天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

双頭の蛇

2013-01-31 21:21:54 | 小説
公園に到着した。いつもの場所に車を止める。車から降りた途端、むわっとした空気に包まれた。夜半近くではあるが、そんなに外気の温度は下がっていないようだ。熱帯夜。私は深呼吸をした。甘い香りが鼻腔をくすぐる。私は甘い香りをたどって歩く。公園のすぐ近くに香りの源があった。夕顔。公園の近くにある畑に夕顔が群生していた。闇に咲くほのかな白い花。闇に溶ける濃い緑の葉。地面を這うようになっている大きな楕円の実。私は可憐な夕顔の花とそこからたちのぼる甘い香りを楽しんでから、公園に戻った。


人けのない小さな公園。まだ隆君は来ていなかった。私はブランコ前の手すりに腰をかける。中天にかかる月。美しい月夜。銀色の光がしらしらとこぼれている。
「月がとっても青いから、遠まわりして帰ろ…」
知らず知らずのうちに私は、古い古い歌を口ずさんでいた。明るいけれど、物寂しくなるメロディー。手すりをつかむ。夜空を見上げる。気持ちが波打つ。この一ヶ月のことをつらつら考える。遠まわりしすぎたかなと私は思った。もう潮時なのかもしれない。
隆君と会うのはやめよう。元々、ずるずる会うべきではないのだから。お互いのためにならない。やめるなら、早ければ早いほどいいだろう。そうだ、今日で会うのは最後にしよう。私は決めた。その決心は私の心臓を揺さぶった。私は気持ちを落ち着けるために、ゆっくりと息をはいた。あたりは静寂に包まれていた。

双頭の蛇

2013-01-28 21:06:49 | 小説
週に一回、隆君と会うようになって一ヶ月が過ぎた。毎土曜日、いつもいつも行くのを止めよう、もう二度と会わないでおこうと思う。これ以上、隆君に気持ちを奪われないように、これ以上、隆君のすべてを奪いたいという気持ちを起こさないようにするために、この関係を断ち切りたいと思うのだ。それなのに、心と体は拒否をする。迷いながらも、悩みながらも、隆君に会いに車を走らせる。しかも仕事が終われば、飛ぶようにして車を走らせる。理性と本能は乖離してばらばらだ。私の心の中で、二つの頭を持った蛇が噛み合っている。一つの体に二つの頭。どちらの頭が勝っても、私の心から血は流れるのだ。


隆君と会う時、私はいつでも理性的でありたいと思っていた。常にある一定の距離を置いていた。隆君と会って話しをするのはだいたい一時間。それを過ぎたら、彼を帰らせていた。けじめがないのは、嫌だった。隆君のマイナスの要素になるのは避けたかった。隆君にとって私が「勉強の息抜き」以上の存在になってはならないと思っていた。それなのに、人の気持ちはままならない。彼は会う回数を重なれば重ねるほど、私を強く見つめるようになった。私と別れるのを厭うようになった。なぜなのか、私にはさっぱりわからない。私に隆君を惹きつける魅力があるとは思えない。私は戸惑っていた。
それでは、私は彼の気持ちに迷惑していたかというと、そうではなかった。私のほうが加速度的に隆君を好きになっていたと思う。彼に会えば会うほど惹かれてしまう。それは止められないことだった。隆君と話していると、世界は無限の可能性に満ちていると感じることができた。彼のひたむきさ、風変わりな感性、なんでも面白がれる柔軟さ、退屈を知らないのびやかさ。隆君を知れば知るほど、私は彼に夢中になった。彼の精神だけではなく、私は彼の肉体にも強く反応していた。滑らかな皮膚、よく動く目、大きな足、健やかな体躯。快活な声。そして、私が一番好きなのは、彼のがっしりした手だった。力強い腱が張られた美しい手。ある日、隆君が帰らないと駄々をこねた時があった。私は自分が先に帰ると告げ、立ち上がった。彼は私の手首を掴んだ。私は心臓が止まるかと思った。でも、ここでうろたえたら、隆君のためにならない。私は表情を変えず、隆君の目を見た。静かな攻防。彼は耐えきれず、私の手を離した。私は立ち去った。隆君の前から早く去りたかった。私は自分の欲望を抑えるのに、死に物狂いだった。

双頭の蛇

2013-01-28 14:49:30 | 小説
とはいえ、私の選択はやはりどっちつかずの宙ぶらりんのものだった。隆君との関係をきっぱり断つわけではなく、隆君との関係をまるごと受け入れるわけでもない。ご都合主義の条件付きの関係。でもしょうがない。私にだって自分の気持ちが判別できないのだから。隆君にのめりこむのが怖かったし、隆君が私に(というより恋愛という名の妄想に)のめりこんで欲しくなかった。それとは裏腹に、隆君に溺れたい自分もいて、どれほど隆君を夢中にさせているのか試したい自分もいた。正直に告白しよう。私は隆君に恋してしまったのだ。彼の強い熱を浴びて、溶かされてしまったのだ。




「どうして連絡先、教えてくれないんですか。」
隆君は不服そうに口を尖らす。
「だめなものはだめ。」
私はきっぱりと言う。それは私なりのけじめだった。彼は受験生であり、時間を大切にしなければならない。だらだらと私にうつつを抜かして欲しくはなかった。それに、私が隆君にすがりつき、彼の時間を侵食したくもなかった。これは私が隆君を縛らないための予防策でもあった。あえて私は、隆君の連絡先も聞かなかった。
「じゃあどうやって澤部さんと会えばいいんですか。伝書鳩で連絡をとるんですか。」
何とユニークな。私は思わずふきだした。隆君はむすっとした顔をした。
「笑いごとじゃないですよ。俺、真剣なんですから。」
「ごめん、ごめん。会う場所、日時を指定したらどうかな。」
隆君は少し不満そうだ。そりゃそうだろう。こんな不確かな方法。どちらかが来なかったら、それで終わり。自分の気持ちが、相手の気持ちが切れたらそれで終わり。それでいいと私は思っていた。だから、彼の表情に気付かないふりをして、話を進めた。
「隆君、どの辺に住んでるの。」
「かざみ町です。近所に『paddle』ていうカフェがあります。」
「知ってる。ガラス張りのサンルームがあるカフェだよね。そっか。」
私は少し考える。
「その辺にさ、小さな公園ない。」
「あります。俺の家から自転車で十分ぐらいかな。」
「そう。あの公園なら、仕事帰りに寄れると思うんだ。家の帰り道だし。隆君、土曜日の夜とかはどう。予備校とか、何か予定ある。」
「ありません。俺、自分のペースで勉強するから、予備校には行ってないんですよ。」
「じゃあ、土曜日の夜にする。でもな…」
私はためらった。仕事が終わるのが遅いので、必然的に隆君と会うのが夜半近く、十一時くらいになる。やっぱり会うのは止めるべきではないだろうか。私はそう隆君に告げた。それはきっぱり拒否された。夜の十一時くらいになると説得してみたが、駄目だった。親が心配すると言ってみたが、駄目だった。親は自分のことを信頼しているから大丈夫だと隆君は自信満々だったが、その信頼を裏切るのが良くないことなのだ。それをわかってくれなかった。仕事の休憩時間が終わりに近付いた。私は隆君と別れた。私は純真な魂を堕落させる悪魔になった気分だった。

双頭の蛇

2013-01-27 22:09:29 | 小説
私は困惑していた。どうしてそうなるのだろう。どこでどうつながったら、そこの感情に行き着くのだろう。さっぱりわからない。
隆君に私の心の動きを見られてしまった。大人としては格好悪いが、それはそれで仕方がない。隆君がそれで私に幻滅するのならわかる。見苦しいところを目の当たりにしたのだから、当然だろう。それなら理解できるのだが、なぜ彼は火のついたような目で私を見るのだろう。なぜ彼はまた私と会いたいと強く迫ってくるのだろう。わけがわからない。こんな子供じみた平凡なおばさんが、隆君みたいな若者の未来を汚してよいものだろうか。いや、よいわけあるまい。彼にとって私は、一時の気の迷い、珍獣を愛でる感覚に近いのではないだろうか。私は隆君に冷静になって欲しかった。
「私みたいなおばさんのどこがいいの。」
強い口調で言いたかったのだが、心の動揺が出てしまった。ささやくような声しか出ない。少し悔しかった。
「そんなこと、どうでもいいんです。俺は澤部さんじゃなきゃ嫌なんです。」
隆君はきっぱりと言った。彼は明快だ。望むものがはっきりしている。今は(なぜだかわからないが)私に興味があるということなのだろう。私はそんなに強い意思に対抗する気力はなかった。正直、激しい感情に対応するのは面倒くさいという気持ちもあった。それと同時に高揚する気分も味わっていた。今までこれほどまでに強く人に求められたことがあっただろうか。「私で」いいではなくて、「私が」いいと求められることはなんて深い喜びを与えてくれるのだろう。それもこんな魅力的な若い男の子に。私はいろんな感情に振りまわされて混乱していた。どうしていいかわからない。そんな私を隆君は静かに見ていた。そうだ。私はもがきながらも、思った。私が決めなければ。私が隆君との関係を決めなければならない。それが自分が大人としてやらなければならないことなのだろう。

双頭の蛇

2013-01-27 19:01:07 | 小説
「ああ、母は今年の春に亡くなったの。」
カフェで近況報告をしていた時に、話の流れで、私は隆君に母の死を告げた。それは母の死以降、何百回ともなく、繰り返された他人との会話だった。私はさらりと話すことにしていた。それは相手にも自分にも負担をかけないやり方だった。相手も一通りの悔やみの言葉で済む。私も母の死について深く考えないで済む。お互いに気まずい時間を回避する。大人の知恵だった。でもそれは、若い(初めての経験であろう)隆君には通用しなかった。彼にとってはあまりにも重い衝撃だったようだ。言葉を失い、顔に一瞬血が昇ったかと思うと、蒼白になってしまった。テーブルに這いつくばるようにして頭を下げている。知らなかった隆君になんの非もないのだ。隆君に謝る必要がないことを諭しながらも、彼の必死さに心を打たれた。そう、彼は私に謝ることを通して、私の母を悼んでいるのだ。それに気付いた瞬間、隆君は優しく、穏やかな光のように私の心の中に入りこんだ。そして、彼は静かに私のブラックボックスを開けたのだった。私は母の死さえブラックボックスに投げこみ、自分が母の死について考えることを、感じることを放棄していた。隆君の真っ直ぐな私への謝意は、私への強い弔慰と同じ意味を持っていた。隆君は私を揺さぶった。私が隠していた感情が溢れる。喪失が、絶望が、後悔が、悲嘆が、寂寥が、茫然がこぼれ落ちる。そして、もっとも知りたくなかった感情、厭うべき、呪うべき感情ー母の死によってもたらされた解放感さえもあらわになってしまった。私は打ちひしがれてしまった。自分の身勝手さにおののいた。その時、隆君が下げていた頭を上げた。私と目があった。私の感情はむき出しになっていたことだろう。隆君の目の色が変わった。