常識について思うこと

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音楽の役割分担と調和

2009年07月05日 | 産業

オーケストラのクラシックコンサートに行ってきました。今までの自分の人生を振り返ってみたのですが、どうも過去に、そうしたコンサートに行った記憶がありません。そういうことで、恥ずかしながら、おそらく人生初のクラシックコンサートでした。

その初コンサートで感じたことは、各楽器の役割分担の重要性、それらの調和の大切さでした。先日、楽団の方にお話を伺ったところ、指揮者の違いによって、まったくあり得ない演奏をすることがあるという話を聞かされました。それは、指揮者の方が、それぞれの楽器を、全体としてどのように調和させていくかによって、とんでもない大きな違いを生むということでした。まだ私には、その違いがどのようなかたちで顕在化するのか、まったく分かりませんが、少なくとも演奏者の方々、一人一人の役割分担とその調和が、非常に大切であろうことくらいは、実感として理解できました。

ところで、こんなことを感じながら、私としては音楽そのものの位置付けについて、少々思いを巡らせてみました。

フラクタルという概念があります。ウィキペディアの内容を引用すれば、「図形の部分と全体が自己相似になっているものなど」ということですが、もっと簡単に言えば、「部分的なかたちと全体のかたちが同じようなもの」ということになるでしょう。これは、非常に簡略化した説明なので、詳しくは、別途、お調べいただければと思います。

いずれにせよ、私としては、「役割分担」という「かたち」について、「オーケストラ」という「部分」から、さらに「全体」に繋がるフラクタル的な広がりを感じるのです。右図では、私の人生初のコンサートを発想の起点にしている都合上、「オーケストラ=クラシック音楽の楽団」という整理をしております。この図のポイントは、クラシック(オーケストラ)のなかだけをみればヴァイオリン、チェロ、フルートといった役割分担がされていますが、それをマクロの視点から捉えれば、その「全体」であるクラシックもロック、レゲエ、ポップスといった音楽のなかでの「部分」として、ひとつの役割を担っているに過ぎないということです。さらに視野を広げれば、その音楽という「全体」すらも、芸術という枠組みのなかで、絵画や彫刻といった他の芸術と同様に、ひとつの「部分」に過ぎなくなるということになります。

このことだけに関して言えば、それは至極当然であり、特段、あらためて整理する必要もないかもしれません。私が、指摘しておきたいポイントは、そうした「部分」は、「全体」との調和のなかで、大きな力を発揮するということです。

今回のクラシックコンサートにおいて、私が感じたことは、役割分担と調和の重要性でした。クラシックコンサート、それ単体としての仕上がりを考える場合には、ヴァイオリンやチェロ等の各楽器同士の役割分担や調和だけを考えれば十分でしょう。しかし、それらがさらに大きな枠組みのなかで、フラクタル的な構造を持つとしたら、そのクラシック音楽自体が、ひとつの「部分」として、音楽「全体」のなかでの役割分担や調和を求められるということになります。こうした考え方に沿って、問題を広げていけば、音楽という枠組みですらも、芸術というさらに大きな「全体」にとっての「部分」であり、それらの「部分」をいかに調和させて、ひとつの巨大な芸術品を作り上げていくかということが、もっと重要であるということになるのです

音楽は、それ単体としても、非常に大きな意味があることであることは否定しません。しかし、音楽は、あくまでも芸術のひとつであり、映像やシーンを含めた他の芸術と結びついて、より大きな効力を発揮するというのは、それはそれで、また事実なのではないかと思います。

かつてのヒット曲たちが、名曲であるからヒットしたというのは、ひとつの側面なのでしょう。しかし、実態はそれだけでなく、かつてのテレビ等、大きなメディアの仕組みのなかで、「CMで使われていたから」、「ドラマの主題歌だったから」、「よく分からないけど、自分の思い出のシーンで聴いていたから」といった各リスナーにとっての関連付けも、非常に大きく影響しているのではないかと考えられます。

これからの時代において、インターネットのような新しいメディアの進展は、かつてのヒット曲を生み出すルールに、少なからぬ変化を生じさせるでしょう。そして、それはおそらく、楽曲データをデジタルファイルにして、インターネットで流せばよいというだけのものではないと考えます。

私は、これからのメディアシステムのなかで、音楽というひとつの芸術を、如何に他の芸術とスムースに融合させ、さらに大きな作品を生み出していくかということが、極めて重要なのではないかと思います。その結果、「部分」としての音楽も、引き立つことになるでしょう。それは、まるでクラシックコンサートの指揮者のように、各楽器の良さを引き立てて、それぞれをうまく調和させて、ひとつの作品を作っていくのと似ています。

残念ながら、現在までのところ、インターネットの特性を活かして、音楽をきちんとそのように扱っている事例はないものと認識しています。私の頭の中には、既にいくつかの具体的なアイディアがあるので、それらをひとつひとつ具現化できればと思います。

音楽は、それ単体としてだけではなく、「全体」のなかの「部分」として、もっともっと多くの人々に愛されるようになって然るべきだと思うのです。

《おまけ》
好きな音楽を聴いて、何を思い出すでしょうか。好きなドラマだったり、学生時代の思い出だったり、好きな人のことだったり・・・。音楽には、そういう力が宿っているのだと思います。私?私の場合、最近はアニソンばっかりですからねぇ・・・そういうことです。でも、いずれにせよ、そうした音楽の特性は、きちんと活かすべきでしょう。

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