たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

聖なる獣

2019-06-15 09:10:05 | 鉄の神々2

<奈良公園>

 

「動物の血」を神事に用いる

という話を聞いてまず思い出したのは、

蘇民将来の伝説とも関連する

ユダヤの「過ぎ越し祭」という行事です。

 

過ぎ越し祭とは、「神がエジプト中の

初子を殺した際、仔羊の血を門口に塗った

ユダヤ人の家だけは過ぎ越した」という、

モーゼ時代の故事を起源とするユダヤ教の宗教記念日で、

これらの記述が元となりキリスト教徒の間では、

仔羊の血が神聖なものとして扱われるようになりました。

 

また、この「過ぎ越し」のとき以外にも、

古代エルサレムの神殿では、毎朝夕に仔羊が

生け贄として神に捧げられていたそうですから、

ユダヤ人にとって「仔羊の血」が

穢れなき供物の筆頭であることは確かなのでしょう。

 

ちなみに、「羊」という動物は高温湿気を嫌うため、

湿潤な日本では飼育しづらく、

「羊」が家畜として飼われるようになったのは、

ごく最近の明治時代に入ってからだと聞きます。

いくつかの文献にも、「古代日本に羊はいなかった」

と書かれていますし、仮に海外から羊が連れて

来られたとしても、当時の環境では育てたり

繁殖させたりすることは難しかったはずです。

 

もしかすると、「羊」の飼育を断念した

渡来系ユダヤの人々は、「鹿の血」の中に

日本の地霊が宿ることを感じ取り、

「聖なる獣」の代替としたかもしれません。


地霊

2019-06-14 09:06:25 | 鉄の神々2

<国立民族学博物館>

 

地霊(ゲニウス・ロキ)とは、

大地に宿る霊的な存在であり、

「土地の精霊の親玉」とでも呼ぶべき土着霊です。

細かくいえば、国津神が現れる遥か以前から、

その場所に宿っていた古い精霊であり、

国津神がその地に鎮まってからは、

神に仕える眷属神としての

役目を果たしてきたのでしょう。

 

よって、純粋な「神」とは一線を画す部分もあるのですが、

ややこしくなるのでこのまま話を進めることとして、

実は「鹿」という動物には、「地霊(ちれい)」

を表すという説が存在していたのでした。

それらの話を元に考えると、佐用都比売神社の

「鹿の腹を裂いて血を取る」という伝承は、

「地霊の力を奪う」あるいは「地霊の力を味方につける」

という意味にも受け取れますね。

 

恐らく、賛用都比売命の田植えの逸話は、

賛用都比売命が地霊の許しを得た上で、

その土地の支配権を譲られたことを

表しているのかもしれません。

 

ちなみに、東北地方などで盛んに行われる

「鹿踊り(ししおどり)」という舞は、

主に「地霊鎮め」を目的として行われると聞きます。

そして、その大元には「供犠的性質」つまり

生け贄の記憶が引き継がれており、

死者の供養のために舞われることも多いのだそうです。


鹿の多様性

2019-06-13 09:02:00 | 鉄の神々2

<国立歴史民俗博物館>

 

弥生時代の遺物(特に銅鐸)に、

最も多く描かれている動物は、

なんと「鹿」なのだそうです。

当時、人々の生活エリアには、

狩猟動物以外にも昆虫や水生生物などの生き物が、

たくさん生息していたと思われますが、

なぜ「祭儀」や「呪術」のシンボルである

「銅鐸」の絵柄として、「鹿」という動物が

好んで選ばれたのかを考えると、

そこにはやはり鹿の抱く多様性が

影響していたとも推測できます。

 

聞くところによりますと、鹿という動物は

豊穣を呼び込む聖獣として崇められただけでなく、

潤沢な水をもたらす「水の神」

としての側面も持っていたのだとか……。

また、古墳時代の「埴輪」や

副葬品の「須恵器」などに関しても、

鹿を象った形象や鹿を意味する線の模様、

あるいは「相撲を取る人」に添えられた

鹿の絵などが見られることから、

鹿が葬送儀礼と関わっていた

可能性も大いに考えられます。

 

いずれにせよ、先日ご紹介した

佐用都比売神社の伝承以外にも、

『播磨国風土記』の中には、

不可解なほど多くの「鹿の物語」が

伝えられており、播磨国と鹿との

親密な結びつきが見て取れるのです。

恐らくその事実が示すのは、

「播磨国」という国が

実際に「鹿の住処」であったこと、

そして鹿が暗示する「何か」が

存在したということなのかもしれません。


銅鐸

2019-06-12 09:05:58 | 鉄の神々2

<国立歴史民俗博物館> 

 

弥生文明の象徴でもある銅鐸は、

水稲耕作が伝わる過程において普及した祭祀具で、

弥生時代の始まりと同時期に姿を現し、

弥生時代の終焉とともに痕跡を消した謎の古代遺物です。

一般的には、「農耕祭儀の際に使用された呪術的な楽器」

などといわれているものの、本来の製造目的は判明しておらず、

未だに「これだ」という明確な答えは出ておりません。

 

ちなみに、現時点で銅鐸の出土数が最も多いのが

兵庫県だそうですが、当時の兵庫県は

いくつかの国に分かれていたため、

純粋な国別の出土数で見ると一番多いのが出雲国、

次が阿波国なのだとか……。兵庫県はもちろん、

島根県、徳島県という名を耳にしますと、

奇しくもここ数年の旅のルートとがっつり

重なってくるのが、意味深と言えば意味深です。

 

果たしてこの時代、これらの各県では、

銅鐸を使用して何が行われていたのでしょうか……。

そのヒントを探すために、まずは銅鐸に関する

ある知識を頭に入れておくことにします。


狩猟・農耕・製鉄

2019-06-11 09:01:53 | 鉄の神々2

<国立民族学博物館>

 

一見、無関係のようにも思える

「狩猟」「農耕」「製鉄」という文化ですが、

各地に残る祭祀儀礼やお祭りの類などを見ておりますと、

そのどれもが密接に結びつき、

古代の日本を形作っていたことがわかります。

 

例えば、お祭りの日の朝、まず山に狩猟に出かけて獣を狩り、

途中で藤づるを採取してクワに巻き付け、

里に戻り獲物をさばいて血を田に蒔く……といった具合に、

「狩猟」「農耕」「製鉄」の神々が混然一体となり、

人々の暮らしに根付いていた様子が伺えるのですね。

 

そして当時、主に豊穣を祈る対象となっていたのが、

米ではなく「粟」などの雑穀類だったことを考えると、

焼き畑農業が盛んだった時代には、

鉄の神々が日本を席巻し始めていたのでしょう。

 

「粟」や「焼き畑農業」という言葉を聞くと、

焼き畑農業王国である阿波国と、

粟を日本に持ち込んだとされる忌部氏が思い浮かびます。

インドや東南アジアのあたりでは、

鹿や猪ではなく「鶏(忌部氏のシンボル)」を

神々に献上するケースもあったそうですし、

「狩猟」「農耕」「製鉄」と「鹿」「猪」「鶏」との間には、

いったいどんな「因縁」があったのか興味が尽きないところです。


鹿の生け贄

2019-06-10 09:58:29 | 鉄の神々2

<佐用都比売神社 さよつひめじんじゃ>

 

美作国一の宮・中山神社に関する記事の中で、

「製鉄の道具である鞴(フイゴ)を作るためには、

大量の鹿の皮が必要だ」と書きました。

恐らく、『中山神社縁由』の

「中山神に二頭の鹿を献上した」という一文も、

佐用都比売神社の「鹿の腹を裂く」

「鹿を山に放つ」という伝承も、

多分に「鉄」のニュアンスを含んだ物語であり、

鉄の支配権の譲渡を示す内容なのでしょう。

 

一般的に、鹿の生け贄を伴う神事は、

「農耕儀礼」と結びつけられることが多く、

狩猟・採集文化から稲作文化への移行期に盛んに行われた、

「焼き畑農耕」との関連を指摘する声があります。

現在も、全国各地に「狩猟」と「農耕」が

結合したようなお祭りが多数残され、

ワラで作った鹿を弓で射たり、

鹿や猪などの内臓や血を種子に混ぜ神に供えたりと、

様々な形で動物供犠の名残が伝えられているのだとか……。

 

つまり、獣を生け贄にする神事というのは、

「焼き畑文明期」に発展した可能性が高く、

またこの時代に起きた出来事をきっかけに、

生け贄祭祀が「鉄の神々」と結びついたとも想像できます。


神庭と鉄

2019-06-09 09:54:20 | 鉄の神々2

<大撫山>

 

昨日、佐用都比売神社が鎮座する、

兵庫県佐用町の地名起源譚をご紹介しましたが、

さらにそれらの物語には続きがありました。

 

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出雲の大神との国占めののち、

玉津日女命は稲の作付けに使用した

シカを近くの山に放ちました。

のちにその山は、「鹿庭山(かにわやま)」

と呼ばれるようになり、

鹿庭山の四面にある12の谷のすべてから、

鉄が産出されたのだそうです。

鉄を発見したのは「別部の犬」といわれる人々で、

その子孫たちが時の天皇に初めて鉄を献上しました。

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『金屋子神祭文』に関する記事で取り上げた、

「別部の犬」というキーワードが登場するのが、

この『播磨国風土記』の讃容郡についての項目です。

鹿庭山は現在の大撫山(おおなしやま)と呼ばれる場所で、

山麓には神庭神社(かんばじんじゃ)という社があり、

天目一箇神(大友左手彦命という説もあり)が祀られているのだとか……。

 

ちなみに、神庭とはその名の通り「祭祀場」という意味ですが、

出雲の荒神谷遺跡がある斐川町神庭など、

「鉄」との関わりが強い地名でもあります。

鹿庭山も本来は神庭山だったといわれていますし、

「阿用」「佐用」と同様、この地と出雲との関連、

そして「神庭」と「鉄」とのつながりも気になるところですね。


佐用の国占め

2019-06-08 09:51:12 | 鉄の神々2

<佐用都比売神社 さよつひめじんじゃ>

 

『播磨国風土記』讃容郡(佐用町)の項においては、

讃容という地名の由来を次のように語っています。

 

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昔、出雲の国から来た大神と、

妹神(后神)である玉津日女命(たまつひめのみこと)が、

この地で国占め(領土争い)を行いました。

そのとき玉津日女命が、生きたシカの腹を裂いて、

その血を稲の種に撒いたところ、

一夜のうちに苗にまで成長したのだそうです。

 

大きくなった苗を田に植え付ける様子を見た大神は、

「おまえは五月夜に田植えをしたのだな」と言って、

他所へ立ち去ったのだとか……。

これらの出来事がきっかけとなり、

この場所を五月夜(さよ)の郡、

そして玉津日女命は賛用都比売命

(さよつひめのみこと)と呼ばれるようになりました。

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神社の社伝では、玉津日女命と国占めをしたのは

「出雲の国から来た大神」となっておりますが、

この大神は「伊和大神」であるという説、

あるいは「玉津彦」という神であるという説など、

いくつかの説があるようです。


佐用都比売神社

2019-06-07 09:42:12 | 鉄の神々2

<佐用都比売神社 さよつひめじんじゃ>

 

***** 鉄の神々3播磨・因幡 *****

鉄の神々の痕跡を求め、

播磨国から吉備国・美作国へと

旅をしてまいりましたが、

ここで再び播磨の地に舞い戻り、

さらなる考察を深めて行くことにしましょう。

 

旅の二日目、朝一番で訪れたのは、

兵庫県佐用郡佐用町にある

佐用都比売神社(さよつひめじんじゃ)です。

現在、播磨国に属する佐用郡は、

もともと美作国に属していたエリアで、

吉備国を備前国・備中国・備後国の3国に分割した際、

美作国が独立して大和朝廷の直轄地となり、

佐用郡は播磨国へと編入されたと聞きます。

 

ゆえに、地勢的な面でみると佐用郡は、

豊富な鉄資源を要する美作国とのつながりも強く、

スサノオや金山彦神、天目一箇神など

「鉄の神」を祀る神社も多いのだとか……。

出雲街道と因幡街道の交わる交通の要所にあることから、

佐用のあたりはこの一帯の「鉄の出入り」を

管理していた場所だったのかもしれません。

 

個人的には、この土地の名称である

「佐用」という言葉の響きを耳にしたとき、

現存文献に載る日本最古の鬼伝説、

「阿用の一つ目鬼」の話が伝わる

雲南市大東町の阿用地区を思い出しました。

阿用の「用」の字は当て字だそうですが、

佐用の「佐」は鉄を意味する漢字ですから、

音の似た両地区の名前の中に、何らかの形で

「タタラ民」が絡んでいる可能性も高いのでしょう。

 

【このシリーズの参考書籍】

古代の鉄と神々 ~真弓常忠

風土記からみる古代播磨 ~坂江渉 他

民族・地名そして日本 ~谷川健一

青銅の神の足跡 ~谷川健一

鹿と鳥の文化史 ~平林章仁

海峡を往還する神々 ~関裕二

全国一の宮徹底ガイド ~恵美嘉樹


意味深なライン

2019-06-06 09:12:37 | 鉄の神々1

<内宮 ないくう>

 

日本地図をつらつらと眺めておりますと、

この国全体が「レイラインによって作られた聖地」

であることを改めて実感します。

極端にいうならば、ある聖地と聖地をつなげば、

必ずどこかに「意味ありげなライン」が引かれ、

逆に地図上にラインを引くと、必ずどこかに

「意味ありげな聖地」が登場するというわけですね。

 

ゆえに、レイラインをやたらと大げさに

取り上げるのは気が引けるのですが、

参考の意味で、岡山県津山市・中山神社から

徳島県奥祖谷・高知県物部までのラインに、

もう少し解釈を付け加えますと、

 

1. 中山神社⇔倭大国魂神社の中間点ラインは、

仁徳天皇御陵や住吉大社付近をかすめ石上神宮へ

2. 石上布都魂神社⇔倭大国魂神社の中間点ラインは、

伊弉諾神宮を通り伊勢内宮(いわゆる太陽の道)へ

3. 石上布都魂神社⇔奥祖谷・物部村の中間点ラインは、

葛城山や金峯山寺を通過し伊雑宮へ

 

といった具合に、すべてが「ユダヤ」

「神器」の痕跡と絡んでくるのが意味深です。

 こうした意図的な配置が、岡山近辺にまで

形成されるという現象は、古代史の謎を解く上で

想像以上に大きな意味を持つのかもしれません。


物部氏の役割

2019-06-05 09:07:37 | 鉄の神々1

<別府狭>

 

三種の神器のひとつ「草薙剣」は、

もともと「異民族の武器」でありながらも、

スサノオにより国津神の御魂が宿され、

最終的には天津神が所持する神器となりました。

言うなれば、草薙剣には大陸系の神霊と日本固有の神霊、

そして天津神系の神霊とが混在し、

複雑なエネルギーを放出していたのでしょう。

 

それに対し「八咫鏡」は、

天照太御神の御魂が宿る天孫族の象徴であり、

純粋に神の依り代として作られた

銅製(もしくは石製)の神器です。

つまり、中山神社の主祭神を「剣(オオナムチ・金山彦神)」

から「鏡(鏡作神・石凝姥命)」へと差し替えることは、

国津神から天津神への権力の移行を示すだけでなく、

「鉄」が日本を席巻する以前の「古い日本」を

取り戻そうとする意図を感じさせるのですね。

 

恐らく、中山神社・石上布都魂神社・倭大国魂神社に、

鏡・剣・勾玉という神器の形代を一直線に並べることで、

ヤマトへと続く海の玄関口である「播磨灘」に、

国難を防ぐための霊的な結界を張ったのだと思われます。

そして、それらの中心的役割を果たしていたのは、

美作(吉備)周辺でオオナムチを奉斎し、

同時に剣山の南麓で独自の祭祀を行っていた

物部系の一族だったのかもしれません。


3つのご神鏡

2019-06-04 09:01:02 | 鉄の神々1

<津山市一宮>

 

以前考察した、赤磐市・石上布都魂神社と

徳島県美馬市・倭大国魂神社の間を結ぶ、

「剣」と「勾玉」のラインを、

さらに北のほうへとまっすぐ伸ばしてみますと、

美作国一の宮である中山神社に突き当たります。

そして、中山神社と倭大国魂神社をつなぐ直線の

中間地点から、東へと直線を引いてみたところ、

なんと(というかやはりというか)

奈良の石上神宮が鎮座していました。

 

つまり、津山市・中山神社に「石凝姥命」を派遣したのは、

単に「鉱物の神だから」「鏡作部の拠点のひとつだから」

といった理由ではなく、「ここに鏡を置く」

という明確な意図のもとに発案された、

「祭祀プラン」だと考えられるのですね。

 

ちなみに、中山神社近くの個人宅には、

3つのご神鏡の「拓本」が残っているそうで、

この神社のご神体が鏡であったことを

物語る有力な手掛かりとなっています。

ご神鏡本体の行方や制作年代などの詳細は不明ですが、

なぜ奈良から遠く離れた吉備国(美作国)に、

わざわざ豊鍬入姫命が「八咫鏡」そして

「草薙剣」を携えてやってきたのかを想像すると、

中山神社に「剣」ではなく「鏡」を置いた背景が

うっすらと見えてくるような気がするのです。


青銅器の神

2019-06-03 09:49:33 | 鉄の神々1

<銅鐸資料>

 

一説に、石凝姥命という神は、

「鉄」ではなく「青銅器」を司る神であり、

鉄の普及とともに登場した他の鉄の神々よりも、

古い歴史を持つそうです。

またこの神は、天孫族に随伴して

来日した神の一柱であることから、

国津神系の鍛冶神・鉱物神とは役目が異なるため、

単純に「鉄の神グループ」に組み込むのは

難しいポジションでもあります。

 

恐らく、中山神社のご祭神が

石凝姥命へと差し替えられた経緯には、

いわゆる「国譲り」の儀式とは一線を画す、

別の思惑が含まれていたとも考えられるのですね。

 

金屋子神、金山彦神、天目一箇神、

さらにはオオナムチ、タケミカヅチに至るまで、

多種多様な「鉄の神」が存在する中で、

石凝姥命(を祖神とする部族)が

中山神社のご祭神として選ばれたのは、

もしかすると彼らが「青銅器」という祭祀具を

作り続けてきた一族だったからかもしれません。

 

この一帯から大量の銅が産出したことなどを踏まえれば、

美作国周辺が「鉄の武器庫」となる以前は、

祭祀用の銅製品の生産地だった可能性も高いのでしょう。

青銅器から鉄、つまり土着寄りの神道から

渡来寄りの神道へと移行した時代の流れを、

再び古い祭祀形態に戻したいという意図が、

この「天孫系の鉄神」の動きから読み取れるのです。


石凝姥命の部族

2019-06-02 09:43:10 | 鉄の神々1

<銅鏡資料>

 

現在の中山神社のご祭神である鏡作神は、

通称「石凝姥命(いしこりどめのみこと)」

と呼ばれる鏡作部の祖神です。

一般的にこの神は「産鉄」を司る神として祀られ、

皇祖ニニギとともに日本の地に降り立った、

天孫族の側近部族ともいわれています。

 

恐らく、中山神社に天孫系のこの神が

祀られるようになったきっかけも、

美作国が古くから鉄の生産地であり、

長い間「鉄の神」をお祀りしてきたことと

無関係ではないのでしょう。

 

しかし、よくよく考えてみますと、

鏡作神はあくまで「鏡(および石)」の神であって、

「剣(および鉄)」を暗示させる名ではありません。

『日本書紀』においては、

「矛やフイゴを作った神」と記されるものの、

鉄穴の神である「オオナムチ」や、

鉱山を示す「金山彦神」と比べると、

やはり「剣」や「鉄」の印象からは遠ざかります。

 

ここ美作国周辺でも、

他の「イズモ」と同様に国譲りが行われ、

天皇の側近部族が新たな支配者となり、

中山神社のご祭神が国津神系から

天津神系へと変更されたのは確かです。

だとすればなぜ、この中山神社は

他の鉄神や鉄神を崇める部族ではなく、

「鏡」の神や「石凝姥命」を奉斎する鏡作部が

管理する流れとなったのでしょうか……。


様々な鉄の部族

2019-06-01 09:37:33 | 鉄の神々1

<津山市一宮・鵜ノ羽川>

 

奥出雲・金屋子神社の由緒書『金屋子神祭文』の中には、

「金屋子神は播磨国から出雲国にやって来た」と書かれています。

一方、播磨国の鉄の民である「別部の犬」に関しては、

出雲に入ったという明確な記述が見当たらないことから、

金屋子神を奉ずる一族と別部の犬とは、

無関係だった可能性も考えなければいけません。

つまり、金屋子神の一族は和気氏の配下ではなく、

何処からか播磨国に降り立ち、

播磨国や美作国で鉄の支配権争いをしたのちに、

単独で出雲に向かったという推論も成り立つのでしょう。

 

考えてみますと、別部の犬とのつながりが

暗示される「隼人」という集団は、

天皇の側近として宮仕えしてきた歴史があり、

また和気氏に関しても皇室とゆかりの深い氏族です。

詳しく調べたわけではないので断定はできないものの、

隼人に関する逸話や和気氏の振る舞いなどを踏まえると、

「贄」を否定する立場だったと仮定したほうが

しっくり来るような気もします。

果たして、この土地の「鉄」に関わる部族たちは、

各々どのようなポジションを取っていたのか……、

それらに関する考察を深める前に、中山神社に潜む

「ある疑問」について記しておくことにしましょう。