P is not NP?

2008-12-20 15:38:58 | Weblog
 また、引っ越すことになりました。去年の12月に2年契約で今の部屋に引越しをしたばかりなのですが、事情があってこの冬の終わりくらいに京大の近くに引っ越します。引越しといっても今のアパートから自転車で10分も掛らないくらいのところなのでなんてことないと言えばなんてこともないです。引越し先については書きたいことが山ほどあるのですが、理由があってそれも控えることにします。

 しばらく前に、京都国立近代美術館の「エモーショナル・ドローイング展」をさっと見に行って、アートは基本的にNP問題かもしれないな、と思いました。作家の好みに全人類が同じだと仮定すると、絵の良し悪しは見た瞬間に分かるからです。
 NPというのは Non-deterministic Polynomial time の頭をとった物で、日本語では非決定性多項式時間だとかなんとか訳すようです。ただ面倒なので普通はNPと呼ぶと思います。それから「NP問題」というのは「解が与えられたとき、それが正しいという検算が多項式時間で可能な問題」のことです。

 多項式時間というのは、計算に必要な時間の関数が問題サイズを引数とした多項式で書けるという意味で、問題のサイズをS、計算時間をT(S)としたときに

 T(S) = C1 + C2*S + C3*S^2 + C4*S^3 + … + Cn*S^n
 ; Cnは係数、*は掛け算^は累乗

 で書けるような問題のことです。Sの50乗とかが出てきたら大変な気がしますが、この多項式時間というのは「簡単に解ける」というくらいの意味合いで用いられます。本当に大変な問題は多項式時間では計算できなくて、

T(S)=e^S ; eは自然大数の底2.718281828...

みたいな感じで指数関数的に計算時間が爆発します。

 この多項式時間で解ける、つまり「簡単な」問題をP問題というのですが、P問題とNP問題は一緒なのかどうか、つまり検算が多項式時間で行えるような問題はその答えの導出も多項式時間でできるのかどうかというのが数学上最大の問題になっていて、未だ誰も証明に成功していません。たしか100万ドルくらいの懸賞金が掛けられていたと思います。P⊆NPは明らかですが、逆の包含関係が成立しているのかどうかは分からない。

 今のところ経験的に P≠NP であろうという予測がされていて、その一つの根拠に因数分解などを多項式時間でこなすアルゴリズムが発見されていないから、ということが上げられます。因数分解は小さな数なら簡単にできるけれど、大きな数になると多項式時間では計算できません。15の因数分解は瞬間的に3*5だと分かるけれど、167680の因数分解はそんな簡単にできませんよね。でも、3*5を計算して15を導くように、どんな大きな数の因数分解でも検算は簡単にできます(ただの掛け算ですから)。この因数分解の難しさというのは現代暗号のベースですが、もしもP=NPだとしたら、実は因数分解も多項式時間でできる方法(量子コンピュータは今想定していません。ここまで漠然と計算と書いていますが、普通のチューリングマシンで計算することを前提にしています)がどこかにある、ということになり、暗号の安全性はほぼなくなってしまいます。

 このNPとPが同じかどうかというのは、単に数学の問題ではなく、僕達の宇宙がどうして一見非可逆的にできているのかとか、そういうことにダイレクトに関わってくる問題にも見えます。

潜水艦を見つけたら。

2008-12-15 17:08:17 | Weblog
 30歳前後というのはそういう年齢なのか、最近自分のルーツになっている、すっかり忘れていた大昔のことを思い出すことが増えました。それで、今日もまた一つあることを思い出しました。
 話の流れとしては、最初、先日オークションで購入した耳当てのことを書こうとしたのですが、耳当てを買うのは初めてのことで、年々寒さに弱くなるな、そういえば子供の時は寒さを全然気にしなかったような気がする、子供の頃ってマフラーもしなかったし、あっ、そういえば小学5年だか6年だかのとき僕の探偵団とクラスの女子の探偵団で一緒にクリスマス会をして、そのとき帰りに一人だけ待たされて、何かと思ったら生まれて初めて手編みのマフラー貰ったけれど、全然使わなかったから心苦しかったな、にしても僕らの探偵団って結局男子と女子との小競り合いみたいなものでしかなかったかもしれない、秘密にすべき通信なんてないのに暗号で手紙書いて、でも暗号考えるのって楽しかった、数字のやつとか文字を記号化したのとか子供なりに色々考えてたっけ、一個だけマリン組の真似だったけれど、あっ、マリン組ってそういや僕すごい大好きだったじゃん。
 という風にマリン組のことを思い出したのです。
 ネットで検索してみると「マリン組」ではなくて「魔隣組」でした。「じゃあまん探偵団 魔隣組」というのがフルネームです。さらに、その前に放送されていたシリーズ「おもいっきり探偵団 覇悪怒組」の記述もネットにはあって、どちらかというと僕が良く見ていたのはこの「おもいっきり探偵団 覇悪怒組」の方だったことが分かりました。

 このハード組は少年少女の心を鷲掴みにしていたに違いありません。
 すごいです。
 簡単なストーリーの紹介と、全50話のうち最初から11話のタイトルリストをウィキペディアから引用すると

 竹早小学校の5年3組の仲良し5人組、ヒロシ、ヤスコ、サトル、タケオ、ススムは、自分達が考えた「怪人魔天郎」が実際に現れた事に驚く。魔天郎から挑戦を仕掛けられたのを機に探偵団「覇悪怒組」を結成する。やがて新任の落合先生が魔天郎と変な所で共通点があることに気づくのだが、真偽を確かめる事が出来ない。覇悪怒組は果たして魔天郎を捕まえられるのか? そして魔天郎の正体とは……?

 1、怪人魔天郎現わる!
 2、ぼくらの秘密基地
 3、恐怖の地底探検
 4、謎の怪物屋敷
 5、空を飛ぶ怪人
 6、透明人間
 7、ボクのパパは魔天郎
 8、タコと魔天郎
 9、宿敵! 辛切警部現わる
 10、黄金の万手観音
 11、タイムマシーンの秘密

 これは子供のときの僕には抗えない物語だったと思います。
 ついでに魔隣組の方もストーリーを引用すると、
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 江南小学校の5年生の仲良し5人組が、ドイツの潜水艦Uボートを発見し、そこを拠点にじゃあまん探偵団「魔隣組」を結成する。魔隣組は世紀の大怪盗ジゴマを倒す為に、ジゴマ探知機(ジゴマが近づくと反応する)などの様々な秘密兵器を使いジゴマを追いかける。

大怪盗ジゴマとは、白と黒のコスチュームに身を包んだ大泥棒。出自・出生・性別その他全てが謎に包まれている。正々堂々とした華麗な盗みを信条とし、卑怯な行いを嫌う。そのため悪辣な犯罪者と戦ったり、傷を負うのを承知で魔隣組を助けた事もある。

リーダーのタカシの叔父である推理作家、斜六郎(通称シャーロックおじさん)も魔隣組に協力をする事がある。劇中でジゴマの正体はシャーロックおじさんではないか? と言う指摘が劇中では何度かなされているが、明確な答えは出さずに視聴者の想像に任せる形で物語は完結している。
______________

 しかもなんと魔隣組のエピソードの中には特別編で「魔隣組VS覇悪怒組」というのがあったようです。僕は見たのかどうか全然記憶にないですけれど。

 僕が子供の頃に探偵団を作って遊んでいたのは、マガーク少年探偵団とか江戸川乱歩の影響だと思っていたけれど、実はこんなそのままのテレビシリーズだってあったようです。

run into the shadow ( with BRAIN ).

2008-12-11 14:46:47 | Weblog
 この間、前を通ったついでにランダムウォークで Adam Fawer "Improbable"(邦題はたしか、数学的にありえない、だったと思います)を衝動買いしました。ネットで書評を読んでみると、作者の物理や数学に対する知識が浅いので特に量子力学をすこしでも齧ってる人は読んでも楽しめない、みたいなことが書いてあった。僕は劣等だけど一応は量子力学に慣れ親しんでいるはずの身なので、そんなことを言われるとがっかりする。子供の頃随分たくさん本を読んだし、日本語の本なら大体数ページ読んだだけでアタリかハズレの見当を付けることができる(高橋源一郎クラスになると2、3行で分かるらしい)。だけど英語はそんなに堪能ではないから、洋書を選ぶときはすんなりとは行かない。
 それでOにImprovableって知ってるかと聞くと、昔読んだ事があるらしくて、面白いし友達もけっこうみんな読んでた、ということ。科学のことに関しては「Dan Brownよりはまし」との評価だった。なるほど、なら大丈夫だ。あまり大きな声では言えないけれど、僕もOもDan Brownが好きなので、ときどき彼の作品の話をする。
 そのあと、Improbableの表紙を見ると、なにかが引っ掛かって、僕は本棚から Dan Brown "Angels and Demons" を取り出した。二つの表紙は実に良く似ていた。2つとも主人公がもやもやした光の中へ駆け込んでいくイラストで、まるで同じ本の表紙違いバージョンみたいだった。
 もちろん、どうでもいいと言えば全くどうでもいいことなんだけれど、僕が好きな物語のタイプの、その1つを象徴するのはこういうイラストかもしれないなと思いました。インテリが謎に満ちた訳の分からない事件に体ごとぶつかっていくみたいな。そっか、これって、マクガイバーですね。

置かれた言葉はまるで足跡のように続いていました。

2008-12-10 12:44:07 | Weblog
 生まれてはじめて、ミクシィのコミュニティによくある「はじめまして」のところにはじめましてって書いてしまいました。一体何のコミュニティかというと「ポカリスエットCM愛好会」というそのままポカリスエットのCMを褒め称えるコミュニティです。前にも一度書きましたが、僕はポカリスエットのCMがずっとものすごく好きで、今でもときどきyoutubeで見ているのですが、80年代の外国人を起用したものはアウトとして、それから後の日本人を使ったCMはだいたい好きです(宮沢リエを起用していた頃はCGが邪魔だとか色々思うことはあるけれど)。天才的な青と白の使いかただと思う。僕はJポップなんてほとんど聞かないけれど、選曲も完璧だと思う。
 今日、研究室で朝から少しCMを見ていて、そうかコミュニティを探してみればいいんだと思って探すとあったので、嬉しくなって入ってしまったという次第です。しかもはじめましてをはじめて書いたくらいだから相当に嬉しかったのだと思う。今まで一人で「これはすごいCMだよな」と思っていたのが、そこには1225人ものメンバーがいました。

 とまあ、これはやや恥ずかしい告白で、僕は自分が10代を過ごした1990年代のポカリスエットCM曲が今聞くと随分なインパクトで心を打つことにびっくりしています。年をとるってこういうことなのか、と思った。
 僕は小学生くらいのときはクラシックが好きだと言い張り、中学になると洋楽が好きだと言い張って、CDショップへ行っても邦楽の棚の前に立つなんて恥ずかしいことはできない、といったタイプのひねくれた子供でした。高校の途中くらいからバランスが取れるようになった。だから、当時テレビやなんかで流れていた曲も真剣に聞いたことはないし、全然注意したこともなかったはずです。なのに、今当時流行していた曲を耳にすると、それは圧倒的に懐かしくて、他の時代の音楽とは完全に質の異なった心の動きを呼び出します。これが「土着」とか「ふるさと」とか「世代」とか、そういう概念の本質だったのかと、それらの強力な働きを思い知らされている。

 音楽と時間、に関して言えば、もう一つ自分の年齢がその音楽に追いつくというのも最近経験しつつあります。
 僕は今でこそ小沢健二のファンを公言していますが、彼がテレビに沢山出ていて売れていたときは全然好きではありませんでした。好きになったのは僕が大学生になってフリッパーズギターに目覚めて、それから小沢健二、コーネリアスと歴史を再び辿ってのことです(1988年に小沢健二と小山田圭吾よりなるフリッパーズがデビューして1991年に解散、その後、小沢健二と小山田圭吾(コーネリアアス)のソロになる)。

 小沢健二のアルバムは現在以下の6枚があります。

『犬は吠えるがキャラバンは進む』(1993年9月29日)
『LIFE』(CD;1994年8月31日, アナログ盤;1994年9月21日)
『球体の奏でる音楽』(1996年10月16日)
『Eclectic』(2002年2月27日)
『刹那』(2003年12月27日) アルバム未収録曲集
『毎日の環境学: Ecology Of Everyday Life』(2006年3月8日)

 このうち5枚目の刹那はアルバム未収録曲集なので外しておいて、残りの五枚についてそれぞれ発売時に小沢健二がいくつだったのかを記入すると

『犬は吠えるがキャラバンは進む』(1993年9月29日)   25歳
『LIFE』(CD;1994年8月31日, アナログ盤;1994年9月21日) 26歳
『球体の奏でる音楽』(1996年10月16日)         28歳
『Eclectic』(2002年2月27日)             34歳
『毎日の環境学: Ecology Of Everyday Life』(2006年3月8日) 38歳

 そして、ただの偶然かもしれないけれど、僕は今29歳で、いいなと思えるアルバムは古いほうから「球体の奏でる音楽」までだけで、「球体の奏でる音楽」を聴くようになったのも去年くらいからです。
 小沢健二、柴田元幸、村上春樹、3氏の関係は以前に書きましたが、僕は柴田元幸や村上春樹の文章が好きなように小沢健二の書く歌詞も好きです。そしてなんとなく象徴的なことに「球体の奏でる音楽」には

 うっかりして甘いお茶なんて飲んだり
 かっこつけてピアノなんて聴いてみたり
 大人じゃないような
 子供じゃないような
 なんだか知らないが輝けるとき

 という一節からはじまる「大人になれば」という歌が入っている。28歳、29歳ってもう大人だろ、って言われそうだけど、やっぱり今は僕はこういう風に感じています。小沢健二が生まれたのは1968年4月なので、1979年2月生まれの僕とは学年にしてちょうど10年の開きがあります。彼がこれを書いたとき28歳で、自分が28歳になってから歌詞に共感を覚えるようになったというのは、人が各時代から受ける影響、つまり「世代」の他に、世代を超えて「ある年齢で分かること」がちゃんと存在しているのだということを示唆しているのかもしれない。34歳になったとき、今は暗いなあとしか思えないEclecticを聞いたらどう感じるのだろう。

国籍法。

2008-12-08 16:12:06 | Weblog
 「反対」という人がたくさんいる様子なのに僕には特に問題がないように見えたので、何が問題なのかちょっと調べてみないと分からないなと思っていると、改正国籍法が成立したそうです。結局良く分からないままなのですが、反対している人たちはどうして反対だったのでしょうか? この法律の改正案は日本を壊すと言う意見が所々に見られて、僕にはそれは単なる狭い村意識というか、日本人の血を汚したくない、みたいなかなり閉鎖的なものにしか読めませんでした。正直な話、今時まだそんなことを言うのかと思ってびっくりしたくらいです。

 元々「国籍法改正の問題はネットにしか出ていなくて、マスメディアはこれに対して口をつぐんでいる。日本のマスコミは終わった。」というようなことを書いている人が随分いて、それを読んでもなんとなく視野狭窄的な雰囲気を感じていたのだけど、たぶん新聞社としては普通に大した問題じゃないという見解だったのではないかと僕は思います。

 国籍法の改正案って何が悪いのか、詳しい方教えていただけると助かります。

 ざっと見たところ、多くの人が「国籍法」が法律の一つでしかないことをすっかり忘れているようにしか見えません。たとえばあるサイトに「改正案には扶養義務の規定がないから父親は扶養義務を負わないし、お金を貰ったりして大勢を偽装認知させることができる。妻子は日本国民の血税であるところの生活保護を受けて国内で暮らす」ということが書かれているのですが、そんなわけはありません。国籍法はあくまで「国籍だけ」を扱う法律であり、扶養義務なんかのことはここで扱わないし扶養義務に関する規定が書かれていないのは当然のことです。認知したら扶養義務が生じるというのは民法上の決まりであって、そこからはもう民法の話です。国籍法に何も書いていなくても、民法によって普通に父親は認知すると扶養義務を負います。当然のことですよね。上記の解釈は、国籍法には刑法のことが書いてないから人殺しも全然オッケーって言ってるようなものです。
 それに、100人でも認知できる、みたいなことをかなりの人が書いているのですが、これも国籍法だけに基づくものではないので、そう簡単に行くものではありません。当たり前のことを繰り返すけれど、国籍法では国籍の話しかしません。そして日本には国籍法のほかにも沢山の法律があって、帰化した人も当然それを遵守する必要があります。

 あと、国籍法改正案に反対する人々が守ろうとしているものが本当は一体何なのか考えると、なんとなくざわざわした気分になってしまいます。基本的な文脈が「豊かな私達の日本が外国人にたかられる」という人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしいと思うようなものだからです。中には軽い怒りを覚えるようなものも散見されます。僕には比較的たくさん外国人の友達がいるけれど、彼ら彼女らの誇りを踏みにじるような文章です。それからコスモポリタニズムはどこいったんだろう。国なんてウンコみたいな概念が存続して世界をバラバラに刻み続けているだけでも驚きだというのに。
 ピース。

 追記。
 そういえば、これを書いていて思い出したのだけど、昔誰かが「日本のマツタケが高いのは日本人が日本人の血統を重んじているからだ」ということを言っていた。本当はそんなに味も香りも変わらないのに、輸入物は駄目な安物で、国産のだけが高級な本物のマツタケだというのはこれはもう品質云々ではなくて血統の問題だというわけです。マツタケにおいて血統の問題が現れるのは他でもないマツタケの形状の所為で、つまりあれは男性器なわけです。マツタケは男性の象徴だから、だから血統を重んじる日本人は国産をありがたがる。という意見でした。
 そのあと暫くしてフランス人のシェフと日本の料理人が互いに料理を教えあうという番組がテレビで流されていて、フランス人シェフがマツタケをミキサーにかけたのを見た日本人の料理人は絶句していた。「マツタケはなるべく形を壊さないで使うものなんです」って。このとき僕はマツタケと日本人の関係をフロイト的に読むのもあながち無茶苦茶ではないのかもしれないなと思いました。

V.

2008-12-02 23:23:20 | Weblog
 僕達の意識や存在については謎ばかりですが、視覚に関して盲視という実に興味深い現象があります(昔にも一度書いたかもしれません)。盲視というのは脳の視覚野に障害を負い、視野の半分をなくしてしまった人が、それでも無くした視野の中を感じることができるというものです。本人には見ている感覚は全く無いのに、欠損した視野の中に置かれたカーソルを指差したり縦線が引かれているか横線が引かれているのかを言い当てたりできる。たとえば視野の右半分が無くなった人の右前にコンピューターのディスプレイを置いて、そしてカーソルをどこかに出し、「カーソルを指差して下さい」と医者だか脳科学者だかが言ううわけです。当然、右の視野がないその被験者は「見えないので指せません」と答えます。それにも構わず医者は「あてずっぽうでいいので適当に指してみてください」と無理なお願いをするのですが、なんとそうすると患者は百発百中でカーソルを指さすことができるという具合です。つまり見えていないのに見えている。

 盲視のメカニズムはまだ全然解明されていませんが、「見える」というのが一体人間にとってどういうことなのかを考えさせる強烈な現象であることは確かです。さらに最近のサルを盲視状態にした研究で、盲視の方が普通に見るときの情報処理よりも早いことが分かりました。サルの見えない視野(形容矛盾ですけれど)に対する反応の方が、見える視野に対する反応よりも速いということです。
 意識上の視野に情報を送ったりする必要がないので、盲視の方が速いというのは実に理にかなったことに見えます。もしかしたら原始的な生物というのは意識を介さない視覚情報処理をしていて、つまり盲視に近い状態で生きているのかもしれない。ほとんどの昆虫は僕達よりも時間分解能の優れた視覚を持っていて、いわば動体視力が極めて良い。だから1秒に30枚の画像が流れるテレビ画面を僕達は滑らかな動画として認識しているけれど、ハエやゴキブリにとってみれば全然動画なんかじゃなくて紙芝居かせいぜい下手なパラパラアニメくらいに見えているということです。

 僕がこの盲視の方が速いというのを昨日読んで思い出したのは「先の先」という武術でよく言われる言葉です。どういうことかあまり良く知らないのですが、相手の攻撃の先を読む、という概念の次元をもう一個上げた感じのことだと思います。たぶん、一番初歩的な攻撃を避ける方法は相手の攻撃に反応してそれを避けることです。「顔面にパンチが飛んで来る」のを見て、それに反応して避ける。一歩進んだ避け方は「顔面にパンチが飛んでくる」というのを見抜いて、相手が動き出すと同時に的確に避ける動作がこちらでも始まっている。そしてさらに進んだ避け方というのは「なんとなく左に動いたらさっきまで自分の顔があったところに相手がパンチをしてきた」というものです。

 絶対にそれだけではないとは思うのですが、でもこの「なんとなく」というのには盲視の人が使っているような脳の働きも必要とされているのではないかと少し思いました。

 本文にはあまり関係がないですが、エクストリーム武術の人たちがストリートサッカーを取り入れたすごい映像を見つけました。