『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

『TAMURATIC.』夏期休業のお知らせ

2016-07-29 | 2016年
来る

8月23日(火)〜9月13日(火)

の期間、『TAMURATIC.』の施術はお休みいたします。
また、この間メールの返信もできませんので、重ねてご了承下さいますよう、お願いいたします。

お休みとは書いていますが、ただ「休む」わけでは、ありません。
アメリカの、ある瞑想リトリートに2週間ほど参加させていただくのです。

昨年に続き、今回が2度目の参加となります。
今回は学ぶことも多く、忙しい(というか、濃い)日々になるかも、しれません。



何はともあれ、以上のような予定になっております。
その前後のご予約は、ただいま受付中です

この期間、ご不便おかけする方もおられるかと思いますが…
ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

2016.7.6 『滋賀・京都プチ見参!』 その2

2016-07-20 | 神社おそうじ隊 2016
  
『大将軍神社』(東山)

 
『大将軍神社』(北区・西賀茂)



『御靈神社(上御霊神社)』

平安遷都に際し、延暦13年(794)桓武天皇が平安京の守護として崇道天皇(早良親王)の御神霊を祀ったのが起源とされ(詳細は不明)、その後仁明、清和天皇時代をへて7柱が合祀。
現在の祭神は、

崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
井上大皇后(光仁天皇の皇后)
他戸親王(光仁天皇の皇子)
藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文屋宮田麿)
火雷神(以上六柱の荒魂)
吉備大臣(吉備真備)

御霊信仰、古来より疫病や災厄除の霊社として知られる。



『下御霊神社』

当社は平安時代に冤罪を被り亡くなられた貴人の方々の怨霊を御霊(ごりょう)として、その当時からお祀りしてまいりました神社です。疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として崇敬されてきました。
(「下御霊神社」ウェブサイトより抜粋)

御祭神

本殿
 吉備聖霊(きびのしょうりょう)
 崇道天皇(すどうてんのう)     皇太子 早良親王(さわらしんのう) 桓武天皇同母御弟
 伊豫親王(いよしんのう)         桓武天皇皇子
 藤原大夫人(ふじわらのだいふじん)  桓武天皇夫人 伊豫親王御母 藤原吉子
 藤大夫(とうだいぶ)            藤原廣嗣(ふじわらひろつぐ)
 橘大夫(きつだいぶ)           橘逸勢(たちばなはやなり)
 文大夫(ぶんだいぶ)           文屋宮田麻呂(ぶんやみやたまろ)
 火雷天神(からいのてんじん)

相殿

 霊元天皇(れいげんてんのう)


「御靈神社(上御霊神社)」「下御霊神社」とも、創建年代は明らかではないのですが、しかし、どちらも中世以来朝廷や貴族の崇敬が厚いことで知られています。
「御霊信仰」という言葉が日本にはありますが、この両神社は、まさにその「御霊」を「御霊」として祀る神社です。
京都の夏の祭りは、多くが「御霊会(ごりょうえ)」です。
華やかに、賑やかに、出店がたくさん出て、夏の風物詩で…というのは、あくまでも「祭り」の表面に過ぎません。
そうすることは、本当は何が目的であるのか・・・「御霊会」という言葉には、その意味が示されているように思います。




『平野神社』

式内社 官幣大社

平安京遷都頃まで創建が遡るとされる神社で、近年の研究によると、元々は桓武天皇生母の高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として平城京に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたことに始まると推測されている。古代には皇太子守護の性格を持ち、平安時代には例祭「平野祭」において皇太子自らにより奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から氏神として歴史的に崇敬された神社としても知られる。(Wikipedia)

【御祭神四座】
今木皇大神(いまきすめおおかみ) 源気新生、活力生成の神
久度大神 (くどのおおかみ)    竈の神、生活安泰の神
古開大神 (ふるあきのおおかみ) 邪気を振り開く平安の神
比賣大神 (ひめのおおかみ)   生産力の神

創建当時は1.5Km四方と、御所に匹敵する広大な境内を誇っていたといいます。
現在は東西で200メートル前後だということですが、それでも相当に広いのは事実。
全国的に「桜の名所」として有名で、毎年4月に桜花祭(桜祭神幸祭)が行われています。



京都の中心部を駆け足で巡拝したカタチになりました。
この日も、ご一緒いただいた皆様、本当にありがとうございました

京都(みやこ)は、やはり「都」です。
いづれじっくり、腰を据えて、巡拝したいと、思います





2016.7.6 『滋賀・京都プチ見参!』 その1

2016-07-18 | 神社おそうじ隊 2016

『建部大社 近江国一之宮』

式内社 官幣大社
御祭神 ヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭武命)
8月に行われれる船幸祭で知られる。

前夜、滋賀・大津の瀬田の唐橋のすぐ近くのAさんのご実家にて、セッション。
美味しい鳥料理をいただき、そのまま現地に宿泊。
翌朝、京都に向かうその前に参拝。

相変わらず境内は掃き清められ、地元の方の参拝も絶え間ない。

一之宮というのは、一般的には「その地域(国)で最も社格の高い神社」といわれます。
しかし、こうして日本各地で参拝してみると、時に荒廃して「本当にここが一之宮なの?」という神社もあるし、また参拝者の多い「一之宮」では、時に不遜とも思える態度をとられることもままあります。

ただ淡々と、日々のお祀りに勤しむ。
『建部大社』を参拝させていただくと、その事の意味を感じさせていただきます。



『北野天満宮』

全国約1万2000社の天満宮、天神社の総本社。
菅原道真公をご祭神としてお祀りし、天神信仰発祥の地として知られる。


楼門と拝殿の間に建つ『三光門』
「星欠けの三光門」として天満宮の七不思議の一つに挙げられていますね。
副長のこの記事において、その不思議は解明。
星は、ウサギに挟まれていました。


   




『大将軍八神社』

「当社は平安京造営の際、陰陽道に依り大内裏(御所)の北西角の天門に星神 「大将軍堂」を建て 方位の厄災を解除する社として創建されたという。創建当初は陰陽道のお堂として建てられた為「大将軍堂」と称し江戸時代に入り 大将軍村の鎮守社として祀られる様になった。又、その頃からそれまでの北斗妙見信仰から太白精の信仰に移り暦神と習合して 「大将軍八神宮」とも称した。

祭神は古来の日本の神ではなく大将軍一神を祀っていたが、 明治時代に「神仏分離令」によって 神道を国教とし現在の形「素盞鳴尊、その御子五男三女神、並びに 桓武天皇を合祀」となり、御子八神と暦神の八神が習合して以後社名は「大将軍八神社」という。

祭神を素盞鳴尊とした理由は 、 1433年伏見宮貞成親王の日記「看聞御記」より、大将軍堂は1340年から約100年の間祇園社 (現 八坂神社)の管理下にあった。 八坂神社の祭神が素盞鳴尊であり、 その神格が大将軍神と似通っている事から関連付けられたと思われる。」
(「大将軍八神社」ウェブサイトより抜粋)




『今宮神社』

中御座 : 大己貴命(おおなむちのみこと)
東御座 : 事代主命(ことしろぬしのみこと)
西御座 : 奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)

「当社地には平安建都以前より疫神(えきしん)を祀る社があったといわれる。建都ののち平安京が都市として栄える一方で、人々はうち続く疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため神泉苑、御霊社、祗園社など各地で盛んに御霊会(ごりょうえ)が営まれた。今宮社の紫野御霊会もその一つである。すなわち、一条天皇の御代正暦五年(994)六月、当社地の疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。」(「京都神社庁」ウェブサイトより抜粋)

通称「玉の輿神社」。

あぶり餅、食べ損ねました…




第4期指南塾 第4回(7月)

2016-07-16 | 2016年


「姿勢」というと、一般には立位、立った状態での姿勢をイメージされることでしょう。
身体均整法における「十二種体型」、整体における「体癖」などに説かれる身体論でも、主に立った状態での姿勢をいっています。

今回は、たまプラーザにある「スタジオ シャンテ」さんを会場にお借りしました。
前面に鏡が張られていますので、「立つ」ことを検証するにはもってこいの環境でした。

ナチュラルに立った姿勢と、一般にいう「よい姿勢」。
胸を張り、顎を引き、膝裏を伸ばした直立の姿勢...
私たちのほとんどは、子供の頃よりこうした姿勢を「よい姿勢」と教育されてきました。

では、その姿勢をとった時と、ナチュラルに立った姿勢、果たしてどちらが機能的(この場合は動きやすいかどうか)でしょう?
それは、想像しただけでもなんとなくお判りになるでしょう。
けれど、実際にやってみれば、さらに体感として納得ができます

「よい姿勢」とは、一体、誰にとって「よい姿勢」なのか…
そういったことも考えながら、「立」に関してレクチャーさせていただきました。


また、スタジオでの後半は、「急処」についての講義。
古くから伝承されてきた武術の知恵は多方面に及びますが、その一端として「急処」を、自らを活かすための術(すべ)として活用することがあります。
今回は下肢の二箇所を取り上げました。



午後。
『TAMURATIC.』に戻り、1〜3期生の方々は、今回は「整体」。



「整体」というのは、「痛みや病のない状態」のことをいっているのではない。
そのあたりの真意は、つかめましたでしょうか?


では、いつもありがとうございます




2016.7.3〜5 『神社おそうじ隊 裏出雲見参!』その5

2016-07-13 | 神社おそうじ隊 2016

『竹野(たかの)神社・斎宮神社』

 

式内社。
第9代開化天皇に嫁いだ丹波国大県主由碁理(ゆごり)の娘「竹野媛」が晩年郷里に帰って「天照皇大神」を祀ったとされる神社。
摂社・斎宮神社には「竹野媛命」「日子坐王命」「建豊波豆羅和気命」が祀られています。

一つの説として、
いわゆる「元伊勢」伝承は、この竹野神社が丹後にあったがゆえに起こったのではないか、ともいわれます。
そして、この神社に代々仕えていた姫神たちこそが、「かぐや姫」のモデルである、とも・・・。


物語には、概ねタイプ、類型があります。
「かぐや姫」でいえば、誕生の特異性であったり、無理難題を提示して結婚の条件にしたり、といったことですね。

誕生の特異性に関しては、有名なところでは「桃太郎」などはすぐに浮かびます。
無理難題をふっかける、困難を克服して目標を達成するモデルは、現代の「成功」ストーリーとも通じますし、日本の、神社にまつわる物語でいえば、やはり「大国主命」のストーリーではないでしょうか?
スサノオがスセリビメとの結婚の条件として無理難題を次々と大国主命に出し、それをスセリビメのアドバイスによって克服していく…まさに、現代のハリウッドムービーにも通じるストーリーですよね。




『浦嶋神社』

式内社。
『延喜式神名帳』には「宇良(うら)神社」と記されている。
御祭神 浦島子(浦島太郎) 相殿 月讀命 祓戸大神

「この神社に伝わる浦島伝説は起源が最も古く、すでに八世紀にできた丹後国風土記・日本書紀・万葉集などに記載されている」(「浦島神社の栞」より)
浦島子は、開化天皇の後裔氏族、日下部首(くさかべのおひと)の祖先。

浦島の物語では、やはり常世(とこよ)の国、彼方にある理想郷、不老不死、ここではないどこか…ですね。



この地域は、「丹波」あるいは「丹後」。
この「丹」という文字のつく地名は日本各所にあります。
その共通項として、いずれも丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示しています。
つまり、「丹」という文字のつくこの地域は、それらの産地、それもかなり重要な鉱脈であったことが、格式の高い神社がこのように祀られていることからも伺えます。

そして、「出雲」。
「雲(クモ)」=「蜘蛛」、つまり「朝廷の意に沿わぬ人々」のことを指します。
つまり「出雲」とは、それらの人々が出るところ、発生する場所という意味とも解釈できます。

そして「出雲」、また丹生神社を一ノ宮とする「紀伊国」、丹生三社のある「吉野」などは、かつてのタタラ(日本古来の製鉄技術)場であった場所です。
鉄は、かつてはその国の命運を握る大きな利権。
そう考えると「大国主命」という名称の意味も、なんとなくわかるのではないでしょうか?

『出雲大社』とは、その「大国主命」を祀る社。
有名な「国譲り」により、出雲を治める王は、そこに祀られることになりました。



『天橋立』

遠くに見える「天橋立」。
日本海の宮津湾にあり、陸奥の『松島』・安芸の『宮島』とともに、日本三景とされます。
その形が、天に架かる橋のように見えることから『天橋立』の名が付いたそうです。



さて、今回の『裏出雲見参!』。
一般に京都で神社というと、洛中をイメージされることが多いかもしれませんが、実際にその外に目を向けると、さすがに都、日本の歴史がそのまま感じられるようでもありました。
もちろん、今回でその全てを看破したわけではありませんので、次なる機会があることでしょう。

ご参加いただいた皆様、忙しい中本当にありがとうございました
このすべてのご縁に、感謝いたします



…最後に、「うさぎ」
「うさぎ」は、「宇佐妓」、です。
因幡の白兎は、女性のこと。
このように解釈すると、また違った見方ができますね




2016.7.3〜5 『神社おそうじ隊 裏出雲見参!』その4

2016-07-12 | 神社おそうじ隊 2016

『加悦天満宮』

京都府北部・与謝野町加悦の、通称「ちりめん街道」と呼ばれるこの地域。
宿の女将さんに、「この辺りで神社といえばどちらでしょう?」とお聞きしたらば、まず挙がったのが天満宮。
祇園祭に流れをくむという地域最大の例祭「加悦谷祭」で知られる。



『吾野(あがの)神社』

式内社。我野媛(あがのひめ)を祀る。
天満宮の裏手、石段をさらに登りきった処に鎮座。
この御祭神の呼び名が、「加悦(かや)」の語源と伝わる。

 
『大虫神社/小虫神社』

「大虫神社」
式内社。
大己貴命 少童命 大田命を祀る。

「小虫神社』
式内社。
少彦名命 火産霊命 大山祇命を祀る。

両神社の鎮座地は野田川の中流域で加悦谷と称される地の東方台地上、大江山連峰の西山裾に位置する。加悦谷には国の史跡に指定されている蛭子山古墳や作山古墳などの古墳や遺跡が密集し、古代丹後地方における最先進地帯であったと見られている(Wikipediaより)。



『一宮神社』

彦火々出見命 天水分命 級長津彦命の三神を祀る。
宮津の籠神社が丹後国一ノ宮であるのに対し、こちらの神社は謁叡(あちえ)郷の一ノ宮であったと伝わる。
里人は、天分水命が籠神社と当社に祀られ、江戸期には神輿が府中(籠神社鎮座地)まで渡御したことから、籠神社の元宮であるといい伝えているという。


 
『乙女神社/藤社(ふじこそ)神社』

「乙女神社』
羽衣伝説発祥の地とされる磯砂山の麓に鎮座。
天女の娘が祀られ、参拝すると美しい女子が授かるとされる。

「藤社神社』
伊勢外宮の元宮候補地の一つとされ、祭神は保食之神。



『比沼麻奈為神社』
式内社。
御祭神 豊受大神
瓊瓊杵尊 天児屋根命 天太玉命

比沼麻奈為神社、藤社神社は、互いに元伊勢を名乗っています。


『月の輪田』
その昔、保食神が稲種を天照大神に奉った田と伝わる。
この「保食神(ウケモチノカミ)」は、豊受大神とされることも多いカミ。








2016.7.3〜5 『神社おそうじ隊 裏出雲見参!』その3

2016-07-11 | 神社おそうじ隊 2016
     

『綾部七社』

「綾部市旧市街にある七つの産土神社を巡拝する行事であり、明治36年5月24日(旧4月28日)の弥仙山(綾部市於与岐)における、二度目の天の岩戸開きの神事のお礼として、出口なお開祖が福知山の一宮神社と綾部の産土神社を参拝されたことに始まる。」(「大本」ウェブサイトより抜粋)


一応明記しておきますが、『神社おそうじ隊 見参!』というのは、特定の教義・教典を持つものでもなく、また、特定の思想を選取しているわけでもなく、特にどこかと関係が深いというわけでもありません
さらにいえば、どのような思想、教義であっても、否定も肯定もすることなく、ただそのままを尊重する、というスタンス(「八百万」やおよろづ)ですので、このブログで特定の団体や思想が仮にフィーチャーされたとしても、それは他の神社と全く同じスタンスでの掲載です。


上記、綾部七社。
写真の順番は、上段「笠原神社」「斎神社」、中段「熊野新宮神社」「若宮神社」下段「二宮・三宮神社」「八幡宮」。

大本には聖地が二箇所あり、発祥の地・京都府綾部市の「梅松苑」は祭祀の中心地。
そして、京都府亀岡の亀岡城跡にある「天恩郷」は宣教の中心地だということ。

当初、この両施設に立ち寄る予定などなかったのですが、今回ご参加いただいたTさんの機縁により、訪れることに。
実に濃密な空間の中で、時折、堰を切ったように降り出す雨、それがサッと上がるそのタイミングもまたオモシロく・・・。



夜。
『ちりめん街道 料理旅館 井筒屋』にて、宿泊。
日本海の海の幸と大江山の山の幸、こだわりの「丹後のバラ寿司」、堪能させていただきました。
 





2016.7.3〜5 『神社おそうじ隊 裏出雲見参!』その2

2016-07-09 | 神社おそうじ隊 2016

『丹後一宮 元伊勢 籠神社』
【別称】 籠宮大社(このみやたいしゃ)・元伊勢大神宮・伊勢根本丹後一宮・一の宮大神宮
【旧社格】 延喜式内・名神大社・月次・新嘗・案上之官幣大社・山陰道一之大社

数多ある「元伊勢」を称する神社の中でも、群を抜く社格と知名度。
ちなみに、「元伊勢」とは、「三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所」のこと。
ご興味ある場合、こちらを参照ください。

主祭神・彦火明命(ひこほあかりのみこと)は、天照大御神の御孫神で、邇邇芸命(ににぎのみこと)の御兄神。
別名として、天火明命(あめのほあかりのみこと)・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)などがあります。
『神社おそうじ隊 見参!』としては、『ニギハヤヒ』という名称の方が馴染みがありますね。
2014年3月、「大阪春の陣」において、テーマとさせていただきました。


古事記、そして日本書紀の記述に基づけば、初代天皇は神武天皇。
しかし、それ以前にヤマトには統治者がいて、それがこの「ニギハヤヒ」というカミになります。
このこと自体は記・紀にも記述され、その意味では“正式”な日本史です。

そして、さらに記・紀の記述によれば、「ニギハヤヒ」は、その統治者の権利を神武に譲った、となっています。
それにより神武は、“初代”天皇、統治者となりました。
譲ったのだから、つまりは先代がいたことになるだろうに、初代…という矛盾が、「ニギハヤヒ」に纏わるミステリーの根幹にあります。




『元伊勢内宮・皇大神社』

旧村社。
祭神は天照大神。天手力男命、栲幡干々姫命を配祀。
丹後・丹波一円にかけ広く尊崇され、舞鶴あたりでは「元伊勢」といえばこちらを指すという。


『天岩戸神社』

祭神 櫛岩窓戸命、豊岩窓戸命、大宮売命、八意思兼命
神々が天下った地という岩戸渓谷に鎮座。



『元伊勢外宮・豊受大神社』

御祭神 豊受大神
丹後地方へ天下った農業の神様「豊受大神」を祀る。
伊勢神宮外宮の元宮といわれる。

三社で「元伊勢三社」とされています。


また、皇大神社から天岩戸神社へと向かう道中には、


神体山である日室ヶ嶽の遥拝所があります。
この場所から願い事をすると、一つだけ願いが叶う「一願さん」として知られています。
山頂に夏至の日に太陽が沈んでいく様が見れるそうです。


さて、今回は「裏出雲」がメインテーマです。
決して「元伊勢」巡拝では、ありません。

これもまた、「裏出雲」。
さてさて・・・。





2016.7.3〜5 『神社おそうじ隊 裏出雲見参!』

2016-07-08 | 神社おそうじ隊 2016

『丹波國一之宮 名神大社 旧国幣中社 元出雲  出雲大神宮』

「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」(「丹波國風土記」)

京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神である三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制)、特にこの二柱を合わせ出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉られている。



さて、「裏出雲」。
「元〜」といえば「元伊勢」など、神社に詳しい方にとっては比較的一般的。
この場合は、大方ルーツ、系譜を意味しています。

しかし、「裏」、というと、ややどこか怪しい風情が漂うことになるからか、はたまた別の理由からか、あまり一般的に使用される言葉ではありません。
でも、「陰陽」もそうだけれど、「陰」なくば「陽」もなく、「表」があるなら当然「裏」があります。
本来一つであるものの対極的な相に過ぎないのですから、いってみれば“あたりまえ”

このこと、誰もが「わかってるよ〜」とは思うものの、実際にはあまりに“あたりまえ”過ぎて、そして、茫漠とし過ぎて、なかなか気づけないことのようですね。

ただ、そこにある事実。
ただ、そこにある真実。
そこには、“あたりまえ”に、「表」があれば「裏」がある。

思わぬ展開ばかりとなった、今回の『裏出雲見参』。
ご参加いただいた皆様、まずは、ありがとうございました