天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

双頭の蛇

2013-01-14 22:27:26 | 小説
『南総里見八犬伝』を隆君に貸したことで、彼と話すことが多くなった。話題は八犬伝のことばかりだった。隆君は読んだ感想や、疑問を私に話してくれた。八犬伝のストーリーに夢中になってくれたようで、私はうれしかった。それに、隆君との会話は楽しかった。介護に追われ、押し潰されそうになっていた私にとって、どれだけ救いになったことだろう。その当時はそこまで意識していなくて、ただ隆君と一緒に八犬伝の世界に遊んでいた。「認知症の母親を介護する娘」ではなく、「私」が「私」でいられた唯一の時間だった。現実を離れる時間を持てた私は、現実に立ち向かう力を蓄えることができた。私は幸運だった。そのことは、隆君に感謝しても感謝しきれないほどだ。



バイトの最終日の仕事終わりに、隆君は『八犬伝』を私に返してくれた。
「本当にありがとうございました。」
隆君は深深と頭を下げた。
「そんなにお礼を言われることはしてないよ。こんな長い物語を読み切った隆君はすごい。」
何時の間にか私は、「秋里君」ではなくて、「隆君」と読んでいた。名前で呼ばないと不自然に感じるくらい、彼に慣れ親しんでいた。
「いや、俺に古典にも面白いものがあるよと教えてくれた澤部さんは恩人です。俺、古典アレルギー治りましたもん。これからは補習受けるようなヘマはしないですよ。」
隆君の意気込んだ物言いに、私は笑ってしまった。
「どうして笑うんですか。」
「隆君は言った通りのことをするんだろうなと思って。」
「そうですけど、それの何がおかしいんですか。」
その努力を惜しまない真っ直ぐさがかわいいと言ったら、怒るだろうなと考えたら、余計におかしくなった。笑い続ける私を、隆君は憮然とした顔で見ていた。笑いがおさまった私は、時計を見た。もう帰らなければ。
「今日までお世話になりました。隆君と話せて楽しかった。じゃあ、さようなら。」
「あの、」
隆君は私に何か言いたそうだった。隆君の目にうつるものを見て、私は隆君に近付きすぎたことを悟った。まずい。私は咄嗟に思った。隆君のはしかみたいな感情に正直、付き合ってられないし、(その心の余裕はなかった)隆君にもよい影響を与えないだろう。もう二度と会うことはないだろうし、隆君の気持ちも時間がたてば消えるだろう。私は気付かないふりをした。
「じゃあ、お元気で。」
私は手を降って、隆君に背中を向けた。隆君の痛いぐらいの視線を背中に感じていた。

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2 コメント

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Re:Unknown (tabatabataba1974)
2013-01-18 19:14:02
ありがとうございます。今回は自分の心のおもむくまま書いています。
楽しんでいただけたら、幸いです。
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Unknown (ぷちらぱん)
2013-01-18 13:32:42
早速書かれていたのですね!
続きも楽しみにしています。
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