で感得する…のかもしれない。










2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その3~

2012-10-23 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年
*各神社のご由緒やご祭神は、特に理由がない限り割愛しています。
 それらは『神社おそうじ隊 見参!公式ブログ』をご覧ください。



捕鯨で知られる太地町。

「飛鳥神社」
太地町では、「お宮様」と呼ばれている神社。








そのすぐそばに

「恵比寿(蛭子)神社」
手前にそびえるような立っている鳥居は、なんと鯨の骨。
だいたい現在3メートル、かつてはこの3倍はあったという。。。





そして、車でほどなく行ったところに、

「蛭子神社」







港町だけに、漁業・生産のカミサマとして祀られています。

日本神話で好きな神様は?と聞かれて「ヒルコ」と答える学生は少なくない。イザナギ・イザナミの最初の結婚で、女神イザナミが先に「あなにやし えをとこを」と、「女人(をみな)の言先(ことさきだ)ちしはよくあらず」と産まれたヒルコは葦船に入れて流し棄てられてしまう(記)。また三歳になっても足が立たなかったのでクスノキの船に乗せて、風のままに放逐したとある(紀)。親に棄てられる哀れな神の姿には、学生の心にひっかかるものがあるのだろう。神話学的にはヒルコは「ヒルメ」(太陽の女神)とペアとなった、もうひとつの太陽神という議論もあるが、なんといっても興味深いのは、『記紀』から消失したヒルコの「その後」の変貌である。
南北朝の動乱を描く、有名な軍記物『太平記』のなかに、その後のヒルコが出てくる。「日本紀の家」と呼ばれる『日本書紀』研究の一族である卜部氏の兼員が語った「日本紀」のなかで「蛭子と申すは、今の西宮の大明神にて坐す」とあった。葦船に乗って漂流したヒルコは、西宮神社に流れ着き、神として祀られたということだ。親に捨てられた哀れなヒルコは、エビス神として再生したのである。
また別の中世テキストでは、ヒルコは龍宮に流れ着き、龍神に育てられたという話もある。アマテラスと再会したヒルコ(『日本書紀』ではアマテラスとヒルコは姉妹として産まれる)は、親に捨てられ、龍神に育てられたおまえは「下生」の神と蔑まれるくだりもある(『古今和歌集序聞書三流抄』)。
なぜ龍宮、龍神に育てられたヒルコは軽蔑されるのか.それは中世の仏教教義にもとづく。
『法華経』などによれば、「龍宮」とは煩悩にまみれた下等な龍蓄・龍属が棲む世界であった。「浦島太郎」の昔話では龍宮城は欲望を満たしてくれる理想世界であるが、仏教から見れば、果てしない欲望にまみれて苦しむ世界ということになる。
その苦の象徴が龍属であり、サーガラ龍王の娘=龍女であった。けれども仏教は「龍宮」という無明・煩悩の本源は、「悟り」の世界へと導くものであると逆転させていくのである。それゆえ、中世神話のなかでヒルコは、下等な龍宮で育てられながら、海の世界を支配する西宮のエビス神へと転生することになるわけだ。
ヒルコからエビス神へと再生する神話は、民俗信仰の世界にも広まっている。民俗信仰では、浜辺に打ち寄せられた特別な形の石、クジラ、イルカなどを「エビス」と呼ぶ、また漁の最中に漂流する水死体を発見すると、それを「エビス」として丁寧に祀る習俗があった。葦船で流されたヒルコはまさに「水死体」ということだ。水死体という穢れのパワーを「福神」へと逆転させるメカニズム、である。(「歴史読本」2011年11月号より斉藤英喜・佛教大学教授の論考から抜粋)



そして、初日の宿へと。
途中参拝させていただけたのは…


「八幡神社(勝浦)」
勝浦の港を正面に、例大祭が「男祭り」として有名。








この日の宿は、「ホテル浦島」
大洞窟温泉などを有する、広大なホテルでした。

夜の宴は、「ホテル浦島」内の「海つばめ」へ。
厳選された地酒と、地元の海の幸。
こちらの要望を快く受け入れてくだり、また期待以上の料理(鹿肉の燻製やマイルカなど)の数々。

みな、大満足で初日を終えることができました…。





2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その2~

2012-10-19 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年
*各神社のご由緒や御祭神は、特に理由がない場合は割愛いたします。
 それらは、『神社おそうじ隊 見参! 公式ブログ』を参照ください。


当日。
羽田空港に前泊するも…ほとんど眠れない状態で南紀白浜空港へ。
なかなかオモシロいスタートとなりました。。。




最初に参拝させていただいたのは、白良浜に隣接した『熊野三所神社』





本殿下には長方形の磐座、背後には岩石。


神籬(ひもろぎ)(中央の榊)を通して天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)様を始め八百万神様にお参りする遥拝所。
こちらで二礼し二拍のその瞬間…

その神籬からポトンと落ちてきたクモ。
さて…。




例大祭間近で、境内では準備をされていました。


そして、





白浜駅にて、電車で集合組と合流。
ここから、海を沿って熊野へと向かいます。

「日神社」












カニさんです。

私に似ていると評判。。

車でしばらく移動。
本州最南端の地・潮岬を目指します。



そこに鎮座されているのは…
「潮御崎神社」




本殿。








脇に裏側に通じる細い道を発見。
てっきり奥宮があるかと思いきや、そこには断崖絶壁が。。。





副長、相変わらずムチャをしてましたが(笑)…副長行かなければたぶん私が行っていたことでしょう。。。

そして、到着しました最南端。



サラッと全員を撮影したつまりが…クラくてよくわからない…。


ようやくのお昼は、まぐろ丼。
この串本町や那智勝浦は、マグロの水揚げで知られますね。



ここから一気に那智…の予定が、時間と天候を考え翌日参拝に変更。。。



じっくりと海風に身をさらす時間もないものの、そのおだやかな波の音と碧く光る海の色は、それだけで人の心をおだやかに導きます。
その波や風と長く共にある各神社は、やはりおだやかな波のようでした。





2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その1~

2012-10-18 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年
よみがえり



「熊野」という地を語る際、この言葉はよく用いられているようです。



今回、『神社おそうじ隊 見参!』では、年2回の「番外編」の、後半の場として「熊野」へと向かいました。

「熊野」は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山に代表される日本第一の霊場として知られています。
「伊勢に七度、熊野に三度」といわれ、中世~近世にわたる乱世の最中、熊野詣は庶民の念願でもあったのです。

『神社おそうじ隊 見参!』では、発足当初よりこの地を巡拝することを決めていました。



山々の織り成す緑は深く鮮やかで、海は碧く美しく、川は澄んでいました。
木々はまさに天と通じているごとくに静かに、しかし清冽に並び、岩や石はカミの霊力をまざまざと称えていました。
そして滝は、その轟く瀑音と留まることなき流れのなかに、死と生のさらにその先を感じさせるようでもありました。

訪れる前、私の心には、修験霊場としての熊野(古道)のイメージがありました。
それは、少なくとも優しくおだやか、というイメージではありませんでした。

実際に身と心を運んでみて、驚きました。
そこに流れる風の、何ともおだやかでやわらかいことに。









「よみがえり」

今回の『神社おそうじ隊 見参!』は、この言葉にピタッとはまる巡拝路であったように、思います。




『神社おそうじ隊』 まもなく「熊野」へ見参!

2012-10-05 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年
今月14日~16日で、「日本第一大霊験」とも称される「熊野」へ、『神社おそうじ隊』は見参いたします。


「日本書紀」によると、国産みの最後に陰部を焼かれて死んだイザナミ神は、熊野の有馬村に葬られたという(「古事記」では出雲国と伯耆国の境とする)。
また、兄の八十神たちに迫害されたオホクニヌシ神が逃げ込んだ先も「木の国(紀伊国)」で、さらにそこから死者の国である「根の堅州国」へ逃れている。
これらの神話からもわかるように、熊野は死の世界に隣り合った異界と捉えられてきた。
平安時代以降、本宮・新宮・那智の熊野三山の信仰が隆盛し、阿弥陀・薬師・観音の浄土と信じられるようになったのも、こうした信仰が基盤にあったからといえる。(「こんなに面白い日本の神話」より)


また、

熊野は、歴史を通じて、生命の根源的なイメージに包まれている。そして、熊野三山と呼ばれる熊野本宮大社、熊野速玉大社(新宮)、それに熊野那智大社は、三社一体の関係のなかで、その熊野という世界を構成してきた。
熊野本宮大社は家津御子大神、熊野速玉神社は熊野速玉大神、そして熊野那智大社は熊野夫須美大神を、それぞれの主祭神として祀っている。
これらの神々は、記紀神話には登場しない。だが、本宮の家津御子大神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)であり、那智大社の熊野夫須美大神は伊弉冉尊(イザナミノミコト)のことであるとされる。また、速玉大神は、『日本書紀』の一書に伊弉諾尊(イザナギノミコト)が伊弉冉尊と決別した時に吐いたた唾から生じたと伝えられる速玉之男(ハヤタマノオ)と同一の神ともいわれている。だが、そのような解釈とは別に、個別に三社の神々を見れば、それぞれ風土に根ざし、生命に深く関わる性格を持っていることに気付くのである。(「日本神さま事典」より)

(注…ここでは、速玉大神=速玉之男という説を取り上げていますが、熊野速玉大社のウェブサイトでは、熊野速玉大神=イザナギノミコトとしてあります)



三社一体として機能する熊野三山。
日本列島をひとつの「カラダ」として捉えた場合、先だって見参させていただいた近江を「臍」とすると、熊野はいわば「腰」。

人間の身体において、動きの根本にあるのは腰。

腰は、文字通りの「要(かなめ)」です。
「腰を落とす」ことで体幹の安定を図り、「腰が据わる」ことで「肚」に力が満ち、動じない心が生じます。
身体、心の両面の安定と充実は、ひとえに腰の在り方にあるといっても決して言い過ぎではないでしょう。
人間は、腰が弱ると口先だけで行動が伴わなくなりますし、腰に力が漲れば泰然自若、快活な動きと揺るがぬ精神を内に宿します。



今回の「番外編・熊野」は、国産みの父母に、敬意と感謝を込めたご挨拶を。


御参加の皆様、何とぞ宜しくお願いいたします。




2012.8.28~30 「神社おそうじ隊 見参! 近江ご当地隊」その6

2012-09-17 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年

最終日のランチは、老舗 「毛利志満」 近江八幡本店にて、近江牛を。



副長による「神社おそうじ隊 見参!」公式ブログにもあるように、賀茂神社・岡田禰宜の御計らいにより、ゆったりと近江牛を堪能。
いや、ホントに美味しかった…。

ランチの後には、そのまま「たねや本店」へ。



きめの細かい味わい…じっくり堪能。。
やっぱり、和菓子は心に沁み渡ります。




そして、ここから一気に大津市まで。
ここまで混むこともなくきていたけれど、大津へ戻るこの道行きはそうもいかず・・・。

途中、雨。
おもしろいタイミングで降るものだと、車中より天を仰ぐ。

…そして、到着。
「 佐久奈度神社 」





大祓詞に、「佐久那太理爾落多岐都速川乃瀬爾坐須…」とある。
「さくなだりにおちたぎつはやかわのせにます…」と読むが、この「佐久那太理」がこの「佐久奈度」。
大祓詞の基である「中臣大祓詞」は、こちらの神社が創始地だという…。


ここまできて、タイムリミット。
新幹線の都合もあり、数寄和・大津、そしてその氏神さまの近江之国一の宮・建部大社にこのあと直行…の予定はお預けに。。
ということは…次回、ですね。。


さて…


団扇。左側には「神」「社」の古代文字。右側には李白の詩。

左側は「生まれる」。右側には、裏面の詩の意味が。

このブログの記事にあるように、A隊員には参加者全員分の団扇を作成し、プレゼントしていただきました(右側は隊長仕様)。
この団扇、そしてリンク先のブログいっぱいに表現されているように、エネルギッシュな、しかしあたたかで繊細な感性をもつA隊員ですが、今回「ご当地隊を…」と依頼してから、実にたくさんのアイデアや神社を提案していただきました。
事前の予備知識もないなか、琵琶湖一周をこうして実現できたこと、そして巡拝先での数々の御縁も、A隊員の人柄と信頼あってこそ。
改めて感謝させていただきます。
本当に、ありがとうございました。

また、現状いろいろと大変な折御参加いただいた、「番外編・出雲」の際にお世話になったF隊員、そして、広島、岐阜、神奈川、埼玉、茨城…と、平時活動している場も空間もそれぞれ違う方々が集った今回の「おそうじ隊」。
行く先々、その度ごとに違う魂の呼応を、それぞれの方々にあったようにお見受けしました。
ご一緒いただき、本当にありがとうございました。

かつての古都でもある近江ノ国というのは、私の印象としては総体的に派手な装飾もなければ大声で主張するような表現に出会うこともない、実に淡々として落ち着いた佇まい。
古代から近代にいたるまで琵琶湖を中心に交通の要衝でもあったこともあり、街並も大変におだやか、かつ美しい。
その美しい街並みに、古色蒼然とした神社やお寺が、沢山これまた美しく残っている。

今回「近江ご当地隊」として、多くの神社を参拝できましたこと。
そして、その各神社をこうして拙いながらも紹介できるということ。
そのことに、何かしらの導きを感じないわけにはいきません。

本当に、感謝しております。
ありがとうございました。




さて「神社おそうじ隊 見参!」は、この近江を経て、10月の『番外編・熊野』へと。
そして、来年春(おそらくは4月)、『番外編・奈良(京都)』と続きます。
また、「レギュラー編」「ご当地隊」も、着々と進行中。。。

御縁深きみなさまとの「おそうじ」巡拝、心より愉しみにしております。
何とぞ宜しくお願いいたします。





2012.8.28~30 「神社おそうじ隊 見参! 近江ご当地隊」その5

2012-09-11 | 神社おそうじ隊 見参! 2012年
「体感」「体験」は、『神社おそうじ隊 見参!』の主要なコンセプト。


夢の中でつねっても痛くない…の喩えにもあるように、実際に身と心で経験することとバーチャルな体験はまったく違うもの。
最近ではネット上に「神社」も建立され、他の多くの事柄同様に、好きな時に気軽にクリックひとつで参拝できるようなシステムになっている。
それはそれでひとつの変化であり、その時々刻々さまざまなスタイルの「参拝」があって当然とも思うので、今後どのような流れになっていくのか、個人的には半ば愉しみでもある。

しかし、そのようなスタイルの「参拝」と、実際に身と心をその「神域」に運んで行う「参拝」とでは、やはり根本的に違うということは記しておこう。



「神域」に、身と心を運ぶということ。
「おそうじ」は、この過程を経ることなしには、成立しない。



木々の生い茂り、さまざまな植物や動物の豊かな営み。
そこで祭祀・儀礼を継承的に紡いでいくヒトビトがいて、その「神域」を維持していくために力を注ぐヒトビトもいる。
そこに立ち、「いのり」を奉じることで、おのずと自らの根源へと辿りつくこともあるだろう。

古来、「神域」とはそうした場であり、だからこそ「神域」なのだ。


実際に身と心を運び、そのフィールドを〈体感〉する。
それらは、目に見える形ではないカタチとして、〈体験=シルシ〉として魂に刻まれる。

瞬間瞬間、ひとときも止まることなく流れ変化していく現象は、経験としてすべてそうして、刻まれる。

…であるのなら、あなたは何を〈体験〉していくのだろう、か。



さて最終日、まずは 「日牟禮八幡宮 」

濃厚なる気。








…いや、ホントに濃厚な朝、でした。

次に向かったのは、御猟野之杜「賀茂神社」
A隊員に「是非とも紹介したい」といわれていた神社でもあり、今回確実に身と心を運ばせていただくつもりであった神社。
A隊員のブログで、写真では何度も拝見させていただいていたものの…やはり、実際に「体感」し「体験」するのは、違います。
創建天平八(七三六)年、奈良時代に陰陽道にて選ばれた地であるというその三万坪の「神域」は、かくも素晴らしく…。


神杉。白蛇が住むという。

御本殿は南西の裏鬼門を向く。

天地万物の祈りの場であり、霊威の籠る地ともいわれる「祭祀跡」。
そこにいる誰もが、コトバを失った場。



杜も、静寂のなかの躍動。

霊木『連理の真榊』。二本の榊が一本に結ばれています。


賀茂神社の岡田裕正宮司は、A隊員の高校時代の恩師でもあられるとのこと。
その御縁もあり、また同時にA隊員の信望の厚さもあり、同神社の岡田能正禰宜より、さまざまなお話をいただくことができました。
また、『神社おそうじ隊』として、御猟野乃杜賀茂神社御創建1275年式年造営全国奉賛会の趣旨と、岡田能正禰宜の熱い想いに賛同させていただき、奉賛させていただきました。

さて、『神社おそうじ隊 見参!』隊長として…
岡田宮司はじめ、賀茂神社に奉職されておられる皆様、および関係者様。
ブログという媒体を通してというのも甚だどうかと思われますが、今回こうした御縁いただけましたこと、深く感謝いたしますとともに、さまざまご都合あるなか時間を割いていただきましたこと、改めて心より御礼申し上げます。
『神社おそうじ隊』一同、感激しておりました。
本当に、ありがとうございました。




さて、ゆっくりする間もなく、次なる目的地へ…「御上神社」
近江富士・三上山を神体山とする、ムカデ退治で知られる。









今回は行けなかった頂上の磐座。
次なる機会に…。


そして、大笹原神社



本殿は国宝となっている…見えない。。



底なし沼といわれています。


次には鏡神社
副長が、「是非」と。










ここから昼食に向かい、いよいよフィナーレへと…。




各神社の詳細は、『神社おそうじ隊 見参!』公式ブログをご覧ください。