天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

ピンキーリング

2012-03-25 09:28:01 | 小説
翔太はぎょっとする。そのクラスメイトはいつもジーンズとTシャツを着ているということ以外は特徴がなかった。翔太は名前すら覚えていなかった。彼女はいつものようにジーンズとTシャツで、手には白いビニール袋を提げていた。彼女とばっちり目があった。彼は血の気が引くと同時に顔に血が上った。手足は冷たいのに、頭はかっと燃えている感じ。翔太は自分がデパートのショーウィンドをのぞいていたことを、彼女がみんなに言うんじゃないかという考えが頭をよぎった。その考えが浮かんだ瞬間、自分の行為を見られたという羞恥よりも自分の行為を暴露されるという屈辱のほうが勝った。怒りが体の隅々に行き渡り、頬が信じられないくらい熱くなる。翔太は思った。あいつはみんなに言いふらす。女の服を見てたって。気持ち悪い奴だって。そうしたらみんなはどう思うだろう。俺を指差して笑うだろうか。それとも当たらず触らず無視するだろうか。どちらもきついな。俺は学校にいられなくなる。そんなことになったらなにもかもあいつのせいだ。なんとしても阻止しなければ。本当にむかつく奴だ。翔太の妄想はどんどん膨らんでいく。頭ががんがんする。腹立ちを彼は抑えられない。翔太はつかつかと彼女に近づくと、いきなり無言で彼女を思いきり突き飛ばした。彼女は不意打ちをくらってバランスを崩す。よろけて尻餅をついた。手に持っていたビニール袋が地面に落ちる。その拍子にビニール袋の口が開いた。彼は尻餅をついた彼女を見ていると余計に残酷な気持ちが湧き上がってきた。このままじゃあおさまらない。あいつが俺をむちゃくちゃにするのなら、それを阻止するのは当然だ。俺があいつをけちょんけちょんに叩き潰したとしてもかまわないだろう。あいつが悪いんだから、文句を言う権利なんてない。俺は当然のことをしようとしているだけだ。彼女の存在を抹殺したいという気持ちが翔太の中にふつふつと湧き上がってきた。翔太は彼女を痛めつけてやりたかった。ぼこぼこにしてやりたい。手始めに彼女を蹴飛ばしてやろうと一歩踏み出した。

ピンキーリング

2012-03-20 12:31:07 | 小説
見咎められることはなかった。翔太は内心ほっとしていたが、いつも横目でちらりと見るだけだったので、ドレスをゆっくり見れないという不満がつのっていった。それに、自分を偽るたびに翔太は、身動きのとれない息苦しい気分を味わっていた。自分で自分を小さく折りたたんでいるような、自分で自分を隅へ隅へ追い込んでいるような、そんな感じだった。いつもこのデパートの前に来ると、心の葛藤が出てきて苦しくなる。気持ちのやり場がなくて、無闇に道端に生えているエノコログサを引きちぎったり、街路樹のツツジの花びらをむしったりした。でも、今日は一人なので、思う存分見ることができる。朝の半端な時間帯で、通勤通学の時間には遅すぎ、デパートの開店時間には早すぎた。人通りはなく、閑散としていた。翔太は自分が遅刻しそうなことも忘れて、引き寄せられるようにショーウィンドに近づいた。

磨きこまれたショーウィンド。滑らかなガラスの向こうでマネキンは固く不自然に気どったポーズをとっていた。あるマネキンはグリーンの地に白の水玉柄のシャツワンピースを、別のマネキンはブルーとピンクとラベンダー色の小花模様のシフォンドレスを、また違うマネキンは繊細な刺繍とレースで飾られた生成りのチュニックワンピースを身に纏っていた。ふわりと軽やかで柔らかい曲線を描く布の重なりに翔太はどうしようもなく惹きつけられる。そこから目を離すことができなくなった。どうしてこんなに夢中になってしまうのか、自分でもさっぱりわからない。見れば見るほど着てみたいという思いがつのる。でもその欲求を満たす術を彼は知らない。見なきゃよかったと翔太は後悔する。こんなに望んでも、自分には一生着る機会なんてないんだと翔太はしょんぼり思った。その望みを叶えることは不可能だと彼は思いこんでいた。あきらめと苦しさが彼を襲う。相変わらず空気は熱をはらんで澱み、車は轟音をたてて走り去る。翔太はため息をつく。わくわくした楽しい気持ちが急激にしぼんでいった。彼がショーウィンドから背を向けると、そこには同じクラスの女子が立っていた。

ピンキーリング

2012-03-15 18:47:21 | 小説
翔太は走りながらその言葉を置いていく。いつもよりだいぶ遅くなってしまった。一緒に行くはずの友達は当然もういなかった。彼は焦る。全速力でいつもの道を駆けていく。ランドセルが背中で激しく揺れる。汗が脇の下をつたう。薄曇り。太陽は雲に隠れているはずなのに、ちりちりと翔太の首筋に日差しが刺さる。湿った熱い空気の塊が彼の背中にのしかかる。空気は動かず、とぐろを巻いていた。翔太は必死に走った。




翔太は家と学校のほぼ中間地点にある大通りに出た。この駅前の大通りは通学路になっていた。彼は走りっぱなしで、息があがってきた。もう限界だった。翔太は走るのを止め、歩きだした。街路にはケヤキとツツジが植えられていた。ケヤキの緑は目が痛くなるほど青く、ツツジの花は甘い蜜を蓄え咲き誇っている。その脇にはエノコログサやハルジオンがびよびよと生えていた。広い車道。車が埃と排気ガスを撒き散らして疾走していく。交差点に翔太はさしかかる。信号は青だった。彼は左右を確認してから、立ち止まることなく横断歩道を渡る。その横断歩道を渡った道筋にデパートがあった。グレーの石造りで、曲線でできたシックな外観をしていた。そのデパートの前を通る時、翔太には密かな楽しみがあった。歩道に面した大きなショーウィンドに飾られた美しいドレスを見ることだ。ショーウィンドには季節ごとに様々なドレスが飾られていた。しなやかなドレープ。透けるようなシフォン。ふわふわしたチュール。きらきらしたビーズ。鮮やか、柔らか、華やか、甘やか。たくさんの表情に染められた色の洪水。翔太はそんなドレスに心惹かれていた。眺めるのが好きだった。もっと本音を吐けば、触れたい、その美しいドレスを着てみたいと思っていた。けれども、誰にもそのことを言ったことはなかった。口が裂けてもそんなことは言えない。きれいなドレスが好きというだけでも変だと彼は思いこんでいた。それを着たいと思っている自分が死ぬほど恥ずかしかった。あんなものには興味がないと翔太は何回も自分に言い聞かせた。自分を偽ろうとした。それでもデパートの前を通るたびに足を止めてしまう。ショーウィンドを覗きこんでしまう。心が騒ぎ、着てみたいと思ってしまう。それを止めることはできなかった。そんな自分に翔太はうんざりし、心の底から嫌になる。そして抑えても抑えても湧きあがるこの願望をコントロールできないことに恐怖と薄気味悪さを感じていた。こんな恥ずかしいことを絶対に周りに知られたくなかった。みんなと違う変な奴だなんて思われたくなかった。だから学校の行き帰りにショーウィンドの前を通る時はこっそり盗み見るだけだった。今まで誰にもばれてない。

ピンキーリング

2012-03-11 12:18:42 | 小説
「何すんねん。」
翔太は叫び、姉を追いかけようとしたが、母親に腕をつかまれた。それをふりほどこうとしたら、父親に厳しい声をかけられた。
「追いかけてどうするつもりなんや。」
「牛乳かけられたし。めっちゃむかつく。蹴りぐらいかまさなおさまらへん。」
「翔太、おまえは悪くないんか。なんでお姉ちゃんが怒ったんや。おまえが言わんでもいいことを言ったからちゃうんか。」
「俺は本当のことを姉ちゃんに教えてあげたんやんか。親切で言うてあげたのに。俺、間違ったこと言うてへんで。」
「そうやろうか。間違ったことを言うてへんやろか。お姉ちゃんが喜んでいたことをむちゃくちゃにしてまで言う必要があったことやろうか。おまえはお姉ちゃんを怒らせて、嫌な気持ちにさせてまで言わなあかんことを言ったんやろうか。お姉ちゃんの行動は褒められることではないけれど、おまえが引き起こしたことやとお父さんは思う。ちゃうか。おまえはどう思う。」
翔太は黙り込む。痛いところをつかれた。父親はおまえが悪いとははっきり言わない。いつも疑問形だ。おまえが間違っていると決めつけない。説教しない。自分で考えろと突き放す。いつもそうだ。父親は自分の考えを言った後はただ黙って翔太を見るだけ。言うべきことがある時は彼もちゃんと反論するが、明らかに自分に非がある時には何も言うことなんてできない。沈黙が苦痛なだけだ。翔太は牛乳をかけられたことに頭にきていたが、それは自ら蒔いた種だということを突きつけられて余計に腹が立ってきた。自分が悪かったというのは明らかで、でもそれを認めるのはしゃくだった。父親は間違っていないのはわかっていたので、言いかえすことはできない。父親はまだ何も言わない。沈黙。翔太は徐々に居心地が悪くなる。時間は刻々と過ぎていく。そんな硬直した状態に風穴を開けたのは母親だった。母親は台所の壁にかけてある時計を見上げ、彼に言う。
「早く体を洗ったほうがいいんちゃう。学校遅刻するで。」
その言葉で時間は動き出した。翔太はほっとしながら、時計を見上げてぎょっとする。遅刻だ。慌てて洗面所に向かい、風呂場でシャワーを浴びて新しいTシャツに着替え、ランドセルを背負う。玄関をダッシュで通り抜ける。後ろから母親の声が追いかける。
「いってらっしゃい。」
「いってきます。」

ピンキーリング

2012-03-08 15:45:10 | 小説
彼はいやいやぞうきんを手に取って床をふく。床に這いつくばってぞうきんで水を吸い取る。ぞうきんは嫌な感じに水をべっとり含む。それでも床には水たまりが残っていた。彼はため息をつきながら顔をあげたら、父親と目があってしまった。彼はちょっと目をふせ、ずるい気持ちを含みながらもごもごと言う。
「お父さん、急ぐやろ。俺がふいてたら時間かかるわ。お母さん呼んでやってもらおうか。そのほうが早いし。」
父親は穏やかだが、有無を言わせない口調で答える。
「急いでないから、翔太のペースで進めてください。ごゆっくり。」
ちぇっ。翔太はふくれっ面のままぞうきんをしぼり、床をふく。何回かそれを繰り返しているうちに、少しずつ水たまりは小さくなっていった。なんとか水たまりをふきとった。彼はやれやれと思いながら、ぞうきんを洗い、元あった場所にかける。父親はそれをずっと黙って見ていた。翔太が全部終わらせた後、父親は彼に声をかけた。
「最後まで、ちゃんとやりきったな。ありがとう。」
翔太はうなずく。余分なことをしたので、腹が減って死にそうだった。彼は急いで台所に戻る。母親がダイニングテーブルにある皿の上に目玉焼きをのせているところだった。彼は自分でご飯をよそい、テーブルの上にある味噌汁と目玉焼きでご飯をぱかぱか食べ始めた。上半身裸の翔太を見て母親は目を丸くする。
「あんたなんで裸なんよ。」
「手洗う時に水出しすぎて濡れた。」
「そんな格好でご飯を食べる人がありますか。服を着てから食べなさい。」
「だって腹減ってんねんもん。飯食べたら服着るし。」
「もうっ。行儀の悪い。」
父親が台所に入ってきた。父親も自分でご飯をよそい食べ始める。母親は湯のみにお茶を注いでいる。翔太はあっという間に一杯目を食べ終える。二杯目を自分でつげる。三杯目でやっと落ち着く。打ち止め。朝飯終了。翔太は冷蔵庫からまた牛乳を取り出し、テーブルの上に置いた。今度はコップを取りに行く。彼がコップに牛乳を注いでいる時、どしんどしんと階段を降りる音が響いた。彼は姉ちゃんの振動でまた牛乳がこぼれると思った。翔太には年の離れた姉がいる。その姉が二階から降りてきているのだ。姉は立派な二重顎と丸太のような腕、ゼリーのような胸とお腹、そして絹豆腐のようにきめ細かい白い肌を持っていた。ただ彼には白い怪獣かとどにしか見えなかった。台所に姉がやってきた。のっそりのそのそ。登場か出現か出没か。どれかなと彼は思っていた。姉はうれしそうに母親に手を見せる。
「見て見て。バイト代でピンキーリング買ってん。かわいいやろ。」
母親は姉の小指を見る。
「すごい。ルビーが入ってるやん。高かったんちゃうん。」
「うん。私の中ではめっちゃ高かった。でもさ、ふらっと寄ったデパートで一目惚れしちゃって。バイト代はたいて買っちゃいました。」
姉は愛しそうにうれしそうにピンキーリングを見る。翔太ものぞきこんで姉の小指を見る。白い指に輝く赤いハート。でもそのハートはむっちりした指に埋れている。彼は姉に馬鹿にしたように冷たく言い放つ。
「肉で埋れて見えへんやん。デブ。」
姉は彼をにらみつける。
「あんたに言うてへんし。」
彼は姉の言葉を無視する。
「太って醜い姉ちゃんの指にはまってる指輪もかわいそうやなあ。指輪ももうちょっとかわいい女の子の指にはまりたかったんちゃう。悔しかったら痩せてみろちゅうねん。」
姉の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。翔太はますます調子にのってまくしたてる。
「うわっ、豚が真っ赤になったわ。まさしくレッドピッグやな。レッドピッグ、レッドピ…」
ばしゃ。姉は黙ってテーブルの上にあった牛乳のコップをひっつかんで彼にぶっかけた。翔太はまた牛乳まみれになった。姉は足音荒く台所から出て行った。バタン。台所のドアが音高く乱暴に閉まる。