『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

2011.10.4 「神社おそうじ隊」~秦野編~報告&神社おそうじ隊総括

2011-12-30 | 神社おそうじ隊 見参! 2011年
さて、年末押し迫ったこの時期に本年10月の「神社おそうじ隊」報告
実は、これには理由があります。。。


実は、今回わたくし…デジカメと御朱印帳を一式丸ごと忘れておりまして…
忘れていたことに気づいたその直後には開き直って、携帯で撮影することも
今回はしないことに決め…(それはつまり、副長から写真拝借することもしないということ
ただただ、その「場」と「空間」を満喫させていただきました

この日、わたくしが気で行き当たったのは、『須賀神社』
秦野市の中腹、田舎道を行き、道が細々と続くなかにハタと出現する、といった手合いでした。
こちらの御祭神はスサノオノオオミカミ。

そして、ご神水「井之明神水」で名高い『曽屋神社』
御祭神は

水波能売命(ミズハノメノミコト)
伊邪那美命(イザナミノミコト)
誉田別命(ホンダワケノミコト)
事代主命(コトシロヌシノミコト)
加茂別雷命(カモワケイカツチノミコト)
菊理比売命(ククリヒメノミコト)

隣接して『護国神社』『井之宮正一位福徳稲荷』と鎮座されていました



そして、「関東三大稲荷」として名高い『白笹稲荷神社』
こちら、そのご神威は足を運べばおわかりになることでしょう。

御祭神は

宇迦之御魂命(ウカノミタマノミコト)
大宮売命(オオミヤメノミコト)
猿田彦命(サルタヒコノミコト)


そして、この辺りで有名な「白笹うどん 多奈加」で、うどんを堪能
いや、ウワサに違わず、野趣溢れる趣の美味しいうどんでした


そのまま、副長のいつもの「ココ」の一声で、『今泉神社』へ。
御祭神は

健御名方命 ( タケミナカタノミコト )
品陀和気命 ( ホムダワケノミコト )


そこからほど近い場所に、今年縁深きかな、『出雲大社相模分祠』は、あります。
御祭神は

大国主大神(オオクニヌシノオオミカミ)
事代主大神(コトシロヌシノオオミカミ)
合祀祭神二十八柱

明治二十一年に島根御鎮座、出雲大社の第八十代国造・千家尊福公の要請を受けての御鎮座。



そして、最後に当初より気になっていた、秦野市内最古ともいわれる『健速神社』に。
御祭神は…ああ、やっぱりのスサノオノオオミカミでした。

今年は、さまざまな意味でスサノオノオオミカミとの御縁をいただいたなと、思います。。。


今回の隊員は、二名。
ほとんどレギュラー、筆頭隊員といってもよいIさんと、今回初参加のOさん。
車内も、にぎやかでした
行きも帰りも、高速道路のサービスエリアとしては有名な「海老名サービスエリア」に寄り、「おそうじ隊」の
コンセプトである「地元満喫」も、うどんとともにバッチリでしたね

今回御縁頂き、本当にありがとうございます



さて、、、


このカテゴリーの最初の記事にあるように、本年二月から始まった「神社おそうじ隊」
当初、「続くのか」と思われたプランでしたが…何ともありがたいことに、けっこう好評をいただけております

神職二名、特にガイドするでもなく、何か特別なことをするでもない。
神域に足を運び、その「場」と「空間」を感じる…。
そして、ただただいまここに在る、敬意と感謝を奉じ、いのる…。
ただそれだけなのですが、やはり楽しいのですよ、ね

人というのは、それでいいはず、なのですし


本年、御縁頂けました皆様、本当にありがとうございます

世間的な意味でも、いまを生きる私たちにとって、大変に意味深い一年でありました。
浮き世というくらいに、世間的には清濁混在した、浮いた「情報(しらせ)」が流れゆき、
人はその性質上、それによって揺り動くものでもあります。
この傾向は、来る年には更に更に加速するのでしょうけれど、、、アセることもありません。

そうした時代であるからこそ、ワクワクするもの。

「神社おそうじ隊」は、来年更にパワフルに、動きます



年明けは、二月二十一日、始動です
何とぞ宜しくお願いいたします


























2011.12.18 指南塾vol.9

2011-12-26 | 2011年
年末もやんわりと押し迫ってくるなか、今年最後の

『身体均整法基礎講座』

を開講させていただきました。

この講座も9回目。
途中、諸事情でやむを得ず受講中断された方はいたものの、ほぼ全員が足しげく
毎月通っていただいています。

「月に一度でどれほどできるようになるのか?」

と、その多種多様な内容を知る方であれば、訝しく思われるかもしれません。
確かに、当の私自身、「一体どこまでやれるのか…」と、半ば未知数ながらの出発で
あったことは、否定し切れない面もありました。

しかし、やはりやってみるものです。
そもそものモチベーションも、その受講目的も個々それぞれの集まりながら、どうやら
自主的に勉強会などを開き、切磋琢磨されているご様子。

前回習ったことや、これまで習ったこと。
それらを、もちろんまだまだたどたどしいながらも、こなしていく。


私が勉強していた頃、勉強会開くにも人はなかなか集まらず、ともかく実地に
誰彼なくつかまえて実践稽古していたものでした。。
そういうところから考えると、今回塾生となっていただいた方々は、みな一様に
熱心で、アタマが下がる思いです。


一年目は、「原理・原則」の理解と実践が主体。
個々の技術の「目的」を捉え、カラダをどう使うかを考えながらその「理」を掴んでいく時期。
それが、二年目の「応用」へと、まっすぐに繋がっていきます。




終わったあとは、近隣の居酒屋さんで忘年会。
みな、よい酔い心地で、本年最後を締めくくりました。




さて、来年。
1月から3月までは、いよいよ「背骨」に、取り掛かります。
ここからが、身体均整法の、いわば醍醐味。

じっくりじっくり、愉しく愉しく、やっていきましょう。


何とぞ宜しくお願い致します。




2011.12.12 『清祓ワーク』 報告

2011-12-22 | 2011年
昨年十二月に、『カミゴト」としての『清祓ワーク』を初めて執り行わさせていただいた。
その時と、今年は、どうやら「気」が違う…。

それは、時が流れ、人がそうであるようにたゆたうようにすべてが移り変わっていく
のであるから、「違う」のは当然であるだろう。
しかし、ここでいう「違い」は、そういうことではない。



「いのり」とは、『意』を『宣る』と、『清祓ワーク』では解釈する。

もちろん、解釈は多種多様であり、アカデミックな解釈もあれば、それぞれの団体、
あるいは個人によってもさまざまあるだろう。
それはそれでよいと思うし、そういうものだろうとも、思う。

人にさまざまあるように、「いのり」もさまざま、ある。
「八百万」の神々を尊ぶ精神性から育まれる言葉には、いつも多面性を孕ませされている。
このブログでは、特に示す必要のない場合は、基本的にひらがなの「いのり」を使用させて
いただいているのは、このようなことからだ。


では、この『意』とは何だろう?

実は、私はこの『意』という一文字を、この15年ほど追求してきた。
そのためか、この『意』には、ことのほか想いがこもる。
ただここでは、あまりこねくりまわすことなく、まっすぐ「こころ」と捉える。
森羅万象を森羅万象と、「私」を「私」と捉えてしまう働き、その「私」を超えていく働き、
こうした諸々の働きをまとめて、「こころ」と、いう。

そして、『宣る』。
こちらは、「宣言する」といった手合いの意味である。



つなげると、「こころを宣言する」、ということになる。



日本には、昔からの「言霊思想」がある。

口に出した言葉は、現実に作用する。
作用する、ということは、そこには何らかのエネルギーのうねりがあるということだ。
そうした「言葉の作用」は、『霊』という一文字に集約され表現されている。

「思い」が、「音」というカタチを伴った途端にそこに含まれる『霊』の作用は増大する。
世界中で、「祈り」を口に出して唱える習慣が存在する。
現在のようにアファメーションとして一般的に体系化されるはるか以前より、人々の意識の
深層においては、そのことを理解していたのだろう。



今回は、私なりに思うところあって、存分に『祝詞(のりと)』を奏上させていただいた。
もともとの「祝詞」は、いわゆる「神懸かりの言葉」であった。
時を経て、古代律令体制以後に、現代のような体裁に整えられた、といわれる。
このようになった背景にはさまざまな事が考えられるが、祭祀儀礼そのものが洗練させつつ
システムとして長く伝えられてきたもの。
その範囲においては、このようである必要も必然もあったことだろう。



蛇足だが、そういえば祭祀で、たまにそういうシステマティックなスタイルを訝しく思う方も、いる。

何を隠そう、私自身も、実はあまりシステマティックなものは好まない。
往々にして窮屈であり、慣れてしまうと退屈であり、肩も凝ってくる。

神道の祭祀儀礼のスタイルは、微に入り細に至るまで、キチッと「システマティック」である。
そこに付け入る隙もないほど、である。

しかし、だからといって、それを窮屈だとは、いまのところ思わない。
いや、もちろん学びを始めた当初は気も肩も凝ってしかたなかったけれど、その意味をカラダで
理解できてくると、全然窮屈ではないことに、気づく。

「~でなければいけない」というのではなく、「~であろうからこうなった」というもの。
いま現在の祭祀スタイルの理解は、こうである。
先人の創意工夫の先に成立したものであるのだから、そのすべてに深い洞察がある。
まずは、そのことに敬意を払い、慎んで執り行わせていただいている。

…という面と同時に、私はこれをもって「完成形」だとは露ほども思ってはいない。
ただひとつの正しい方法など、あるワケはない。
全体を俯瞰できるような認識に至ったら、また新たなインスピレーションが舞い降りてくることだろう。




西暦二千十一年。
この年は、将来に渡り長く語り継がれる年と、なることだろう。

今回ワークに御参加いただいた方々は、五名。
それぞれの皆様に本当に、感謝と敬意を…。


次回『清祓ワーク』は、六月。
時の流れ奔流のごとき昨今。
来年どのようであろうとも、このワークを執り行う所存。




「チーム神道」の、「神社おそうじ隊」活動は二月二十一日。
ご興味ある方は、

info@tamuratic.com


あるいは、こちらまで、お問い合わせください。






2011.12.12 『清祓ワーク』のご案内

2011-12-05 | 2011年
本年、西暦にして2011年という年も、あと少し。
時というのは、「時」という概念を知る我々にとっては、水の流れと同じように
自然に、何の強制もなく、ただただ流れていきます。


「季節」という周期的変容を、豊かに感じる感性。
この日本に生まれ育ったのであれば、好む好まざるとに関わらず、遺伝子のレベルに
インプットされているはず。
その感性は、春夏秋冬のあらゆる時節に、意味や意義をもたせるに至りました。

もうすぐやってくる「お正月」。
「桃の節句」
「お彼岸」

などは、根源をたどればそうした感性の下敷きの上に生じた慣習、という見方も、
できないでもないでしょう。




神社などで、毎年6月12月の二期に執り行われる「大祓」。
この「大祓」の起源は定かではないようですが、約1300年近く前の「大宝令」の頃に、
国家全体のための行事として定められたといわれています。

「大祓」の「大」は、この場合「全体、公」を意味します。
つまりは、この日本全体を対象とした行事なのですね。




さて、
特に震災を契機に、「日本がんばれ」「日本を元気に」という言葉を、目にします。
私はテレビを観ていないため、もっぱらネットや電車の吊り広告、雑誌などからそうした
言葉を拾うのみですが、それでもけっこう見かけるのですから、テレビでは相当なのでは
ないのかな・・・と想像します。

そういうことで、何となく「何かしなければ」的な気持ちを煽られ、でも何をすれば
いいのかわからない…という方々も、もしかしたらおられるかもしれません。

落ち着いて考えてみればわかることですが、テレビや雑誌のほとんどは何らかの意図が
あってそうした情報が流れるのですし、だいたい「日本がんばれ」という曖昧模糊とした
抽象的表現というのは、混乱を生むだけですね。
個人的にはそういう表現は、スポーツの世界だけで充分(笑)。
対象が決まっているので・・。

それに、セラピーをこれまでやってきた経験からいえることは、本当に辛く苦しい立場に
ある人に「がんばれ」というのは、はっきりいって逆効果なことが多い。
ですので私は、「がんばれ」という言葉の使い方には、とても気を遣います。



さて、
その質はともかく、国家安泰を願う気持ちは、今も昔も変わらないでしょう。
かつては神社の「大祓」、お寺での「護摩焚き」、そして名もなき個人のレベルでも誰彼となく
「いのり」を捧げていた時代があったのです。

今回の『清祓ワーク』というのは、「大祓」では、ありません。
それは、等しく「個人」を対象とし、カミサマとヒトの仲執り持ちとして神職が祓わせていただく
という行事になります。

そうはいっても、大きな視点から俯瞰して観れば、国もヒトも同じこと。
すべては「社(やしろ)」であることに、変わりはありません。


12月12日。

場所はこちらです。

お問い合わせ・お申し込みは、こちらの「希望メニュー」から「清祓ワーク」を選択し、お願いいたします。