天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

地上三センチの浮遊

2013-04-27 21:14:27 | エッセイ
「夜の月」
春の宵は悩ましいものです。薄い雲がかかった月。透けるような雲からまろやかな月の光がこぼれます。朧月夜は心に微熱をもたらします。

夜は感情の振り幅が大きくなる時間です。怒りは爆発し、憎悪は増大し、苦しみは深くなり、恋情は募ります。だから、感情を取り出して瓶の中に入れて観察するにはいい時間帯です。くっきりと自分の感情が見えることでしょう。そして、その感情に寄り添うのもよいことかもしれません。夜には自分の感情を甘やかし、あやすのも悪くはないと思います。闇に紛れて涙を流し、甘い言葉を書き連ね、自分を優しく慰める。ただ、夜は感情がよりむき出しになることを、より強くなることを覚えておかなければなりません。夜に思いつめるのは、危険なことです。闇は理性を眠らせます。闇は狂気を生み出します。それは、誰しも経験したことがあると思います。夜にする喧嘩はおそろしくエスカレートします。夜にする後悔は果てしなく自分を貶めます。それは、埒もない行為です。

夜空に浮かぶ月はなまめかしい。月の光は淑やかでありながら、艶やかです。月は甘い媚薬を夜な夜なこぼしているのです。

地上三センチの浮遊

2013-04-27 13:00:55 | エッセイ
「朝の月」
朝は誰の元にもやってきます。それを嬉しく思うか、厭わしくおもうかはその人次第です。願わくば、私は喜ばしく朝を迎えたく思います。瑞々しい朝の光を浴びると、身体の細胞が跳びはねるのがわかります。そんな時、自分の健やかさに感謝するのです。私は一日の中で朝が一番好きです。黒い闇から深い濃紺、淡い薔薇色に空が染まって、輝く青に変わっていく時間が好きです。世界が未来と希望に満ちているような気がするのです。

昔、夜に眠れない時期がありました。眠らない夜と眠れない夜には大きい隔たりがあることをその時、知りました。眠れない夜は苦しく、惨めです。一晩中、闇の海に溺れるようなものです。夜は孤独で、救いようのない暗さをたたえた海でした。いつも、息が苦しかったことを思い出します。闇の中で、夜が明けることばかりを願っていました。白々と夜が明けるたびに、今夜もやり過ごしたと安堵したものです。朝がくれば、絶望と苦悩から解放されました。朝の到来は喜びでした。でもそれは、暗く痛みに満ちた喜びだったのです。

その苦痛に満ちた日々を抜けて、光に満ちた朝を享受しています。眠れない夜を経験したからこそ、朝の輝きをより感じるのかもしれません。朝の喜びは尊いと感じるのかもしれません。

朝の青空に浮かぶ白い月。のほほんと浮かぶ朝の月はとぼけた顔をしています。

地上三センチの浮遊

2013-04-25 16:56:44 | エッセイ
「うらうらとした日」
春らしい柔らかな日差しが差し込んでいます。フリージアの黄色い花弁が鮮やかに揺れています。

光が敷きつめられた道。庭先にはからたちの白い花が今が盛りと咲いています。道端には青いイヌノフグリや紫のカラスノエンドウが絡まり合うように咲いています。人を恐れないつばめ。つがいが目の前を横切ります。アシナガバチが羽を細かく震わせて花粉を運んでいます。いきいきと小さなものたちが活動しています。かわいらしい、ささやかな営みです。微笑みがこぼれます。心がほぐれていきます。それと同時に、懸命に生きる彼らに畏敬の念がわきあがります。

彼らの小さな営みは、大きな生の連鎖でもあるのです。生きとし生けるものは、連なり連なりこの広大な世界を支えているのです。小さな世界の集積が大きな宇宙を作っているのです。それに気付いてしまう春の日です。当たり前のことなのですが、何も知らない私には、とても大きな発見でした。

ほろほろと歩いているだけで、世界の理の小さな欠片を手にすることができました。うららかな春の日です。







地上三センチの浮遊

2013-04-24 19:33:05 | エッセイ
「春の雨」
季節の変わり目には必ず雨が降ります。雨が降るたびに、暖かくなったり寒くなったり、暑くなったり涼しくなったりします。それは当たり前のことなのですが、自然の不思議を感じます。季節の転換期の雨は、いろんな感情も連れてきます。わくわくする気持ち、さみしい気持ち、敬虔なる気持ち、感傷的な気持ち、混じり合って、自分がどんな気持ちなのか、わからなくなるぐらいです。心がざわざわとざわめきます。

季節によって、雨の様子は違います。春はやわやわ、夏はざあざあ、秋はしとしと、冬はうつうつ。春は夜明けの、夏は真昼の、秋は夕暮れの、冬は夜の雨が思い浮かびます。

私は春に降る雨が一番好きです。夜明けに降る春の雨。細い柔らかな雨。雨音は甘く、優しい。まどろみながら聞く雨の音は、天使の囁き声のようです。雨が降るたびに、春が磨きあげられていくさまを見るのも楽しみです。若葉は緑を濃くしていきます。タンポポは茎が長くなります。モンシロチョウがひらひらと飛びはじめます。メジロが花の蜜を求めてチーチー鳴いています。
春の雨は全ての生き物を育みます。喜びに満ちた恵みの雨です。




地上三センチの浮遊

2013-04-07 19:54:29 | エッセイ
「言の葉はらはら」
人間の世界は言葉に満ちています。言葉が無くても通じ合うことはありますが、まったく言葉に頼らず人間社会を生き抜くのはとても難しいことでしょう。相手の意図を汲み取り、自分の意思を伝えるために、言葉は大きな役割を果たしています。 しかし、なかなか言葉は自分の思うとおりに動いてくれません。それに、自分が相手の言葉をきちんと受け止めているかというと、それも定かではありません。私たちは言葉という不確かなボールを投げ合うしかないのです。そのキャッチボールがうまくいかない時、不安や不満、絶望にかられてしまいます。誰も自分を理解してくれない、自分は誰も理解できない、そう思うことはどれだけ辛いことでしょう。言葉を発することも、受け取ることも苦しくなってしまいます。自分の中に閉じこもるのが一番楽だと感じることでしょう。それはそれで、一つの自衛手段だと思います。他の人の言葉に傷つけられることはなく、自分の言葉が伝わらないといらいらすることもないのですから。ただ、ずっと自分の中にいることはできないでしょう。自分の中はあまりにも狭く、窮屈です。風も通らず、凝り固まった世界にいれば、自家中毒に陥ってしまいます。そうなれば、もっと苦しく、ただ闇に向かって真っ逆さまに落ちていくばかりです。それを望んでいると言われてしまうかもしれませんが。
それでも、言わずにはおれません。閉じた扉を自ら開けた人は、言葉を大切に扱うことのできる人です。言葉をうまく扱うことのできる人ではなく、言葉を大切に扱う人にはなかなかなれないと思います。言葉を使って、人と繋がるのは難しいのを知っていることは大きな財産です。
うまくコミュニケーションを取れない時、言葉は不確かなものなんだとわかっていれば、不必要に自分を責めることも、相手を憎むことも少なくなると思います。
でもそれは、自分の血肉になってはじめてわかることのような気がします。