天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

無風地帯

2013-08-25 12:09:55 | 小説
最初に母が酔っているのを見たのは、高校生のころだった。私は帰宅し、玄関のたたきで靴を脱いでいた。
「ただいま。」
いつもならすぐにおかえりと返ってくるのだが、その時は返事がなかった。今日からパートに行くと言ってたから、慣れないことして疲れたのかなと私は思った。弟とは十歳離れていて、その当時弟は小学校の低学年だった。母はずっと専業主婦だったが、弟も学校に行くようになり時間に余裕ができたので、パートに出ることにしたのだった。私は深く考えず、リビングダイニングに向かった。母はダイニングテーブルに突っ伏していた。酒くさい臭いが充満していた。テーブルにビールの缶とワインの瓶が転がっていた。私は驚いた。今日はパートの出勤日で、朝はあんなにはりきっていたのに。どうしたのだろう。
「お母さん、お母さん。」
私は母を揺り起こした。母は薄目を開ける。
「ああ、真理子、おかえりなさい。」
「どうしたのよ。」
母は体を起こす。ゆらゆらと上体が揺れている。ふふふと笑った。
「お母さんね、パート首になっちゃった。」
「え、初日で。どうして。」
母は泣き笑いの顔になった。
「パート先の店長あてにお父さんから電話があったらしいの。私の採用について苦情を言ったらしいわ。『ご家族の同意を得てから、働きに来てください。』だって。」
「はあ、なにそれ。未成年じゃあるまいし。家族の許可なんていらないでしょ。お母さんも働きたいなら、働きたいとそこの店長に頼めばよかったのに。」
「だって、お父さんの言うことは正しいし…。私は世間知らずだから、迷惑かける前にやめてよかったのよ。」
なにそのマインドコントロール。私はいらいらする。父は自分の思い通りに家族を動かそうとする。母は本当に父に従順だった。このパートははじめての母の意思表示だった。父は最初から反対していたが、母はそれを振り切ってことを進めたのに。最後の最後で父に屈してしまった。そんな母も母だが、母をことごとく縛り付ける父のひどいやり方に私は腹が立った。母の自尊心を徹底的に壊し、自分には何の価値もないと思い込ませる。それから、自分の思うとおりにコントロールするのだ。今まで父が母をほめたこともないし、ねぎらいの言葉をかけたこともなかった。いっけん筋道のたった論理で、母のいたらなさ(それは決して欠点ではない)を責めるのだった。父は他の家族、私や弟にもこの手法を使ったが、私は真っ向から反発していた。弟は彼が幼い頃は私が盾になっていた。大きくなってからは、彼はのらりくらりと父の矛先をかわしていた。まともに呪縛にかかって、母は苦しんでいた。自分の意思で行動しようとして、阻まれてしまった母。自分の存在意義を否定され、それを乗り越えることができなかった母の酔った姿を高校生の私は目の当たりにしていた。そしてこの出来事は、その後の私と母の関係を決定づけたのだった。

無風地帯

2013-08-24 18:00:25 | 小説
私は父と話し合っていた。というよりも、父が一方的に自分の考えを押しつけてきた。
「母さんみたいな、体は入院するほどじゃないアル中の人間を入院させてくれる病院なんて、そうそうないんだぞ。おまえ、わかってんのか。」
「そんな、お母さんをやっかいものみたいに言わないで。」
「そういうわけじゃない。実際、困ってるじゃないか。どうするんだ。」
「私がお母さんの世話をする。」
「途中で投げ出すなよ。おまえは甘いところがあるからな。ちゃんと責任持って面倒みろよ。」
父の責任放棄ぶりにあきれつつも、想定内の言い分だったので、私は黙っていた。しかし、次の発言には耳を疑った。
「それから、母さんを連れてこの家から出て、母さんの実家の長屋で暮らしてくれ。」
「どういうことよ。」
「母さんが昼も夜も関係なく、奇声をあげられると、ご近所に迷惑がかかる。ここは閑静な住宅街なんだから。それに、母さんの実家には、近くに病院もあるし、駅も商店街もあるから、生活にも便利だろう。おまえも父さんのことを気兼ねせず、母さんのことに専念できるだろう。もちろん、生活費はいっさい面倒みてやるから。」
なんて勝手な言い分。世間体と自分の保身で頭がいっぱいなのだ。父の母に対する無情さに私は身震いした。おまえがそこまでお母さんを追い込んだんだ。私はさけびたかったが、必死に抑えた。こんな男と同じ土俵に上がるのが嫌だった。彼を父と思わず、財布と思おう。外面はいいから、金銭面はちゃんとするのはわかっていた。そして、母が生きている間は、この家にあの女を引っ張り込むこともないだろう。この家を出るのは、私はほっとしていた。目の前の男を見なくてすむから。しかし、愛する男から引き離される母はどれほどつらいことだろう。そして、引き離す役目はこの私なのだ。私は暗澹たる思いで座っていた。庭のほうから、ウグイスの鳴き声がきこえた。

地上三センチの浮遊

2013-08-23 19:26:13 | エッセイ
「胸に咲く恋の形」

恋がとぎれない女性、惚れっぽい女性に私は心惹かれます。まったく自分にはないものを持っているからです。それは、強くもあり弱くもあり、ずるくもあり真っ直ぐでもあり、愚かでもあり知恵でもある、形を変える不可思議なものです。割りきれないからこそ、哀しく、愛しい。清濁併せ呑む人間の魂そのものです。

恋がとぎれない女性は、相手に気持ちを惜しむことなく注ぐことができます。尽きない愛情の泉を持っているのでしょうか。それとも愛情があふれてしまうからこそ、恋という形をとるのでしょうか。

彼女たちは変わることを恐れません。恐れないというよりも、無意識のうちにやすやすと変わります。相手を環境を状況を受け入れることができるのです。器にあわせて形を変える水のような存在なのです。

そして、彼女たちは相手を憎まない。どんなに悲しんだり、苦しんだり、傷つけられても、相手を憎まない。怒りを覚えたり、失望したり、嘆いたりしても、相手を呪ったりはしないのです。どんなにひどい相手でも、どこかに美点を見つけ、許してしまいます。

私には皆無なものばかりで、時々、困惑してしまう時があります。そこまでしてどうして相手につくすのか、どうして相手を許すのか、理解できない時もあります。彼女たちは、壊れやすくはかない心を持ちながら、惜しみない愛情を注ぐ強さも同時に持っているのです。それは滑稽でありながら、崇高で、矛盾する人間の魂そのもののような気がします。

とめどなく胸に恋の花が咲く人は美しい。たとえ、愚かだと罵られようとも、美しいのです。

無風地帯

2013-08-22 21:34:17 | 小説
母の病室の近くに行くと、変にざわざわしていた。看護師や看護助手たちが廊下を行きかい、
「坂口さん、坂口さん。」
私の母を探しているのだ。私は驚く。若い看護師が私を見つけて、駆けよった。
「ちょうど良かった。ご家族に連絡しようと思ってたところなんです。」
「うちの母がどうかしたんですか。」
「お昼ごはんの時間なので、病室に行ってみたらいらっしゃらなくて。同室のかたもどこにいったか知らないそうなんです。今、医院内を探しているのですが、見つからなくて。」
私は仰天する。さびれた古い医院で、人手も少ないのもわかっていたが、まさかここまでとは思っていなかったのだ。私は車のキーをひっつかむ。
「外を探してきます。」
「お願いします。」
看護師の声を背に私は医院を飛び出した。



私はあせらないように深呼吸をしながら、車を走らせる。入院している医院から自宅まで車で十五分ぐらいの距離だ。母が医院を抜け出したとして、向かうとしたら家だろう。ただ母の今の状態では、正常な感覚が働いているかどうかもわからなかった。でも、とりあえず家の道筋をたどろうと思った。もしそれで見つからなかったら、その時考えるしかない。私はできうる限り減速して、母を探した。歩道、わき道、公園、目を皿のようにしながら通りすぎた。医院から家の帰り道のほぼ半分くらいのところで母を見つけた。道路脇の草むらに横たわっていた。私はそれをみた瞬間、ひやっとした。倒れていると思ったのだ。私は母の元に走りよった。
「お母さん。」
母はむくっと起き上がる。私を見て、照れくさそうに笑う。
「家に帰ろうと思ったんだけど、つかれちゃったから、横になってたの。」
そこまでして家に帰りたかったのか。私は胸が痛くなった。それに、衰えた母の足ではここまで来るのに、ゆうに一時間はかかっただろう。そんな長い時間気付かなかった医院側の杜撰さにもあきれていた。とはいえ、勝手に連れ帰るわけにもいかない。私は母にかわいそうだと思いながら言った。
「病院に戻ろうか。」
母はあきらかにしょんぼりした顔をする。
「戻らなきゃいけないの。」
「なるべく早く帰れるようにするから。今日はいったん戻ろう。」
医院に連絡をいれ、悲しそうな母を車に乗せた。姥捨山に親を捨てる子供のような気分だった。



医院に戻り、こんないいかげんなところ早く出なければと思いながら、スタッフひとりひとりに頭を下げた。でも、ひとりの看護助手の一言で堪忍袋の緒が切れてしまった。
「もう今回は、本当に困ったんですよ。」
でっぷり太った白髪交じりの看護助手はいやみたらしく言った。またこの人だと私は内心、舌打ちをした。
「…ご迷惑をおかけしました。」
「あなたのお母さん、手がかかるんですよ。言うこと聞かないし、人と自分の物の区別がつかないし。今朝も言ったんですよ。『人の物を盗るのは泥棒だ』って。」
「…それ、うちの母に言ったんですか。」
「ええ。」
あんまりだ。今の母の状態でそれを言うなんて。母は何もかも失ったわけじゃない。判断能力が鈍っていたとしても、感情も誇りもなくしたわけじゃない。私の表情を見て、彼女は自分が失言をしたことに気付いたらしい。彼女は顔を赤くした。私は看護助手が口を開く前に冷ややかに言った。
「わかりました。泥棒をここにおいとくわけにはいきませんよね。退院手続きをしてきます。」
私はきびすを返して受付窓口に行き、強引に退院手続きをした。誰がなんと言おうとも、聞く耳を持たなかった。私はその日のうちに、母を自宅に連れ帰った。

無風地帯

2013-08-18 21:14:37 | 小説
私は診察室で医師と向かいあっていた。太り気味の体。あちこちに散らばったぱさついた白髪。銀縁の眼鏡からのぞく落ち着きのない目。私は手に持った血液検査の結果を見ていた。
「赤血球の値も正常範囲内ですし、栄養状態もよくなりました。」
「ということは、だいぶ体の調子は良くなったということですね。」
「そう言えると思います。」
「ありがとうございます。点滴のおかげですか。」
「そうですね。それによって改善されたということでしょう。」
私は一番気になることを尋ねる。
「あの、母の様子がおかしいんですけど。幻覚や幻聴を見たり聞いたり、つじつまのあわないことを口走ったりするんです。それって、アルコールのせいですか。」
医師は少し目を逸らす。
「それも考えられますけど、はっきりはわかりません。」
医師は先日検査したCTの写真を見せながら説明する。
「全体的に脳の萎縮が見られますね。」
「それはアルコールのせいですか。治るものなんですか。」
「はっきりは断言できません。ほんの少しの萎縮なので、戻るとも戻らないとも今の時点ではなんとも言えません。」
「じゃあ、どうしたらいいんですか。」
「今は様子を見るしかありません。」
「先の見通しは。」
医師はあからさまにいらいらとした調子で私を見る。
「まだ入院して一週間じゃありませんか。とりあえず今は様子をみるしかありません。」
私はうんざりしてきた。では、今はどうしようもできないということなのだろうか。それなら、ここで入院する意味はあるのだろうか。
「体は回復しているとおっしゃられましたよね。ということは、退院してもよろしいですか。」
医師はちょっと声のトーンを穏やかにする。
「もう少し点滴を続けられたらいかがですか。他のところも検査してみないとわかりませんし。」
これ以上どこを検査するというのだ。私は思った。尿、血液検査、胸部のエックス線撮影、脳のCT、心電図、胃カメラまでのんだというのに。もうこれ以上、わけもわからず、母を引っ張りまわすのは嫌だった。入院のための入院をさせる意味があるのだろうか。母だって家に帰りだかっている。私は言う。ため息をつかずに言葉を続けるには努力が必要だった。
「家族と相談してみます。」

私は診察室を後にする。どっと疲れがおしよせる。あまり意味がない面談だった。私はため息をつきながら、母の病室に向かった。