満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

アンビエントという名の相剋 イーノ展を廻る

2022-08-28 | 新規投稿

ノン ミュージシャンを標榜したイーノはある時期からミュージシャンになったと思っている。しかもノンミュージシャンの頃はアーティストですらなかった。その姿はマルセル デュシャンにも通じる反技巧的なトータル表現の行為者であり、折しもNEW WAVE台頭期に於けるアイデア万能主義との相性がイーノの広角な影響力に繋がってゆき、本来なら現代音楽、アカデミズムが先行する手法をポップフィールドで具体化した事に意義があった。その意味で私はRoxy Music脱退後のイーノはPUNK/NEW WAVEの変種だったとも思っている。そして80年代後半以降のエレクトロニクス ミュージックシーン勃興によって電子機器の操作もミュージシャンシップであるという認識が一般化される中、イーノはその先駆者として神格化されていく。個人的には「nerve net」(92)までは熱心にフォローしたが、それ以降の作品はアンビエントという様式の再生産といった内容の作品が続き、感心は薄まっていた。30年振りとなったフリップ&イーノ名義による作品「The Equatorial Stars」(04)も期待外れ。もはや私の中でイーノは傑作揃いの過去作品のみを楽しむ対象になっていたのは確かだ。

そして迎えたのがイーノ展。「3階からどうぞ」というスタッフの案内に従って、The Shipというブースに入ると、真っ暗闇の中に未聴の音響が拡がる。そのイメージはアンビエント+サウンドトラック。様々なスピーカーの配置を施し、音量の大小もアットランダムに表現したダイナミクスある音響。そこにイーノのボーカルパートが時折現れ、物語性、メッセージ性を醸し出す。薄明りにこだまする音と声、かすかな光。イーノの新境地なのか。

The Shipというタイトルから、私は嘗てObscureシリーズの第一弾ギャヴィン・ブライアーズの「タイタニック号の沈没」(75)或いは「another green world」(75)に収録されていたBig Shipという曲を思い出すが、今作のダークなムードからはブライアーズの「タイタニック」からのインスパイアさえ感じさせる程の共通の質がある。最近はプロフィールに社会的アクティビストとも紹介される事も多いらしいイーノの何らかの現実的危機感の現れ、そしてメッセージだろうか。

先程、アンビエント+サウンドトラックと書いた。その感想は90年代半ば、特に2000年以降のイーノ作品に感じ続けてきたものでもある。全てを聴いてる訳では無いが、アンビエントの本義が、本来、何物にも属する事はない独立した音の物質であるなら、最近のイーノは何かしらの現実的動向を反映するアンビエント、それはいわば付随する対象ありきの正に‘サウンドトラック’であると感じでいた。

私は6年前にイーノの変貌について以下の文章を書いた。それは音楽的変化についてではなく、イーノの発言を巡る違和感の表明だったが。

<最近、ブライアン・イーノをよく聴き直しているのは、先日Obscureという名の付いたイベントに出演してイーノを思い出したからである。ところがと言っては何だが、何年か前のブライアン・イーノの俄かにとも思える対イスラエル批判には驚きを禁じ得なかった。イーノが政治に関する主張をするとは。私にとってイーノとはいわば‘超越体’そのものであったので小賢しい社会批判や政治的発言など、似つかわしくないと感じていたからだ。(中略)現実から遊離してこそ、イーノのアーティスト性と信じて疑わないし、イーノはそこに更に音響科学ともいうべき、空想未来志向を併せ持ち、‘先なる現実社会の提示’を目論んだ、いわばリアリストの次元を超えたアーティストのはずだった。‘政治意識が先行する’数多のアーティストの群れに埋没してほしくはない。もっと天上目線の存在でいて欲しいというのも、私の勝手な思い込みだろうか。>2017-10-30

そしてその‘勝手な思い込み’がROCK MAGAZINEの故阿木譲を通じてのイーノ解釈がベースにある事も以下の文章で示した。

<阿木譲の功績はブライアン・イーノの正確な評価を確立した事だと思っている。ロックを覆う内面性、文学性、メッセージ性などの人間中心主義を相対化し、イーノの一見、高踏派とも見えるその反情動的な佇まいの本質を開示しながら、その影響力まで予見してみせた。ノン・ミュージシャンとしてのイーノの音楽制作の手法であるシステム論を通じて、音楽から音響への変化の時代、聴覚作用の変位も織り込んだ快楽原則の新たな設置が生まれた事を説いていたと思う。それは言ってみれば、非―文系的な知の科学的、工学的な導入がイーノによってポピュラーシーンに導入された事の阿木氏による認識であっただろう。イーノの巨大な影響下にある以降の先端音楽を阿木氏は更に西欧の歴史主義、その精神史の系譜をクロスさせた論評を試みる実験を行っていた。そういった批評の土俵に現実の社会的出来事、政治主義は当然ながら似つかわしくない。世の中に対する社会不安、情勢不安という観点はあるにはあったが、そこにむしろマスの人間の内面不安の集積を見、ある種のアナーキズム的虚無思想にも通じる社会的コミットへの自身の希薄さを無意識に記されていたと思う。少なくとも私は社会性を表明しない阿木氏の文章の行間からそれを読み取っていた。そんな体質、元からあったのではあろうが、ブライアン・イーノというアーティストの触媒的役割は阿木氏にとって絶対だったはずで、私自身もそんな阿木氏の批評を通じ、イーノというアーティスト、その反情動的、非―政治的な資質、故の音楽の屹立した様相を愛好したつもりだった。
ところが、ここにきてイーノは政治メッセージを発信する一文化人たる風貌を帯びてきた。それは多くの人は何も感じないのかもしれないが、私にとっては大きな変化に映った。>2018年10月24日


イーノ・アンビエントのサントラ化への変化、その根底にイーノの現実的覚醒があった。それは同時にイーノの至高性、孤高性を喪失させる事を意味したのだと感じる。

イーノ展の各ブースに展示されたインスタレーション。何れも映像や光がゆっくり変化し、しかもその変化に気が付かぬほどの時間的緩和の中で鑑賞物が存在する。音はそのテンポに寄り添い、非―現実の空間を創造する。

「ありきたりな日常を手放し、別の世界に身を委ねることで、自分の想像力を自由に発揮することができるのです」

「音楽を動的で千変万化するもの、そして絵画を静的なものだと考えるなら私がしようとしている事は静的な音楽と動的な絵画を制作する事だ。私はその二つの形で音楽と絵画の従来のコンセプトの間に存在するスペースを見つけようとしているのだ。」━ ブライアン・イーノ

そのコンセプトはある意味、凡庸だ。数多の現代美術家、現代音楽家が試行してきた発想と手法の域を超えるものではない。少なくとも静的な音楽、動的な絵画を制作するにおいて、そのテンポを画一的にスローで統一する事によるイメージの拘束は真逃れないのではないか。

イーノ展の各ブースに共通するのは、暗い部屋に於ける、一種のアンビエント メティテーションとでも言うべき、瞑想の感覚であった。来場者は沈黙を強いられ、耳目をアートに集中する。
[興味深く聞くことも、聞き流すことも、無視することもできるという、あらゆる聞き方を受容する]というイーノ自身が掲げたアンビエントのコンセプトは無効化され、作品の発信と受容という  旧来型法則が復活した。
いや、今回はインスタレーション展示なのでアンビエントは無関係、あくまでもイーノの仕事のONE OF THEMだろう とは思う。ただ、イーノの創造物に対し、オーディエンス全てが、同じ態勢で臨み、瞑想空間を共有するこの部屋の空気に"らしくない”ものを感じるのも、また私の"勝手な思い込み”だろうか。あらゆる規範を外れ、自由度を追求したのがイーノの真骨頂だった。

1階でENO SHOPで私は展示ブースの一つThe ShipをタイトルにしたCDを購入した。やはりThe Shipは独立した作品と位置つけられているのだろう。5つあるブースの中で私が特にThe Shipに関心が向いたのは、そこにボイスが存在したからであるが、これは音楽的に成果ある要素だとは感じる。その言葉と発声、旋律のナチュラルな響きは声の音響化、ボイスの展示化という様相を呈し、新たな歌の在り方を示唆すると感じられたからである。嘗て「another green world」(75)「before and after science」(78)という2枚の傑作アルバムで実現させた歌とアンビエントの相互交感が言わはノンビートの背景を持って進化した。このような好解釈も成り立つかもしれない。
何れにしても「The Ship」は聴き応えある作品となった。ただしそのメッセージの先駆性に着目したというLou Reedのカバーにはムードを先行したボーナス サービス的な動機しか感じる事はできなかった事も付け加えておく。

2022年8月28日

 

 


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