盛岡の旧町名
盛岡のまちづくりは,慶長3年(1598)の盛岡城の築城にあわせ,お城を中心に城下町が開かれました。まちづくりの中心は常にお城であり、その歴史を伝える上で旧町名は重要な役割を果たします。江戸時代の中期には町は23町ありました。
23町は次の通りです。
仙北町、川原町、石(穀)町、十三日町、馬町、六日町、新町、神明町、肴町、八幡町、葺手町、紺屋町、鍛冶町、紙町、本町、油町、大工町、寺町、
四ツ家丁、八日町、三町戸、長町、材木町、久慈町
江戸時代の後期の文化9年(1812)、「町」の字を「丁」に変へ23町を28丁にしました。
28丁は、次のとおりです。
仙北丁、青物丁、川原丁、鉈屋丁、石(穀)丁、新石(穀)丁、十三日町、馬町、
六日丁、呉服丁、生姜丁、肴丁、八幡丁、葺手丁、紺屋丁、 鍛冶丁、紙丁、本丁、
油丁、大工丁、花屋丁、四ツ家丁、八日町、三戸丁、長イ丁、材木丁、茅丁、山岸丁
(十三日町と馬町は町を用いています)
変更内容は、「仙北町」を「仙北丁」と「青物町」の2つに、川原町を「川原丁」と「鉈屋丁」の2つに、石町を「新石丁」と「石(穀)丁)の2つに、
「寺町」を「花屋丁」と「四ツ家丁」の2つにし、「山岸丁」を新設し、23町を28丁に変更しました。呼び名変更としては 「新町」を「呉服丁」に、
「神明町」を「生姜丁」に、「久慈町」を「茅丁」にしました。
なお、文化11年(1814)には、武家屋敷街を明示する武家屋敷小路を定めています。
馬場小路、鷹匠小路、餌差小路、大清水、平山小路、帷子小路、日影門小路、仁王小路、上田小路、上田与力小路、大沢川原小路
また、盛岡藩では城下への出入口付近には、城下を守るために下級武士の足軽(同心)町をおきました。奥州街道沿に沿う北の関門は「上田組町」、
南の関門は「仙北組町」です。
このよう「町」、「小路」、「組町」名で、盛岡城下の町は発展し、明治時代へと進みます。
明治22年(1889)に市制が施行され、盛岡市となり、町名は次の9大 字、58子 字になりました。
仙北町 : 仙北組町、仙北町、青物町
東中野 : 川原町、鉈屋町、神子田、東中野、新穀町、穀町、大清水小路、上衆小路、鷹匠小路、馬場小路、川原小路、馬町、 十三日町、六日町、
呉服町、 肴町
志家 : 肴町、生姜丁、八幡町、餌差小路、志家、加賀野新小路、内加賀野小路、葺手町、紺屋町、鍛冶町、紙町
新庄 : 新庄、新庄加賀野新小路
加賀野 : 加賀野
三ツ割 : 下小路
山岸 : 山岸、山岸町
仁王 : 紙町、油町、花屋町、大工町,本町、八日町、谷小路、四ツ家町、内丸、帷子小路、平山小路、新山小路、三戸町、長町、大沢川原小路、新築地、
材木町、茅町、仁王、
上田 : 上田、上田小路、与力小路、上田組町
※ 大字とは「仙北町」の項、小字とは「仙北組町、仙北町、青物町」の項 です
※ 肴町、紙町は2大字にまたがっています
昭和元年の町名をみると、大字は「下厨川」が増えて10になり、小字は58から114になっています。大字のうち、上田、仁王を例にとってみると、小字は
次のようになっています。
上田 : 西組裏、東組裏、大道、中堤、与力小路、覚山脇、上田小路、東上台
仁王 : 内丸、下ノ橋際、流作場、古堀、日影門外小路、紙町、八日町、本町、大工町、油町、花屋町、四ツ家町、谷小路、 三戸町、長町、材木町、
茅町、田圃、上田圃、下台、仁王小路、平山小路、帷子小路、新山小路、大沢川原小路、新築地、菜園
大字の「上田」で小字の「覚山脇」では、その住所は、 盛岡市上田覚山脇 〇〇 となります。
以上。