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政治家と官僚の役割分担

2012年02月02日 | 政治

官僚主導の体制を害悪として、「脱官僚」、「政治主導」を標榜する人々がいます。これはこれで、ひとつのかたちなのでしょう。しかし、官僚との協業ができない政治家・政権は、ひとつ間違えれば、単なる傲慢に成り下がります。重要なのは、役割分担でしょう。

「脱官僚」、「政治主導」をスローガンに、国会答弁には政治家のみで対応するという試みもなされました。しかし、この結果透けて見えてくるのは、政治家たちの力量不足でした。

国会の議論を眺めていると、時折、野党から重箱の隅をつつくような質問がなされることがあります。当然、細かいことを把握できていない大臣は答弁に窮し、それをみた野党が、鬼の首をとったかのように騒ぎ立てるということが起こります。これでは、建設的な議論が進みません。

元来、大臣がすべての案件について、詳細まで把握している必要はないものと思われます。国の根幹に関わる重大な意思決定を行うための情報さえ、きちんと把握できていれば、適切な判断はできるはずです。その重大な意思決定をするために必要な情報を大臣が把握しているのか、野党が問いただすのは重要なことです。しかし、それに当たらない質問、あるいは詳細な数字を求めるような質問については、いちいち大臣ではなく、各担当者(官僚)が答えればいいはずです。

そうした官僚と政治家の役割分担(あるいは、官僚の方々の能力)を無視して、安易に「脱官僚」などというスローガンを掲げてしまっては、それらの質問について、大臣をはじめとした政治家が全て答えなければいけないということになります。これができない場合、それはもはや「脱官僚」を標榜した政治家の自業自得と言うほかありません。

そういう意味で、政治家は官僚の方々と、大いに協業しなければいけないのです。そのなかで、政治家が成すべきことは、官僚の方々を惹きつけるだけのきちんとしたビジョンを示すことでしょう。官僚の方々も、官僚である前にそれぞれが一人の国民です。国民を惹きつけるビジョンをもたずして、政治家が、その職責を果たせるはずがありません。ここにこそ、本来あるべき「政治主導」のかたちがあるのではないかと思います。

「脱官僚」、「政治主導」が間違っているとは言いません。戦後からの高度成長時代が過去のものとなり、多くの人々が国の行く末を見失っているなか、何か新しい試みをしようというのは大切なことです。その試みのひとつが、「脱官僚」、「政治主導」という言葉に表れているのでしょう。ただ、そうした大変な国情であるからこそ、なおのこと政治家は、自分たちのビジョンを明確に示し、多くの官僚の方々を巻き込んでいかなければならないのだろうと思います。重要なのは、両者の役割分担なのでしょう。

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