『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

2011.12.18 指南塾vol.9

2011-12-26 | 2011年
年末もやんわりと押し迫ってくるなか、今年最後の

『身体均整法基礎講座』

を開講させていただきました。

この講座も9回目。
途中、諸事情でやむを得ず受講中断された方はいたものの、ほぼ全員が足しげく
毎月通っていただいています。

「月に一度でどれほどできるようになるのか?」

と、その多種多様な内容を知る方であれば、訝しく思われるかもしれません。
確かに、当の私自身、「一体どこまでやれるのか…」と、半ば未知数ながらの出発で
あったことは、否定し切れない面もありました。

しかし、やはりやってみるものです。
そもそものモチベーションも、その受講目的も個々それぞれの集まりながら、どうやら
自主的に勉強会などを開き、切磋琢磨されているご様子。

前回習ったことや、これまで習ったこと。
それらを、もちろんまだまだたどたどしいながらも、こなしていく。


私が勉強していた頃、勉強会開くにも人はなかなか集まらず、ともかく実地に
誰彼なくつかまえて実践稽古していたものでした。。
そういうところから考えると、今回塾生となっていただいた方々は、みな一様に
熱心で、アタマが下がる思いです。


一年目は、「原理・原則」の理解と実践が主体。
個々の技術の「目的」を捉え、カラダをどう使うかを考えながらその「理」を掴んでいく時期。
それが、二年目の「応用」へと、まっすぐに繋がっていきます。




終わったあとは、近隣の居酒屋さんで忘年会。
みな、よい酔い心地で、本年最後を締めくくりました。




さて、来年。
1月から3月までは、いよいよ「背骨」に、取り掛かります。
ここからが、身体均整法の、いわば醍醐味。

じっくりじっくり、愉しく愉しく、やっていきましょう。


何とぞ宜しくお願い致します。




2011.12.12 『清祓ワーク』 報告

2011-12-22 | 2011年
昨年十二月に、『カミゴト」としての『清祓ワーク』を初めて執り行わさせていただいた。
その時と、今年は、どうやら「気」が違う…。

それは、時が流れ、人がそうであるようにたゆたうようにすべてが移り変わっていく
のであるから、「違う」のは当然であるだろう。
しかし、ここでいう「違い」は、そういうことではない。



「いのり」とは、『意』を『宣る』と、『清祓ワーク』では解釈する。

もちろん、解釈は多種多様であり、アカデミックな解釈もあれば、それぞれの団体、
あるいは個人によってもさまざまあるだろう。
それはそれでよいと思うし、そういうものだろうとも、思う。

人にさまざまあるように、「いのり」もさまざま、ある。
「八百万」の神々を尊ぶ精神性から育まれる言葉には、いつも多面性を孕ませされている。
このブログでは、特に示す必要のない場合は、基本的にひらがなの「いのり」を使用させて
いただいているのは、このようなことからだ。


では、この『意』とは何だろう?

実は、私はこの『意』という一文字を、この15年ほど追求してきた。
そのためか、この『意』には、ことのほか想いがこもる。
ただここでは、あまりこねくりまわすことなく、まっすぐ「こころ」と捉える。
森羅万象を森羅万象と、「私」を「私」と捉えてしまう働き、その「私」を超えていく働き、
こうした諸々の働きをまとめて、「こころ」と、いう。

そして、『宣る』。
こちらは、「宣言する」といった手合いの意味である。



つなげると、「こころを宣言する」、ということになる。



日本には、昔からの「言霊思想」がある。

口に出した言葉は、現実に作用する。
作用する、ということは、そこには何らかのエネルギーのうねりがあるということだ。
そうした「言葉の作用」は、『霊』という一文字に集約され表現されている。

「思い」が、「音」というカタチを伴った途端にそこに含まれる『霊』の作用は増大する。
世界中で、「祈り」を口に出して唱える習慣が存在する。
現在のようにアファメーションとして一般的に体系化されるはるか以前より、人々の意識の
深層においては、そのことを理解していたのだろう。



今回は、私なりに思うところあって、存分に『祝詞(のりと)』を奏上させていただいた。
もともとの「祝詞」は、いわゆる「神懸かりの言葉」であった。
時を経て、古代律令体制以後に、現代のような体裁に整えられた、といわれる。
このようになった背景にはさまざまな事が考えられるが、祭祀儀礼そのものが洗練させつつ
システムとして長く伝えられてきたもの。
その範囲においては、このようである必要も必然もあったことだろう。



蛇足だが、そういえば祭祀で、たまにそういうシステマティックなスタイルを訝しく思う方も、いる。

何を隠そう、私自身も、実はあまりシステマティックなものは好まない。
往々にして窮屈であり、慣れてしまうと退屈であり、肩も凝ってくる。

神道の祭祀儀礼のスタイルは、微に入り細に至るまで、キチッと「システマティック」である。
そこに付け入る隙もないほど、である。

しかし、だからといって、それを窮屈だとは、いまのところ思わない。
いや、もちろん学びを始めた当初は気も肩も凝ってしかたなかったけれど、その意味をカラダで
理解できてくると、全然窮屈ではないことに、気づく。

「~でなければいけない」というのではなく、「~であろうからこうなった」というもの。
いま現在の祭祀スタイルの理解は、こうである。
先人の創意工夫の先に成立したものであるのだから、そのすべてに深い洞察がある。
まずは、そのことに敬意を払い、慎んで執り行わせていただいている。

…という面と同時に、私はこれをもって「完成形」だとは露ほども思ってはいない。
ただひとつの正しい方法など、あるワケはない。
全体を俯瞰できるような認識に至ったら、また新たなインスピレーションが舞い降りてくることだろう。




西暦二千十一年。
この年は、将来に渡り長く語り継がれる年と、なることだろう。

今回ワークに御参加いただいた方々は、五名。
それぞれの皆様に本当に、感謝と敬意を…。


次回『清祓ワーク』は、六月。
時の流れ奔流のごとき昨今。
来年どのようであろうとも、このワークを執り行う所存。




「チーム神道」の、「神社おそうじ隊」活動は二月二十一日。
ご興味ある方は、

info@tamuratic.com


あるいは、こちらまで、お問い合わせください。






2011.12.12 『清祓ワーク』のご案内

2011-12-05 | 2011年
本年、西暦にして2011年という年も、あと少し。
時というのは、「時」という概念を知る我々にとっては、水の流れと同じように
自然に、何の強制もなく、ただただ流れていきます。


「季節」という周期的変容を、豊かに感じる感性。
この日本に生まれ育ったのであれば、好む好まざるとに関わらず、遺伝子のレベルに
インプットされているはず。
その感性は、春夏秋冬のあらゆる時節に、意味や意義をもたせるに至りました。

もうすぐやってくる「お正月」。
「桃の節句」
「お彼岸」

などは、根源をたどればそうした感性の下敷きの上に生じた慣習、という見方も、
できないでもないでしょう。




神社などで、毎年6月12月の二期に執り行われる「大祓」。
この「大祓」の起源は定かではないようですが、約1300年近く前の「大宝令」の頃に、
国家全体のための行事として定められたといわれています。

「大祓」の「大」は、この場合「全体、公」を意味します。
つまりは、この日本全体を対象とした行事なのですね。




さて、
特に震災を契機に、「日本がんばれ」「日本を元気に」という言葉を、目にします。
私はテレビを観ていないため、もっぱらネットや電車の吊り広告、雑誌などからそうした
言葉を拾うのみですが、それでもけっこう見かけるのですから、テレビでは相当なのでは
ないのかな・・・と想像します。

そういうことで、何となく「何かしなければ」的な気持ちを煽られ、でも何をすれば
いいのかわからない…という方々も、もしかしたらおられるかもしれません。

落ち着いて考えてみればわかることですが、テレビや雑誌のほとんどは何らかの意図が
あってそうした情報が流れるのですし、だいたい「日本がんばれ」という曖昧模糊とした
抽象的表現というのは、混乱を生むだけですね。
個人的にはそういう表現は、スポーツの世界だけで充分(笑)。
対象が決まっているので・・。

それに、セラピーをこれまでやってきた経験からいえることは、本当に辛く苦しい立場に
ある人に「がんばれ」というのは、はっきりいって逆効果なことが多い。
ですので私は、「がんばれ」という言葉の使い方には、とても気を遣います。



さて、
その質はともかく、国家安泰を願う気持ちは、今も昔も変わらないでしょう。
かつては神社の「大祓」、お寺での「護摩焚き」、そして名もなき個人のレベルでも誰彼となく
「いのり」を捧げていた時代があったのです。

今回の『清祓ワーク』というのは、「大祓」では、ありません。
それは、等しく「個人」を対象とし、カミサマとヒトの仲執り持ちとして神職が祓わせていただく
という行事になります。

そうはいっても、大きな視点から俯瞰して観れば、国もヒトも同じこと。
すべては「社(やしろ)」であることに、変わりはありません。


12月12日。

場所はこちらです。

お問い合わせ・お申し込みは、こちらの「希望メニュー」から「清祓ワーク」を選択し、お願いいたします。






2011.11.20指南塾vol.8 &2012年開講のご案内

2011-11-25 | 2011年
ここにきてようやく、実際的な「手技」のオンパレード。


まずは、種々さまざまな「手技」を、体感&体験していくことは、必須事項。
それはナゼかといわれれば…

「手技」というのは、「身体」に施すものです。
これは当たり前のことのようですが、往々にしてこの「当たり前」のことを忘れるもの。

身体均整法もそうであるように、「手技」による療術というのは、ひとくちでいえば
「構造としての身体」へアプローチするもの。
この「構造としての身体」は、人により微々たる違いはあるにせよ、人がヒトである以上は
変わり様のない、人類共通のものです。

ですから、たとえば筋肉の付き方や関節の曲げ方、内臓の位置や働きなどは誰であっても同じ。
その視点からいえば、ヒトに大差はありません。


ただ、「構造としての身体」には、生きていれば必ずそこに「心」が在ります。
「人」としての「心」あるゆえに、「人」であるのですね。

その「心」というのは、一人として同じ「心」はない、、、、とまずは考えましょう。

たとえば、AさんとBさんという二人の「人」がいるとします。
そして、肩の同じ部位の同じ筋肉に痛みがあるとしましょう。

「構造としての身体」としてみれば、同じ筋肉部位を「同じように」処理すればよい、ことになります。
そこには、機械的な正確さと、それを遂行する確かな技術のみがあれば、事足りるでしょうか。

しかし、やはり人には「心」があります。
Aさんはそれでよくても、Bさんはそれでかえって痛みが出ることだって、あるのです。
もちろん、その逆だって、考えられますね。

性別、体力、感受性…などなど、人は基本的にそれぞれ違います。
また、Aさんは単純な筋肉疲労だけれども、Bさんの場合は内臓絡みかもしれません。
そうしたことへの配慮と、何より見極める「眼」も、必要です。


こうしたことは、ある程度実際に施し、あるいは施される経験をしていかないことには、
アタマでは理解できても、いわゆる「ハラ」にはなかなか沁みません。。。



次回以降、こうしたことを、まずはアタマに入れ、さらなる錬磨を、いたしましょう。
もちろん、アセらず愉しく、は基本です。。。


何とぞ宜しくお願いいたします。




それと、近日この

『均整指南・身体均整法基礎講座』



の、2012年4月からの新たな塾生を、募集開始いたします。

気になっておられる方が、もしおられましたら(いるかな?)要チェック!・・・ 
ということで。。。


こちらの方も何とぞ宜しくお願いいたします。













2011.10.2 「清祓ノ儀」報告

2011-11-09 | 2011年
本年(2011年)より活動を開始した『清祓プロジェクト』

「人・場所・モノ」に、伝統的神道でいうところの「清祓」をさせていただくことにより、
それらすべて、さらには「日本」という社(やしろ)の活性化までを視野に入れた祭祀を
執り行わさせていただくことをコンセプトにして、立ち上げました。

「少し壮大に過ぎないか」
「日本という社…妄想の領域だね」

など、ハタからすれば多々ご意見もあることでしょう。
けれど、「人」という存在、「神事(カミゴト)」本来の有り様という視点から捉えてみたことで、
私たち「チーム神道」ではごく自然にこのような方向性が顕現するに至りました。


もちろん、これらは勝手気ままにやっているのでは、ありません。
現代にまで脈々と伝わる「神道祭祀」を学び、神職としての資格を得たうえでのこと。
そのスタイルは受け継ぎつつ、エネルギーワークとして「気」を効果的に活用していくのです。







今回は、自サロンを開業されるというKさんからのご依頼でした。

神道の祭祀というのは、たとえば「祝詞」などもご依頼の内容に沿うように作成、全体の流れもまた
依頼者の状況に応じ、柔軟に対応することができます。

そこには、古(いにしえ)より蓄積された、ある「流れ」というものが、あります。
また、用語は現代的ですが「リズム」や「呼吸」というものも、大切にする必要があります。
それら全体を含め、ひとつの「祭祀」となるのではないか…などと、考えています。


まずは、御縁に因りてご依頼いただけましたKさん。
本当に、感謝しております。






2011.9.29 Tコラボ茶会「整顔整姿」報告&これから

2011-11-01 | 2011年
この

『Tコラボ茶会』

というのは、2008年10月より開催となりました。
この9月で、丸3年が経過したことになります。
この「丸3年間」という月日をもって、一旦「Tコラボ茶会」を、クローズと、させていただきます。


…この3年間の、ある意味での集大成ともいえるのが、今回のテーマ…

「整顔整姿」

これは、そのままの意味で「顔を整え、姿を整える」ということ。
そして、それはすなわち、「わたし」が整うということ…と言い換えてもあながち間違いではありません。。。




サロン・ド・クロノさんでのこの「コラボ茶会」において、いやあるいはそれ以前から個人としての
ひとつのテーマであったこと。



それは、ある意味での「身体の解放」であり、さらにいえば「心の解放」ということ。
そしてそれは、かなりの部分を「自助努力」で達成できる、ということ。
そしてそれは、「身体」から始めていくことができる、ということ。



たとえば、今回の内容は「顔」と「全身の各器官」との相関関係を活かし、その実際的な方法を
誰でも「自分で行え」、「自分で確認できる」ということを主眼としたものでした。

こういうことを通じて、たとえば
「あ、こんなことで背中が軽くなるんだ」

「顔というのは、だからすべてを表すというんだ」
というような(まあ、内容はなんでもよく)ちょっとした内的な「気づき」が生まれ、それによってたとえわずかなりとも
「自分」という存在認識のパラダイムがシフトする瞬間があるのなら…ということですね。



このコラボ茶会を始めた当初、私はさまざまな意味で迷いの最中にいました。
例えるならば、闇夜の森林で磁石も何も利かず、頼れるのは野生のカンのみ…
そしてそのカンも、疲れ果て機能不能…
という感じでした。。。

そういうなか、この『コラボ茶会』を通じて、実にさまざまな「気づき」をいただくことができました。
その回ごとにどうしようか、一回終わればすでに次どうしようかを一ヶ月間思案し、当日を迎えると
いう甚だギリギリな有様でしたが、少なくともその回ごとに誠意や敬意をもち、来て
いただく方々に何かしら持ち帰っていただくものを…と思い続けてはいました。。
そして、回を重ねるごとに、私の疲れもカンも回復していけたように、思います。。。


何はともあれ、この3年間で、一回でもこの「コラボ茶会」に御参加いただいた皆様。
その縁がどのようなものであっても、いただいた恩恵は計り知れぬもの。
本当に本当に、ありがとうございました

そして何より、こうした機会を与えていただき、ずっと陰に陽にお気遣いをいただいてきました
サロン主宰・クロノさん
本当に本当に、ありがとうございます


(親子で御参加のTさん。ちょうど「さようなら」の写真がありましたので


さて、



2012年4月より、また新たな企画をスタートさせます。
内容は…現在のところ、クロノさんとのコラボはさせていただく…という以外は、決まっておりません




しかし、2008年から現在までの3年間で、加速度的に急ピッチに、世の中は動いてますね。
昨日までの非常識は今日の常識(もちろん逆もあり)、それすら当たり前のような、何かの「流れ」があります。
そしてそれは、セラピー・ヒーリング業界もまた、例外ではありません。。


少し話はそれますが…

(野口)整体が「整体」として世の中に流布し始めたその当時というのは、医療法規改正など、いわば締め付けがギュッと
キツくなっていた時期でもあります。
その頃から整体は「治療」を捨て、「指導」「身体教育」という眼目で動き、
ちょうど同時期に「東の野口、西の亀井」と評された異才、故・亀井進は「身体均整法」をもって「第三の医学」と
すべく理論体系構築や実技の開発に奔走していたのでした。
科学至上主義、西洋医学一辺倒に傾き、多くの民間療術家(いまでいう○○セラピストやヒーラーさん)が迎合して
いかざるをえないなかその道を貫き通し、後進に大いなる遺産(技術、思想など)を遺された先人たちの偉業に、
まずは尊敬と感謝の念を送りたいと、思います。

現在では多少は知られるようになったものの、相も変わらずその本質というか本領は知られぬままですが、
この日本にかろうじて「気の療術」が遺り得たのも、「野口整体」が存立していたことが大きかったのは
紛れも無き事実。
武術研究家・甲野氏に少なからず影響を与え(たとえば『表の体育 裏の体育』などにあります)、先年亡くなられた
故・岡島瑞徳氏の著作などによってその存在は忘れ去られることなく保たれ、最近の「整体入門」のちくま文庫版に
より、その一端は知られるようになりました。

また、ようやく最近は少し沈静化したようですが、「骨盤」にまつわるさまざまなエクササイズやメソッドも、
大なり小なり「身体均整法」の影響の入ったものが、けっこうあります。
「身体均整法」の原理原則やその技術が開発されたのは昭和20~40年代がメインなのですが、その当時に
開発されたものが、手技の世界では現代でも先鋭的だったりします(まあ、玄人でないとわかりにくいですが)。

日本の手技の世界というのは、その主流はやはりアメリカやヨーロッパのシステムです。
それは、現在のセラピー・ヒーリングメソッドのほとんども、そうですね。

「(野口)整体」や「身体均整法」も、その原理や技術理論のベースには、当然ながら色濃く導入されています。
しかし、それで終わらず、というか、それらをうまく取り入れ、まったくの独自のものに仕立て上げられています。




昨年辺りにある体感覚が私の内に生まれ、それを基に今年より『指南塾』として、上記の「身体均整法」を
私が学んだ当時のスタイルでご指導させていただくこととしました。
現在、5名の方に来ていただいております。
(来年度も、そろそろ募集する予定)


その来年度開始と並行して、この新しい「コラボ」の活動を、開始いたします。
いまのところは、先ほど申し上げたように何も決まっていませんが…一応コンテンツ的には…

先人に倣い、
アメリカやヨーロッパのシステムを敬意を払いつつも凌駕するような、シンプルだけど濃くてパワフルな内容

をお伝え…したいな



ということで、よければお愉しみにしていただければ、幸いです









指南塾・身体均整法基礎講座 Vol.6&7(9月18日&10月16日)

2011-10-18 | 2011年
9月、そして10月。
暑い時期を越え、涼やかな風が吹きすさぶ頃合い。

9月から、この指南塾もようやく「実践」へと入りました。
4月からここまでの間、筋肉と関節の構造と機能の「観察」を中心にやってきた塾生の皆様。
何となく、楽しげであったように、思います。。。




身体均整法の特徴は、一切のアプローチを身体の変化として認識できるところにあります。
それは、姿勢などの形態的な面もあれば、筋肉や関節の動きの面でもあり、いずれの場合も
自分が行ったことの「結果」を、ダイレクトに自分で確かめることができるということです。

この「自分で確かめることができる」というところは、実はけっこう大切なこと。
そうした経験を重ねていくことで、ホントの確信、言い換えれば俗にいう「自信」といわれるような
心理が形を成していくのですから。

こうした一般に「自信」と呼ばれているような心理は、なかなか一朝一夕には形成されません。
通常はどうしても、一定の経験と時間の積み重ねを要するものです。


「いや、そんなことない。最初から自信をもってやればよいのだ」
「自信という心理も、本当はあるのかないのかわからないのだから、あると信じればいい」


といった言説も…まああるのかないのかわかりませんけれど、こうしたことがホントかそうでないかは、
自ら経験と時間を重ねたのちに、自ずと知れることでしょう。。。
そのときになって初めて、いわゆる「自信」と「過信」の違いや、「謙虚」という心理の本来的な
内容を自得することに、なるので…しょう。。。



ともあれ、
ようやく本格的な習得段階に入った『指南塾』。
これからは…ちょっと大変…かもしれませんけれど、楽しく愉快にやっていければと思っております。
ご自分のペースで、焦らず、でも弛まず、実践していただければ幸いです。


何とぞ宜しくお願いいたします。






指南塾・身体均整法基礎講座 Vol.5(8月21日)

2011-08-30 | 2011年
今月からは、いわゆる「理論」面はほどほどに、「実践」面の時間を多くとり、
いよいよ「実際に触れ」「実際に動かし」「実際に施す」ことに、慣れていくことに。


そうすると、ほとんどの人は気づくことになります。

「感覚」ということに曖昧さに。
「外側から視ている」ことと「実際に行う」ことの差異に。
「自分」がいかに思うようにコントロールできないものかということに。




そもそもこの講座は、「自分」という存在がいかに「できる」かを確認する…という講座ではなく、
そういう「自分」という型枠を、「他者」という存在に実際に触れていくことで、その人なりに
溶解し、少しその広さや大きさ、中身に変化を起こす…という方向性も、あります。

「方向性もある」、というのは、特にこうしたことを意識しているわけではなく、ただ真面目に
勉強しよう,という意欲をもっているのなら、必然的にそうならざるを得ない、からです。




関節の動き
筋肉の動き

これらは、「骨格」という規定に沿い、そこに連動して生じる「動き」です。

肩の関節でも、股関節でも、ほかのどのような関節でも、骨と骨とを結びつける靭帯や腱があり、
ひとつの「関節」という単位になります。
「筋肉」は、この「関節」という単位を無視できないようになっており、ゆえに、「関節」の働き
の状態を調べることは、必然的にその「関節」に関わる「筋肉」の状態も調べることになります。

その「関節」をどう曲げるのか?
どのようにその「関節」に関連した「筋肉」は付着しているのか?
「筋肉」を動かす時に、初めに違和感があるのか、途中や終点で違和感があるのか?

…などなど、「実践」することで得る情報は、多岐に渡ります。


こうした地味な訓練をそれなりにしていくこと。
それが、その人にとっての「地力」となっていくのですね。

でも、ただやればいい…というわけではありません。
おざなりにやるのでしたら、それはほとんど意味を成しませんので…。




ともあれ、

そろそろ、少しずつ本格的な「中身」に入っていくことになります。

硬化した「筋肉」の具体的な緩和テクニック
運動制限のある「関節」へのアプローチ
人体を取り巻く「経絡」を使用した種々のテクニック
各「内臓」の賦活テクニック

…などなど、忙しくなります。

だからといって「テクニック」ばかりに目を向けると、結局何もつかむことなく一年を
終えることになるでしょう。

その「テクニック」を通して何が観えるのか?

そういう視点も、心のどこかに持っておいた方が、愉しいかもしれません。





指南塾・身体均整法基礎講座 Vol.4(7月17日)

2011-07-23 | 2011年
四ヶ月目ともなると、そろそろおおまかな概観みたいなものを自分なりに感じとり、
「こういうものなの…かな?」という視点が、朧げながらでもできてくる頃。

最初「一気に習得して独立を」みたいに思っていた心に、ぼんやりとアセりが
浮かび始めたり…
最初「自分にできるのかな」と思っていた心に、人に触れ、変化をすることを
実感する、その愉しさを感じたり…


それぞれに、それぞれの想いや思いが、宿る時期。





人の心は、いつでも移り変わるもの。
こないだまで興味関心に溢れていたものに、気づいたら全然気にもしなくなることなど、
決して珍しくはありません、ね。

しかし、これがたとえば「仕事」となると、たとえ興味も関心も失くしたとしても、
「もうやらない」と放り出すことは、まあ、そうカンタンなことではありません、ね。


思えば、私が「身体均整法」を学び、人の身体の可能性や神秘性に触れ、それを生業とした頃。
当時二十六歳の若輩者は、もう夢中でした。
本当に、心から身体に触れることが嬉しく、いつもワクワクしていました。

もちろん、いまでも嬉しく、そしてありがたく、そしてワクワクしています。
でも、その当時のような感覚ではありません。



独立後、十五年経ちました。
この立場で経験できることは、おおよそ粗方経験できたようには、思います。
そういう今だから、多少は言っても良いかとは思いますが、もし心に「アセり」を感じているの
でしたら、それはいりません。

もし、数ヶ月後や来年という先だけを見ているのなら、現在の自分を鑑みて、それはやはり
アセってしまうのかも、しれません。

ですが、それはたぶん杞憂なのでしょう。。
まずは、何をするのでも、足元を観る余裕が必要なのではないかと、思います。


この業界(と、あえて言わせていただきます)では、私のような十五年程度のキャリアでは、
若造に過ぎません。
三十年、四十年という年月をひたすら身体と向き合ってこられている方々は珍しくありません。
そうした長いスパンを真摯に過ごされてきた方であれば、たぶん決まってこう言われることでしょう。

「やればやるほど、ムズカしい」

と。。
そして同時に、

「やればやるほど、オモシロい」

と。。。



今回、四回目にしてやっと「面白くなってきた」と、言っていただけた方がいました
「基礎講座」は、まずは楽しむこと、身体の神秘に触れることをメインとして講習させて
いただいてはいても、やはりムズカしいことはムズカしい。。

とはいえ、その御言葉を頂けただけで、まずは一安心できました。。


次回、まだまだ暑いとは思いますが、何とぞ宜しくお願いいたします。








備忘録 2011/6 奈良・京都 その2

2011-07-18 | 2011年
2日目。

まずは、大神神社へ。






最初閑散としていたものの、時が経つごとにどんどん人が集まってくる。。
さすがに、大和国一之宮。。

三輪の神様に、昨年11月以来のご挨拶をさせていただいた。


本社荒魂を祀る、摂社・狭井神社に。
こちらは、ご神水が有名です。



そして、唐招提寺へ。


あまり芳しい写真がなく少し残念ながら、、、それもそれでよいのか、と。。
視力を失いながらも日本への渡航を成された鑑真大和上の息吹が、隅々に浸透しているかのような…
厳しいながらも、やはり慈悲の空間。

また、御影堂にて特別公開されていた東山魁夷画伯の障壁画、襖絵を観ることもできた。
見学者の多さにはややうんざりしたものの、その絵の素晴らしさはそれを払拭するに余りある。


さらにそこから、徒歩で薬師寺へ。




かねてより耳にしていた、評判の「法話」。
修学旅行の中学生にむけてのものであったけれど、堪能できた。

そこは関西だからなのか、笑いで心を惹き付けつつ仏教や薬師寺の話をする僧侶。
なるほど、これは評判になるなと、しばし鑑賞…いや、拝聴させていただいた。

…しかし、あらためて思う。
奈良は、かつては都であったのだと。。。




そして翌日。
京都に向かい、創建1400年、東寺へ。


南大門より。




ここでも、あまり写真がない。。。



講堂の立体曼荼羅(正式には羯磨曼荼羅というらしい)は、密教経典である金剛頂経と仁王経が
ベースとなって構成されているとのこと。
東西255メートル、南北515メートルある境内の中心に位置し、その中心に宇宙の中心たる
大日如来像が配置されている。

つまり、寺全体が巨大な曼荼羅でもある、ということだろう。


講堂内で、大日如来像を前にした時、しばしそこから足を動かすことができなかった。
普段こういうこともないのだけれど…。



これにて、今回の参拝予定は終了。
そのあと、京都の老舗「スマート珈琲」や、新進気鋭の「自家焙煎 王田珈琲専門店」を訪れ、
話に聞く京都のカフェ文化の一端に触れ、帰路に着いた。




全体に急ぎ足での旅路であったけれど…
その空間に足を運び、その空間の醸す〈気〉に触れ、さまざまに味わうこともできた。

やはり、奈良、そして京都は(当たり前だけれど)奥も深く幅も広い。
これから、更に更にさまざまにその認識を深めていこうと、思う。。。



あ、おまけ。。。
(写真上でクリックすると拡大します)