常識について思うこと

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宗教が説く真理

2006年09月12日 | 宗教

完全、完璧な宗教はありませんが、宗教のすべてが間違っているとは思いません。それぞれの宗教には、必ず一部に真理が秘められていると思います。

あらゆる宗教の共通点。「信じるものは救われる」。だからこそ宗教として成立するわけですが、そのポイントは、「信じるべき対象が何か」にあると思います。つまり一神教にせよ、多神教にせよ、その信仰の対象としての「その神」を信じることで救われるというのが宗教です。

少し宗教と離れて、人間について考えてみましょう。人間一人一人は、大変貴重な存在であり、価値のない人間など一人もいません。この世に存在する人間は、それぞれ個性をもっていて、けっして他人と重なることがないのです。人間が持ちうる能力や価値は、無限の広がりをもっており、それは人類全体で有しています。したがって、それらの能力を一人の人間がすべて持つということは不可能であり、人間一人は、人類全体で有している無限の能力の一部を、一個体として授かっているだけであり、その能力はその人にしか宿りません。だからこそ一人の人間は、例外なく素晴らしい存在であり、それぞれが優れた能力を有していると言えるのです。

しかし一方で、その素晴らしい存在であり続けるためには、ひとつの条件があります。それは、その人が「個人のためでなく、全体のために生きる」ことを考えているか、ということです。

大昔から、人間は何のため生きるのかという問題は、人類にとって最も難しいテーマのうちのひとつです。

ところが、答えは実に簡単です。
いかにして、「みんなのために生きるか」ということです。

みんなというのは、極力広く、大きく捉えるべきであり、「人類全体」、「地球」というテーマで考えるとよいでしょう。このような心構えでいると、自ずと「私心」が消えていきます。「無我の境地」という言葉がありますが、いわゆる邪念が消え、明確に生きる意味とビジョンを知り、その大きな目標の前にはだかる大きな障壁を認識し、これを越えることこそが、自らの使命であると位置づけ、これを克服するための強い意思と力を手に入れることができるのです。

これが「個人のためでなく、全体のために生きる」ことを知った人間の強さです。逆の言い方をすれば、大きな目標やビジョンをもったとき、このために限られた自分の命を使うことができる、いわゆる「使命を全うして死ねる」と思えるようになるのです。たとえば「地球上の砂漠をなくしたい」というテーマをもったとき、そのことのために命を使うこと、死んでいくことには、むしろ喜びを感じることができます。それが人間です。

しかし、日常生活のなかで、邪念は常に付きまといます。絶えず自分自身のこと「個」を考え、そのことのために生きようとしてしまいます。

宗教では、それらの邪気、邪心を拭い去り、「無我の境地」を感じられるように、いろいろな手法を取り入れます。たとえば礼拝です。ひたすら、自分ではなく神に祈る。けっして「神」を疑ってはならない。そのことで「個」を捨て去り、「無我の境地」に至ることができるのです。重要なことは「神」そのものではなく、「個」を捨て去るということに本質があるということです。

こうして「個」を捨て去った瞬間、ふとビジョンが見えてきます。これは、「無我の境地」に至り、「みんなのために生きる」ことを感じたときに生まれてくるものです。しかし、宗教は、この瞬間を利用します。本来、「個」を捨て去るという作業は、自分の力によって成しえて、それによって得られたビジョンであるにもかかわらず、それを「その神」のおかげであり、「その神」が授けたものであると説くのです。そして、「その神」を信じるべき対象とするわけです。このときの「その神」を何と説くかが、それぞれの宗教で異なっているだけのことです。

したがって、宗教には真理が秘められています。それは、「個」にこだわるなということです。

自分は「みんなのために生きる」、自らの命はそのためにあると思えれば、自ずと幸せとは何であるかを知り、そのための強い意志をもち、それを実現するために恐れることなく突き進む、強い人間になることができるのです。

あとは各個人が、「みんなのために生きる」ときの「みんな」とは何かを探していけばいいのです。ある人は「家族」、ある人は「社会」、ある人は「国家」、ある人は「人類」、ある人は「地球」。それはさまざまです。ただ、せっかくならば、大きく広くたくさんの「みんな」のために生きようと思えたほうが、幸せではないでしょうか。そして、それが人類共通のテーマなのです。

たくさんの「みんな」のために生きることを決めることで、大きな困難をともなう人生となります。しかし一方で、より大きな生きがいと幸せを手に入れることができるのです。そのことは、ある特定の宗教によって与えられるのではなく、自分自身で考え、自分自身を信じ、自分自身で決めることができます。単純に言えば、自分自身が「神」であると思えばよいでしょう。

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