田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

松永安左エ門の尾瀬登山 平野長蔵氏と対面

2011-02-24 22:30:09 | 忘れがたい釣りや山
 田舎生活の暇に任せて、松永安左エ門著作集を読んでいる。松永安左エ門は戦後の電力民営化を実現した気骨の実業家であり、傑出した茶人、登山家、文筆家、歴史家、遊び人。尾瀬の自然を守ったことで知られる平野長蔵氏と尾瀬登山の際に、意気投合した様子が、尾瀬登山の紀行文に描かれていた。今から90年近く前の話だが、生き生きとして新鮮。


松永安左エ門著作集 6巻p49

大正14年8月31日
 朝6時半戸倉を立ち出ず。片品川の流れを谷深く見下ろしながら野萱原の中を進む。朝露衣を潤し、靴は中まで透る。秋草の尾花、苅萱萩、桔梗全部咲き揃う中を行く身は風流画中の人。約2里半もこの萱野を通って、道はだんだん樺、楢の茂林のうちに入る。
 萱野原半日の旅花に飽く
これより道は三平峠にかかる県道なれば自動車も通れる勾配だが、如何にも手入れが悪く幅も狭く、群馬県が道路に力を入れぬのを残念に思う。三平峠大分上り詰めて立て札がある。この上には清水なしと。札の側に岩間よりトクトクと清水が流れ出ている。ここにしばらく休息して白根、燕巣の連峰を見る。一面の山々谷々、広葉樹林の碧の波。幾十億本の自然林、雲に入り天に接している。一同相省みて、日本もこれだけ木があれば当分大丈夫と感嘆した。
やがて栂、唐松を交えたる針葉樹林に来たので、頂上の近きは察せらるるもなかなかのダラダラ登り。容易に頂に来ず。そのうちようやくに達したる辺に尾瀬沼の国立公園の主唱者であり、この沼の主と称せらるる平野長蔵氏の制札がある。
 曰く「一草一木大事にすべし。紙屑などを人目につく所に捨つ可らず。斯くして尾瀬沼の自然美を保つ事に一同協力せよ」
 なる程老木の茂林を徹うして、尾瀬沼は燧岳を背景に一面の碧波を湛えている。底の余り深からぬ水の清き穏やかなる沼である。沿岸は針葉樹広葉樹を交えた森林で突き出せる半島となだらかな曲浦とを飾っている。間もなく長蔵小屋に辿り着き、ここにて弁当を開いた。時まさに午後一時。非常に面白い旅だけに腹も減り、小屋より与えられた岩魚に舌鼓を打ちつつ長蔵翁と語った。翁は52、3なれども鬚髯茫々として白を交え、一見六十有余。若くよりこの沼に来り、今では鱒の養殖は沼に適せぬため失敗し、岩魚の人工養殖をしている由。この人なかなか英気あり、尾瀬沼を「ダムアップ」するということに反対し、その風景を破壊し、水の利用率も大ならざることを主張する。これにはわれらも同論だ。
 国の富と誇りは種々あるが、物質に走りて余り益もなきに、天下無二の好風景を破壊するには反対せざるを得ぬ。
 長蔵翁は学生夏季宿泊用の家を建つるため資金を集めつつあるというので、われらもいささかの醵金をしてなお翁が東京へ来って募集する折には手伝いする約束をしておいた。学生は深山大沢にいくべきである。篤志の人は、その方法を立ててやるべきである。予は翁の成功を心から祈るものである。
 この沼は半分は群馬県であるが、半分は福島県で一部は新潟県に属している。いわゆる三県に関係している。沼から会津に出る県道は立派についている。
 長蔵翁の若い娘さんが、船を艤して向こう岸まで渡してくれることになり、予らは翁と小屋とに別れを告げ、この沼の乙女に送られて湖上に出たのである。あたりの風光はなかなか見事だ。櫓の音は静かに響を伝えている。われらも代わりやって手伝う。・・・・・


(このとき、松永安左エ門は51歳 東邦電力を率いて、九州をスタートに関東を席巻し日本の電力の1/3を配下に治めつつある頃。)

 なお、この話の70年後、今から20年前、我が家で尾瀬に家族登山で写した写真下に。尾瀬沼の沼尻で多分、平野長蔵氏のお嬢さんに、伝馬船で沼を運んでもらった終着の波止場。この尾瀬沼での松永安左エ門と平野長蔵氏との偶然の対面がなかったら、尾瀬沼も尾瀬ヶ原もダム湖の底で、この家族写真もなかったかも。

 今度の日曜、汐巻に鯛釣りの予定。
今度こそ、波静からしく、今からソワソワ。

コメント
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