韓国語

2010-04-27 22:21:28 | Weblog
 1日に10分だけ勉強しようと、しばらく前に韓国語のテキストを買った。テキストと言っても文法が載っていなくて会話のフレーズがたくさん載っているだけのやつだ。簡単、すぐ話せる!みたいな。きちんと文法をやらないとかえって遠回りになるのかもしれないけれど、僕は本格的に韓国語の勉強をするつもりではないのでそれは構わない。いくつかのフレーズが使えればそれでいい。

 韓国語の勉強をはじめようと思ったのには二つの理由がある。
 一つはテクニカルな理由で、もう一つはメンタリティーに関する理由。

 テクニカルな理由というのは「韓国語が日本語に類似していること、またその原因でもある地政学的な韓国の近さ」だ。
 隣の国でよく似ている言葉を話しているので、それには昔から興味があったし、実際に一度ハングルの読み方だけはマスターしたことがある。ただ、僕の回りにいる韓国人はほとんどの人が流暢な日本語を話すから、僕の方で韓国語を使う必要は全くなく、そんな時間があったら英語をどうにかしたほうがいいと思って韓国語の勉強は続けなかった。読み方もすぐに忘れてしまった。
 最近になって、そんなにケチケチしないで1日に10分くらいは興味があるなら勉強すればいいと思うように、ようやくなったというわけです。

 韓国語がどれくらい日本語に似ているかというと、文法はほとんど同じで、単語も同じものが結構たくさんあります。カバンはそのまま韓国語でもカバンだし、韓国人の友達が好んで上げる例には「ビミョウナサンカクカンケイ」というのもある。これは日本語の「微妙な三
角関係」そのままのことで、カタカナで書いたのとは発音が異なるけれど、でもとても良く似ている。暗記はアムキだし、新年はシンニョンだし。そうそう有名な「ありがとう」のカムサハムニダはカムサ・ハムニダで、カムサは「感謝」ハムニダが「します」みたいな感じなので、ありがとうではなく「感謝します」という意味だと思えば日本語に極めて近い。

 これだけ言語が似ていて、しかも隣の国なのだから、多少はその言葉のことを知りたいと思うのは自然なことだろう。

 もう一つのメンタリティーに関する理由というのは、僕はどうやら韓国人の気質が結構好きで、それを自分の人格に取り入れたいと思ったから、というものです。

先日、小飼弾さんのブログで「英会話ヒトリゴト学習法」という本の紹介を読みました。小飼さんによると、これを読んでも英語はできるようにならない、これは英語学習の本に見せかけてもっと深く大きな話をしている本だ、とのことで、その主張はこういうものです。

 「我々は一言語につき一つ以上の人格を自分の中に持っている。
  ひいては英語学習というのは自分の中に英語人格とでも呼ぶ別の人格を作り上げる作業に他ならない。それは単に言葉を学ぶという次元の作業ではない。」

 この意見は、外国語をある程度学んだことのある人ならスムーズに受け入れることができると思う。僕は拙い英語だけど、それでも英語で話しているときと日本語で話しているときは別の人格だと思う。人格が違うというのは表現がオーバーに過ぎるが、それでも「なんかちょっと違う」のは以前から感じていたし、人に聞いてみても同じ答えが返ってくることが多い。
 そして僕の場合、英語人格は子供の頃から映画やドラマで頭の中に作り上げてきた「アメリカ的人格」だと思う。
 このアメリカ的人格は日本語で話しているときの僕の人格より多少オープンで明るく強い。自分を奮い立たせる必要がある時、心の中では英語に切り替わって自分を励ましていることが多い。コミュニケーションという意味合いを離れたところでも、英語が日本語人格の自分では行けないところへ連れて行ってくれる。

 これと同じことを韓国語でもほんの少しだけしようというわけです。
 ある国の人を「あの国の人はこういう性格だ」と一括りで論じるのは乱暴すぎますが、そうはいっても僕は韓国人の友達からある傾向を読み取ってしまいます。
 彼らは見たところの派手さおとなしさに関わらず、基本的には活力に満ちていて積極的だし、礼儀正しいけれど堅苦しくはない。そして謎の「強い感じ」を持っている。「週末なんだから何かしなきゃ」なヨーロッパ人と「週末は家で寝てたい」日本人の間にちょうど収まるような適度なフレキシビリティ。大陸型でも島国型でもなく、半島型という感じの性質。それを自分の中にも取り入れたいと思った。既に大陸型は英語、島国型は日本語があるので、あと韓国語を学んで半島型に対応させてみたい。

 結局のところ、今回りにいる韓国人達に好感を持っていて、だから韓国語を、ということに落ち着くのかもしれませんが。

日本語と韓国語 (文春新書)
大野 敏明
文藝春秋


文法をしっかり学ぶ韓国語
長友 英子,荻野 優子
池田書店

ミズカラニヨッテミズカラアル;その1

2010-04-16 17:17:51 | Weblog
 今から書こうとすることを、僕がどれだけ正確に表現できるかは分からない。
 大袈裟な話に見えるかもしれないし、実際のところ大袈裟なのかもしれない。でも、僕にとってはそれは本当に大きな発見だった。ここ数年でジワジワと、まるで深い海の底から浮上して来るかのように、それは姿を現した。あるいは組み合わされたパズルのピースがある閾値を超えて、それが一体何の絵なのか大体のところ分かったという風に。

 これから書くことが一体何人の人に理解してもらえるかどうかも分からない。でも恥ずかしげなく書こうと思う。笑われてもいいけれど、僕はとても真剣だ。今まで書いてきた文章の中で一番真剣に、言葉にできないことを言葉にしてみようと思う。

 その大袈裟な文章はこういう一文から始まる。

 『心に刻む言葉は一つで良かった。結局のところ。
  自由自在という言葉。』
 _______________

 心に刻む言葉は一つで良かった。結局のところ。
 自由自在という言葉。

 話を20年前に遡ろう。僕は11歳で小学校の5年生だか6年生だかその辺りだ。児童書ではない「大人向け」の本を、なんとか背伸びすれば読める頃。ズッコケ三人組も江戸川乱歩の少年探偵団シリーズも読むけれど、家に転がっていればサマセット・モームも遠藤周作もとりあえず読んでみるという年頃。

 どうしてか全く分からないのだけど、僕はとても本が好きだったのに子供の頃図書館を利用しなかった。学校の図書室もほとんど使った記憶がない。代わりにかなりの時間を本屋での立ち読みに費やし、欲しい本を絞って買った。小遣いはほとんど全部本屋とDYIショップで使い果たしたと思う。それから本に限ってはほぼ無制限に親が買ってくれた。
 それでもいつもいつも読む本が手元にあるというわけではなく、僕はときどき仕方無しに父の本棚を漁っていた。当時はほとんどエッセイめいたものに興味がなく、読みたいのはいつも「物語」だった。誰かの”考え”を読みたいのではなく、純粋なアミューズメントとしての物語の味わい、向こうの世界に行くことを僕は求めていた。

 でも買ってもらった本からも、それほど多くはない父の蔵書からも、やがて物語は尽きる。今日はもう本屋に連れて行って貰えそうにもない。そんな時に僕は仕方なくエッセイめいた本を読むことにした。それが、森政弘さんの「矛盾を活かす超発想」という本だった。たぶん父が買ったばかりの新しいその本は目に付くところに転がっていて、表紙がそれなりに面白そうなイラストで、まあ読んでみてもいいかと僕は本を手に取った。
 これが面白くて、僕は決定的な影響を受けた。見える世界が爆発的に広がった感じだ。

 森先生は制御工学やロボット工学の研究者で、そして仏教者でもあったから、それらロボティクス、仏教、加えて「非まじめ」というのをキーワードにして世界を眺めるエッセイを何冊か書いていらっしゃった(どの本にも大体ほぼ同じことが書いてあるのだけど)。父が好んで森先生の本を読んでいたので、僕も出版されていたものは全部読んだと思う。書かれていたことはあまり覚えていない。でもその思考形態は僕の基盤に組み込まれていると思う。

 覚えていることの一つに「自由自在というのは、読み下すとミズカラニヨッテミズカラアルなのだ」というのがある。これが本当に正しい自由自在という熟語の読み方なのかどうか知らないし、「だから何?」といったようなことだけど、どうしてかこのミズカラニヨッテミズカラアルというのは僕の頭に張り付いてしまった。
 それは特に具体的な働きをせず、単に頭の中に一つのガラクタとしてしまわれていて、ときどき自由という言葉を目にした際に自動再生されるだけのものだった。意味を伴わない単なるフレーズとして。
 ミズカラニヨッテミズカラアル。

 ところが、年を重ねるに連れて、自然とこのフレーズが重大な意味を持ち始めた。モヤモヤと明瞭ではない形で、ここに何か大事なものがあるのだけど、それがどうして大事なのか自分では説明できないし、大事だとは思うけれど意味は分からない、と言った雲がかった話だ。
 分厚い雲に覆われて姿が見えないにも関わらず、ほんのときどきは「それ」を応用することもできた。だから僕は「それ」が一体なんなのかときどきは考えざるを得なかった。考えているうちに、自分の中でだけはなんとか分かった気がした。でもそれは人に説明されない暗黙知としての理解だった。歩けるようにはなったけれど、歩くときに自分が体の各部分をどのように動かしているのかは人に説明できない、といった感じの。
 そこにはただ漠然たる知があり、僕はそれに与えるべき形も言葉の組み合わせも掴んではいなかった。

 与えるべき言葉の組み合わせ、その最後のピースは奇しくも同じく森という姓を持つ工学者から与えられた。
 森博嗣『自由をつくる自在に生きる』
 森博嗣さんの本は彼が建築の助教授兼作家だった頃、「すべてがFになる」から10作品程を読んでいた。登場人物に影響されて半年程嫌いな筈のタバコを吸っていたくらいには影響も受けていた。小飼弾さんのブログで『自由をつくる自在に生きる』が紹介されているのを目にしたとき、僕は読む前から「これが最後のピースだ」と分かった。「分かった」というか「決めた」という方がいいのかもしれない。いや、「分かった」のと「決めた」のは両方正しくて、意味は違うけれど同じでもある、と書いた方がもっといい。これが実に変な表現なのは十分に承知しているつもりで、書こうとしていることの本質でもあるので、読み返した時にはこの文章を理解してもらえる、ということをターゲットの一つとして書き進めたいと思う。

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)
森 博嗣
集英社


「非まじめ」のすすめ (〔正〕) (講談社文庫)
森 政弘
講談社

トーラスと円柱

2010-04-02 18:49:20 | Weblog
 注。計算間違えてました。円柱の高さはドーナツの真ん中の円周になるので
2x(円周率)x(a+r/2)ですね。すみません。

 今日の記事は写真で載せた手書きのものが全てです。
 僕は実は中学生のときに勝手に微分積分の初歩を勉強して、テストでも速度を求めなさいとかそういうときに「微分して速度は時速20キロ」等と答えを書いて出していました。その本に書いてあったことで今でも忘れないのはトーラス、つまりドーナツの体積の求め方です。通常ドーナツの体積は断面積を円周方向に積分して求めるのがセオリーだと思いますが、本にはこのような方法が書かれていました。やっていることは積分そのものです。そして、これは大学入試のときにそのままの問題が出て、僕はこの方法で答案を書きました。

物理数学の直観的方法 〈普及版〉 (ブルーバックス)
長沼 伸一郎
講談社


直観でわかる数学
畑村 洋太郎
岩波書店

実在について

2010-04-01 18:43:20 | Weblog
 左太ももからお尻にかけての痛みがまだ取れない。24日に高負荷かつあまり良くない方法で気分に任せてトレーニングしてしまい、なんか良くないなと思いながら続く2日間引越しをしたら随分激しく痛むようになった。以降、なるべく安静をと、研究室に行く以外ほとんど外出したり動いたりしないようにしている。ただ僕の自転車はBMXなので、低いサドルに座って漕ぐのは健常な状態でも過負荷で、今の状態だと立ち漕ぎしかできない。もちろん緩やかな立ち漕ぎ。足が痛いから立ち漕ぎなのに遅いという人目を憚るような状況です。
 そこへ来てこの雨だ。
 片手で傘を差しながら左足を庇いつつ立ち漕ぎ、というのは至難の技なのでカッパもないことだしバスを使うことにした。

 バスのシートに座ると、中吊りの広告に大きく「E=mc^2 世界一有名な式」といったようなことが書かれていた。何か怪しい似非科学開運グッズの広告かと思ったけれど、良く見ると科学雑誌ニュートンの宣伝だった。相対性理論とアインシュタインの特集らしい。

 若干26歳のアインシュタインはこの式でエネルギーと質量の等価性を示した。それから時間や空間が伸び縮みすることも。ついでに同じ年、光電効果に関する論文を発表して量子力学の立ち上がりに多大な貢献をした。
 全部ものすごいことだった。
 その衝撃はポストモダンの僕たちには想像不可能だと思う。どれだけ物理学から遠くに暮らしているとしても、その人だって相対性理論の存在を込みにした空気の中で生きていて、彼あるいは彼女が本質的な驚きをこの理論から感じ取ることはもうできないだろう。今から見ればピカソの絵が古臭いのと同じことだ。芸術家でない人が見ても、もうピカソは古臭い。彼が出現したときの驚きをその絵から感じとることはできない。

 26歳の特許局職員が書いた論文はパラダイムを変化させた。
「空間や時間は絶対的なものではなくて、伸びたり縮んだり曲がったりする!わお!」

 さらに、アインシュタインが光電効果の論文で大きなとっかかりを作り、かつ、後に生涯批判することになる量子力学は、さらに大きな意味合いで僕たちの考える世界像を変えた。
「物は同時に波であって、それから微小な世界では位置も運動量も全部きっちりしてなくて確率だけがある!えっ!」

 量子力学が提示する新しい世界像は、僕たちが日常生活からの類推で得た思考ツールで思考することのできないものだ。たとえば「これがここにぶつかるとこう跳ね返って」というような具体的なイメージを用いて思考することはもうできない。相対性理論がいくら難解だといっても、そこにはまだイメージの付け入る余地があった。時間や空間が伸び縮みするというのも、細かい計算のことを抜きにすれば誰にでも理解できる概念だ。時間が遅くなるのか、へー、って。
 そういうのがもう量子力学では通用しない「粒だと思って観測すると粒で、波だと思って観測すると波である僕たちにイメージすることのできない何かが何かなって何かなる」みたいなことしかもう言えない。もちろんある程度の具体的なイメージを使って類推することは有効だし、さらに数学という超強力なツールもあるから、この学問は深く有用に発展した。でも、もう人が日常的な感覚の延長で「なるほど、わかった」という次元は超えてしまった。だから僕たちは量子力学より前の、つまり相対論までの物理学を”古典論”と呼ぶ。

 こうして、一般常識を含めた物理的な世界像はどんどんと変化して来た。昔は誰も物体が原子の集まりだなんて知らなかった。今を生きる僕たちは知っている。知っているというかそう思い込んでいる。原子が素粒子の集まりだという風にも思い込んでいる。
 思い込んでいるというのは言い過ぎか。そう思い込んでいる物理学者はたぶんいないだろう。実体は分からないけれど、今のところ素粒子いう仮定で色々説明できる、くらいにしか思っていないはずだ。

 本当はこの世界が何だか分からない。
 空間時間が伸び縮みすることに驚いたりするのは、実は何だか分からないものを勝手に空間とか時間とか呼んで、そしてそれらは変化しないものだ、と勝手に決めていたからだ。量子力学が起こったときの驚きも然り。僕たちが驚いている対象は実は「いつも思い込み」にすぎない。

 話が全然まとめられなくて、実はまだ今日バスの中で考えたことを全然書けないでいる。そのときバスの手すりを見て思ったのは、まず手すりの微細な部分についてだった。オッケー、とりあえずこれは原子の集まりだとしよう。原子は原子核と電子から成立しているけれど、まあここはその部分である電子にフォーカスしよう。こういう風に部分を切り出すのは間違っているかもしれないけれど、今はひとまず。
 電子は量子力学的には「ここにあります」ということも「こういうふうに動いています」ということもできない何かだ。小さな小さな粒なんかじゃ全然ない。そして小さすぎるからどこにあるとかちゃんと言えないわけでもない。理論的に原理的に電子というのは「ここにある」と言えない。「どこかにある」という思考形態自体が僕たちの思い込みだ。

 そして、僕たちはその「想像することのできない謎の何か」と実在していると考えている。もしかしたら「電子」という枠組みでは収まらないかもしれない。たぶんその可能性の方が高いだろう。でもとにかく僕たちはその「想像することのできない謎の何か」の実在を受け入れている。それは電子の振る舞いを計算することができ、実験的にその理論の正しさを証明することができるからだ。

 ということは僕たちは実は何かの存在ではなく「ある現象における入出力の関係」しか知らないことになる。僕たちが何かの存在を認めるとき、それはいつも「ある実体」のことではなく「ある機能」のことなのだ。実は物理学ではいつも存在の話ではなく機能の話をしているということだ。

 だから、何の機能も持たない、何の影響も及ぼさない何かが存在していたとしても、それは存在していないことになる。
 これは物理に限った話ではない。物理に限った話だとしても、僕たち現代人の思考は大きく物理学の影響を受けている。そんなの当たり前だと言われるかもしれないけれど、僕たちが「ある」というのは入力を変化させて出力する何かが「ある」と言っているだけだ。
 ここにテーブルがあると言っているのは、テーブルを触ることも見ることもできるからだ。もしもここに見ることも触ることもできないテーブルがあると言っても誰も頷かない。でもそんなテーブルがここにないってどうして言えるのだろう。人間が人間である以上、そして科学を人間が行う以上、どんなに精密で、どんなに日常からかけ離れた実験であっても、それは「ある現象について人が五感、主に視覚を使って認識できる形に変換する」という行為だから、見えない触れないテーブルを実験的に認識することもできない。

 僕が言っていることは「あなたの隣に見ることも触れることも話すこともできない無味無臭の人間が座っているけれど、その人がいるとは誰も認めてくれない」というようなことなので、はっきり言ってバカみたいな話かもしれません。別の例えでは「ゼロがここにあるんだけど、誰もあるって認めやしない」という方が正確かもしれない。でも、ゼロはあった。ゼロが発見されて数学は驚異的に発展した。
 物理的に一切の相互作用をしないものを検出することは原理的にできない。検出というのは相互作用の一つだから、相互作用しないものを検出するというのは言葉として既に矛盾している。だけど、もしもこの世界の構成部品に相互作用しないけれど重要なものがあるとしたらどうだろうか。相互作用がないことと「全然関係ない」ことはもしかしたら違ったことかもしれない。向こうからは作用できるけれど、こちらからは作用できない何かだってあるかもしれない。

 これはあくまで白昼夢に似た空想の話だ。ただ僕は漠然と、この世界と相互作用のない何かでできた海の上にこの世界が浮かんでいるような図をイメージして、そのとき我々は実在という言葉の定義を変えることになるだろうなと思う。実在を超えたその向こうの世界を、あるとすれば僕たちはいつか”見る”ことができるのだろうか。

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)
永井 均
岩波書店


「実在」の形而上学
斎藤 慶典
岩波書店