書評『希望難民ご一行様』古市憲寿:の大澤真幸レビューのレビュー

2012-06-11 13:42:19 | 書評
 しばらく前、大澤真幸による『希望難民ご一行様-ピースボートと「承認の共同体」幻想』([著]古市憲寿、本田由紀)のレビュー(http://book.asahi.com/ebook/master/2012030600001.html
)を読んだ。

 その後、僕はレビュー後半に書かれていた「目的性と共同性」について思う所を書き始めて、途中で有耶無耶になり放ったままにしていた。ここで目的性というのは「個人の夢や目標」、共同性というのは「みんなと仲良くしたい」のことを表していて、古市氏が「目的性と共同性を独立」と見なすのに対して、大沢氏は「人が欲するのは最終的に共同性だが、強い共同性に至るには目的性という手段が必要であり、2つは独立ではない」という反論をしている。
 これに関しては僕も大沢氏の意見に賛成だ。それは彼の挙げている例を読めばすんなりと来る。

(以下、上記サイトより引用)
たとえば、サッカーコミック『キャプテン翼』の翼と若林くんが、「ワールドカップ優勝」という目的なしでも深い友情を築けたかを考えてみればよい。2人がときどき会っておしゃべりしたり、お茶を飲んだりしても仲良しになったかもしれないが、その関係は一定以上には深まるまい。彼らが親友になるためには、「ワールドカップ優勝」というPが不可欠だ。
(引用終わり)

 似たようなことを最近良く考えていたので、これをもっと掘り下げて行こうとしていたのだけれど、その途中で放り出してしまった。さっき、改めて続きを書こうとして大澤氏のレビューを読み返したところ、前回はなんとも思わずに読み飛ばしたレビュー前半に今度は強い違和感を覚えた。なので、また目的性と共同性のことは先に送って、その前半について書きたいと思う。

 レビュー前半部でひっかかったというのは、「あきらめる」ということについてだ。前半とは言っても、大澤氏自身このレビュー全体の最後に

『「あきらめた方がよい」と言われても、いったい「何を」あきらめればよいのか。不幸の原因は、この点にある。』

 という一文を置いているように、これは前半部だけの問題ではない。むしろ主題はこの「何をあきらめるのか」ということにある(タイトルですからね)。

 では、この「あきらめる」の取り扱いを見てみたいと思う。
 僕はレビュー対象の本を読んでいないし、古市氏についてもほとんど知らないので、あくまでレビューからなんとなく読み取れることだけになるけれど。

 まず、古市氏が本の中で「あきらめて、仲間とそこそこ楽しい暮らしをする」ということを肯定的に書いている。
 それに対して本の共著者であり古市氏の指導者であった本田由紀氏が「それは社会のフリーライダーになるということで、みんながそんなことをしたら社会の持続性が失われる」という批判をしている。
 大澤氏は「あきらめろというのは個人的には良いアドバイスになることもあるが社会学者が言うのはどうか。たとえば差別があったときに、それをなくすのが大変だからといって、あきらめてそこそこの暮らしをするのが本当に良いのか」という批判を加えている。

 レビューをさらっと読んだだけの僕がいうのもなんだけど、この3者で「あきらめる対象」というのは果たして共有されているのでしょうか。この先は「読まずに書くな」と批判されることになると思うのだけど、批判を受けてはまた読んで書くということで、今は自分の想像を書きたい。

 僕は古市氏の言っている「あきらめろ」は、「疑え」に書き換えが可能なのではないかと思っている。
 「大きな夢や素敵なビジョンを掲げて、それに向かって努力して生きて行きましょう!これぞ人生!」というフレームワークについての話だ。これが一般的な話になり得るのかどうか僕は十分には知らないので、僕達というよりも僕という一人称で語るべきだろうか。僕はこのフレームに結構どっぷりと浸かって子供時代を過ごした。幸福とはその延長上に存在するものだと思っていたし、夢が小さい人というのはつまらない不幸な人なんじゃないかと思っていた。かなり長い間そう思っていた。トレンディドラマの最終回みたいに、恋人からも家族からも友達からも離れて、自分の夢を叶えるためにニューヨークやパリ行きの飛行機に泣きながら飛び乗るのが人生だと思っていた。

 もう随分昔のことになるけれど、中学生の時ある友人の下した結論に僕はショックを受けた。彼は、随分と高い偏差値があったにも関わらず、彼女と同じところに行きたいからというの理由で別の高校を受験した。当時の僕は今から思えばそのバカさ具合を嘲り笑う他ないくらいに偏差値の信者だった。高校というのは偏差値と大学進学実績で選ぶものだと思っていた。もう本当に可能であればタイムマシンに乗ってぶん殴りに行きたいくらいの間抜けな子供で、実際に高校の選択は今までの人生でもっとも後悔していることの一つです。
 当然のように僕は彼の選択を「もったいない」と思った。でも同時に心のどこかで「かっこいい」と思って悔しい気持ちもした。彼は自分の近くにある実感を大切にし、僕は得体の知れない偏差値というゴミに飲み込まれていた。完全に僕の負けだった。

 彼がその後どのような生活を送ったのか、あるいは送っているのか、僕は全く知らない。でも、やっぱきっとクールに生き続けているのだろう。そして、あきらめるという言葉を使うのであれば、彼はあの時「偏差値」をあきらめたのだ。蓋を開けてみれば、高校なんてどこに行っても同じことで、したければ勉強なんて自分でいくらでもできる。別に行かなくても大学に行きたいなら大検という手もある。偏差値なんて、つまるところ全くなんでもないものだったのだ。

 古市氏が「あきらめろ」と言っているのは、なんでもかんでもではなくて、さっきの偏差値に相当するような、トレンディドラマの最終回で旅立つニューヨークのような、そういう「実はなんでもないんだけど、夢に向かって!という教育をどっぷり受けてきたせいですこぶる重要に見えてしまう事象」に関してだけなんじゃないだろうか。
 だから、大澤氏が例に挙げている「男女差別をなくすことをあきらめる」とか、そういうのとはかなり違う感じがする。違うというか、むしろ逆の話で、古市氏の主張を「誰かの作った既成価値観から得る満足と幸福感をあきらめろ」と読み替えて良いのであれば、男女差別撤廃をあきらめるのではなく、"男女差別そのものを"あきらめるが正しい例になるのではないだろうか。
 そして、これは大澤氏の最後の一文「何をあきらめればいいのか」に答えたことにもなっていると思う。

 次に本田氏の「フリーライダー」だけど、ちょっと聞くだけならこの意見に賛同しそうになる。
 確かにそうなのだ。たとえば日本の全ての若者が「大文字の夢はあきらめた、今日からはみんなで自給自足で暮らす!」と言い出したら、誰がインフラを担うのだろうか、誰がハイレベルな製品を作って経済を回すのだろうか? 太陽光発電で自給自足って誰が太陽電池開発するの? ネットで繋がってるって、誰がネット整備してPC作るの? 自転車はエコな乗り物っていうけれど、あんな精密な金属加工、誰がするの? そもそも自衛隊はどうするんだ? 武器はどうする? 医療は? 誰が国を守る?

 が、しかし、ここに挙げたことは全部、現代社会を保持するという前提の元にある話なのです。
 僕はハイテクが好きだし、テクノロジーを放棄したいとは全く思わない。だけど、方法としては現代社会を放棄してしまって暮らすというのもないわけではないし、そうしたい人だっている。現代社会を前提として、それが維持できなくなるからダメだ、という論の運び方には素直に与することができない。それは折角作ったんだからこの社会を捨てるなんてけしからんという束縛だ。人間が動物としての身体機能を使いこなし、より自然と密に生きていく社会を、僕達はなにもあきらめなくたっていいのだけど、実質的にあきらめていて、そしてどうしてかそれは「あきらめる」にカウントされていないようだ。この世界を捨ててあの世界へ行くつもりか、という問いの影には、あの世界を捨ててこの世界にいるのだという忘れられた事実が存在している。


希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)
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不可能性の時代 (岩波新書)
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日蝕

2012-06-08 00:23:37 | Weblog
 2012年5月21日の金環日食を見るつもりはなかった。僕は科学が好きだと公言して生きてきた割に、天体ショーにはあまり興味が無い。数カ月前にも心改めて月食を見てみたけれど、ふーん、としか思わなかった。ただ、ある星の前を別の星が横切っているだけのことにすぎないし、加えて月食は地味だ。欠けて、また満ちる。完全に予想通りで、イメージ通りの変化に過ぎなかった。流星群のように派手なものや、真っ暗な山の中から満点の星空を見るとき、僕は高揚感も幸福感も感じる。でも日食とか月食とか月が何%大きいとか、あの星とこの星が並ぶとか、そういう地味な天体ショーには興味は持てない。何十年とか何百年とか、何千年に一度とかそういうレア感にも一切心が動かない。
 どうして僕が日食を見ることになったのかというと、それはその時間に起きていて、比較的時間を持て余していて、かといって何かの作業をするには疲れすぎていたせいだ。

 前日、祖母の通夜があり、僕は従兄弟と二人、一晩を棺桶の隣で過ごした。人工的な灯りの下、外部から幾分隔離された葬儀場にあって、十数時間の後再び訪れた朝の光は、日食であろうがなかろうが、どちらにしてもいつもとは様子が違っていた。駐車場に落ちたややマットな朝日に引かれて表に出て、見上げた太陽は当然のように強く眩しかった。僕は控え室に戻り、昨日買ったミックスナッツの袋を破り取って、再び駐車場へ出た。袋の破片を翳して、プラスティックとアルミ薄膜に透ける太陽の形を見る。少しの時間ならこれでも十分だろう。
 太陽は深く欠けていた。

 やがて世界は光を取り戻す。
 欠損は徐々に埋められて、何もなかったかのように太陽は光に満ちる。
 しかし、本当に欠損とその回復の前後で世界は同じなのだろうか。
 日蝕の前後で、はたして世界は連続か。

 僕達はお風呂に入り髭を剃って、葬儀に訪れる人々を迎える準備をする。余談だけどバスタブはゆったりとしたジャグジーで、浴室にはテレビもあった。僕は普段まったくテレビを見ないのだけど、昨夜は折角なのでジャグジーでテレビを見た。画面の中では、男たちが東京タワーを組み立てていた。驚いたことに溶接工は鉄を溶かす係と、それで鉄骨を接着する係に分かれていて、溶かす係が熱い鉄を火バサミで投げ、それを接着係がバケツで受け取って使うというシステムだった。東京タワーの上で。わお。

 葬儀場の、誰もいない最上階のフロアで、こうして一人でくつろいでお風呂に入れるとは大人になったものだなとぼんやり思う。小さな頃は一人で家の2階へ行くのも怖かった。どうしてあんなに何もかもが怖かったのだろう。仮にそこに幽霊がいたとして、いないはずの人が見えたとして、どうして僕達はそれを怖いと思うのだろう。

 お風呂から出て、グレーのTシャツに袖を通す。
 式の最中は当然黒のスーツだけど、行き帰りの服装も地味にして来るようにと父親から忠告があった。僕は妹の結婚式のとき、着て行ったベルベットのスーツで両親からも親戚からも大目玉や小言を頂戴したことがあって、以来、何かの式があるときは先に随分な忠告を受けることとなっている。基本的には服装に関してだけでなく、性格や思考のもろもろにおいて、うちの子はどうしてこんなにヘンテコな風になったのだろう、という疑問を両親は抱いているようで、ようでというか面と向かって言われているので、それは明白で、何かの式のときは僕が常識はずれをしないかピリピリとするようだった。
 でも、今回の祖母の葬式に関しては、僕は多少華美であっても、普段通りの服装で行くべきだったのではないかと思っている。なぜなら、死んでしまった祖母は、家族親類の中で唯一僕の服装をいつも褒めてくれる人だったからだ。良ちゃんまたハイカラな服着て、おばあちゃんも若い頃はおしゃれだったんだよ。

 一階に戻り、着々と進められていく葬式の準備を横目に、電報を受け取ったりなどしていると、家に戻っていた親戚や家族が戻ってきて、会場は非日常的な葬儀の場から、やや日常性を取り戻した葬儀の場へと変化した。
 僕達は花を手向け、そして焼き、骨を拾った。
 その後初7日も済ませ、レストランで早めの夕飯を取る。まだ幼い姪達はここぞとばかりに大騒ぎをした。

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)
鷲田清一
筑摩書房

「聴く」ことの力―臨床哲学試論
鷲田清一
阪急コミュニケーションズ