迷走していた「たんなさん」のつぶやき

※個人の感想です・・・

震災で変わった中国人の日本観

2011年04月23日 | 社会
大震災はつらい出来事ですが、それをきっかけにして中国人の日本観が少しでも変わってくれるのであるのなら、その小さな灯りを大きな光にしていくことが出来ればいいですね。
震災で変わった中国人の日本観
 3月11日に発生した東日本大震災以降、中国メディアでは日本の報道が急増し、多くの中国人の日本に対する印象に大きな変化をもたらしたようだ。それまでにアイドルグループやアニメなど日本の流行文化の魅力に惹かれながらも、歴史や尖(せん)閣(かく)諸島の領有権問題をめぐり日本を敵視してきた多くの若者たちは、募金活動に参加するなど日本支援に回った。インターネットなどで秩序を守る日本人を称賛する声が多く寄せられたほか、記者会見で菅直人首相(64)が厳しい質問に浴びせられたことについても「日本の言論の自由が羨(うらや)ましい」といった反応があった。

涙の中継に感動
 震災発生当日、香港系メディア鳳凰衛視(フェニックス・テレビ)のライブ放送で、東京特派員、李(り)●(=森の木が全て水)(びょう)氏は津波が町を襲う映像を紹介する際に声を詰まらせ、嗚咽(おえつ)しながらニュースを読み上げたことが中国のネットで反響を呼んだ。「なぜ日本人のために泣くのか」「歴史を忘れてはならない」といった批判的意見が一部であるものの、李氏を支持する声は圧倒的に多く、「感動した」「被災した日本を一刻も早く支援すべきだ」といった被害者を悼(いた)み、日本人にエールを送る書き込みがあふれた。
 2004年10月に新潟県中越地震が発生した際、中国ネットでは「天罰だ」「祝賀する」といった心のない書き込みがほとんどで、それを諌(いさ)める声も少なかった。被害の大きさに違いはあるとはいえ、日本の天災に対する反応は大きな変化があったといえる。近年の高度経済成長で、被災者を支援する精神的余裕が出てきたことと、08年5月の四川大地震で、日本が中国を支援したことが背景にあるとみられる。

「優しさ」が話題に
 その後、仙台市内のビルの屋上で立ち往生して約8時間後に救出された中国人女性の手記が中国のインターネットで出回り、日本人の優しさが話題を集めている。女性は日本人約80人と一緒に救出を待っていたが、貧血で倒れそうになったという。「赤ちゃん連れの主婦が粉ミルクを分けてくれたり、駆けずり回って水を探してくれた若い女性もいたり…」などと周りに助けられたという。
 「みんなの携帯電話のうち、つながるのは2台しかなかったが、外国人を優先するということで、中国人の私に真っ先に使わせてくれた。その後、日本人たちは行列をつくり1人ずつ家族に電話をしていた」と、女性の手記は救出されるまでの様子を克明に紹介し「私を支えたのは彼らの優しさだった」と日本人への感謝の気持ちを綴った。そして、ネットで大きな感動を呼んだ。さらに、中国人研修生20人を真っ先に高台に避難させ、自らは津波にさらわれて行方不明となった宮城県女川町(おながわちょう)の水産会社役員のことが新華社通信の記事で紹介され、中国のネットで英雄となった。「日本人にはこんなにたくさん優しい人がいるとは知らなかった」といった反応が多かった。

「言論の自由」羨ましい
 また、4月12日の首相会見で、産経新聞の阿比留(あびる)瑠比(るい)記者が菅首相に対し「一体何のために、その地位にしがみついているのか」と質問し、菅首相が「阿比留さんの物の考え方がそうだということと、私は客観的にそうだということは必ずしも一致しないと思っています」と丁寧な言葉で答えたことを香港のメディアが中国国内のインターネットで配信し、「権力者を批判できる日本の記者は素晴らしい」「中国だったら、その記者はすぐに投獄されるだろう」「これこそ民主主義」といった日本の制度を称賛する反応があふれた。
 中国の若者たちの日本に関する知識は、これまでは中国政府主導の愛国主義教育や、テレビで毎日のように流される抗日ドラマによるものが多かった。ただ今回は、震災報道やネット情報などを通じて、秩序を守り、他人を思いやる日本人のありのままの姿を知ることができた。そのことによって、日本をある程度客観視できるようになったと言えよう。(中国総局 矢板明夫)
MSN産経ニュース2011.4.23 12:00

「ぴあ」の思い出 情報誌「ぴあ」39年の歴史に幕 首都圏版、7月で休刊

2011年04月22日 | 社会
「ぴあ」が大きくなったのは「ちけっとぴあ」のシステムが出来てからのように思います。
1980年頃じゃないのかな。
それ以前は、チケット発売日にプレイガイドに並んだり、徹夜したりして、お目当てのチケットを手に入れたものでした。
新宿PEPEの7Fの行列に並びながら、歌舞伎町のゲームセンターで遊んでたなどという記憶もあるし、渋谷パルコの周囲を大行列で囲んだなんてこともありました。
友人はその時、喫茶店でコーヒーを差し入れしてもらったという昔話をしていましたが、残念ながら私にはそのような思い出話はありません。

「ぴあ」ができたことで便利になった面もありますが、当然ながらデメリットもありました。
それはチケットが印刷された印字だけの味気ないものばかりになってしまったことです。
かつてのチケットは、アーティストの趣味趣向が凝らされた味わい深いものが多かったものですが、「ちけっとぴあ」以降は印字だけの本当につまらないチケットになってしまいました。
そんななか、浜田省吾はある時期まではライブ会場入場時にメモリアルチケットを配っていましたが、いつの間にかそれもやらなくなってしまいました。
今の若者たちは便利さを手にしてはいますが、味わい深いメモリアルチケットを手にする機会がなくなってしまった被害者でもあるのですね。

それから「ぴあ」がてきてからは自宅にいながらチケットが手に入るものと勘違いしていましたが、人気公演になると電話をしてもつながらないなんてことはよくありました。というか、今もあるんだろうな。
どんな興行だったのか覚えていませんが(ローリングストーンズだったかなー?)、新宿だったか、渋谷の公衆電話に若者がかじりついたままで公衆電話が使えなくなったなんてこともありました。
「ぴあ」に電話をすると人気公演ではすぐに規制が掛かってしまうため、それをすり抜ける裏技として公衆電話が利用されたのでした。
その公衆電話も電話の相手先と同じエリアの方が有利だということで、わざわざそのエリアまで出掛けて行って公衆電話でリダイヤルするのです。
当時はヤフオクなんてなかったので、純粋にその公演に行きたい人たちが電話をしていたのですが、いつの間にかヤフオクで転売する目的でチケットを入手する人たちに使われるようにもなってしまったのですね。

この歳になると、「ぴあ」のあの細かい字を見るのはつらいよなー。
情報誌「ぴあ」39年の歴史に幕 首都圏版、7月で休刊
 ぴあ株式会社(東京)は21日、エンターテインメント情報誌「ぴあ」の首都圏版(隔週刊)を7月21日発売号で休刊することを決めた。映画やコンサートなどの興行スケジュール情報は、これまで通りインターネットで提供する。
 「ぴあ」は1972年、当時学生だった矢内廣社長らが創刊。80年代後半に53万部まで部数を伸ばしたが、エンターテインメント情報がインターネット上で無料で調べられるようになり、最近では6万部まで落ち込んでいたという。
 中部版は昨年6月、関西版も同10月に休刊した。
 同社によると、売り上げの約9割はチケット販売事業で、「ぴあフィルムフェスティバル」などの事業は今後も続ける。今秋には新しいエンターテインメント誌を立ち上げるという。(石飛徳樹)
アサヒ・コム2011年4月22日9時2分

「お父さん、ありがとう」妻の声津波に消え

2011年04月20日 | 社会
「お父さん、ありがとう」妻の声津波に消え
 東日本大震災の津波で数百人の行方不明者が出たにもかかわらず、福島第1原発の事故に伴う避難指示で1カ月以上捜索が実施されなかった福島県浪江町請戸(うけど)地区。津波に遭い、九死に一生を得た男性の耳には、50年近く連れ添った自分への感謝の言葉とともに波間に消えた妻の声が残る。「一刻も早く見つけてほしい」。男性は14日に始まった捜索による発見を祈るように待ち続けている。

 「真っ黒い波が数十メートルの高さに立ち上がり、一気に倒れてきた」。海岸から数百メートル先に住む無職、熊川勝さん(73)は目前に迫る大波に度肝を抜かれた。妻洋子さん(73)の手を引いて2階に駆け上がったが水位はみるみる上がり、洋子さんを抱えて顔を出すのがやっとになった。死を覚悟し「これまで、ありがとな」と呼び掛けると、洋子さんはうなずいて唇を動かした。「お父さん、ありがとう」

 もう一度、熊川さんが「2人で孫3人の名前を呼んで終わりにしよう」と声を掛けた直後に強い衝撃があり、洋子さんが沈んだ。必死で手をたぐったが、渦巻く波に引き込まれていった。熊川さんは着ていたジャンパーが偶然浮袋代わりになり、天井と屋根の隙間(すきま)で息ができた。引き波で家ごと沖に向かって流されかかったが、橋桁に飛び移って助かった。その間、ずっと洋子さんの名を叫び続けた。

 その後、身を寄せた県内の親族宅も原発事故の深刻化でいられなくなり、横浜市の長女(42)の元へ。だが、原発から約5キロの請戸地区には捜索が入らないままで「原発内で(復旧の)作業している人もいるのに、何で警察も自衛隊も助けに行かねんだ」。もどかしさが募った。

 今月14日。警察の捜索がようやく始まり、熊川さんはすぐ福島に戻った。洋子さんが最後までつかんでいたジャンパーを着て、日々、遺体安置所や遺留品写真の掲示所を回る。もし、捜索が打ち切られたら自分で捜しに行くつもりだ。「女房は『金婚式の時は、日光の紅葉を見たい』と楽しみにしていた。秋には骨つぼ抱いて紅葉見に行ぐんだ」【大場弘行】
希望新聞(毎日新聞)

「みなさんは日本の誇りです」 自衛隊員を前に長渕剛が感動熱唱

2011年04月18日 | 音楽
「みなさんは日本の誇りです」 自衛隊員を前に長渕剛が感動熱唱
歌手の長渕剛さん(54)が被災地の宮城県をおとずれ、航空自衛隊松島基地(東松島市)などを慰問した。自身の曲を歌いながら、隊員たちへの感謝と復興への力強いメッセージを送った。慰問の様子は話題を集め、「感動した」といった書き込みがツイッター上でも飛び交っている。

長渕さんが宮城県を訪れたのは2011年4月16日。ジーパンにTシャツ、レザージャケット姿の長渕さんが、避難所となっている高校で2曲を熱唱。そのあとに訪れたのが松島基地だった。

「自衛隊のみなさんにあいたくて、あいたくてたまらなかった」
ふだんは約1100人の隊員が常駐するが、現在は震災の応援隊員とあわせ、2000人以上が基地内で生活している。任務は行方不明者の捜索、瓦礫の除去、医療支援や炊き出しなど多岐に及ぶ。

松島基地の格納庫の中で長渕さんは、集まった隊員たちを前に、「大きい声で一緒に歌おう」「君たちにあいにきた」「自衛隊のみなさんにあいたくて、あいたくてたまらなかった」と発言。自衛隊員の活動する姿を見るにつけ、「そばにいって励ましたい」という思いが募っていたという。

「この国がね、この街がね、絶望に伏してしまって何をしていいか、わからなかった。何もなす術がなかった。そんなときにみんなの勇姿、みんなの瞳、みんなの動き(を見た)。オレは日本がダメかと思った。だけれども、そこに日本があった。みなさんは日本の誇りです。僕の僕の僕の、大事な誇りです」

隊員の精神的な疲労は、極限に達している
代表曲の「とんぼ」「乾杯」「HOLD YOUR LAST CHANCE」を含む6曲を熱唱した。「乾杯」では、隊員たちが肩を組んで体を揺らし、長渕さんがマイクを向けて歌うように促すと大合唱に。「HOLD YOUR LAST CHANCE」では、歌詞にある「傷つけ打ちのめされてもはいあがる力がほしい」という言葉に静かに耳を傾けていた。

松島基地の広報担当者は「(震災後の)生活で隊員たちは、テレビを見る時間も、ゆっくり食事を取る時間も、もちろん音楽や文化的な時間もほとんど割くことのできない制限された生活をしている」と言う。

しかも、今最も力を入れている任務は、行方不明者の捜索だ。遺体を目にする毎日。士気も高いとはいえ、応援に駆けつけた隊員たちの精神的な疲労は、極限に達している。そうした中での長渕さんの生歌。隊員たちのモチベーションも上がったようだ。

最後の曲を前に長渕さんは、こうも話した。

「まだまだ(復興までに時間が)かかるかもしんないけどさ、みんなで力を合わせて、(隊員たちの)腕章に刻んでいる『絆』を大事にして、1つずつ1つずつ前へ前へ進んで行こうよ。オレも頑張るからみんなも一緒に頑張ろうよ」
長渕さんの慰問の様子は、ツイッターでも話題を集めた。「感動ものでした。自衛隊の皆さんへのねぎらい素晴らしい」「涙する一人一人の隊員の方達の顔を見て改めて彼らの激務と使命感に感謝し祈る気持ちになる」「自衛隊を慰問した長渕剛さんの歌を聴いた隊員が男泣きしていたのが印象的だった」といったものだ。

なお、長渕さんは4月3日、東日本大震災復興支援を願うラジオ番組を自らが企画し立ち上げ、FM青森、FM岩手など被災地の10放送局ではじめた。第1回の番組の冒頭、復興への思いをつづった散文詩「復興」を、ときおり声をつまらせ、怒りを込めながら読み上げた。詩は、「私たちのささやかな営み」を奪い去った海への「憎しみ」を露わにしつつも、現実に対峙する「覚悟」を力強く詠んでいる。
J-CASTニュース

COMMENTARY - "Thank You" is not necessary; U.S. forces honored to help reopen Sendai

2011年04月17日 | 社会
COMMENTARY - "Thank You" is not necessary; U.S. forces honored to help reopen Sendai
Posted 4/8/2011 Printable Fact Sheet

4月3日、仙台空港の27番滑走路から800メートルほど離れた砂浜で、松の大木を並べて描かれたARIGATO(ありがとう)のメッセージが見られた。同空港は3月11日の地震と津波により壊滅的被害を受けたが、嘉手納基地から派遣された第353特殊作戦群の支援を受け、3月16日に運用が再開され、人道支援活動の拠点となった。(写真 ロバート・トス米空軍大佐)

"ありがとう"などもったいない。米軍にとって仙台空港の運用再開を支援出来たことは光栄です。

統合支援部隊 統合特殊作戦隊司令官 ロバート P. トス 米空軍大佐

2011年4月6日 - 横田基地

2011年3月11日のマグニチュード9.0の地震とそれに続く33フィート(約10m)の津波によって残された惨状は言葉では言い表せない。日本の本州東沿岸300マイル(約480km)以上が破壊された。震災当初目にした中で最も悲惨な状況だったのは、仙台空港そして隣接する名取市と仙台市だった。津波が押し寄せた仙台空港と近隣の町のビデオは衝撃的だったが、3月16日に初めて仙台空港に到着してこれらの地域を目の当たりにした衝撃は、映像をはるかに超えていた。

何千もの潰れた車両、折れ曲がった飛行機、根こそぎにされた木々、崩壊した家々、水、砂、魚貝などが散乱し、機能が停止した空港のイメージは、フィルムに、そして我々の記憶にも記録された。しかしそれと対象的なのが今日の仙台空港の映像であり、それは希望と復興のそれである。

当初から私達の展望は、日本側と調整しながら人道支援物資を災害地域の中心まで直接配送可能にする為に、仙台空港再開を促進することであった。3月16日、最初の固定翼機が仙台空港の主滑走路に着陸したことによりその展望を達成した。

その4日後MC-130第一便が着陸し、日本人とアメリカ人で編成されるチームは全滑走路を整備してC-17の着陸を可能にした。我々は共同して拠点を築き、災害の中心地にむけての支援が流れ始めた。後に仙台空港の再開が希望の象徴として宮城県の人々に勇気を与えることになろうとは、当初は予想だにしなかった。我々の到着前、日本国土交通省航空局と仙台空港機関は仙台空港再開は不可能だろうと考えていた。

仙台空港を津波以前の状態に復興するには、日本政府、自衛隊、合衆国空軍、海兵隊、陸軍、海軍および政府機関どうしの全面的な協力が必要であった。二国間協議が設立された。委員会が当初練った計画では、当面は日本人従業員が復旧作業を行っている間、特殊部隊の兵士が支援物資の配送を可能にするべく、全ての飛行場運用に対処するというものであった。陸軍と海兵隊の部隊が3月20日に到着した際、直ちにこの流れに加わった。更なる支援を得て、両国間の調整委員会は計画に沿って、全ての空港運営を日本側の管理に戻す計画を、練り上げた。
 
4月1日に米国空軍戦闘部隊が行なっていた管制塔業務を仙台空港の管制官達に受け渡したのが、大きな節目だった。その日私が仙台空港に着陸する際、管制塔から日本人管制官の堂々とした声で着陸許可がおりるのを、胸が高鳴る思いで聞いた。

この日まで21日間という短い期間、米国空軍戦闘部隊の管制官は、オペレーション・トモダチに参加する米国空軍、海兵隊、海軍およびオーストラリア空軍等の250機以上の軍用機に着陸許可を与えた。これらの航空機は、これまでに231万ポンドの支援物資および現地で使用する重機・車両用の軽油およびガソリンを1万5000ガロン輸送した。

米軍が24時間態勢で空港運用を行ないながら物資を配送している間、空港の日本人は重機等を駆使して懸命に空港の整備と修理を行なった。

4月3日に最後の着陸を行なった時、これがほんの19日前には壊滅的な状態だった空港かと、我が目を疑った。

それよりもさらに驚いたのは、滑走路に向かって最終アプローチをかけた時だった。滑走路27番に向けて800メートルほど離れた砂浜の上空を飛行していた時、ふと下を見るとそこに日本語の"ARIGATO"の文字があるのに気がついた。津波でなぎ倒された松の木を20~30本使ってかたどったらしい。

我々の支援など日本の人々の労力に比べたら、何でもない。それどころか、我々が去った後も彼らの戦いは続くのだ。これまでも彼らは、自らが生き残るための戦いと行方不明者の捜索を行なう中、復興作業に懸命に取り組んできた。

陸上自衛隊東北方面隊を指揮する君塚栄治陸将は、4月5日に仙台空港を訪れて米軍から空港責任者に管制業務が引き継がれる場に立ち会った。仙台空港が再開した翌4月6日、空港は3月11日の朝当時、すなわち日本人により運営される元の姿に戻ったのである。

仙台空港においてオペレーション・トモダチに携わった米軍は、すべて本州と沖縄の駐留部隊である。支援活動に派遣された全米軍人に代わって言いたい事は、我々を迎え入れてくれた友人であり隣人の日本の人々を支援できたのは我々にとって名誉だということだ。

第353特殊作戦群、米国海兵隊富士機動隊、海兵隊第35兵站連隊および陸軍第35兵站連隊の全隊員、君たちの仙台空港復興に向けた懸命の作業に、また日本の人々に復興への勇気を与えてくれたことに感謝する。

聖アウグスティヌス曰く、「我々は賞賛には値しません。我々は我々の義務をなすのです」

日本の皆さん、ARIGATOにはおよびません。