令和6年6月10日(月)
富士市の東北部、愛鷹山麓の奥深い地に「風神社」があります。小さな祠ですが、山麓にある吉永北地区の歴史を語るときに、重要な施設となっています。
この土曜日、毎年恒例の「風の宮まつり」がこの神社で開催され、麓の住民の皆さんと片道約2.5kmの林道を徒歩で上り、参加してきました。
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(風の宮まつりの様子)
「風神社」は「風の神様」を祀っています。その由来は、約180年前の天保8年(1837年)、江戸時代の後期でこの地域にとっては世情が不安なときでもありました。
この地域では、災害や食糧不足のため多くの人が亡くなったとされています。そこで村人たちは、「風の通り道」と言われるこの地に「風の神様」を祀り、五穀豊穣と世の平安を祈祷しました。
それからというもの、不思議と大きな自然災害などは起こらず、多くの人が飢餓から救われたと言います。
また、明治時代には「風神社」の周囲は、地元の吉永第二小学校のための林となり、校舎の資材や給食の薪として使われてきました。
参加者は地元の皆さんが主体で、私のように外部からの参加者もいます。そして、全文にあったように学校との関わりもあり、吉永第二小学校の先生や生徒たちも同行し、郷土学習の一環にもなっています。
吉永地区には郷土史研究会があります。この行事の締めくくりには会員が講師となり、風宮の歴史にまつわる講話がありました。
しかし、郷土史研究会会員の高齢化が進み、リーダーだった元市議会議員が最近亡くなり、これまでに多くの郷土史を編纂してきたその功績は大きく、郷土史研究会の今後がどうなるのか心配です。
「風の宮まつり」とはいっても、山中にある小さな祠の前で参加者全員が手を合わせて、地域の安全などを願うだけの簡素なまつりですが、往復5kmの道中、ハイキングをしながら地域住民同士が会話することで親睦が深まり、私も普段聞けない地域の話題について情報を得る機会となりました。
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