『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

自動的に起きる思考

2018-03-31 | 2018年
…考えることと、悩むことは違う。
というか、きちんと「考える」ことができているのなら、「悩む」ことはできない。…

かつて、おそらく2007〜2008年頃だったと思うが、『残酷人生論』という書籍を拝読し、その冒頭でこのような文章に出会ったことがある。
思わず、ハッとした。
そして、その当たり前のことにハッとした自分に少し愕然としながらも、何か目の前が明るく開けていったことを、今でも覚えている。
その著者・池田晶子氏(故人)の容赦なき、核心をズバズバと抉るような切れ味鋭い文章に、随分と勉強させていただいた。


また、つい最近読んだ作家・森博嗣氏の『集中力はいらない』という書籍。
この中で著者が編集者からの質問に答えている章(第2章)があるのだが、そこで
「では、“自分の頭で考える”とはどのようなことだとお考えですか?」という質問に対しての答えが、なかなかわかりやすくて秀逸だなと思った。

それは、以下のようなものだ
「そうですね、普通の人が“考えた”と言っている行為のほとんどは、ただ世間の常識だとか、知識としてあったものに照らし合わせただけか、そんなものから選択しただけで、実は思考していない。たとえば、青信号を見て横断歩道を渡ったとき、青ならば安全だと“考えた”でしょうか?
実は、単に反応しているだけ、周りに合わせているだけで、自分の頭では考えていないのです。実際に安全を自分で確認したわけでもないし、信号機の青がどこでコントロールされているかも考えていません。…(続く)」(同署より引用)

独特にして明快な言葉がこのあともずっと羅列していき、全体としてはどうかと思うも、この項目については一部合点した。


実際には、この青信号の場面でも、人間は考えてはいる。
しかし、その思考はほぼ自動的に、自分自身でも考えたという実感を得ることはほとんどないほど刹那的な速度で浮かび上がり、そして消える。

こうした自動的に浮かび上がる思考は、たとえば信号が赤から青に変わるその瞬間、

「青だ!急いで渡ろう」
「青だ…かったるいけど渡らなきゃ」
「青…渡れる」

など、個人のその時の用向きや状況などで思考内容は変わる。

ここで大切なのはその内容ではなく、それが「自動的」であるということだ。
意識的に「思考」するのではなく、潜在意識に深く刷り込まれた常識や社会的規範などにより勝手に“動かされる”…これが「自動的」ということの中身であり、すなわち「考えていない」という根拠にもなる。



セッションの際、いわゆる「悩み」の深い方ほど「すごく考えている」ことを強調される。
そして、「“考える”ことと“悩む”ことは違いますよ」的なことをお伝えすると、多くの場合は怒りのモードが発動する…「私はしっかり考えています!」という感じで。

それはもちろん、本人にとってはそうなのだろう…けれど、その「考えている」中身のほとんどは、上記のような、潜在意識から自動的に上がってきた思考と、それにより醸成された様々な感情に翻弄されてしまっている。
人は夢中になると周りが見えなくなる性質があるが、問題や悩みがこじれる場合、だいたいは視野が狭くなり、心のキャパも空きがほとんどない状況になってしまっている。
このような場合に、「しっかり考えましょう」と言ったところで、そもそもムリなのだ。

こうした場合は、まず最初に「考えられる」心のスペースを作ることと、自分がいかに自分自身の視野を狭くしていたかを納得してもらう必要があるだろう。

自動的に上がってくる思考、それはその個人の生きてきた歴史でもあり、過去のあらゆる瞬間に醸成されてきた習慣の成果でもある。
それが「心の癖」といわれるもので、その方のモノゴトの見方、考え方ほか人生のあらゆる方向に影響している。

心身一体、この「心の癖」は、すなわち「体の癖」でもある。
いわゆる「体癖」とは、先天的形質のうえに、後天的にはこういった流れにより育まれたものだ。
自動的に起きるその思考の背景には、それ以前に培われた体の連携システムが確立している。
体から心を変えるというのは、この連携システムを別の流れに変えるという意味であり、それは目に見えない抽象的なものではなく、目に見える体の変化として具体的に確認できる。

そして「体癖」、つまり「体の癖」が変化していれば、それはそのまま「心の癖」が変化しているという意味でもある。
もちろん、そうカンタンなことではないけれど。










起きることはただ起きる

2018-03-19 | 2018年
一般に、「1回で〇〇が変わる」などのフレーズは好まれるようだ。

自分、あるいは自分のよく知る人の突然の不調。
あれこれ手を尽くしてにっちもさっちもいかないように思われてしまう状況のなか、奇跡のようなことが起きないかと期待する心というのは、誰にも存在する。
そういう時に、「1回でバッとよくなるらしい」という噂でも耳にしようものなら、藁をも掴む気持ちでそこにしがみつくのは、当然といえば当然の成り行きだろう。

人間には、神秘(あるいは神秘のようなもの)を期待する心、それを目撃したい心、その現場に立ち合いたい心、あるいは、自分自身がそれを起こしたい心…などがある。
これらは好奇心ではあるが、その実のところは探究心や向上心とも密接に関わっている。
自分の常識では計り知れない現象への憧憬は、止むこと無き真実への渇望と裏表の関係があり、それが好奇心の礎の一つとなっている。

「1回」という数字に好奇心が動くのは、一般的に身体症状やさまざまな不調は時間がかかって大変だ、という認識があるからだろう。
また、最先端の科学的診断や治療方法のある医療で「時間がかかる」とされるものが、そんなあっという間に変わるワケはない、という思い込みも強くある。
これら「常識」の範疇からは、その「1回」という数字が殊更に“特別”に思えるらしい。

かつての自分を省みれば、そもそも最初に手技療術の世界の、その当時の認識としては奇跡的な現象の数々を現出しうるその可能性に魅力を感じて入った事は間違いない。
「自分もそれをできるようになりたい」という強烈な動機なしには、ここまでやってくる事は到底できなかったと、いまにして思う。



しかし、これを言うと元も子もないようだが、「1回で〇〇」などの、一見すると特別に思えるこういった現象も、実際のところそれは何ら特別なことではない。
いわゆる奇跡的治癒などの現象も同様、そこにはただ、起きるべくして起きる必然があるだけで、それ以上でも以下でもない。
その起きる必然には、それを構成するさまざまな条件があり、その条件の満ちれば満ちるほどに、思い描く理想が現出する、ただそれだけの事だ。



過日、要望があり、『Practice』を行う機会を得ることができた。


 

たとえば、触れるだけで痛みが消えていくという現象や、お腹の得体のしれない気持ち悪さが一瞬で作られ、また消えていくという現象、また、『Practice』終了後には、立てなくなるほどの足の痛みが瞬間的に消えるという現象などが起きていた。
これらも条件さえ満たせば、誰もがそれを現出することができる…という事を、『Practice』にご参加いただいた方々は、体験とともに理解できた事だろう。



ちなみに、「1回で〇〇」というフレーズが好まれる背景には、上に挙げたことの他に経済的なメリット(かかる費用の少なさ)や通わなくていいという気楽さ、珍しいもの見たさ的な要素も多分に含まれているし、また反対に「1回で楽にならない…それって自分のこの〇〇は特別ってことだよね?」と、楽にならないことで喜びを得る方々もいる。

実際は、回数に意味などない。
ただ、起きることが起きるだけだし、起きなくても起きないということが起きるだけだ。
その意味のないところに、何かしらの意味を持たせようとする心もまた、ただ起きてくるもの。

思うことの自由さ。
浮かび上がってくることの無限の広がり。

これらは誰にも、止める事はできない。






Group Session  感想

2018-03-07 | 2018年



2月、大分県でのGroup Session。

その時の感想を頂けました。


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先生に言われるまま、いろんな姿勢になると
動かしにくい部分があったり、左右で身体の反応が違うことが
はっきりと分かりました。

このような機会がなければ私はきっと
自分の身体に無頓着なままだった気がします。

身体が自分の意識といかに密接に繋がっているのか
気づかせていただきました。

身体の違和感に気づいておきながら
そのままにしておくことは、
自分の心の声を聞かずにいることだったんだ と思いました。


私は左耳が極端に聴こえづらかったのですが
田村先生はそのことについて丁寧に質問を繰り返してくださいました。

「聴こえなくなったときの私」を
私自身がどう見ていたのか

そこには
いろんな想いの私がいました。


いろんな想いの私がいるのに、
本体というか、表層意識の私というか、日常に忙しい私は
外にばかり意識を向けていて
内面の私を置き去りにしていた気がします。


田村先生の誘導によって
その私と対面したのですが
私は怒っていました(^-^;

すねていた と言った方がいいかな。

「ごめん私」と思いました。

調整が終わったあと、
左耳がいつもと全然違っていて
泣けてきました。


以上が私の感じたことです。
(Y.Yさん)







田村先生の施術の感想です。
先生はとても柔らかく、全てをホールドしてくれる大きな方だと感じました。いえ、ホールドするという概念すら持たない…合わないような感じでした。
大安心な場でした。
気になる事を聞かれ、それを感じている自分と感じでいる自分を眺めている自分の感覚を目の前におき、感じていくのですが、緑色の光が発光しながら二つを包み、やがて消えてしまうので、とてもビックリしました。
先日もお伝えしましたが、技術なのかと思い同じようにしてみましたが、全く消えません。アユミさんが言うように、田村先生が扱う領域があるんだと言う事を痛感しております。あの背中に置かれた指の感触、そこから注がれているのか自分から行っているのか…不思議と安心感を与えてくれました。
エネルギー整体も何人かから受けましたが、全くアプローチの仕方が違い、そしてベストなタイミングで身体と対話する事を久しぶりに思い出しました。
色んな事があり、感情ももつれていましたが、何か楽になっています。心と密接に関係している事を再認識しています。
ありがとうございます。
(M.Sさん)





こんばんは😃✨
田村先生の施術の感想を送ります✨

今回、田村先生にお会いするのが初めてでした。首、肩、腰の違和感があり田村先生に診てもらいました。先生が施術で触れられた箇所や動かれる度に凄くあたたかくて驚きました!!
施術後に教えて頂いた体操を生活に取り入れてます。
施術後は首のだるさがなくなり、視界が凄く明るくなる不思議な感覚でした。あと、凄く安心できる心地よい時間でした。本当にありがとうございました(^人^)✨
(M.Tさん)






田村先生の施術の感想を
簡単ですが送ります。

なんだか、心理療法のようでした。整体っぽいものなのかと想像していましたが
思考が止まって
言われるがままに
本当は泣きそうになっていましたが、ストップをかけてる自分を感じて、
嫌だー!とかいいながら
この感覚をまだ手放したくない
しつこい自分を感じて
可愛いやつだー!と
分離して感じることができました。
頭を動かす
スイッチが切り替わることもびっくりでした。

ただものではないことは
感覚としてわかってましたが、
なんだーーー!これはーーー!って
感じです。

面白い感覚のあとに
なんだか痛みにしがみついてた自分に
さよならできたように思いました。

また次回よろしくお願い致します。
(M.Sさん)






施術中は、とても暖かくて心地よかったです。
いつも左足ばかりに重心をかけて立つことしかできなかったのですが、田村先生の施術のあとは自然と中心を軸に立つことができるようになりました。
あと冷え切っていた足も家に帰り着いた頃には、ポカポカしてすごく眠くなって、30分ほど爆睡しました。

定期的に施術を受けた方が良いと感じました。
ありがとうございました。

補足

『いつも左足ばかりに』の前に『骨盤の歪みから』が抜けていました!
(H.Mさん)





今ここが不調だからなんとかしたい、と特に思い当たる部分が思い浮かばないまま臨んだ当日でしたが、
田村先生に、肩こり持ちで、、と話しているうちに、そう言えばかれこれ20年近くこの首に抱えた不調があることを思い出しました。

田村先生との時間は、そんな風に自分の身体の痛みや感覚を自分でよーく思い出すところから始まりました。

田村先生が身体を触って整えてくださっている間に、わたしは自分が幼い頃から、また、その遥か昔から、心や潜在意識の中に持ち越してきているものいるものがあるということにに気づくことになりました。

そして、身体の不調は、自分でも気づかないところで握りしめている記憶を、今も同じように痛みや恐怖を思い出すものとして持っているからだとわかり、それを書き換えていけば身体は整っていくと知りました。

田村先生がひとつひとつ丁寧に不調が現れている箇所に手を当てながら、痛みを覚える箇所に関連する可能性があるだろうと思われるわたしの記憶を辿り、思い出せる限りのいろんな場面で痛みや恐怖や悲しみを感じている自分の感覚を、今の自分も味わい続けなくてもいい、もう切り離して見ていいんだよ、と伝え、書き換える、置き換える作業をしてくださったことで、私の身体はうんと楽になりました。

今まで、病院にかかるほどの不調ではなかったので、気づかない、または、みてみぬふりをしていたものが全部自分でわかってしまう驚きの時間でした。

田村先生に施術をしていただけて、本当に良かったと心から感謝しています。

まだまだ時間が必要なところもあるようなので、また次の機会にお願いしたいと思っています。

どんどん楽になるばかり、軽くなるばかり。
自分がどうなるのか、どうなっていくのか、もう楽しみでしかありません❤️

ありがとうございました。
(T.Yさん)






心体調整を施術をうけて
ハートが元気になりました。肋骨を手を、あてたときに 我慢しなくていいからと 言われたとき 肋骨がゆるみ 肋骨がハートを守ってくれてたんだなあ?と感じました。だから 感情をためると 喘息でてたんだなあ
といま ふりかえって感じてます。


背中のいつもつまるところが 今は流れがよいです。

左側に症状 動きにくかったのですが、先生の言葉の誘導で 動きの稼働いきが、広がり体が楽になりました。

ハートが一番楽になりました。

ありがとうございます。
(A.Iさん)


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ご自宅を施術スペースとして開放いただいた玉響庵のまちこさんとそのご主人さまに、心より感謝いたします。


呼吸の間隙

2018-03-02 | 2018年


呼吸の間隙(かんげき)、という言葉がある。

身体均整法、野口整体、そして操体といった日本の主たる整体技術は、総じて“呼吸”を重要視し、技術の要とする。
たとえば、身体均整法では筋肉にせよ関節にせよ脊椎の矯正にせよ、また内臓や経絡経穴のテクニックにせよ、その全てに“呼吸”の技術が採用されている。

これは、身体生理の理論面でいえば神経に与える影響、つまり神経の興奮を喚起する方向にその神経を向かわせるのか、あるいは反対に神経の興奮を鎮静する方向に向かわせたいのか、それは呼吸の吸う息、吐く息どちらで刺激を入れるのかで異なる、ということになる。

身体均整法を学び始めた頃、十二種体型、筋肉、骨格…といった1年目の授業のなかで、この“呼吸”を使う点には魅了された思い出がある。
教えていただいた先生方はお二人とも、技術面での認識が素晴らしかった。
お二人とも個性が強く、片方の先生はエッセンス以外はどうでもいい、という教え方をされる方であったし、もうお一人は、技術の細部までおろそかにしない、丁寧かつ緻密な教え方をされる方だった。
いま思い出しても、どちらかの先生だけでは整体や手技、施術といったことへの認識に偏りが生まれたであろうと思うし、この微妙にバランスのとれた先生方に学べたことに心より感謝をしている。

このお二人にしても、共通していたのは当然のように“呼吸”を重要視していることだった。
身体均整法では、「吸った息の頂点で…」「吐いた頂点で刺激を…」というように、「頂点」という言葉の使い方をする。
その「頂点」というのは、シンプルにいえば息を吸いきって(吐ききって)吐き(吸い)に移る直前、あるいはその瞬間のこと。
ご自分でやってみるとわかるが、大きく息を吸って吐きに移るその様は、あたかも折れ線グラフのよう。
吸っている時にグラフは上昇し、吐く時に下降する。
その上昇から下降に移る間、その「頂点」だとイメージすればいい。
この「頂点」を作り出して技術を行う練習を繰り返していた。

身体均整法でいう「頂点」は、一点、というよりは、なだらかな山の頂(いただき)。
そう思えば、トレーニングもしやすい。

整体創始者・野口晴哉氏(故人)は、『整体法の基礎』という本の中で「整体の技術を行う一番の元は、呼吸の間隙といって、息を吐ききって吸う前に一時止まるところがある。吸いきって吐く前も同じで、その呼吸の間隙をつかまえることである」と言っている。
そして「整体の技術が難しいと言われるのは、それを用いる時が呼吸の間隙しかないから」とも言っている。
これは何を意味するかというと、その「間隙」を捉えるには、並外れた集中力と、その機を捉えた瞬間には動いている体の両方が必要で、欠けていれば整体操法はできない、ということ。

ここでいわれているその「間隙」は、まさに空白の一点。
人間は、全体として生きていながら、細胞のレベルでは毎瞬間ごとに死を迎えている。
その生と死の狭間をいわれているのだが、それは多少訓練を積んだくらいで自在に捉えられる境地ではない。

しかし、この一点において、人間はほぼ完全に無防備になる。
無防備になるということは、「変わりたくない」とかゴネている潜在意識に関係なく、刺激が入るということ。
それゆえ、この間隙を捉える呼吸の技術は、重要だとされている。



呼吸の間隙を捉えることは、確かに難しい。
しかしそれは、通常に行われている個々の呼吸を読み、そこに共鳴し、その果てにその一点を目指して技術を行おうとするからだ。

そうではなく、その間隙が何の、どのような意味を持つのか。
そこに気づけば、その難しい作業はいらなくなる。
その時に、その“間隙を捉えねば整体はできない”という強力な呪縛から解放される。


そうして、何事もシンプルなのだと、改めて気づく。