常識について思うこと

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頼るべきは「自分」

2006年09月09日 | 人生

どんな宗教に入るのも自由です。信仰の自由は尊重されなければなりません。したがって、ここで個別の宗教について論じるつもりもありません。

しかし宗教全体について考えると、現代に限らず人類の歴史のなかで、宗教が存在するということ自体、あまり健全なことではないように思えてならないのです。

日本には、無宗教の人が多いです。もちろん、日本にも宗教団体があり、それらに入信している方々もいらっしゃいますが、世界の国々と比して非常に少ないと言えるでしょう。あるイスラム教の友人が、私に対して、日本人に宗教がないことを可哀相がるようなニュアンスで話をしたことがありました。

しかし私は、むしろ日本人の多くが特定の宗教をもたないことに誇らしさを感じています。

完全、完璧な人間がいないのと同じように、欠陥のない宗教というものはないと考えます。必ず何かしらの問題を抱えているのが宗教でしょう。なぜ完全、完璧な宗教なるものがないと断言できるかは明快です。世の中に複数の宗教があるということは、それぞれの宗教が真理を説き、それを正しいと主張することになります。結果として、すべての宗教が他の宗教を許すという寛大さを失ってしまいます。もし、ある宗教が他の宗教をも許す寛大さをもっているというのであれば、そもそも宗教など必要ないことになります。そもそも自らが正しいと主張する意味がないからです。

あるいは完全、完璧な宗教が存在するとするならば、戦争やいがみ合いから抜け出し、すべての宗教が互いに尊重し、互いに受け入れ、それを真剣に実践することを通じて、ひとつの宗教として統合されていくはずです。戦争などの手段に訴えず、互いに非難することも、否定することもない、完全、完璧な宗教ができあがったとするならば、そのとき宗教はひとつのかたちになるでしょう。

そのような意味で、複数の宗教が存在しているということ自体、完全、完璧な宗教がないことの証であり、そのようななかで、いかなる宗教にも属さず、無宗教を通すということは、誇らしいことであると思えるのです。

もちろん、個々の宗教が、どのような主張をしているのかについて耳を傾けることは、けっして悪いことではないと思います。むしろ、それぞれの宗教には、人々が信じるに足る真理が含まれているはずであり、そのことを汲み取ろうとすることは大事なことだとも思います。しかし、大事なことは、それらすべてを信じ切る必要はないということです。欠陥がある宗教の主張には、必ず偽りが含まれていると考えるべきでしょう。その部分までを信じる必要はありません。宗教を信じきってしまっている人たちが引き起こしている戦争、異教徒同士の殺し合いの歴史は、その危険性を十分に物語っていると考えます。

こうした意味で、宗教の本質はどれも同じであると言えます。キリスト教、イスラム教、仏教といった世界の三大宗教なら聞いたことがあるから安心で、聞いたことのない新興宗教は怖いし、危ないかもしれないというのは、大きな間違いです。

名前も聞いたことのないような新興宗教で、レイプ事件やら暴行事件が起こって、被害者の会が結成されるとか、マスコミがその実態を取り上げるとかいったことは、よくあることです。それをみて、多くの人は「やっぱり新興宗教は怖い」と思うでしょう。しかし、さらにそこから「キリスト教なら安心だ」などと思っている人がいるとしたら、大いに問題です。そもそもキリスト教が、歴史的にどれだけ多くの人々を苦しめ、殺してきたでしょうか。キリスト教によって救われた人々、恩恵を受けた人々も多くいたでしょうが、そうした大きな功績を打ち消しきれないほど、多くの人々を殺し、苦しめてきたことも事実であると思います。(ちなみに、イエス・キリストという人物については、キリスト教とは別のまったく違った意味合いがあると思っているので、それについては機会をみて別途書いてみたいと思います)

人間には、どうも分かりやすい規模というものがあるようです。新興宗教の業によって、数人、数十人、数百人が苦しめられたというのは、直感的に「悪いこと」と認識し、そのことに単純に怒りを覚えます。しかし、宗教による悪行の仕掛けが大きくなり、害を被る人々の数が数百万人、数千万人、数億人という数字になると、実感として理解できなくなる。いやむしろ、その罪の大きさと同時に、自分の無力さを実感してしまうがゆえに、信じたがらなくなる、というほうが正しいかもしれません。また、そのような大きな罪を犯すものは、それだけ大きな力も持っています。批判したところで、何も変わらないと思えてしまいます。結局、多くの人々は、適当な小さな正義は振りかざしますが、本質的な大きな正義には向き合おうとせず、迎合していってしまうのかもしれません。

今の社会で生きていくことは、幸せなこともありますが、それと同時に辛いことだらけでもあります。しかし辛いからといって、小さな正義を振りかざすような、現存する宗教に迎合してはなりません。ほとんどの人が、どこかで諦めてしまっているのではないでしょうか。

大きな正義とは何か。

常に常識を疑い、自分の限界を無限であると信じ、素直な心でひとつひとつの問題に向き合っていけば、答えは自ずとみえてくるでしょう。自分を強く持ち、今の社会に迎合せず、真に正しいことを突き詰めるとき、頼りになるのは宗教ではなく、自分自身の力だけであることに気付くはずです。だからこそ、私は無宗教を貫きたいし、そのことを誇りに思うのです。

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