常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

ビジネスモデルは表現物

2010年05月07日 | 産業

-最近、アメリカでMBAを取っているのは中国や韓国人ばかりだ-

先日、年配の方から「日本は情けない!」というコメントとともに、こんなお叱り(?)を受けました。MBAは、「経営学修士」等と訳されます。要はビジネスの専門家であり、それを科学的アプローチによって育成させたものです。お叱りの意味は分かりますし、MBAのような資格に対して、コンプレックスを抱くような日本の若者がいるとしたら、それは少々、残念だったりもします。

ただし、少なくとも私の場合、胸を張って「MBAは必要ない!」と言い切ることができます(もちろん、私自身、MBA取得者ではありません)。

例えば、こうした課程においては、様々なビジネスモデルを検証したり、扱ったりするといいます。けっしてそれが無駄であるとは言いませんし、それなりに意味があるであろうことは認めます。しかし、そもそもビジネスモデルとは何であるかについて、きちんと理解しなければなりません。つまり、ビジネスモデルの位置付けを知らない限り、自分が何を学んだのかを知ることもないわけです。そうした思考もないまま、大量のMBA取得者を生み出してしまっていては、それは即ち、大量の「井の中の蛙」を生み出すのと同じになってしまいます。それは、けっして褒められたものではありません。

逆の言い方をすれば、ビジネスモデルとは何であるかを理解した者は、その全体像の中から、それを位置付けることができ、それが故に、それを深く掘り下げて学ぶ必要はないと考えることもできるということです。

以下、私見ですが、ビジネスモデルとは単なる思想や哲学の表現物に過ぎないと考えます。換言すれば、その思想や哲学が何であるかを理解できていれば、いちいちそれを精査する必要はないし、そのビジネスモデルの発展型や限界等、容易に推し量ることができるということです。

思想や哲学というのは、目に見えるものではありませんし、それを分かりやすく可視化させるというのは難しいことなのかもしれません。そして、それが故にそれらとビジネスモデルとの間を結ぶ線が不鮮明になり、単なる表現物であるビジネスモデルの方にフォーカスしてしまうということが起こってしまうのかもしれません。

しかし、だからと言って、それに甘んじていては、三流の誹りを免れないでしょう。ビジネスモデルにフォーカスしているという時点で、そこに大きな落とし穴があるかもしれないということです。もう少し厳しい言い方をすると、ビジネスや経営の本質は「見えないものを見ること」であるとも言えます。そして、真にそれができている者は、そもそもビジネスモデルの裏にある思想や哲学等、容易に見透かすことができるはずであり、そうであるからこそ、そうした思想や哲学に裏付けられたプレイヤーが次に何をやるのか、どこまでの範囲でビジネスを展開できるかというのが、極めて鮮明に見えるものだと思うのです。

繰り返しですが、私自身、ビジネスモデルを学ぶこと自体、否定するつもりはありません。そして、冒頭で述べたようなお叱りについては、それはそれとして、真摯に受け止める必要もあろうかと思います。しかし、そうかと言って、むやみにビジネスモデルなるものを有り難がって学ぶ者は、それが単なる表現物であることを知らないか、あるいはその裏にある思想や哲学とは何かを理解していない者かもしれない点についても、きちんと指摘しておきたいと思うのでした。

《おまけ》
ビジネス誌等の媒体で、GoogleやApple等、アメリカの最先端とされる企業のビジネスモデルを扱った記事が多々あるように思います。あくまで私自身の話ではありますが、同じようにコンピューターやインターネットビジネスを手掛けていく身として、そうした記事の中に新しい事実を確認することはあっても、新しい何かを学ぶことはないと思っています。・・・否。もはや、そこに学んでいるようでは、既に大きく出遅れているように思うのです。これからの時代、日本人の多くが、自らオリジナルモデルの発信者になっていかなければならないと思います。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 基地撤廃に向けたビジョン | トップ | 2010年4月期のアニソン »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

産業」カテゴリの最新記事