たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

盛岡まち散歩(8)

2021年05月02日 | ぶらりぶらり

 

奥州街道

奥州街道は江戸時代の江戸・日本橋を起点とする五つの陸上交通路のひとつで、盛岡を経て青森までの道路です。
前回は盛岡市景観重要建造物になっている紺屋町番屋まで来ました。今回は番屋を出発です。番屋を発つと間もなく菊の司酒造店です。
 
 
 
菊の司酒造店
 

「菊の司酒造」は安永年間(1772)に酒造業を始め、大正末期に現在地に移転、昭和43年に菊の司酒造株式会社に社名を変更しております。その後、昭和50年に「七福神」を醸造する箱庄酒造店(現花巻市石鳥谷町)と合併し現在に至っています。蔵出しのお酒「菊の司」「七福神」の仕込み水は蔵の真裏を流れる中津川の伏流水を使用しています。中津川は盛岡市内を流れる清流で、夏は鮎釣り、秋には鮭が産卵のために遡上し、冬には白鳥が飛来する自然あふれる市民の癒しの川です。水質は岩手山系の岩盤から染み出たミネラル分が適度に含まれており大変に清澄で、最低限のごみ取り濾過のみを施し、全ての作業に使用しております。この水こそが私どもの酒の命、とのことです。

 

菊の司酒造店の前に旧町名の案内板が立っています。ここは、現在、紺屋町ですが、以前はこの辺は、紺屋町、鍛冶町、紙町と言われていました。





紺屋町は,中津川を利用した紺屋(染物屋)が集まっていたことに由来します。南部紫(むらさき)や南部茜(あかね)によって染められた布地は,盛岡藩の特産物でした。現在も染物屋がありますし、上の橋のたもとには紙店も存在します。




南部紫染本舗(草紫堂)
 



「上の橋」のたもとの「ささき千代紙店」
 
 
 
菊の司を過ぎると、鍛冶町一里塚です。鍛冶町一里塚は奥州街道139番目の一里塚です。
 



  鍛冶町一里塚跡

 


 
城下町鍛冶町は奥州道中筋の宿駅でした。鍛冶町は現在の紺屋町の一角で、刀、鉄砲、農具などを造る鍛冶職人が住んでいた町です。鍛冶町は南部藩における街道の元標であり、ここを起点に脇街道にも一里塚が設置されました。まさに南部藩の交通網の中心であったこの地には藩政時代は駅所もあり、伝馬を使って情報が得られたため明治時代に入っても盛岡駅と呼ばれていたようです。ここはまた、交通の要所として豪商や老舗が軒を連ねていたようです。さて、鍛冶町一里塚前を過ぎると丁字路があり、旧井弥商店があります。ここを右折すると天満宮方面に行きますのだ、ここを左折し「上の橋」を渡ってまっすぐに進みます。

 

  旧井弥商店
 

旧井弥商店は明治末期に造られた町屋建築です。土蔵2階建て、寄棟、瓦葺き屋根です。当主の村井弥兵衛は呉服屋を開業し、盛岡を代表とする豪商となり、醤油業などにも手を広げます。正面の店蔵は何度か改修されたようですが、黒漆喰や大きく反りあがった玄関庇、腰壁の人造石研出しなど格式を感じ、背後には呉服屋の跡である土蔵が軒を連ね当時の繁栄を窺うことが出来ます。土蔵は江戸時代に建てられたもので、土造2階建、切妻、桟瓦葺、外壁は白漆喰仕上げです。旧井弥商店(現・盛岡正食普及会)の店舗と蔵は明治時代末期の町屋建築の遺構として貴重な事から盛岡市の景観重要建造物に指定されています。さて、この丁字路を左折し、「上の橋」を渡ります。

 



 上の橋


上の橋は、慶長14年(1609)に第27代藩主南部利直(なんぶとしなお)が、 盛岡城築城時に中津川に架けました。橋に取り付けられた擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)は、慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個、合計18個が取り付けられています。橋の擬宝珠で記念銘があり、制作年代も古く、残存個数が多いという点で、盛岡市の青銅擬宝珠は国内でもまれな存在のようす。現在の橋は、何回かの流失を繰り返し、昭和になってかけかえられたものです。
 
旧井弥商店前の丁字路を右折し、高台にある天満宮から「上の橋」方面を見るとまっすぐな道路が見られます。



天満宮から見た「上の橋」方面


天満宮から見えるこの道路をまっすぐに進むと、本町へ続き、次の上田一里塚へと進みます。
 
 
 
 
岩手県のコロナウイルス感染状況
 
県内の5月1日現在のコロナウイルス感染者は累計948人です。このうち、入院中は92人、宿泊療養中は29人、入院等調整中は32人、退院・療養解除は
764人、死者は31人です。