扉は突然開く

2010-03-31 22:34:30 | Weblog
 タイ人のSと久しぶりに話したら、まずまずの日本語で話すので驚いた。今まで英語でしか話したことがないし、一言すら彼女の口から日本語が出るのを聞いたことがなかった。
 僕が「なんだ日本語も話せるんだ、知らなかったよ」と言うと、彼女は「この間、朝起きたら急に話せるようになっていたの、自分でも何が何だかわからない」と答えた。

 そうか、こういうことって本当にあるんだ。

 彼女は色彩デザインの研究室に所属していて、別に日本語を学ぶ為に日本に来たわけでもなく、とりたてて日本語に興味があるというわけでもなく、2年間ほとんど日本語の勉強をせずに京都で過ごしている。その間、どのくらい日本語を浴びたのか分からないけれど、蓄積された経験の最後の1ピースがある日嵌ったのだろう。眠っている間に脳内で情報が整理されて、そしてある朝起きると日本語が話せるようになっている。
 驚異的にラッキーなケース。

 ターザンやシュリーマンみたいだ。ターザンはジャングルの動物の中で育ったけれど、たしか漂着した本を眺めているうちにパターンを見出し言葉を習得したはずだ。これは創作された物語で無理があるとしても、語学の天才と呼ばれたシュリーマンは・・・

 とシュリーマンの話を書こうとしたのですが、記憶が怪しかったのでググったところ語学の話どころではない記述を見つけて驚きました。

 なんと「子供の頃に聞いたトロイの物語が実話であると思い込み、その発掘調査資金を貯めるために銀行家になり、お金を貯めた後見事トロイを発掘してみせた」というシュリーマンの話は実は嘘だという説が有力になっているそうです。
 実際には古代文明なんかに興味がなかったけれど、30歳年下の妻に格好を付けるために「子供の頃から憧れの」という話をでっちあげたということです。それでも発掘したことには変わりありませんが。

 閑話休題。
 シュリーマンの語学学習法は、その著書「古代への情熱」の中に書かれていて、だいたい
「毎日1、2時間、その言葉で書かれた本を一冊音読し暗誦できるようになること」
「訳さないこと」
「興味あることについてその言葉で作文をすること」
「その作文を直して貰い、直してもらった作文を暗唱できるように覚えること」
 というところなのですが、文法を覚えて辞書を引いて訳して、という通常の語学学習法とは大きく異なっています。

 僕は高校生だったときに「古代への情熱」を読みました。当時の僕は実に怠惰で、アクセントを覚えたり文法を覚えたりイディオムを覚えたりという英語の勉強からは全力で逃げていて、英語の試験で出来るのは唯一長文読解のみという惨憺たる成績でした。シュリーマンの本を読み「これだ!今日から受験英語の勉強はしない」と活路を見出した気分だったのですが、英語の教師の所へ行くと「バカかお前は」と一笑にふされてしまいます。そこですごすご引き下がった当時の自分は本当に意気地なしだったと思う。意地になって試してみれば良かったのだ。毎日試験と追試のある進学校を気取った学校だったので、もともと居残りが多かった僕はシュリーマンの方法を実践した場合悲惨なことになること請け合いだった。そういうことが怖かった。でもそれなら高校くらい止めれば良かったな、と大人になった今は思う。

 Sはこの日までほとんど日本語を話さなかった。彼女も自分の中に日本語回路が発達して行くのを全然知らなかったことだろう。それは地下に深く広く伸びていく木の根のようなものだ。誰にも見えない。ただ、それはある日最後の部品を手に入れて、そして突然に機能を発現させる。あと1センチ掘れば遺跡は見つかるかもしれない。この滅茶苦茶にあちこち掘って向こうでは途中で掘るのをやめた縦穴。時には一日1ミリしか掘らなかったり、数年間も掘るのを休んでゴミすら溜まった縦穴。だけど、あと1センチだか1メートルだか掘れば、最後の一掻きがいつかやって来て、そして嘘でもなんでも子供の頃に夢見たその王国が、あるとき突然目の前に開ける。

古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)
ハインリヒ シュリーマン
岩波書店


英語多読法 (小学館101新書)
古川 昭夫
小学館
 

土と桜

2010-03-30 14:54:37 | Weblog
 冬が終わり、春が本格的に始まるまでの短い間、僕はたくさんの人に様々な意味合いでさようならを言った。ある時にはそれは「また今度」であり、ある時には「永久にバイバイ」だった。それほど遠くはない場所へ引っ越した人も、海外へ引っ越した人もいるし、物理的な距離を超えた遠くへ行ってしまった人もいる。

 彼が死んでしまったという知らせを聞いたとき、僕は呑気に定食屋の列に並んで遅めの昼ご飯を食べようとしていた。転んで骨にひびが入ったという祖母を見舞いに病院を訪ねた帰りだった。彼女はひびこそ入っているものの88歳にしては元気そのものだった。久しぶりに祖母と談笑して幾分心が和らいでいるところだった。

 彼がどうして死を選んだのか、僕には大まかな理由しか分からない。ただ、彼は自動車の排気ガスを車内に引き込むという方法で死ぬことを選択した。文字通り人生で最後、エンジンを掛けるとき、フロントガラスから見えた空はどんな風だったのだろう。それとも空なんて見えない所だったのだろうか。

 出席すると傷つく人と、出席しないと傷つく人がいて、僕は通夜にも葬式にも出ないことを選んだ。どうしてその人達が僕の挙動によって傷つくのか、これも一部分は僕の知るところであり、大部分は僕の知らないことだった。僕はある人を信頼し、その人の望みに従って行動することを選んだ。

 もう長い間会っていなくて、それから葬式にも出ていないせいかもしれないけれど、僕はそれほどのショックを感じなかった。代わりにそこには大きな違和感があった。ちょうど村上春樹の小説の中で青豆が1984年から1Q84年へ行ってしまったみたいに。ほとんどの部分は今までと同じだけど、でもいくつかの部分が決定的に異なっている世界。それは単に彼のいる世界、いない世界ということではなかった。例えば、物に出来る影の長さと濃さも今までとは少し違うかもしれない。


 悲しみと違和感の他に僕が感じたものは、責任だった。もちろん普通に考えて僕には何の責任もない。物事は僕とは関係のないことで、そして知らない場所で全ては進行した。だけど、それでも思うのは、僕にだってどうにか首を突っ込んでお節介をすることはできた、ということだった。あちらこちらとぶつかり跳ね返りながら、そのランダムに変化するベクトルは自殺という結果に到達した。複雑系において初期値の僅かな差が出力に莫大な差異を生み出すように、あるいは僕が挨拶の電話をどこかでしていただけでも結果は量り知れず異なっていたかもしれない。思い立った瞬間はなかったわけではなく、意味のない躊躇いによって僕は電話をしなかった。物事に躊躇うとき、僕はどこかでそれを行った場合のリスクをカウントしているわけだけど、実際のところそれを行わないことのリスクの方がいつも大きいのかもしれない。

グレックは宇宙人にさらわれた。

2010-03-15 12:58:01 | Weblog
 子供の頃、ときどき宇宙人やUFO関係の特番があった。世界各地で撮影されたという未確認飛行物体の映像を流して、そのビデオテープを映像の専門家だという人の所へ持っていって分析して貰う。「すくなくともこの三つ目の映像は合成ではあり得ません。計算によれば直径20メートルの物体が上空300メートルに浮かんでいるということになります」とかなんとか。それからエリア51で極秘に行われた宇宙人の解剖映像。

 僕はこの手の特番が大好きだった。いつもワクワクしながら多分出鱈目であろうUFOの映像を眺めていた。
 ただ、いつも単純にワクワクとは行かなくて、宇宙人の話には多少恐ろしいくだりも含まれている。
 そう宇宙人による誘拐事件だ。
 夜寝ていると庭にUFOがやって来て、例ののっぺりした宇宙人グレータイプが数匹、寝ているあなたの元へやって来る。そしてUFOの中へ連れ去り謎の手術をして頭にチップを埋め込む。記憶はすっかり消されてしまうので、翌朝あなたは何事もなかったかのように起きて生活する。以来ときどき変な夢を見るのでカウンセリングを受け、退行催眠でその日の夜に戻されてはじめて宇宙人のことを思い出す。そうだ私はあんなに恐ろしい目にあったのだ!って。

 いくら子供だったとはいえ、僕は別にこの話を全面的に信じていたわけではない。だけど、それでもテレビを見た後、自分の部屋へ行き眠るのは怖かった。窓の外が明るくなってUFOが降りてきやしないかとビクビクしながら眠った。

 このとき、怖がるのと同時に一つ気になったことがある。
 翌日の朝、記憶をすっかり消されているのであれば、翌日の僕にとって「今夜起こるかもしれない宇宙人による誘拐」は起こっていないも同然だ。もちろん、今は誘拐以前なので僕にとって誘拐は起こっていない。じゃあ僕にとって誘拐はいつ起こるのだ?というのが気になってしかたなかった。

 誘拐が始まってから手術されて記憶が消されるまでの間、僕はそれを体験していることになる。当然そうだ。だけど記憶が消されるとその体験自体が消えてしまう。僕は今UFOが来ることを恐れているけれど、どうせ記憶が消されるなら明日の朝起きる時点では誘拐されていようがいまいが同じことじゃないだろうか(頭にチップが埋め込まれているという事実を別にして)。
 寝る前の僕に起こっておらず、起きた後すっかり忘れているのであれば、寝ている最中に実害のない何かが起きてもそれは起きたことにならないのではないか? だとしたら僕はこれから体験するかもしれない宇宙人とのコンタクトを体験するけれど体験しないのではないか。体験するということと記憶するということは実はほとんど同じことなのではないか。記憶されない体験を僕は体験と呼べるのだろうか?

 目の前にチョコレートが一欠片あるとして、このチョコレートには特別な仕掛けがしてあり、チョコレートを食べ終わった瞬間チョコレートを食べたという記憶は消える。そしてこのチョコレートは世界一おいしい。
 こういった状況で僕たちがチョコレートに手を伸ばすというのはどういうことだろうか? 僕たちはチョコレートを味わうことができるのだろうか?口に入れた瞬間に至福の甘さを味わうけれど、飲み込んだ瞬間に味も記憶も全部消えるとしたら、チョコレートを食べる前の僕たちにとってチョコレート体験はこれから起こることだと本当に言えるのだろうか?

 僕は今この瞬間を体験している。
 厳密に言えばこの「瞬間」というのは僕たちの頭脳が作り出した錯覚だ。
 光は随分と速いけれど、それでも伝達に時間は掛かっている。今見えているものは全て僅かな過去だ。それも遠くの物ほど遠い過去だ。目の前50センチにあるパソコンの画面から僕の目に光が届くには0.0000000016秒掛かっていて、窓の外50メートルに見えるあの屋根から目までは0.00000016秒掛かる。太陽から地球まで光が届くには8分以上時間が掛かる。僕たちが見ている太陽は実に8分も過去の太陽なのだ。さらに神経を信号が伝わる時間と脳が情報処理を行う時間を考慮した分の過去を僕たちは見ている。全然「今」じゃない。
 音に至っては秒速340メートルなんて遅さだから、もっとひどい。

 さらに問題なのは五感から入ってきた信号のどれを基準に「今」を作り上げているかということだ。神経を信号が伝わるスピードは以外に遅くて、せいぜい秒速数十メートルです。各器官と脳までの距離、それぞれの神経が持つ伝達速度は違って、さらに脳内での処理にかかる時間も違う。そういった体の色々な部位から入ってきて信号を統合して「今」を作るとき、その今は、ちょっと前の視覚とさらにその前の聴覚、それからその後の味覚、更にそのあとの足の感覚、ちょっと前の手の感覚、といった時間のずれたものを統合して作られたことになる。ある意味では全く偽りの今だ。

 もっと考えなくてはならないのは、「今」という感覚を生むには「過去」「未来」といった感覚が同時に必要なのではないかということだ。記憶障害で3分しか物事を覚えていることができない、というような人がいるけれど、それがもっともっとひどくて0.000001秒前のことも覚えていないという人がいるとしたら、その人は果たして「今」を体験することができるのだろうか。過去を失うということは今を失うということにもなるのではないだろうか。

進化しすぎた脳 (ブルーバックス)
池谷 裕二
講談社


海馬―脳は疲れない (新潮文庫)
池谷 裕二,糸井 重里
新潮社

捕鯨・イルカ漁

2010-03-10 01:33:16 | Weblog
 これはかなり迷いながら書いて、しっくり来ないので公開も躊躇っていたのですが、あまりタイムリーさがなくなりすぎるのも考えものなのでアップします。
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 和歌山県太地町のイルカ漁を告発した米映画「ザ・コーヴ(The Cove)」がアカデミー賞を取って、最近下火になっていたシー・シェパードのこととか捕鯨問題がまたクローズアップされている。

 この映画に関しては以前トレイラーを紹介していて(殺されるイルカたち)。

 それについて思うことも少し書いたことがある(殺して食べること)。

 それでツイッターにも色々なポータルサイトにもリンクがあるので、いくつか捕鯨問題やこのドキュメンタリーについての記事も読みました。
 相変わらずそこでは「間違っている」とか「異文化を理解するべきだ」とか、物事の正しさを基準に据えようとした議論ばかりが行われています。

 もう一度書くけれど、クジラを殺すこと、イルカを殺すことに正しいも間違っているもあったものではない。正論なんてものは世界のどこを探しても見つからない。殺したい人は殺し、それが嫌な人は文句を言う、ただそれだけのことだ。どちらも正しさとは関係がない。
 だから「牛や豚はいいのに鯨は駄目だなんて筋が通らない」というような意見は全くの的外れです。異文化を理解すべきだという人は、自分が他の文化には何の関心もないという異文化を理解していないことと、文化というもの自体に力はないということを理解していないと思う。これも何度も書いているけれど、何かを「文化だから守る」「文化だから許す」というのは戯言です。

 ある人が「ザ・コーヴ」を”イルカ好きの為の妄想映画”と呼んでいた。僕はこの作品を見たことがないけれど、実際にこれを見た僕の友人も取材方法にかなりの無理があるし、偏見が多い、というようなことを言っていた。映画がなるべく中立であることを心がけたドキュメンタリーではなく、イルカ好き、イルカを利用したい人の作ったプロパガンダであることは間違いないのだろう。
 だが、それはこの映画の欠点ではない。そこを批判しても意味がない。

 そもそもメディアの本質は意見だ。メディア自体を人間が作り出した以上、それは全て意思の塊だ。真にピュアーに中立なメディアは存在しない。何かにカメラを向けるというのは物事の一部を切り出す行為だし、それを誰かの目につくところに置くというのは切り取ったそれをフューチャーするという行為だ。自然をぼーっと写しただけの映画でも何でも同じことだ。これを見よという誰かの意見だ。

 それから、社会的な活動の全ても意見だ。正しいとか間違っているとかではなく「私はこうしたい」という意見表明の総体が社会を構成している。意見が力を伴ったとき、それは実際に社会を動かす。正しさが世界を動かしているわけではない。たとえば基本的人権は「正しい」ものではない。それは多くの人々の意見が勝ち取った一つの「力(権力)」だ。人を助けるとき、僕たちはそれが「正しい」から助けるわけではない。助けたいから助ける。

 イルカ好きの作った妄想映画なら別にそれで構わない。話題作になって、実際にイルカ漁反対の声を挙げる人が増えれば彼らの目論見は成功だし、それに対して”正論”を掲げて反対しようというのは実に滑稽だと思う。シー・シェパードにしても同じだけど、彼らはもはや「正しさ」という土俵では戦っていない。「イルカを殺さないでほしい」とか「クジラを殺さないでほしい」という欲望の話をしているだけだ。この時イルカを捕りたい人に言えるのは「こっちはイルカ捕りたい」ということだけで、そのプロパガンダとして「イルカを捕るとこんなにハッピーなことがあります」「イルカを捕らないと我々はこんなに困ったことになります」というメッセージを発信するしかない。正当化なんかには意味がない。意味がないとは言い過ぎで、それは人々を説得する糸口にはなると思う。でも本質は正しさにではなく「こうしたい」という所にあり、最終的にはそこへしか訴えることはできない。誰かを説得できるというのと正しいということは違うことだ。

 僕としてはイルカや鯨を殺さないでほしいなと思う。単純に。
 でも、それが僕自身の最終的な結論かと問われればNOというしかない。
 正直なところ良く分からない。

 最後に、僕は「美味しんぼ」のこの主張に賛同する者ではありませんが、一つの材料として。




美味しんぼ (1) (ビッグコミックス)
雁屋 哲
小学館


悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)
レヴィ=ストロース
中央公論新社

韓国式

2010-03-04 20:57:56 | Weblog
 Pがビール瓶を持ち上げ、栓のすぐ下を左手でギュッと掴み、栓と人差し指の付け根の骨の間に割り箸のお尻を差し込んだ。それから割り箸の中程を右手で叩くときれいに栓は弾き飛んだ。

「わー、すごい!!!」
「コリアンスタイル!!!、クール、わぉ!」

 Cが韓国へ帰る前夜だったので、昨日、韓国人の子がチヂミを焼いてくれて、人が部屋に入りきらないので、コタツを二個積み上げて高いテーブルにし、立食パーティーが開かれた。思い思いのものを持ち寄って人が集まった頃、じゃあビールの栓を抜こうとなったが栓抜きがない。誰かが部屋から取ってくると言い、僕はポケットからレザーマンを出そうとした。だけど、韓国組は至って平気な顔で「割り箸があるから大丈夫」と言う。みんなが興味深々で見ているとPが栓を綺麗に弾き飛ばしたというわけだ。

 狭い部屋に押し込まれてするパーティーは話が弾む。
 化学の研究者であるLに量子コンピュータのことや物理のことを話していると、どんどん突っ込まれて英語も回らなくなって来て自己嫌悪に陥る。彼の奥さんが助け舟ではないが、日本語のいくつかの言葉はポルトガル語でセクシャルな言葉だから可笑しくて仕方ないと言う。「ございます」が丁寧だと習ったけれど、ゴザイというのはポルトガルでは○○だし、ヨガ教室に行ったら「ピンと伸ばして」と何度も言われたけれど、ピントはポルトガル語では〇〇だから可笑しくて可笑しくて、というような話。

 丁度、韓国人達が何の話か電話をきっかけにしてポッポというので、何かと聞くとキスのことで、すかさずMがポッポというのはスペイン語では幼児語でウンコのことだよ、と言う。

 今日の早朝、K君は旅行で台湾へ、Mは帰国前の旅行でフィリピンへ、そしてCは帰国で韓国に関空から飛んで行った。
 Cは1年間一緒に過ごしたメンバーなので少し感慨深い。

 先月はこれも1年一緒にいたSが台湾へ帰っていった。1年共に過ごしたメンバーがいなくなるのは結構寂しいことだ。CもSも、1年前の春にまだみんな来たばかりで友達もいなくて、すれ違ったそういう人々で高台寺へ行った時のメンバーだった。昨日のことのように覚えている。

 1年と言えば、先日高校生と留学生合同のお茶会が寮のロビーと茶室であったけれど、このお茶会も丁度1年前、僕がここへ来てすぐに参加したものだった。

 窓のすぐ外の木は枝に新芽を膨らませて、ヒヨドリがこれでもかと毎日つついている。こんなに新芽が食べられて、木は大丈夫なのだろうかと見ていたら、ヒヨドリの啄んだ新芽は、丁度固い外皮がなくなって、中から眩い黄緑色を覗かせていた。もしかすると以外にヒヨドリは芽を出す助けになっているのかもしれないなと、ぼんやり思う。
 
韓国現代史 (岩波新書)
文 京洙
岩波書店


「ファインマン物理学」を読む 量子力学と相対論を中心として
竹内 薫
講談社

「術」の呪いを解除する「道」というシステム

2010-03-04 16:39:41 | Weblog

 「物語に銃が出てきたら、そこからは弾が発射されなければならない」

 村上春樹がチェーホフから引っ張って来たこの言葉は、「1Q84」という物語の中で随分印象的なセリフだ。作品を読む中で絶対に無視することのできない細部。

 呪いと占いと武道の話をしたいと思う。
 全部ひっくるめて、単に人の持つ予言遂行性についてと言ってもいいかもしれない。僕たちは日々比較的たくさんの未来予測に接して生きていて、そして未来予測から多々の影響を受けている。それが意図的なものであるにしろ、そうでないにしろ。

 例えば天気予報はどうだろうか。
 家を出る前に「今日は雨が降る」という予報を聞いたので傘を持って出掛けた。なのに予報はハズレて雨なんて全く降らなかった。
 この時、わざわざ持ってきた傘はお荷物以外の何者でもなくなる。本当は雨が降らなくて良かったのだけど、わざわざ傘を持ってきたが為に、雨が降らないことがちょっとした「損」みたいに感じられたりする。折角持ってきたのだから降ればいいのに、と心の片隅で思ったりする。

 雨は意図的にコントロールできない。だけど、これがもっと自分でコントロールできることに関わってくればどうだろう。
 こういう言葉。

「そっちは危ないから、行ったら転んで怪我をするよ」

 これが心配性の母親の言葉なら、別になんともないかもしれない。自分はこれくらい大丈夫だ、ということを証明したくて最大の注意を払って危ない場所を通り抜けるかもしれない。
 でも、これが自分の尊敬する誰かや、あるいはわざわざお金を払ってまで占い師から得た言葉だったらどうだろうか。そういうとき、尊敬する人を尊敬できるままにしたい、あるいは、わざわざ占いにお金を払ったことを無駄にしたくない、という思いが働いて、自分から転んでしまうような事が絶対にないと言い切れるだろうか。
 もちろん、「よし、ここで転ぼう」と大々的に転ぶわけじゃない。悪い足場を踏んで足が滑ったとき、本当ならさっと反対の足を着いて転ばすに済ますことができたのに、転んでしまう、という予言が頭にあったが為に足を着くのを微かに怠ってしまうのではないか、ということです。そうして転んで怪我をする確率が上がる。怪我をして始めて、やっぱりあの人の言う事は当たるのだ、というふうに納得して何かが納まる。自分が怪我をした云々よりも予言が遂行されたことに一種の喜びを感じてしまう。
 このように、人には予言を遂行、あるいは避けようと小さな軌道修正をする性質があって、それの応用が呪いや占いだと思う。

 こういうことは何度か書いてきたけれど、いつも大体は言葉に問題を限っていた。これは考えてみれば言葉だけの問題ではなく、たとえば武道においても同じこと言える。
 空手を習う場合を考えてみると、なんだかんだいって基本的には殴ったり蹴ったりする技術を習うので、わざわざコストを掛けてそんなものを手に入れたからにはそれを使う、という呪いが掛かるのは当然のことだ。
 他の事だって習い事は全部「将来これを使うかもしれない」という予言を頂く行為だが、大体はギターを人前で演奏するとか、お茶を立ててあげるとか、そういうほのぼのとしたものであって、これらは呪いだと呼ばなくても良いだろう。
 ただ、武術は違う。ギターの発表会と生身の人間の殴り合いは別の話だ。喧嘩の術を習うと喧嘩が起こるように日々の行動を微かに制御してしまう。それは本当に些細なことかもしれない、避けるべき様子の人とすれ違うときに今までより数センチ近くを通ったり、誰かを注意するときに軽いボディコンタクトを入れたり。生兵法はケガの素、という言葉の真意はこっちにあるのではないかとも思う。

 この「呪い」を解除するために、武術は「一見喧嘩の術だけど、実はみんなが仲良くなる為の訓練なのだ」という宣言を必要とした。つまりこれは武道という生き方の学びであると。その宣言は単なるでっちあげはなくて、実際に技術の頂点として実現されたものだった。術理の究極として、「身体の操作」→「身体+武器の操作」→「身体+敵の操作(一体化)」→「全てとの一体化」の順にみんなと仲良くなるということが武術の上達にベクトルを重ねている。

 武道だけではなく、「道」の多くは単なる道徳みたいなものではなしに、技術の習得に付随する呪いを解除するプラクティカルなものかもしれない。

呪いの時代
内田 樹
新潮社


レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)
内田 樹
文藝春秋

さようなら僕たちの奇妙な国際生活

2010-03-03 16:12:38 | Weblog
 今となっては半ば古典的な名曲"Born Slippy Nuxx"を掛けるとなんだかものすごいことになってしまった。こんなに盛り上がるとは思っていなかったので、僕は久しぶりに触るDJソフトの中を急いで探し回り、場のテンションを維持出来そうな曲をいくつかピックアップした。もう一曲くらいは世界中の誰もが知っている完璧なダンスミュージックを掛けようと思い"One More Time"を出してきて適当な部分でループを作る。それからベースを削って、Born Slippyが終盤になったところから音を被せていく。Born SlippyからOne More Timeで作ったループにゆっくりとクロスフェードさせ、それに合わせてカットしていたOne More Timeのベースを戻していく。完全に音楽が移行してからもループで僅かにひっぱり、タイミングを測ってループからブレークする。そして一回目の「ワンモアタイム」が鳴ったとき、空気が弾け跳んだ。今日DJして良かった、本当に。

 昨日2月27日は随分前から予定されていた外国人寮(僕は今ここに住んでいて来月に出て行く)のお別れパーティーで、名目上はドイツ人Nと韓国人C、管理人Oさんのお別れ会だったけれど、実際のところ、みんなもうこうして今のメンバーで集まることはないだろうと分かっていたはずだ。だから、ある意味では全員の全員に対するお別れ会だった。

 開始予定時刻は7時。場所は寮のラウンジ。
 6時を回って、スピーカーなんかを部屋から運ぶと、ラウンジに併設のキッチンでフランス人を中心に食事の準備が進められているのに出会す。いちいちオシャレな料理ばかりでフルーツのカットなんかにもこだわっているので見ていてテンションが上がって来る。

 彼らはあまり手を抜かない。
 僕はここに1年間住んだ。半年で大勢の人が入れ替わるので、去年の春に一緒に生活し始めた友達の多くが夏の終りに去って、秋のはじまりに新しい人々がやって来て友達になった。僕は去って行った友達のことが恋しくて、新しい人々とは少し距離を取っていた。そんなに簡単にすぐに誰にでも馴染むというわけにはいかない。
 でも、気がつくと僕たちはまたそれなりのチームになっていた。親和性がとても高くて、例えば以前は疎遠だった韓国グループも今度はいつも一緒だ。最初に感じた違和感がなくなって、仲良くなったなと思ったらまたお別れ会だ。

 興奮のピークが過ぎて、元の立食パーティーの雰囲気に戻すため、ほんの少しだけ落ち着いた曲に変える。ベタにseptemberのBMmix、そろそろ特にダンスが好きじゃないとか恥ずかしいとかいう人は踊るのを止めて行く。やっぱり音を抑えて行く時間帯だ。もともとはBGM程度のものしか掛けないつもりだったし、趣旨はダンスじゃないので、そのままher space holidayに、それから緩めのロングミックスCDにつないで、僕はテレビ台とテレビとスケートボードで作った即席のブースから出た。

 色々な人と話しながら、ここでこんなに大勢でパーティーをするのはざっと1年ぶりだなと思う。音楽を掛けるのも。あの時は新しく入寮した人の為に開いたパーティーで、今度はお別れの為だ。間にもいくつか小さなパーティーはしたけれど、こんなに力はいれてなかった。
 1年。

 警備員さんに怒られながら後片付けをして、半分くらいのメンバーでメトロへ行った。僕たちは結構な人数だったので、入り口で「団体割引ないの?」とみんなが言い始めた。僕はないのは知っているけれど一応エントランスにいたTさんに聞いた。ラテンナイトだったせいか、スペイン人のCが「私たち全員スペイン人です、安くして下さい」と大嘘をつき始めて、僕は失笑し、そして結局安くしてもらった。ありがとうメトロ、やっぱり素敵な所だ。
 そうしてエントランスでお金を払っているとMちゃんが中から出てきた。ものすごく懐かしい。
 中へ入るとフードの出店があって、誰かと思えばラティーノのKさんだった。ラティーノへも近々行こう。

 比較的早い時間に切り上げて、エトワで少し休んでから雨の中寮へ戻る。新しいワンサイクルを告げる春の雨だ。

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