ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

野菜サンド

2013-08-09 19:13:18 | 
じじの夕食介助の帰りに行きつけの店で晩飯。
野菜サンドウマい。
パンがしっとりふわふわして野菜と馴染む。
ミル付きの岩塩あるので軽く振りかけて、頂く。

                 


食後に強めに淹れたフレンチ。

                 


奥さんとしみじみ語る。
一週間はあっという間だ。
私にとってはこれからの3週間が地獄のように長いんだけどね。

8月9日、焼けた線路の事を考える

2013-08-09 00:28:56 | 日常
8月9日だ。
68年前の8月9日の今頃汽車に乗って長崎に向かっていた、
母親と10歳足らずの女の子がいた。
10歳足らずの女の子だった人と私は今から14年前近所の教会で出会って立ち話をした。
その人は術後の私の病室に見舞いに来てくれた。
そして1945年8月9日に長崎に向かっていた母親と小さな女の子だった自分がどうなったか
私に話して聞かせてくれた。


何年も経って、私はその人の語った事をこの日記ブログに書いた。
記事更新して6年間ろくに読み返す事もしなかったが、今現在読み返して思う事がある。


  焼けた線路 2007-07-18 00:35:54


  ちょっと前に某防衛大臣が長崎の原爆を「仕方がない」と表現して
バッシングを浴びて辞職したりしたので返って文字に書くのを躊躇っていた。
長崎の原爆について。


数年前、長崎出身の人から身の上話を聞いた事がある。
考え事をするためによくお邪魔する近所のカトリックの聖堂で、
その人は親しげに声をかけてきた。
話好きな人だな、と思った。


私の所属する教派にはないロザリオの祈りの話になって、
その人は自分が浦上の出身であると言った。
浦上では何もわからない小さい子供の頃から
理屈も何も無しで
ロザリオは生活の一部だったという話を
その人は私に語った。


ここ北海道とは遠く離れた、
永井隆の本でしか知らない浦上の信徒の生活の話を聞けるのが
私は嬉しかった。
永井隆の著作もほぼ全部買い集めて読んでいた。
子供を残して死んでいかなければならない父親の心情に
胸をえぐられる事もあるけど、
それ以上にもっと日常的な、
生活の土台にキリストへの信仰が根付いている、
浦上の信徒達の素朴な信仰生活が永井隆の文章から見えて来るようで
私はその素朴さが大好きだ。
その人にそんな事を話した記憶がある。


それから間もなく私は腹に腫瘍が発見されて手術した。
入院先までその人は訪ねて来てくれた。
お互いに教会や信仰の話になってどこからそんな話になったのか、
その人は自分の生い立ちを語り始めた。
というよりは私が突っ込んで聞いたのだ。
カトリック信者であるその人が幼児洗礼だったのか成人洗礼だったのか、
成人洗礼だったならどんな切っ掛けで信仰に導かれたのか。


亡くなった母親によるとその人は幼児洗礼だったらしい。
どんないきさつかはその人自身にもわからないが
母親はカトリックの信徒だと自分の娘に言っていたという。


「生まれた時、
  私は長崎の教会で洗礼を受けたって
  母が言ってたの。
  でも親族の手前、キリスト教徒である事は言わずに隠していたの。」


どんな家庭の事情で母一人娘一人になったのかは
その人自身もわからないという。
当時あまりに年齢が幼な過ぎた。
母親は結核だった。
ずっと療養所で暮らしていて
その人は親類縁者や里親の間を行ったり来たりして育った。


ある時、母親は療養所を出た。
娘を連れて長崎に行こうとしていた。
その人は10歳にも満たない歳だった。


「今思うとね、
  母は死期を悟って
私の行く先を教会に頼もうとしたのかも知れないわ。」


汽車の長旅で
母親がどんどん衰弱していくのが子供の目にもわかった。
ところがあと少しで長崎に着くと思っていたら
汽車が動かなくなってしまった。
どうして汽車が動かないのか何時再び動き出すのか目途が全く立たないので
母親はその人を連れて線路伝いに歩き始めた。
長崎を目指して。
道の途中、母親は何度か喀血した。


「母はしっかりした気丈な人だったわ。」


力尽きて線路脇に倒れ込みながら、
母親はその人に言った。


「お母さんはもうすぐ死ぬわ。
 死んだら顔を手拭いで巻いて結びなさい。
  お母さんは結核だから
  死んだらこの口から悪い菌がどんどん出て来る。
  だから必ずそうして口を塞ぐのよ。
  お母さんはもう一緒に行けないから
  あなたは一人で長崎に行きなさい。
  長崎に行ったら教会を訪ねるのよ。
  いい?
必ず教会を訪ねなさい。
  お母さんがここで死んでいる事と
  あなたが生まれた時に洗礼を受けた事を
そこで言いなさい。
  必ず。」


幼い娘の目の前で母親はやがて息をしなくなり、動かなくなった。
その人は言われた通りに荷物の中から手拭いを取り出し、
母親の顔に巻き付けて後ろでしっかり結んだ。


「お母さんは死んでしまったし、
  私にはもう行く所がない、
ああ、
これから私はどうしよう、って思ったわ。」


その人はしばらく母親の遺体の傍でぼーっとしていたが
言われた通り一人で歩き出すより他になかった。
一人で荷物を担いで歩き始めた。
母親に言われた通り、長崎へ。
長崎の教会目指して。
教会に行けば助けて貰える。
教会に辿り着けば生き延びる道が与えられる。
母親の言い残した言葉を反芻しながら10歳にもなっていなかったその人は
焼けた線路伝いに歩いた。
長崎目指して。
しかしその長崎は原爆投下で瓦礫の山になっていた。


焼け野原を途方に暮れて彷徨っていて
保護された時、その人は母親に言われた通り「教会」と言ったが
その教会も瓦礫と化していた。
その人の受洗を証明する台帳も何もかも焼けて紛失してしまっていた。
誰かが人づてに教会の関係者を探してくれたのだろうか。
その人は司祭に引き合わせて貰えた。


司祭はその人に改めて洗礼を授けた。
その人の幼児洗礼を証言する人も無く証明する記録も焼失してしまっており、
しかもまだ10歳に満たない子供の話だからである。


「神父様は、
  あなたのお母さんの話は本当だと思うけど、
  もし万一と言う事があっては困るからと言って
  私に洗礼を授けてその時に洗礼名も下さったわ。」


その人がそれからどのような人生を生きてこの北海道に移り住んだのか、
もっと話を聞く筈だった。
しかしその機会がないままに私は退院し、
仕事に復帰してお互いに会う事もなくなっていた。


私が病棟から手術場に配置換えになって、
ある日、緊急手術の呼び出しを受けてスタッフルームで患者さんを待機しながら
誰かの置き忘れた新聞を開いた。
お悔やみ欄の片隅にその人の名前が載っていた。


病気だった事すら知らなかった。
最後まで話を聞けなかった。
あの聖堂を訪ねたら何時でも会える、
何時でも話を聞けると思い込んでいた。


長崎の地名を聞くと、焼けた線路伝いに歩く母親と子供の姿が目に浮かぶ。
母親の亡骸を後にしてたった一人で歩き続け目指したその街は
原爆投下で焼け野原と瓦礫の山になっていた。
それを目にした子供の絶望を思う。
原爆が投下されてもキリストは子供の手を引いて導いて助けて下さった。
しかし
もし原爆が投下されなかったら
長崎行きの汽車は止まらず
母と子は途中で焼けた線路伝いに長い道程を歩く事もなく
母親が行き倒れて道端に絶命する事もなく
子供は絶望を味わいながら焼け野原を一人彷徨う事もなかった筈だ。


出合った時、その人は私に言っていた。


「毎朝、お祈りをするのよ。
  今日一日、
私に出会わせて下さる人、
擦れ違う人、
全員が天国に迎えられますように。」



その人は雑談の折に「被爆者の会があって…」と言っていた。
お見舞いに来てくれた時元気そうにしていたので気付かなかった。
元気そうにしてはいたけど、実は被爆の後遺症で人知れず苦しんでいたのだろうか。
その人が帰天して何年も経ってからあの大震災が起こり、原発から放射能が漏れた。
原爆投下後の長崎を、教会を探して彷徨い歩いた小さな女の子だったその人が
今のこの時代を見たら何を考え、何を言うだろう。