常識について思うこと

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集合的無意識の力

2006年11月14日 | 異次元

人という字の成り立ちは、お互いが支えあって生きていくというところからきています。また人間というのは、人と人の間にいて成り立ち得るからこそ、人の間と書くのです。

人は一人では生きられない。いろんな人がこのようなことを言います。ごもっとも、まさにそのとおりです。そして、このことは、人間に限られたことではありません。他の生物でもまったく同じです。

例えば、アリ。アリは集団生活をする生き物です。アリはけっして一匹では生きていけません。そして、アリの巣を、ひとつの全体としてとらえると、それは女王アリを中心として、食糧を運ぶアリ、子育てをするアリなどの多くの個体で構成されており、それぞれの個体が異なる役割をもっているのです。当たり前のことですが、アリの個体、一匹が生物としての単位です。しかし、アリの巣をひとつ構成している集団全体は、あたかもひとつの生物であるかのように、それぞれの個体が見事に連携をしながら活動をしています。この見事な連携は、みえないところに独自の指示系統があるかのようにも感じられます。

視覚的に分かりやすいのは、イワシの群れです。イワシは、海中に住む多くの生物たちにとってのエサになります。よくテレビの海中生物の特集などで、イルカやオットセイなどが、イワシの群れを追い回しながら、食べていくシーンがあります。一匹、一匹がイワシの生物としての単位ですが、このときのイワシの群れの動きは、あたかもひとつの生物が逃げ回っているかのようです。どこに先頭があるわけでもありません。しかし群れとしての意思があり、それに沿って一匹、一匹が動いているようにみえます。個体の意思と群れとしての意思が、本当に連携しているのかは分かりません。しかし、個体と全体(群れや集団)が、何の関係もないと言い切ることはできないと思います。

100匹目のサルという話をご存知でしょうか。事の真偽は別として、それは以下のような内容です。

九州宮崎県の幸島で、一匹のサルがサツマイモを海水で洗って食べることを始めました。適度に塩味がついておいしかったのか、これをみていた他のサルたちもこの行動をまね始めたのです。しばらくすると、多くのサルが、サツマイモを海水で洗うようになりました。そして不思議なことに、ほぼ時を同じくして、この島の群れと一切接触ができない場所に住む、複数のサルの群れで、まったく同じ行動が観察されるようになったというのです。物理的な接触がないサル同士が、みえないところで通信を行う。まさにテレパシーのようなものです。

テレパシーというと、胡散臭いですが、こうした話を全て否定しきってしまうというのも危険のような気がします。

シンクロニシティという言葉があります。同時代性とも訳されますが、まったく別々のところにいる人間が、同じときに同じことを考えるというものです。私自身、あるブランドプランニングの会社の人たちと打合せをしていたときに、普通にこの言葉が出てきたのにびっくりしたものです。あるネーミングの作業で、ようやく名前が決まろうとしたとき、「シンクロニシティというのがあります。この瞬間、同じ名前を考え付いた人がいるかもしれません。この名前は、いい名前ですので、早く商標登録してください」と言うのです。

別々の個体として活動している生物同士が、テレパシーのようなもので通信をしている。生物の意識は、実はそれぞれがつながっており、全体として群れの意思が存在する。何とも不思議で、突拍子もないような話ですが、科学の領域で、このようなことを唱えている学者もいるのです。

心理学者のユングは、人間の心は意識の下に無意識があり、さらにその下に集合的無意識があると主張しました。集合的無意識とは、個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられるものであり、これらが人間の行動や判断に影響を及ぼしているというのです。こうした集合的無意識に対して、もう少し積極的な解釈をすると、個体を越えた全体の意思が存在するということになります。つまり、集合的無意識とは、「みんなが心の底で本当に望んでいること」であり、このことは普遍的で、ある特定の方向を向いた意思として存在するということです。

実は、こうした集合的無意識の存在を認めていくことで、宗教をはじめとした精神世界の謎にひとつの有力な仮説を立てることができるのではないかと考えています。その仮説とは、「集合的無意識」=「みんなが心の底で本当に望んでいること」=「神の意思」であるということです。

宗教の分野で、雑念や煩悩を取り払うという作業は、よく行われています。苦行や礼拝などを通じて、無我無心の状態に至る、あるいは瞑想状態に入るといったようなことは、宗教世界では一般的に行われていることで、こうした作業を通じて、自らを磨き、神と対話をすることができるようになるといいます。例えば、礼拝堂で心穏やかに、静かに礼拝を行います。無我無心の状態に至ったところで、直観的なひらめきを感じ、ふと目を開きます。すると、目の前には偶像があるのです。宗教は、この瞬間を利用します。そのひらめきこそが、神との対話であり、その神とは目前にある偶像であると説きます。しかし、ここには宗教のウソが含まれています(「頼るべきは「自分」」、「宗教が説く真理」参照)。

このときに行われる雑念や煩悩を取り払うとい作業は、ユングの精神世界でいうところの個のレベルの意識や無意識を取り払うということであり、そのこと自体は何も神によるものではありません。自分自身が穏やかな心をもち、本当に必要なこととは何かに集中することで、感じ得るものがあります。その人が感じたひらめきそのものは、宗教が言うところの神ではありますが、それは何も特別なものではなく、すべての人がアクセスし得る人類あるいは生物の集合的無意識かもしれないのです。「みんなが心の底で本当に望んでいること」は、自分にとっても、人類や生物全体にとっても必要なことであり、それを知ることで悟りを得たり、信念を掴んだり、幸福感を覚えたりすることができると考えることができるわけです。

ところで、純粋にみんなが本当に望んでいることとは何でしょうか。金でもないでしょう、名誉でもないでしょう。個人の欲のために競争社会を生み出し、身勝手な行動により地球を住めない星にすることではないことは明白だろうと思います。いろいろな葛藤はありながらも、あらゆる人間は、個人のエゴに振り回されず、自分も他人もみんなが幸せに住めるような環境を維持し、生き続けていたいと望んでいるはずです。生きたいという願望は、生物としての普遍的なものでしょう。あなたが個人の雑念や煩悩を振り払い、そうしたみんなの心の底にある本当の願いに忠実であれば、無意識のレベルで、みんながあなたのことを応援してくれるはずです。

みんなの本当の願いとは何か。それを知るために、現存の宗教に頼る必要はありません。あなた自身が、心穏やかに無我無心の状態で、目前の問題から目を背けずに、向かい合っていれば、何をすべきかを悟ることができるはずです。そして、それを実行しようとするとき、地球上のすべての人々が、集合的無意識を通じてあなたに協力をしてくれるようになるかもしれません。

今、あなたがしたいと思っていることは何でしょうか。それは、本当に人類全体が望んでいることでしょうか。もし、そうであるならば、人類全体が無意識のレベルであなたのことを助けてくれるし、それこそが、現存の宗教が言う「神の救い」となると考えることができます。人類全体のためを考えて、行動をしている人たちには、必ずそれを助けてくれる力が働くはずと考えることができるわけです。自分がすべきことの大きさにひるまず、自分の生きるべき道を信じて、勇気を持って行動を起こしてはどうでしょうか。必ず道は開けると思います。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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大変感慨深く読みました (ねこひな)
2010-11-19 11:28:07
力になりました。ありがとうございました。
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こちらこそ (竹内一斉)
2010-11-19 11:42:47
ねこひなさん、コメントをいただきありがとうございます。
力になれたのなら、とても光栄です。
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