「泣くということ」
心おきなく泣く。大人になればなるほど難しくなってきます。涙を我慢しているうちに、泣き方さえ忘れてしまいます。泣くのを忘れたカナリアは、涙を吐きだすこともできず、乾いた荒野をさまようのです。そして、痛みや悲しみややるせなさを「弱さ」として切り捨てようとするのです。涙を敵視するようになるのです。
泣くという感情を殺すことは、違う感情が増大する可能性があります。
一つは「怒り」の感情です。うまくいかない時、心が苦しい時に、爆発するのです。それは荒れ狂い、周りをも振り回します。怒りの感情は自分を満たすことはないので、(心が浄化されないのです。)繰り返すものでもあります。そして、自分を見つめ直すことを阻む感情です。怒りの後に、静かな感情は訪れないのです。(泣いた後というのは、静謐さが心の中に満ちることが多いのです。それは、自分の底をのぞくきっかけになります。)怒りはくせになる感情だと私は思っています。力があればあるほど、怒りという感情は自分にとって都合よく作用することも多々ありますから。怒りは周りを恐怖と諦めで支配する感情でもあります。
もう一つは「嘲り」の感情です。つらさや不満や苦しみを吐きだすことができなければ、こりかたまり、どす黒く心にたまっていくばかりです。その腐臭は、抑えようにも抑えることができません。その腐臭が「嘲り」という感情なのです。自分を棚にあげて、他人をあげつらう。どこかなにかに不満があるから、他人を攻撃するのです。これもくせになる感情です。自分は安全な立場で(正論という鎧で身を守って)、相手を非難するのは、快楽です。ただ、本当の自分の姿から目を逸らしているので、永遠に不満がなくなることはありません。泣くという感情は、永遠に続くことはありません。たまっていたものがこぼれ落ちれば、自分だけが残るのです。
不思議なのですが、なぜ古今東西多くの文化で、「泣く」ということは(特に男性において)恥ずかしく、下等な感情と位置付けられてるのでしょう。(そもそも、感情を出すということが、よくないというのも疑問ですが。)怒りという感情は、わりと大目に見られているような気がします。「怒らせた周りが悪い」みたいなところもあると思います。個人的な意見ですが、泣くという感情は、都合よく組織を動かしませんが、怒りという感情は、恐怖とセットになれば、都合よく組織を動かすことができるからかもしれません。
それから、涙も人を自分の都合よく動かせる場合もありますが、限定的です。(相手が自分に思いがあってはじめて作用するので。)怒りは、自分が相手より力がある場合、人を都合よく動かすには効果的な感情です。怒りは道具になるのです。
泣くということは、人間らしい、大事な感情だと思います。泣くことによって、吐きだすこともできるし、落ち着くこともできるのです。
「泣いても、解決しない。」かもしれませんが、
「泣いたら、見えてくる。」こともあるのです。
それよりも重要なのは、
泣くということは、心を浄化させる感情であるということです。それは、人間にとって重要な感情ではないでしょうか。
泣くことは自分を解放することです。解放することを許す世界になれば、いいなあと思います。
心おきなく泣く。大人になればなるほど難しくなってきます。涙を我慢しているうちに、泣き方さえ忘れてしまいます。泣くのを忘れたカナリアは、涙を吐きだすこともできず、乾いた荒野をさまようのです。そして、痛みや悲しみややるせなさを「弱さ」として切り捨てようとするのです。涙を敵視するようになるのです。
泣くという感情を殺すことは、違う感情が増大する可能性があります。
一つは「怒り」の感情です。うまくいかない時、心が苦しい時に、爆発するのです。それは荒れ狂い、周りをも振り回します。怒りの感情は自分を満たすことはないので、(心が浄化されないのです。)繰り返すものでもあります。そして、自分を見つめ直すことを阻む感情です。怒りの後に、静かな感情は訪れないのです。(泣いた後というのは、静謐さが心の中に満ちることが多いのです。それは、自分の底をのぞくきっかけになります。)怒りはくせになる感情だと私は思っています。力があればあるほど、怒りという感情は自分にとって都合よく作用することも多々ありますから。怒りは周りを恐怖と諦めで支配する感情でもあります。
もう一つは「嘲り」の感情です。つらさや不満や苦しみを吐きだすことができなければ、こりかたまり、どす黒く心にたまっていくばかりです。その腐臭は、抑えようにも抑えることができません。その腐臭が「嘲り」という感情なのです。自分を棚にあげて、他人をあげつらう。どこかなにかに不満があるから、他人を攻撃するのです。これもくせになる感情です。自分は安全な立場で(正論という鎧で身を守って)、相手を非難するのは、快楽です。ただ、本当の自分の姿から目を逸らしているので、永遠に不満がなくなることはありません。泣くという感情は、永遠に続くことはありません。たまっていたものがこぼれ落ちれば、自分だけが残るのです。
不思議なのですが、なぜ古今東西多くの文化で、「泣く」ということは(特に男性において)恥ずかしく、下等な感情と位置付けられてるのでしょう。(そもそも、感情を出すということが、よくないというのも疑問ですが。)怒りという感情は、わりと大目に見られているような気がします。「怒らせた周りが悪い」みたいなところもあると思います。個人的な意見ですが、泣くという感情は、都合よく組織を動かしませんが、怒りという感情は、恐怖とセットになれば、都合よく組織を動かすことができるからかもしれません。
それから、涙も人を自分の都合よく動かせる場合もありますが、限定的です。(相手が自分に思いがあってはじめて作用するので。)怒りは、自分が相手より力がある場合、人を都合よく動かすには効果的な感情です。怒りは道具になるのです。
泣くということは、人間らしい、大事な感情だと思います。泣くことによって、吐きだすこともできるし、落ち着くこともできるのです。
「泣いても、解決しない。」かもしれませんが、
「泣いたら、見えてくる。」こともあるのです。
それよりも重要なのは、
泣くということは、心を浄化させる感情であるということです。それは、人間にとって重要な感情ではないでしょうか。
泣くことは自分を解放することです。解放することを許す世界になれば、いいなあと思います。