『選挙に行かない男と、付き合ってはいけない5つの理由』という詭弁の見本

2014-12-20 11:27:27 | Weblog
「スランプってやつなんでしょうかこういうの? 最近は全然上達しない感じで、練習してもしても」
「まあいわゆるスランプってやつかな。今まで身についたことを一度全部捨ててしまってやり直した方がいいかもしれないね」
「えっ、どういうことですか?」
「コップにさ、お湯を入れたいとするじゃん。でも、そのコップに冷たい水が入っていたらどうする。そのまま冷たい水で一杯のコップに無理矢理お湯を入れても、お湯は溢れて上手く入らないよね。一度、水を全部捨ててしまわないと。同じことで、今まで身についたことが新しい物事の吸収を妨げることはよくあるから、一度全部忘れてしまったほうがいいんだよ」

 このような間抜けなやりとりは毎日至る所で交わされている。
 何かを訓練することと、コップにお湯を入れることは全く別の話で一切関係がない。けれど、人間は喩え話に弱い。よく出来た喩え話には簡単に説得される。そういうのは「ことわざ」という詭弁話法の代表格に良く表れている。
 は?鉄は熱いうちに打てだって、何言ってんだ。今やろうとしていることは鉄を打つのと何の関係もないですが。。。

「例え話」「言い換え」「単語の意味をわざと別に取る」詭弁の手法はたくさんあって、詭弁は溢れかえっている。人間は多かれ少なかれコミュニケーションの中で自分の優位を図らねばならないこともあるので、詭弁が一種の武器として社会に存在していることは仕方ない。どうしようもないのは詭弁を詭弁だと分からずにそれが自分の思考回路に自然に組み込まれている場合だ。
 たとえばこの方の思考のように。

 『選挙に行かない男と、付き合ってはいけない5つの理由』

 正直な話、このエントリーは、これを読んで腹がたったので書いている。2012年に書かれたものらしいが、先日の選挙の影響で僕のツイッターに再び流れてきた。
 こういう風に書くと、たぶんこういう反応も起こると思う。

「腹がたっただって。腹が立つのは図星なことを言われた証拠だ!」

 違いますよ。
 こういうパブロフの犬みたいな条件反射で構成されたコミュニケーションにはうんざりで、最近はそういう会話ばかりになりそうなパーティーなどは全力で避けています。

「ムキになって否定するのは、それこそ図星の証拠!」

 ・・・・

「てか、喩え話ダメって最初に書いてたのに、自分でパブロフの犬みたいにって言ってるしww」

 ・・・・

 放っておいて話進めます。
 この記事に書かれている5つの理由のどこが詭弁なのか順に解説したい。

 ・理由1「面倒くさい」

 「15分以内のところに休日行くのが面倒くさかったら、おそらく彼氏は君の子どもをどこにも連れて行きはしない」と書いてあるが、あれこれ「意味ないんじゃないか」と思い悩みながら投票に行くのと、自分の子どもを遊びに連れて行くのは全く別の話だ。

・理由2「どこに入れても同じ」

 「日本語を読む能力が欠けている」「小学校五年生レベルの読解力もない」と書いてあるが、各党の言っていることが日本語として理解できないからどこに入れても同じだと思っているわけではない。書いてあることくらいは読めるがその先のことで言っている。

・理由3「なんだかよく分からない」

 「社会で働くということは、「なんだかよく分からない」ことも何とか調べて、分かったふりをしながらこなしていくことだ」と堂々と書いている。。。この記事を書かれた駒崎氏という方はなんとかというNPOの代表ということ。「「なんだかよく分からない」ことに対して何もしないのが君の彼氏」とも書いている。なんだか良く分からなくても取り組みたいことと、なんだかよく分からなくてかつ取り組みたくないことが個々人には存在するが、全部ひとまとめにしている。

・理由4「その日用事ある」

 期日前投票のやり方がググれば分かるのに知らないということは「彼氏はおそらくグーグルを使うことができないのだ」と書いている。使える使えないと「それを調べたい」は別の問題。

・理由5「政治家信頼していない」

 政治家というレッテルで判断している。彼女であるあなたのことも女子大生とか読者モデルとかいうレッテルで見てる。と書いている。そんなわけない。
 さらに「政治家信頼してない」は政治家を一括りにしているからで、実際にはいい政治家もいるわけだからこれはバカと書いているが、実際にはいい政治家もいることは誰でも知っている。政治家信頼できないという言葉は「政治家の集団と現行政治制度全体のアウトプット」が信頼できないということで、誰も信用出来ないということを言っているわけではない。システムが全体で動くときに信用できなくなるというのを「個々の部品」の話に次元をすり替えている。

 記事が滅茶苦茶なのは、解説しなくても読めば明らかだが、問題はこのタイトルと「そんな彼とは別れろ」という強い口調が面白い気がして、この話に本当は納得していないのに納得した気分になって他の人に勧める人がいることだ。話が破綻してる気がしても、そこは気にしないことにした方が人に話すネタが増えて便利だ。勧められた人は「面白いよ」と勧められたら「面白い」気になる。ロジカルな納得は二の次になって、また別の誰かに勧める。そうして訳の分からない言説が広がっていく。

テクノロジーが権力を奪う

2014-12-14 10:42:03 | Weblog
 今日は選挙の投票日だそうですね。
 昔書きかけでボツにした小説の一部を公開しようと思います。
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 2018年4月1日グリニッジ標準時正午、インターネットが完全にハックされ、どのURLに繋ごうとしても全てある1つのサイトに飛ばされるという現象が発生した。世界中で見ることができるのは唯一そのサイトだけだった。飛ばされる先のサイトは日本の、しかも日本政府のサイトで、日本語と英語はもちろんのこと、中国語、スペイン語、韓国語、フランス語、アラビア語をはじめとした73種類の言語で宣言がなされていた。宣言の内容は日本が今日から世界をコントロールするというもので、武力と恐怖による支配ではなく、日本政府が考案した社会システムに「平和的に」全体で移行しようという提案だった。それは世界全体の最適化プログラムなので、世界中の人々がより幸福になると日本政府は言っていた。

『ようこそ新しい世界へ!
 こんにちは世界の皆さん。今日から日本をリーダーとした新しい世界がはじまります。ベーシック・インカム、完全無料の医療、世界共通の新しい電子マネー"YUI"を中心とした、より合理的な、より理想的な社会がはじまります。
 日本政府では長年に渡り、より良い世界を築く為の研究を進めて来ました。あらゆるシミュレーションの結果、もはや機能を失っている国際連合および各国政府は廃止し、政治的意思決定の全てを日本政府が単独で担うのが最善であるとの結論に達しました。今日から日本政府は世界全体の最適化、すなわち苦痛の最小化と幸福の最大化を担う言わば世界政府となります。私達は世界中の人々、1人1人の意見を汲み上げて反映する組織であり、もはや日本という1つの国家だけの利益を代表するものではありません。
 国際連合および各国政府を廃止して頂くことには異論があるかもしれませんが、これにつきましては合理的な説明がなされます。すでに皆さんご存知の通り、どの国においても政府はうまく機能していませんでした。それら機能不全の政府が意見を対立させる国際社会がうまくいくはずもありません。
 私達日本政府では、長年に渡る研究の成果として、ほとんど自動的に最適な政治的意思決定を行うシステムを開発しました。このシステムに世界の意思決定を委任することで、世界はより良くなるだけではなく、機能不全に陥っていた各国政府の廃止というコストダウンも同時に達成されます。
 世界市民全員の、豊かさと自由、基本的人権の保証された世界へ。時代錯誤な貧困への恐怖、労働崇拝のない、まったく新しい世界に、今変わります。
 さあ、みんなで素敵な一歩を踏み出そうではありませんか!》

 宣言文の後にまず、このハッキングは24時間で終了し、24時間経過後はインターネットが元に戻るということがお詫びと共に書かれていた。その後、どのようにして新しい電子マネー"YUI"を受け取るのか、それはどのようにして使うものなのかといった基本的なインストラクションと、新しい世界政府の仕組みについての詳細を書いたページが続いている。
 最初にこの画面を見た時、誰も書かれていることを素直には信じなかった。何かの間違いか、あるいはハッカーがエイプリルフールに仕掛けた質の悪い冗談だろうと。世界が変わったということよりも、コンピュータウィルスにでも感染したんじゃないかと、自分のコンピュータの方を心配した。しかし、事実を確認しようにもインターネットは使い物にならない。知り合いにメールで聞いてみようとメールボックスを開けると、そこにも日本政府からのメールが届いている。日本政府は世界中の全てのメールアドレスに、73種類の言語で書かれたメールを送信していた。メールの送受信は今まで通りに行うことができたので、人々はまるで年が明けたときのように大量のメールを送りあった。日本政府がインターネットをジャックしてからの24時間に送られたメールの数は、インターネット登場以来どの24時間に送られたメールの総数よりも特異的に多かった。
 ネットを見ていても埒があかないと思った人達がテレビを点けてみると、全てのチャンネルが乗っ取られていて、遠山という日本の総理大臣が「今から世界全体の指揮は日本が取る」と本当に言っていた。
 この突然の出来事にもっとも驚いたのはアメリカ政府だ。1945年以降、日本の動向で知らないことは何もないはずだった。日本政府がどのように手足を動かしているかは常に全て把握しているつもりだった。しかし、このようなテロ行為が準備されていることは全く情報がなかった。
 情報がなかったのはアメリカだけではない。どの国も、"日本"を含むどの国家も日本政府によって世界支配が計画されていたのを知らなかった。遠山は政府組織をダブルレイヤーにし、通常の政府の下に別の組織を組み上げていたので、日本国民もこのことは一切知らなかった。17年間掛けて秘密裏に作り上げた組織は、主に研究者と精神病患者、自殺志望者、ひきこもり、服役囚から成っていて51万3243人で構成されているという話だ。日本では博士号取得者の約8%が行方不明になると言われていて、彼らは絶望して自殺したり人目に触れない場所へ逃げ出したのだろうと思われていたが、実際にはその大半が遠山の地下組織に入っていた。毎年発表される自殺者数も行方不明者の数も嘘だった。遠山の組織は人生に絶望した人間をモニターして、適材であると判断した場合慎重にアクセスし組織に引き込んだ。精神病だと診断された人々も同様にモニターしていた。社会に絶望した精神異常者だと判別される人のほとんどは社会を覆っているある澱みに対して鋭敏なだけだった。一日中ネットゲームをしているのだと思われていた引きこもりの9%、つまり7万2000人は遠山の指揮下でプログラムを書いたり世界中のネットワークに侵入したりしていた。
 アメリカ政府はすぐさま日本政府へ強烈な抗議をしたが、日本政府の返答は「私どもの理解ではアメリカ政府というものは既に存在していません。抗議の主体が存在していない以上、この抗議は意味をなすことが不可能です」という簡潔で短いものだった。
 24時間が経過して、世界中のインターネット及び放送網が通常状態に戻ると、世界は日本政府の宣言に関するニュース一色になった。当然のことだが日本政府の無茶苦茶なやり方と一方的な宣言は凄まじい非難を受けていたし、武力行使という言葉も既に出ていた。


「武力はもう無力だよ」
 高原祐輔はニュースを眺めながら呟いた。祐輔はまだ16歳だったがプログラマとしての天才的な才能を遠山から認められてハッキングチーム第2班のリーダーを任されていた。遠山の組織が接触してきたとき、祐輔はまだ11歳で小学5年生だった。半年の不登校期間を経た後、学校へ行ってみるとクラスメイトも教師も、みんなバカにしか見えなくなっていて驚いた。バカなみんなに色々なことを教えてあげようとすると、頭がおかしいのだと思われてクラスの男子に襲われた。彼らには報復して翌日から登校はやめた。祐輔が再び学校へ行くのをやめた翌日、遠山の組織から柴田と名乗る1人の女性が家へ訪ねてきて、祐輔に組織へ加わって欲しいと言った。柴田という女性は、組織についての長い説明の最後を「受ける受けないは自由ですが、この事を口外された場合はあなた方だけではなく話を聞いた人も全員即座に殺すことになっています、申し訳ありませんが」と締め括った。
 信じがた話だったが、祐輔も母の啓子も恐怖を感じることはなかった。組織はリクルート専門のチームも持っていて、そこで十分な訓練を受けた人間が、ターゲットとなる人物との相性を考慮した上で派遣されていたからだった。
 祐輔達が、柴田という女性の話を信じたのは、彼女がある物を見せてくれたからだ。祐輔はあれを見た瞬間の驚きを一生忘れないだろう。

トウモロコシを踏み潰せ!;「インターステラー」は「風立ちぬ」

2014-12-08 12:16:30 | 映画紹介
 「インターステラー」が、良かった。
 「2001年宇宙の旅」との比較とか、「物理学者が入ってて物理学的な描写が正確」とか、そんなのはどうでもいいと思う。ちなみに物理学的考証がどうだかしらないが、話は「使い古されたSF話法ゴッタ煮滅茶苦茶のご都合主義」だ。地球から打ち上げる時は今のNASA程度のテクノロジーだったのに、惑星探査のときはスター・ウォーズばりの宇宙船になってるし、1時間いたら地球では7年経ってるような強い重力の星なのに「みんなフツーに動いてる!!!」し、それでもとても面白い映画だった。

 「良かった」「面白かった」の半分は「悔しかった」で、どうして悔しいのかというと、僕が日頃イライラしながら眺めていて、どうにか小説に書けないものかと思っていたことの半分がここで言われてしまったからだ。見事としか言い様がない。僕が高々小説という小さな形を探っている間に、クリストファー・ノーランは制作費1億6500万ドルの大作映画を作った。
 そのメッセージのようなものは、映画の中に何度か繰り返して直接出てくる。

「人々はかつて空を見上げ、この向こうには何があるのだろうと思いを巡らしていた、だが今は地面を見つめて心配してばかりだ」

 というようなセリフと、あと「俺は農業が嫌いだ」という主人公の言葉。

 映画の舞台は近未来で、地球は砂嵐にまみれて植物も枯れてしまい、人類には絶滅の危機がゆっくり近づいていた。農作物が十分にできないので、大半の人達が農業に従事し畑を耕している。「学問なんて無駄だ、畑を耕せ」。学校では「アポロ計画の月面着陸はソ連を騙して無駄な宇宙開発に国力をつぎ込ませるための嘘だった」と教えていて、「本当に月に着陸した」と言い張る主人公の娘は問題児扱いされている。そういうことは不可能で誰も夢見さえしないことだと教育しなくてはならない。そういう時代の話だ(映画を既に見ている人はどうして「本棚の裏」が選ばれていたのか考えてみて欲しい)。
 MRIも「そんなものなかった」ことになっていて、お陰で脳腫瘍の診断ができなかった主人公クーパーの妻は死んでしまった。

 砂埃にまみれたキラメキのない時代、元宇宙飛行士で優秀なエンジニアである主人公クーパーは「俺は空を飛んでいるはずなのに、なんでこんなことしてるんだ」と言いながら畑を耕している。紆余曲折あり、彼は解体されたはずが秘密裏に存続していたNASAの宇宙船で人類を救う冒険に出る。異常気象で住めなくなってきた地球から人類が移住する星を探しに、ワームホールをくぐって別の銀河まで行くほとんど帰れる見込みの無いミッション。
 主人公がNASAに行くより前のシーン、保護者面談で学校の先生と話している途中、「大学には税金は投入されていない」「それなら税金は一体何に使われているんだ」というやりとりがある。それより前にももう一箇所、税金に言及した場面があって、基本的にこの時代の人は「払った税金がどこに使われているのか分からない」という不満を抱えているのが見て取れる。
「消えた税金」は、もちろん国民が存在を知らされていないNASAで使われている。それが良いことか悪いことかと問われたら、たぶん悪い。百歩譲って「人類を滅亡から救うという使命があるのだから、国民に秘密でお金をつぎ込んでても仕方ない」というのであれば、この「使命」にも実は疑問符が付いている。詳細はネタバレがひどくなるので書けないけれど、NASAの存在は科学好きな特定の人達のエゴに因って保たれているだけだ。

 だから、この映画は絵的に「2001年宇宙の旅」かもしれないけれど、テーマは「風立ちぬ」に似ている。大地による脅威に脅かされながら細々生きる民衆と、それらを無視するようにエゴで空の高みを目指す一握りの天才。
 「風立ちぬ」では、大地が関東大震災として襲いかかり人々は苦しむ。それでも莫大な資金を使って堀越二郎という天才がゼロ戦を開発する。
 「インターステラー」では、大地が砂嵐として襲いかかり人々は苦しんでいる。それでも税金を投入してラザロ計画関係者が他の惑星を目指す。
  堀越二郎とクーパーが空を憧憬し見上げる視線は同じだ。その視線に伴う残酷な程の美しさ。

 冒頭シーンで、クーパーとその娘、息子の乗った車がパンクする。それを修理していると旧インド軍の無人偵察機が彼らの上を通過。見るやいなやクーパーは「修理はいい、行くぞ、乗れ!」という感じでパンクしたままの車でトウモロコシ畑を突っ切って偵察機を追い始める。挙句の果てに親子3人車ごと崖から落ちそうになって、なんとか無人偵察機を捕獲。危険な偵察機だったかと言えばそうではなくて、人畜無害な偵察機を単に追いかけたかっただけだ。娘に「かわいそうだから空に返してあげたら」と言われるほど。この冒頭シーンで、鑑賞者はクーパーの狂気に近い空への憧れを印象付けられる。空飛ぶドローン追いかけて、自分も育てているトウモロコシをクソ食らえとガンガン薙ぎ倒し、食糧難の時代の畑を何でもないかのよう縦横自在に。

 僕達にとって、トウモロコシとはなんだろうか。パンクしたままの車とはなんだろうか。そして空飛ぶ無人飛行機とはなんだろう。
 トウモロコシは、誰にとってもその存在意義が自明なものだ。人は食べ物がないと生きていけない。だから誰も彼もが安心して盲目的に「これが大事だ」と叫ぶ。現代なら「エコ!」とか「コミュニティ!」とかかもしれない。グリーンでクリーンなイメージで田舎暮らしが新しいとか、すっかりメディアに踊らされてそういうものが「正しい」と思い込んでいることかもしれない。「空気」かもしれない。
 パンクしたままの車は、パンクしたままのガソリン車は、エコでなくて「正しくない」ような気のする前世紀的なプロダクトは、やぶれかぶれでも僕達を憧れの場所へ連れて行ってくれる何かだ。挫折したり諦めたりして「キズ物」になったかもしれないけれど、エンジンかけてやればガタガタしながらでも憧れのあそこまで乗せて行ってくれる誰かの人生かもしれない。
 視界を横切った、空飛ぶドローンは何だろうか。
 よく見えなくても、タイヤはパンクしてても、古い車であっても、飛び乗って追いかけてみるのはどうだろうか。
 トウモロコシが邪魔だと思うが、そんなものは何本踏み潰してもいい。
 「俺は農業が嫌いだ」

インフルエンザ予防接種のこと;『予防接種は「効く」のか?』の紹介

2014-12-06 13:19:45 | 書評

(追記、2014年12月8日)
 この本は都合悪いことは書いてない、と指摘を受けました。
 書きなおすか削除を検討します。




 インフルエンザの流行が、また例年通りにやってきて、予防接種の話もそこここで聞かれるようになりました。僕は子供のときからずっと「科学」が好きで、それなりに科学に触れながら生きてきて、ある程度は科学的な知識を持っていると思います。でも「インフルエンザの予防接種を受けるべきかどうか?」とか「効果あるの?」とか、そういう話題には何も答えることができませんでした。インフルエンザだけではなく医療に関わることは複雑で統計的な処理をしないと効果が見えにくく、さらに人間というのはそれぞれの体も違えば生活環境も一人一人異なっているので、俺はこうだった、私はこうだった、という体験談も様々。マスメディアは”噛み砕いてわかりやすく”、さらにセンセーショナルに話題を流そうと躍起になっていて、聞きかじった噂はインターネットを飛び回り、それこそ感染症のように情報空間を広がります。
 医学会からの情報にすら、「医者の金儲けの為だ」「インパクトある論文にする為だ」とかケチがツケられて、もう人々は彷徨い誰かの耳障りよい言説を信じて終わりにしたい気分になります。もしも個人にスーパーマンのような力があれば、医学の歴史上行われてきた全ての先行研究を追試して、なんてこともできるだろうけれど、現実的にはありえない。それどころか、ある1人の市民にとってみれば「一次資料を当たって分析」なんてこともしてられない。本音としては「信用できる専門家に信用できる話をしてもらいたい」。安直な方法だし、危険な方法です。「信じる」というのは危険です。けれど、僕達は「あらゆることに関して何も信じないで俯瞰的に全ての情報源を分析していく」なんてことはできません。現実的には僕達はどこかで妥協しなくてはならない。ホテルに勤務している人が上司から「インフルエンザの予防接種をして来るように」と言われて、今日医者へ行って打つかどうか判断しなくてはならないかもしれない。そんなときに世界中の歴史上の全論文を取り寄せて分析するなんてできない。「疑念」というものを片隅に保管したまま、一旦は誰かの信用できそうな意見を採用してみなくてはならない。それは答えではないかもしれないけれど、当面は使える足掛かりになります。

 僕が「とりあえずここを足掛かりにしよう」と思ったのは、岩田健太郎『予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える』という本です。
 著者の岩田先生は感染症の専門家で、僕は2011年に神戸で開催された『災害時のリスクとコミュニケーションを考えるチャリティシンポジウム』でお話をきかせて頂いたことがあります。その時のお話の様子から、僕はこの人は信用できるなと思いました。もしかしたらこのときに実際に見ているので親近感が湧いているだけかもしれませんが、誰に対してでも会えば親近感が湧いたり信用したくなったりするわけではありません。

 
 この本の「あとがき」から引用させて頂きます。

<ある種の人たちはどうして、あんなにワクチンを憎悪するのでしょうか。そのことを考えてきました。
 ワクチンを否定したい、という気持ちそのものを、僕は否定するつもりはありません。誰にだって好き嫌いはあります。僕にもあります。
 (中略)
 ただ、大人であれば、「好き嫌い」の問題は顕在化させてはいけません。絶対に慎み深く隠蔽し、なかったかのように振る舞わなければいけません。「ぼくにんじん、きらーい」とか「私、けんじくんなんて大嫌い」といったステートメントは、子どもにだけ許された特権なのです。おとなは「好き嫌い」を口に出すことは許されないのです。
 そのような抑圧が、ゆがんだ形で表出されることがあります。「わたし、けんじくんなんて大嫌い」なんて子どもっぽい振る舞いを大の大人がやってはいけないから、「けんじくんの見解はいかがなものか?」と話法を変えてみるのです。「好悪の問題」を「正邪の問題」にすり替えるのです。前者は個人的な主観ですが、後者は客観的な事実関係を扱っている(ように見える)。
 (中略)
 「ワクチン嫌い」の言説は、好き嫌いから生じていると僕は思います。最初は好き嫌いから始まり、そして「後付けで」そのことに都合の良いデータをくっつけ、科学的言説であるかのように粉飾します。都合の悪いデータは罵倒するか、黙殺します。
 (中略)
 本書ではワクチン問題の「好悪」の部分と「正邪」の部分を切り離すことに、エネルギーを費やしました。ある程度は成功したと思います。
 僕はみなさんに、「さあ、みなさんもワクチン打ちましょうね」とプロパガンダをぶち上げているわけではありません。
 手持ちのカードは開陳されました。あとは、読者のみなさんが、自分の頭で考え、自分の意思で決断するだけです。>

 プロパガンダをぶち上げてはいないですが、副題の「ワクチン嫌いを考える」からも読めるように、「打てとは言わないが、毛嫌いもどうかと思う」と、毛嫌いしていた人にとっては「打つ」寄りに感じられる本かもしれません。
 ここでの「好悪」というのは、「面倒」で置換可能ではないかと思いました。好き嫌い以前に、予防接種を受けるのは面倒です。病気でもないのにわざわざ病院へ言って、時間もお金も掛かります。しかもちょっと痛いし、体に「異物」を放り込まれる。予防というのは何事においても面倒でアホらしくて、時にかっこわるい気もするし、できれば御免被りたい。何かが起こってからそれを「治療」とか「修理」とかしてもらうことには感謝できるけれど、何も起こらないうちから「虫歯にならないように歯磨きしなさい」とか「乗る前にタイヤの空気を点検しなさい」とか言われると、「うるせーな、そんな面倒なことやってられっかよ」となってしまう。

 だから、僕達は最初から「ワクチンなんて意味ない」と思いたいバイアスを持っていると思います。
 意味があるんだったらわざわざ病院に行かなくてはならないので、誰かに意味ないから打ちに行かなくていいと言って欲しいのです。それでインフルエンザにかかったら、どうせ予防接種をしていても掛かっているはずだから、とあきらめが付くので問題ありません。「インフルエンザの予防接種には意味が無い」と信じた方がイージーで快適なのです。妊娠の可能性とか超絶に楽しみな旅行前とか「絶対にインフルエンザに掛かりたくない」と思っている人以外にとって、予防接種というのはそういう心乱される選択肢だと思います。僕の場合はそうでした。
 この本は、まずそこを解く一助となってくれます。
 インフルエンザの予防接種を受けようかどうか迷っている人や、職場の上司に受けろと言われた人とか、この季節、予防接種が若干の悩みのタネになっている方も結構多いのではないかと思ってこの記事を書きました。
 この「心悩ませる余計な選択肢」みたいに見えているものが、ものすごい数の人命を救ってきた医学者たちの真摯な努力と叡智と覚悟の結晶であることを、「めんどくさい」の前に、もう一度振り返っても良いのではないかと思います。

予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える (光文社新書)
岩田健太郎
光文社