熊本時代に「何かたりない」という
フェイク・ブルースを書いた。(12小節の定番ネタ)
確か福生UZUで演らせてもらっている頃までは
ランブリングスのメニューに入っていた曲だ。
ある日を境に俺達はこの曲を全く演らなくなった。
重いだけのノリとか曲のフェイクぶりが鼻についたし
俺が歌詞を唄いたくなくなったのが大きな理由だった。
歌詞と言っても「何かたりない」と唄っているだけで
他人様の前で大声でボヤいているような気分になったからだ。
数日前に紹介した早川義夫のラブゼネレーションにも
偶然こんな一節があるので紹介しよう。
「足りない足りないとやたらぼやきが多いけれど
ほんとうは足りないんではなくて、よけいなものが多いのだ。」
当時の俺のボヤき感覚に対しての答えのようである。
若い頃は余計なモノが多いという発想はなかったし
言葉の奥行きや裏側を捉える力がなかったんだろう。
気付いているといないでは曲の解釈は異なる。
今なら新たな「何か足りない」が唄えるかも知れない。
フェイク・ブルースを書いた。(12小節の定番ネタ)
確か福生UZUで演らせてもらっている頃までは
ランブリングスのメニューに入っていた曲だ。
ある日を境に俺達はこの曲を全く演らなくなった。
重いだけのノリとか曲のフェイクぶりが鼻についたし
俺が歌詞を唄いたくなくなったのが大きな理由だった。
歌詞と言っても「何かたりない」と唄っているだけで
他人様の前で大声でボヤいているような気分になったからだ。
数日前に紹介した早川義夫のラブゼネレーションにも
偶然こんな一節があるので紹介しよう。
「足りない足りないとやたらぼやきが多いけれど
ほんとうは足りないんではなくて、よけいなものが多いのだ。」
当時の俺のボヤき感覚に対しての答えのようである。
若い頃は余計なモノが多いという発想はなかったし
言葉の奥行きや裏側を捉える力がなかったんだろう。
気付いているといないでは曲の解釈は異なる。
今なら新たな「何か足りない」が唄えるかも知れない。