満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

アーカイブ「満月に聴く音楽」(2006)回想の歌③  the doors breaking through the other side 

2022-08-31 | 新規投稿

回想の歌 ③  the doors breaking through the other side 

以来、
私は栗原のギター、その陰影に富むギター音を愛した。彼のサイケデリックメロディアスなギターと私のフリーファンクなベースは融合しファンファーレとなり、合体された二人の音像は暗い光を放っていた。スタジオで発せられるマイナートーンの音そのものが日常へと逆流して現実感を占め、私の内面も外側もその幻の環境で満たしてしまうような引力があった。私は社会生活のリアルさを少なからず失うトリップ状態にあったであろう。

ロックに還ってゆく契機のようでもあった。
LP、CDを買いまくり借りまくるどうしようもないリスナー体質な私。ジャズ、フリー、アヴァンギャルド、プログレ、エスニック、ファンク、ヒップホップ、ブルース、カントリー、エレクトロニクス。趣向の幅を限りなく拡げすぎていた当時の私はしかし、栗原と奏でる音響の中に十代の頃に耽溺した<懐かしき原ロック>の快楽を重ね合わせていた。
‘ロック’こそが私の深部に宿って消えない原点であった。パンク、ニューウェーブを同時代に追い、そこにプログレを併走させた私は‘ロック’の持つ奥深い濃度こそを愛好し、そこに浸るきらいがあった事は過去の事実であろう。その耽溺の中で‘快楽と覚醒が共存できるのか’といった事を薄ぼんやりと意識していたのだと思う。そんな思考へと向かわせるものが正にロックのロックたる証左であった。私はジョイディビジョンを一つの究極とし、その先駆としてのベルベットアンダーグラウンド=ルーリード、ドアーズ=ジムモリソン、或いはプログレ、ユーロロックを愛好していた。

嘗てロックとは日常感覚から私を引き離し、理想主義的な夢想体質へと誘うような魔力あるものであった。意識が研ぎ澄まされながらも、惰眠するような精神を助長するものがあったと思う。そしてその快楽からもう逃れる事はできないと自覚していた。良しにつけ悪しきにつけ音楽は日常的な栄養であり毒になった。大げさに言えば人格や人生観の形成に少なからずロックが介在した。ロックを基点とし、そこから興味の対象が拡がり、概念的なものへの関心にも向かった。ロック批評の阿木譲、北村昌士等の言説にも影響された私は今思えばややドグマ的とも言える過激主義があっただろうか。社会性に対する漠然とした‘反’(アンチ)の意識と不安感、閉塞感が同時に共有されていた。そんな状態を正当化し意味あるものにしていく欲求とその不可能性との間に宙ぶらりんになっていたのが当時、10代後半から20代前半の私ではなかっただろうか。未熟で純粋、知的で頓珍漢、夢想的で阿呆。理想主義。当時のロックマニアはそんな人間が多かったと思う。

 ‘青い夢想者’がいた。
その夢想者がいつしか、悪戦苦闘を続けながら何とか社会性を身につける術を心得て、サラリーマンとして現実と折り合いを続けながら、もう一人の自分(本来の自分という思い込み)の聖域としての音楽活動を展開していた。表現行為は私にとって重要で、誇り高く、アイデンティティーそのものであった。これを失う事、即ち自己崩壊であるという一種の強迫観念にも似た思い込みがあっただろう。一種の勘違い野郎だった。何ともキャパが狭い事であった。まあ、若いからしょうがない。
しかしその‘勘違い’から生じるエネルギーは強かった。大した才能もない私ががむしゃらに突き進む事でそれなりの出会いや活動が可能になったのだから。勘違いと盲目が力を生み、努力を可能にし、止まらない車輪を生んだのだ。ベースの演奏技術も私なりに上達があった。

元リザードのドラマー、ベルと会った時も、自分に最低限の技術がある事が私を勇気づけていた。もっとも最初のセッションの時、「Pモデルに入るため抜けてしまう」と栗原が言っていた前任ベーシスト(名前は忘れてしまった)のシンプルで雄弁な演奏に‘負けたか’と感じたのも事実であったが。しかしそれでまた発奮するおめでたさと生真面目さを私は持っており、モチベーションにつながっていただろう。
栗原のバンド、The Faithはいいサウンドを持っていた。中でも栗原のギターは絶品であっただろう。その演奏には歌心があり、幻惑的であった。バンドカラーを決定づけるトーンを持っていた。圧縮されたレベルから一気に拡がりを見せ、スタジオに充満するそのサイケデリックな音響。表現力が桁違いにあったと今でも思う。彼の存在によって私はバンドの未来に展望を見、甘い夢を持ったのだ。

*****

問題はあった。
ヴォーカリストの浩太郎に対し他のメンバーは不満だった。声量に安定度を欠き、シャウトに走りがちになる事がしばしばで、好不調の波が激しい。私達は浩太郎を見守り、彼はそれに応えようと努力していた。元来が真面目な男であった。誰も彼を見放す事はなかった。しかも浩太郎のルックスの良さは際立っており、華のあるオーラを放っていた。長身で美男、手足が長く、ステージ映えする事は間違いないだろう。ちょっとしたタレント然としたムードを持っており、彼を「福岡からスターを目指して上京した」と私に説明した栗原には特に可愛がられていた。

私などバンド活動とはインディーズ以外の何物でもない態度が最初からあったが、彼は違う。浩太郎にとってバンド活動とは成功するか失敗して故郷に帰るか二つに一つである。そんな彼は純粋にサクセスを夢見、精進するのであった。自分の下手さを自覚しながら懸命に歌っていた。私は彼とよく話し、相互理解に努めた。そしてレコードをたくさん聴かせた。彼は今、一緒にやっているベルが在籍したバンド、リザードも知らないのだ。もっとも栗原も「聴いた事ない」と言っていたが、困ったもんである。浩太郎は洋楽などは尚更、何も知らず、同郷からブレイクしたARBやルースターズに畏敬の念を持っていた。九州出身のバンドは多い。
「何かをやらなきゃいけないという意識の奴が多いんですよ。俺もそうですし」
浩太郎はいつも夢を語り、真っ直ぐ前を向いていた。生活態度も真面目で、ストイックな男だった。服装だけは常にキメており、原宿ロボットの服を愛好していた。

私達の物語は始まっていた。
週二回、池袋の<スタジオ創造>でリハーサルを行ない、その後、栗原の部屋で曲作りをした。ベルや浩太郎もよく来たが、部屋の主、高さんやその水商売仲間と酒を飲んでいた。私と栗原がごそごそと曲をMTRに録音したりする隣で皆がワーワー騒いでいる絵は今思えば何とも可笑しい。もっとも栗原はうんざりしていたが。
「うるさいなあ、高さん、もう少し静かにして下さいよ」
「しょうもない歌、作らんとあんたも一緒に飲み」
高さんの酒量は明らかに多かった。彼女の酔いは時たま凄まじいものがり、手に負えない事がある。最初は自分のペースで飲み、陽気になって周りの人間にどんどん酒を注ぐ。そして皆が酔いだし騒ぎ始めると、急に怒り出すというパターンが多かった。私と栗原にも執拗に絡んでくる。
「宮もっちゃんもちょっとは飲みいや。何がええ?くり!もう少しましな曲作らなあかんで。ほんまに」てな具合でやかましい事、この上ない。
しかし私はこの高さんの普段の優しさや、飲んで荒れている様をどちらも愛していた。彼女に何らかの‘過去’‘痛み’の気配を感じていた。もっとも栗原には部屋代が不要である事と引き替えに、無理矢理飲まされるという犠牲が伴っており、それが彼を少しばかり苦しめていたのも確かであるが。
「あの人、凄い酒飲みやからな。いつも変な愚痴につき合わされて飲まされるんや。お陰で一滴も飲まんかった俺が、酒飲みになってしもうた。仕事に差しつかえるしあまり飲みたないのに」

ある日、栗原と私はリズムボックスをいじってパターンをあれこれテレコに録ったり、歌詞を作ったりしていた。隣の部屋では高さんがいつものように数人の連れと騒いでいた。しかもラジカセのテープに合わせてアンルイスや中島みゆきの歌を大声で歌っていた。気が散るのでその日はふすまを閉めていた。雑音をシャットアウトして集中していたのだ。暫くすると、先程、二人が練習で入れたデモが高さんのラジカセから聞こえてきた。その前に何かダサいフォークギターが聞こえたが。
「あれっ、どおりで見つからんと思ったら、高さんが向こうに持って行ってたんやな」
私が言うと栗原は青ざめた表情になっている。
「あっ!しまった!」
「どうした?何を慌ててるんや」
私が不思議がるのも束の間、高さんの怒号が聞こえてきた。
「あんたら、何よこれーー!」
怒りの形相でふすまをバーンと開けて飛び込んできたかと思うと私達に怒鳴り始めた。
「勝手に人のテープに変な音楽入れて。台無しやないの!どうしてくれんのよ!」
怪訝な私をよそに栗原は神妙な顔で謝り続けている。何がどうなっているのか解らない私はこの悪夢のような様を茫然と見つめるだけであった。
高さんがふすまをパシャーンと閉めてあっちへ去った後、栗原はだらりと首を項垂れて言った。
「あれはまずかったで宮本くん」
「何がまずいねん?あのテープが」
「昔の彼氏が作った曲が入ってたんや。それを俺等のジャムセッションで消してしまった。もっと注意しとけば良かった。曲作りに夢中になっててそこらへんのテープをひっかき回してたからな」
「それは悪い事したな。でもそんなに大事なテープなら爪を折っとかなあかんわ」
「あの人、大阪にいた時の彼氏が未だに忘れられへんらしいんや。最初、一緒に出てきたらしいけど別れたんや。あのテープを聴きながら泣いているのを前に見た。へんなフォークソングばかりやけどな」

私は高さんがBOROの曲、「大阪で生まれた女」が好きだという事も知った。私も好きな歌である。私は特に萩原健一の二枚組ライブアルバム『熱狂雷舞』(80)に収められた柳ジョージ&レイニーウッド+速水清司の素晴らしい演奏をバックにしたヴァージョンを愛聴していた。
そう言えばこの歌の内容は正に高さんの過去、人生そのものなのだろう。「大阪で生まれた女」は彼女のテーマソングだった。私は高さんの日常である喧騒の背後にあるものを感じていた。明らかに彼女は過去の痛みを持っていた。表現者ではなかったが、彼女も私達の紛れもない仲間であっただろう。

**************
栗原はいくつかの良い曲を書いた。
ある日、スタジオで彼がアコースティックギター一本で歌った歌があり、その曲名を<age of god>(神代)と紙に書いて皆に見せた。私は傑作だと思った。ネオアコ風ではあったが、爽やかではなく、もっとブルース臭が強い。
私は‘age of god’という難しい英語に少し驚いた。普段、英語を全てカタカナで書くような男が書いたのだから尚更である。
「難しい意味はない。勝手に作ったんや。‘神々の時代’っていう事やな」
少し照れながら栗原は説明した。本当はもっと言うべき内容があったのだろう。しかしそれを今、長々としゃべるのは何となく恥ずかしいし、スタジオ代ももったいない。
私は大凡、イメージした。キリスト教に於ける‘終末思想’、仏教での‘末法の世’のような荒廃の世相、時代の果ての平安の事だろう。そしてこれは現実への嫌悪がベースになっている。栗原のユートピア願望であり、夢想であると思った。
栗原は普段の様子からは想像できない程、現実を疎んでいる。そしてそんな現実での自分の居場所を確保する為の悪戦苦闘、自己治癒が彼にとっての表現行為としての歌作りであった。やや横柄で陽気な顔とそれに反するような内面のイノセントを持ち、ある種の精神的不安定さと共に生きていた。それが栗原に見た私の印象であった。

栗原の神や神秘といったものに惹かれる体質は隠しようもなかった。「創価学会に誘われた時、断ったけどそいつらの話には感銘を受けた」と言った事もあった。‘危うさ’を持った男だった。ナイーブさと感受性の強さが際立ち、社会的には頓珍漢でダメな奴であっただろうが、現実の裏を感知するような典型的なアーティスト体質の男と言ってもいいだろう。
「age of god」は傑作だ。
高音域が多用されるこの歌を浩太郎はなかなか上手く歌えなかったが、徐々に克服していった。まるで音楽の授業のように健太郎は必死だった。私はベースラインを作り、歌メロに対するセカンドメロのようなものにした。
「ビートルズみたいでなかなかええやん」
栗原は認め、曲は完成した。

**************

「age of god」の暗さと美しさはグループの象徴になった。
退廃と希望が表裏一体となったような曲であり、それは‘幻視者’栗原によってもたらされた感覚であった。
ロックアーティストは‘視る者’としての諦めと虚無の感覚を持つ。肯定性へ向かう背後に常に否定性がついてまわるものだ。そんな根拠を前提とした表現行為とはいわばぎりぎりの肯定と快楽を約束し、最後には人生を否定しない拠点を築く。ロックの深みはここに在ると思う。何かの希望へ向かって脳天気にメッセージするロックを私は信じていない。嘗て、ジョイディビジョンによって生じた私の感性の基軸は、そこから遠く離れる(と感じられる)ロックを<ロックでないもの>と断じてきた。私は極端なヘンコではないが、確かに偏りがあったとは思う。

「age of god」をセッションしたあの日、スタジオのリハーサルルームを出た時、ロビーでかかっていたのはドアーズの「breaking through the other side 」であった。ジョイディビジョンの先祖と言って良いジムモリソンがファーストアルバムの一曲目で歌ったこの曲は、ロック表現の原点であり、成就でもあろう。それは以後、30年以上続くロックシーンの始まりであったと同時に‘既に見極められた終わりの成就’であったと思う。彼はこの曲で‘もう一つの世界、向こう側へ突き抜けよう’と歌ったのではない。そうゆう出発点と未来願望ではなく、ただ一人突き抜けた男がこれから続く迷宮を前に自己崩壊と敗北を宣言したのだ。視えてしまっている者は既にポジティブに対する距離の感覚と繊細さを有し、あとに残された表現行為による自己確認に質実性を高度なレベルで宿すだろう。そこでは‘解りきった’安易さとは無縁になる筈だ。虚無に裏付けされた外界へのインパクト、その強度を持ってメッセージとし、肯定性と呼ぶ。ロックのマイナー性の根拠はそれが夢を語らず、正夢としての地獄巡りを繰り返す事で自己覚醒を促す事だ。それが正当な‘メッセージ’というものだ。
ジムモリソンのロック表現の‘結論’は既に表現行為以前で確立している。そんなモリソンの事後行為としての作品生産や公演は、精神の堂々巡りを止まらない運動とする事の宣言であり実証なのだ。
ジムモリソンが高度な技術を持つアーティストと言うよりも‘見者(ボワイアン)’と言ったタイプであるのは明白だろう。彼はいわばプレアート、プレ表現に生きたのであり、凡百の表現者が到達地点とするべきレベルを既に「breaking through the other side 」というデビュー曲でやってしまった。モリソンの以後の道程は数枚のLP作品とライブ演奏やスキャンダルを通じ、敗者としてのロックのエッセンス、本質を外界に知らしめた事であろう。
‘視る者’としての最大快楽と悲惨を同時に引き受け、全うした。そして死んでしまった。

*****

栗原のギターを聴いた時、私はここにも‘視る者’を感じた。ここにも一人‘ロック’を体現する男を見つけていた。そんな資質を間違いなく彼は受け持っていた。私はそんな彼と共闘という名のゲームをしていたのだろう。参加者は私と栗原だけではなかった。ベルはその飄々とした自由人の雰囲気を持った軽やかな登場人物であった。彼は既に一つのゲームを終えていた。リザードという波乱に満ちた壮大な物語をその脇役として生きてきたのだ。そこでの体験は彼を強さに導いていたに違いない。実際のベルは無邪気で随分、庶民的な男であったが。
私と栗原がごそごそと曲を作っている横で、いつもベルは高さんやその女友達等と酒を飲んで騒いでいた。
「ベル、今度、私にドラム教えてや!」
「ああいいよ、いつでもOKさ」
何故か気の合う高さんとベルであった。実際、その後、二人でスタジオに入って高さんは真面目にドラムを習い、ベルも真剣だった事を栗原から聞き、私は爆笑してしまった。何をやってるんだか。まことにおかしなコンビであった。

私は栗原からベルに関するリザード時代の逸話を聞いた。
リザードのファーストアルバムはロンドンでレコーディングされた。その際、ベルは一人、上手くプレイ出来なかったようだ。プロデューサーのジャンジャックバーネルはベルに向かって「サムライスピリットでプレイしろ!」と叱咤激励し、ベルは半泣きで必死に演奏していたらしい。
私はこの話しを良い話だと思った。今、ここにいるベルは余りにも楽しい人物だが、ガッツは健在だろう。ベルはやる筈だ。私はそう確信していた。

*****

時代はバブルだったようだ。
もっとも安月給の私にとって世の好景気など、まるで外界の出来事だった。いや、大方の人間にとってもそれは同様であった筈だ。金融や不動産の狂乱景気が株価に反映しただけの猿芝居に皆が浮かれていた。儲けているのは一握りの人間なのに、浮かれたムードに便乗したい奴らがおこぼれもらいたさに嘘の踊りを踊っていた。相場で失敗した人間は無数にいた。バブルとは浮かれたムードや世相、浮かれたい人のマインドが支配した阿呆の時代だったのだ。私と大差ない収入のくせに週末は都内のホテルで一泊して過ごすという‘セレブ’な先輩もいた。何を考えているのか。

経済のバブルが崩壊しても尚、メンタリティーの虚構のバブルはしばらく続いていた。そちらの方こそがバブルな状況であった。閉塞感よりも時代を謳歌する気分がしばらく先行したのだろう。
テレビでも変なものを多く目にした。OLクラブとかいう番組では後に倒産する山一証券の男が歌を歌いながら脳天気に投資を煽り、なんとなくクリスマスだか栗と栗鼠だか、そんなのを書いたギラギラした顔の物書きが「はい、エルメス一千万円!」などと叫んでいた。黄色いメガネをかけた空間デザイナーやらコンセプターなどと名乗る得体の知れない職業の輩が中身のない話をもっともらしくしゃべり、下品な成り上がりの会社がディスコで入社式をしたと報道されていた。
バブルはポストモダンとも充分、連携していた。
田舎っぽい村上龍がトーク番組で繰り広げる‘知的空間’のどうしようもなさを直感していたのはホストの岡部マリだ。彼女がタバコの煙にうんざりしながら醒めた視線を村上に向けていたのを記憶している。ゲストの柄谷行人に対するいとうせいこうのべったり感も当時の‘気持ち悪さ’の象徴だった。<朝まで生テレビ>は初期の頃は和やかなムードがままあった。私が好きだった竹中労、野村秋介という左右の硬派も全体のムードに流されて居場所がなくなるような場面が多く、和気あいあいとした雰囲気を一喝するのが大島渚の仕事であった。時代が切迫感を持ってくるのはもう少し後であり、繁栄を謳歌する気分と安全神話が隅々の意識に反映し、メンタリティを形成していた。司馬遼太郎が土地を投機の対象とし始めた日本人の退化に対し警告を発していたのはその根源的変化に対する冷静な読みであったようだ。日本に於いて‘公’の意識が後退し、‘私’が肥大化するのがこの時期であろう。

もっとも私がバブル期について嫌悪感をもって記憶するのも、大部分は自分自身の閉塞感に因るものである。<イカ天>のやかましさや<オールナイトフジ>のミーハーを嫌悪しながら、そのブラウン管の向こうの‘明るい世界’に眩しさを感じていた。
確かに何となくひもじい記憶がある。
しかしレコードを買い過ぎて金欠地獄になりながら、バンド活動でへとへとになるのは自業自得で、そんな生き甲斐がある事こそが恵まれていた。しかも最初は苦痛の連続だったサラリーマン生活にもそれなりに順応してきたのは精神的に安定した良い状態であった。バブルな外界のムードを単純に嫌い‘ぜいたくな’不服を感じていたのが当時の私の憂鬱の正体だっただろう。
バンド活動は私の聖域だったが、明確なプロ志向ではなく、あわよくばという態度で勝手な夢を抱いていた。渋谷ラママでのソフトウィードファクターのライブでモーガンフィッシャーと対バンした時、‘一生の記念になった’と感じる私はやはり、どこまでも平凡な小市民だったであろう。

対し栗原は自分の音楽的才能を信じ、成功する事を使命としていた。
栗原は「グロリアス」という曲も作っていた。素晴らしいギターのメロディーを持つ曲だったが、glory=(栄光、栄誉)の形容詞をタイトルにした例によって彼独特の変な題名だった。バンモリソン(ゼム)のオリジナルでドアーズやパティスミスも歌った「グローリア」というロッククラシックがあったが、それには似ておらず、曲調は余りにもマイナーな美に満ちたオルターネイティブな香りのナンバーであった。生真面目でピュアな精神が迸るこの曲はしかし、栗原の‘栄光’への触手をゆったりと後押しするテーマソングでもあっただろう。私はそれを感じ、ロックバンドの一体感、栗原との連帯を実感していたのだ。

 

「満月に聴く音楽」(2006)より転載


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