満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

   CHARLES MINGUS  『MINGUS IN EUROPE VOL Ⅱ』

2007-11-01 | 新規投稿
    
エリックドルフィーとは異能の人だっただろうか。
その演奏は確かに自身が言うように<トーナリティに添った音楽>だったのだろう。しかし古今のいかに逸脱したフリーミュージックや前衛、ノイズ音楽さえもエリックドルフィーの異端性には遠く及ばない。それは調性の枠内の最大限の音幅を駆使した演奏と感情を極めた音の質がそう感じさせるのかもしれない。エリックドルフィーだとすぐ分かる音。ホーンの筒から抜け出る生の肉声を彼の演奏に感じるのは私だけではないはずだ。

ブッカーリトルとの双頭コンボは自身のリーダーグループ。ジョンコルトレーンとの活動も多くの人々にドルフィーの名を刻み込んでいる。スタジオ録音では彼の音楽性を集大成した『out to lunch』(64)を残している。この作品はキャリアを象徴する作品だ。しかしドルフィーが最も輝いた場所はチャールズミンガス(b)との活動であると考える。その理由はミンガス=ダニーリッチモンドというリズムフォーマットこそが、ドルフィーのアブストラクトな音楽世界を際だたせる最も造形的な形のように感じるからである。

『MINGUS IN EUROPE VOL Ⅱ』は硬派なジャズレーベルENYAの復刻による一枚。1964年のチャールズミンガスグループのドイツ公演の記録である。同行したエリックドルフィーは当時、グループのフロントマンとしてその個性を発揮していたという。彼はこの二ヶ月後、同地で客死する。36才という若さであった。コルトレーングループでのエリックドルフィーが<異物>なら、ミンガスグループでのドルフィーは<核弾頭>だろう。

ミンガスのベースの凹凸感、そのゴツゴツした手触りは、打楽器を要しなくとも、ベースだけで固いビートの土台が構築されるようなインパクトがある。少なくともベースに添うドラムやスペースを用意する定型のドラミングには用はないだろう。ミンガスのベースに拮抗するドラムとは、いわばミンガスをベースと認識しないようなドラム。2ドラムの意識で臨む奏者だけに違いない。私はダニーリッチモンドにそんな感性を感じている。故に流麗なグルーブを誇ったコルトレーングループのリズムセクションやステディな直角ビートが躍動感を創造したブッカーリトルとの双頭コンボでのリズムセクションをバックにした時とはドルフィーの広角な演奏が違うきこえ方を可能にさせたのだと感じている。ミンガス=リッチモンドのリズムコンビによる異なる二つの打楽器による空間創出。、そこにはドルフィーが自由に遊泳できる最も大きな部屋が用意されていた。

多くのジャズ音楽家がそうであるようにチャールズミンガスもデュークエリントンの崇拝者であった。しかしミンガスほどエリントンのメロディの内側にある混沌や暴力性を意識的に抽出、継承したアーティストはいなかったと思われる。そここそがミンガスにとってエリントンミュージックの胆であったのではないか。時代によって移り変わる演奏者や聴き手の感性を超え、原点の実質を捉え、その表面様式ではなく内側のエネルギーに着目したからこそ、フォーマットを破壊するのではなく、原型の中の改革をなし得た。だからミンガスミュージックにあっては基礎こそが王道であり、それを前提にした演奏の解釈学が、個々のプレイヤーの課題、内面表現のパワーの厳正な基準とされる。ぶっとんだ演奏をすればいいってものじゃない。ワークショップを主宰したミンガスはそんな底の浅さなど、直ぐに見破ってしまうだろう。ベーシストとはそんな人種が多い。

<調性の枠内の最大限の音幅を駆使した演奏>とエリックドルフィーについて書いた。調性の枠内で七転八倒するイメージ。部屋の中をあらゆる手立てを使って突破しようともがいている感じ。そしてその枠を手前に引き寄せて、楽しんでいる感じも同時にする。

ミンガスの感性がメンバーに浸透する。過激主義を内に籠めながらジャズの陽性を色濃く見せる実験。ブラックラディカリズムの心棒者、ミンガスの手に落ちる白人の聴衆が見える。このアッパーにスウィングする音楽の正体たるや。奥の深さもここまでくると怖いものだ。

2007.11.1


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする