…考えることと、悩むことは違う。
というか、きちんと「考える」ことができているのなら、「悩む」ことはできない。…
かつて、おそらく2007〜2008年頃だったと思うが、『残酷人生論』という書籍を拝読し、その冒頭でこのような文章に出会ったことがある。
思わず、ハッとした。
そして、その当たり前のことにハッとした自分に少し愕然としながらも、何か目の前が明るく開けていったことを、今でも覚えている。
その著者・池田晶子氏(故人)の容赦なき、核心をズバズバと抉るような切れ味鋭い文章に、随分と勉強させていただいた。
また、つい最近読んだ作家・森博嗣氏の『集中力はいらない』という書籍。
この中で著者が編集者からの質問に答えている章(第2章)があるのだが、そこで
「では、“自分の頭で考える”とはどのようなことだとお考えですか?」という質問に対しての答えが、なかなかわかりやすくて秀逸だなと思った。
それは、以下のようなものだ
「そうですね、普通の人が“考えた”と言っている行為のほとんどは、ただ世間の常識だとか、知識としてあったものに照らし合わせただけか、そんなものから選択しただけで、実は思考していない。たとえば、青信号を見て横断歩道を渡ったとき、青ならば安全だと“考えた”でしょうか?
実は、単に反応しているだけ、周りに合わせているだけで、自分の頭では考えていないのです。実際に安全を自分で確認したわけでもないし、信号機の青がどこでコントロールされているかも考えていません。…(続く)」(同署より引用)
独特にして明快な言葉がこのあともずっと羅列していき、全体としてはどうかと思うも、この項目については一部合点した。
実際には、この青信号の場面でも、人間は考えてはいる。
しかし、その思考はほぼ自動的に、自分自身でも考えたという実感を得ることはほとんどないほど刹那的な速度で浮かび上がり、そして消える。
こうした自動的に浮かび上がる思考は、たとえば信号が赤から青に変わるその瞬間、
「青だ!急いで渡ろう」
「青だ…かったるいけど渡らなきゃ」
「青…渡れる」
など、個人のその時の用向きや状況などで思考内容は変わる。
ここで大切なのはその内容ではなく、それが「自動的」であるということだ。
意識的に「思考」するのではなく、潜在意識に深く刷り込まれた常識や社会的規範などにより勝手に“動かされる”…これが「自動的」ということの中身であり、すなわち「考えていない」という根拠にもなる。
セッションの際、いわゆる「悩み」の深い方ほど「すごく考えている」ことを強調される。
そして、「“考える”ことと“悩む”ことは違いますよ」的なことをお伝えすると、多くの場合は怒りのモードが発動する…「私はしっかり考えています!」という感じで。
それはもちろん、本人にとってはそうなのだろう…けれど、その「考えている」中身のほとんどは、上記のような、潜在意識から自動的に上がってきた思考と、それにより醸成された様々な感情に翻弄されてしまっている。
人は夢中になると周りが見えなくなる性質があるが、問題や悩みがこじれる場合、だいたいは視野が狭くなり、心のキャパも空きがほとんどない状況になってしまっている。
このような場合に、「しっかり考えましょう」と言ったところで、そもそもムリなのだ。
こうした場合は、まず最初に「考えられる」心のスペースを作ることと、自分がいかに自分自身の視野を狭くしていたかを納得してもらう必要があるだろう。
自動的に上がってくる思考、それはその個人の生きてきた歴史でもあり、過去のあらゆる瞬間に醸成されてきた習慣の成果でもある。
それが「心の癖」といわれるもので、その方のモノゴトの見方、考え方ほか人生のあらゆる方向に影響している。
心身一体、この「心の癖」は、すなわち「体の癖」でもある。
いわゆる「体癖」とは、先天的形質のうえに、後天的にはこういった流れにより育まれたものだ。
自動的に起きるその思考の背景には、それ以前に培われた体の連携システムが確立している。
体から心を変えるというのは、この連携システムを別の流れに変えるという意味であり、それは目に見えない抽象的なものではなく、目に見える体の変化として具体的に確認できる。
そして「体癖」、つまり「体の癖」が変化していれば、それはそのまま「心の癖」が変化しているという意味でもある。
もちろん、そうカンタンなことではないけれど。
というか、きちんと「考える」ことができているのなら、「悩む」ことはできない。…
かつて、おそらく2007〜2008年頃だったと思うが、『残酷人生論』という書籍を拝読し、その冒頭でこのような文章に出会ったことがある。
思わず、ハッとした。
そして、その当たり前のことにハッとした自分に少し愕然としながらも、何か目の前が明るく開けていったことを、今でも覚えている。
その著者・池田晶子氏(故人)の容赦なき、核心をズバズバと抉るような切れ味鋭い文章に、随分と勉強させていただいた。
また、つい最近読んだ作家・森博嗣氏の『集中力はいらない』という書籍。
この中で著者が編集者からの質問に答えている章(第2章)があるのだが、そこで
「では、“自分の頭で考える”とはどのようなことだとお考えですか?」という質問に対しての答えが、なかなかわかりやすくて秀逸だなと思った。
それは、以下のようなものだ
「そうですね、普通の人が“考えた”と言っている行為のほとんどは、ただ世間の常識だとか、知識としてあったものに照らし合わせただけか、そんなものから選択しただけで、実は思考していない。たとえば、青信号を見て横断歩道を渡ったとき、青ならば安全だと“考えた”でしょうか?
実は、単に反応しているだけ、周りに合わせているだけで、自分の頭では考えていないのです。実際に安全を自分で確認したわけでもないし、信号機の青がどこでコントロールされているかも考えていません。…(続く)」(同署より引用)
独特にして明快な言葉がこのあともずっと羅列していき、全体としてはどうかと思うも、この項目については一部合点した。
実際には、この青信号の場面でも、人間は考えてはいる。
しかし、その思考はほぼ自動的に、自分自身でも考えたという実感を得ることはほとんどないほど刹那的な速度で浮かび上がり、そして消える。
こうした自動的に浮かび上がる思考は、たとえば信号が赤から青に変わるその瞬間、
「青だ!急いで渡ろう」
「青だ…かったるいけど渡らなきゃ」
「青…渡れる」
など、個人のその時の用向きや状況などで思考内容は変わる。
ここで大切なのはその内容ではなく、それが「自動的」であるということだ。
意識的に「思考」するのではなく、潜在意識に深く刷り込まれた常識や社会的規範などにより勝手に“動かされる”…これが「自動的」ということの中身であり、すなわち「考えていない」という根拠にもなる。
セッションの際、いわゆる「悩み」の深い方ほど「すごく考えている」ことを強調される。
そして、「“考える”ことと“悩む”ことは違いますよ」的なことをお伝えすると、多くの場合は怒りのモードが発動する…「私はしっかり考えています!」という感じで。
それはもちろん、本人にとってはそうなのだろう…けれど、その「考えている」中身のほとんどは、上記のような、潜在意識から自動的に上がってきた思考と、それにより醸成された様々な感情に翻弄されてしまっている。
人は夢中になると周りが見えなくなる性質があるが、問題や悩みがこじれる場合、だいたいは視野が狭くなり、心のキャパも空きがほとんどない状況になってしまっている。
このような場合に、「しっかり考えましょう」と言ったところで、そもそもムリなのだ。
こうした場合は、まず最初に「考えられる」心のスペースを作ることと、自分がいかに自分自身の視野を狭くしていたかを納得してもらう必要があるだろう。
自動的に上がってくる思考、それはその個人の生きてきた歴史でもあり、過去のあらゆる瞬間に醸成されてきた習慣の成果でもある。
それが「心の癖」といわれるもので、その方のモノゴトの見方、考え方ほか人生のあらゆる方向に影響している。
心身一体、この「心の癖」は、すなわち「体の癖」でもある。
いわゆる「体癖」とは、先天的形質のうえに、後天的にはこういった流れにより育まれたものだ。
自動的に起きるその思考の背景には、それ以前に培われた体の連携システムが確立している。
体から心を変えるというのは、この連携システムを別の流れに変えるという意味であり、それは目に見えない抽象的なものではなく、目に見える体の変化として具体的に確認できる。
そして「体癖」、つまり「体の癖」が変化していれば、それはそのまま「心の癖」が変化しているという意味でもある。
もちろん、そうカンタンなことではないけれど。