天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

夕顔

2012-10-07 08:38:05 | 小説
「そうだったの。何も知らずに、誘って、ごめんなさいね。でも、介護があるのに、こんなバイトをしてていいの。」
おばさんは、少し非難する口調だったが、澤部さんはあっけらかんと言葉を返す。
「今まで、ずっと母の介護ばかりしてて、煮詰まっちゃったんです。言葉は悪いですけど、気分転換したくなって。短期だし、いいかなと思ったんです。」
「どれくらい介護されてるの。」
「7年か、8年ぐらいでしょうか。」
「お母さん、まだ、お若いんじゃない。」
「そうでもないです。八十二歳になりますから。」
おばさんはびっくりした。
「え、失礼だけど、あなたの実のお母さんよね。」
「はい。私、遅くに出来た子供なんです。母が四十歳の時、生まれたんです。」
俺は内心、ひっくり返りそうになった。俺の母親と澤部さんは同じ年だった。信じられなかった。おばさんは感心したように言った。
「あなた、すごく若く見えるわ。うらやましい。ねえ、君もそう思うでしょ。」
いきなり俺に話を振ってきた。俺は返事のしようがなくて、困ってしまった。黙って首をかしげていたら、澤部さんが、軽く話を受け流した。
「彼にとっては私はおばさん以外の何ものでもないと思いますよ。」
しらけた空気が流れた。気まずい雰囲気だ。俺は食堂の時計を見て、ほっとした。おばさんは時計を見上げて、ため息をついた。
「もうすぐ昼休みが終わるわ。また、暑い中仕事しなきゃ。」




夕顔

2012-10-03 07:42:05 | 小説
澤部さんは面白がっていた。俺は腑に落ちなかったが、どんな本か読んでみようと思った。
一人のおばさんがこちらにやって来た。澤部さんの隣の席を指差した。
「ここ、いい。」
澤部さんはうなずいた。
「どうぞ。」
そのおばさんは座るなり、ため息をついた。
「ああ、しんどい。クーラーがない暑いところで仕事するのはしんどいわ。」
澤部さんは相づちをうった。
「そうですね。」
おばさんは、持っていたペットボトルからごくごくとお茶を飲むと、思いついたように澤部さんに話しかけた。
「そういえば、あなた、仕事が終わるとさっさと帰るわよね。旦那さんがうるさいの。それとも、お子さんが小さいの。」
「いいえ。私、独身ですから。」
「じゃあ、たまには一緒にお茶でも飲まない。みんなとおしゃべりするのも楽しいわよ。」
「用事があるので、ゆっくりできないんです。」
「そんなに毎日忙しいの。」
「ええ、まあ。」
「どんな用事なの。」
おばさんはどんどん突っ込んできた。澤部さんは少し困ったように微笑んだ。
「…母を介護していまして。デイサービスに預けているんですが、この仕事が終わったら、すぐに家に帰らないと、母が戻ってくる時間に間に合わないんです。」
おばさんの目がきらりと光った。ねずみを飲み込む前の蛇の目だと俺は思った。同情をまぶした優しい声でおばさんは尋ねた。

夕顔

2012-10-02 06:33:25 | 小説
次の日の昼休み。いつものように俺は食堂にいた。澤部さんが、俺の前の席にすとんと座った。水色のトートバッグを持っていた。そのバッグから本を取り出した。俺に本を手渡す。
「昨日言ってた本。これなら読めると思うんだ。」
朱赤の表紙。金の文字で、題名と作者が載っていた。『南総里見八犬伝』曲亭馬琴作。ずっしりと分厚い本だった。俺は本を開いた。古びた本。茶けた紙に細かい字で、二段組で書いてあった。俺は慌てて本を閉じた。読み切る自信がなかった。
「俺、読めないかもしれません。」
澤部さんは笑った。
「それはそれでいいよ。面白くないのに、無理して読む必要ないし。ただ、私の感覚だけど、この現代語訳は読みやすいと思うんだ。わかりやすいし、適度にはしょってるし。」
「え、本当はもっと長いんですか。」
「長いよ。二十八年間かけて書かれた超大作だから。それに、くどいし、説教くさい。作者の馬琴は、偏屈な頑固親父だったみたいだよ。」
「へえ。どんな内容なんですか。」
「今でいうと、ファンタジーとアクションと戦隊ものとラブロマンス、その他もろもろがつまった伝奇ロマンてとこかな。」
「意味がわかりません。」
「読んでみたら、わかるよ。」