xTRAIL.

2008-05-30 13:25:46 | Weblog
 日産X-TRAILのサイトにあるNo LIMIT PROJECTというのが秀作です。まだ5分くらいしか見てないのですが、たぶんこれは最後まで良くできていると思う。潮がアマゾンを逆流してできる波ポロロッカでサーフィンをしようという旅をX-TRAILをフューチャーしながら撮ったドキュメントで、多くのエクストリーム系のビデオが持つ得意げな軽い感じが良く出ています。
http://www2.nissan.co.jp/X-TRAIL/T31/0708/index.html

 そういえば、ポロロッカという名前のスーパーマーケットが数年前まで京都にはいくつかあったけれど、ポロロッカというのは現地の言葉で破壊という意味だ、みたいなことをこのビデオの中で言っています。そういうネーミングだったのか。


いいだろうって雲の上で海洋生物学者は踊る。

2008-05-29 19:53:18 | Weblog
 しばらく更新をしていませんでした。
 書くことも、書くための時間もエネルギーも別にあったのですが、なんとなく書きませんでした。このブログ上で小説の下書きをしてみれば、どこからでもアクセスできるし、有料サービスに入っているのでまとめて簡単にダウンロードもできるから便利なんじゃないかと思い、その試みを実行していたのですが、はやくもその目論みは破綻したようです。ここは僕自身に近すぎて、小説を書くには恥ずかしすぎるようです。

 英語の勉強の為、と言い訳がましく見ていたthe O.C.も、最後まで全部見てしまいました。本当は、くだらないドラマだ、と言いたいところですが、僕は引き込まれるように見ていました。とても面白かったです。面白いというか、本来的にドラマというのはストーリーなんてどうでもよくて、場面場面での質感が大事だと思うのですが、その質感のクオリティがとても高いドラマだったと思う。キャラクターの描写もとても良かった。最終話を見終えるととても寂しくなりました。マッシブな物語を通過した後に、僕はあの世から帰って来たような感覚でしばらく呆然自失としていることがあるのですが、O.C.もそんな感じでした。

 海外ドラマなんて見てるくせに、というのも変だけど、僕は海外に行ったことがありません。なんと今時。それどころか僕は国内においても極めて限定された場所にしか行ったことがないし、関西を出ることなんて年に1、2回くらいのものです。基本的にずっと京都にいる。初対面の人には色々なところに行ってそうだと言われるけれど、とんでもありません(そういえば全然関係ないけれど、僕は買い物をしていると店員だと勘違いされることが結構多いです。服屋でもホームセンターでも。なぜだろう?)。夏に北海道である友人の結婚式に行くため、先日生まれて初めて飛行機の予約をしたくらい僕は出不精なのです。これは自分でも意外で、僕はもっと色々なところにアクティブに出かけたりしたい筈だ、と思うのですが、実際にはそうではないらしい。
 たぶん、僕にとって場所だとか景色だとか、そういったものはどうでもいいのだと思う。ただ、誰といるか、ということだけが重要で、はっきり言ってどこで何をするかというのはどうでもいい。だから僕はあまり出掛けないのだと思う。

E.

2008-05-16 14:41:34 | Weblog
 スズメとか、ハトとか、カラスとか、他の鳥はまだ理解できないこともないけれど、ツバメって異常に速く異常に上手に飛びますよね。どうなっているのか全く理解できません。魔法のようにしか見えないので、ツバメを見ると軽いショックに打たれます。
 虫たちもどうなっているのか全然分かりません。あの軽さでこの空気の中をあれだけの速さで飛び回るというのは尋常ではないと思います。でも、羽ばたきの回数も尋常ではないので、まあなんとかなるんだろうなという風に納得はできます。ツバメはそんなに必死に羽ばたいているわけでもないのに、あれは一体どういうことなのでしょうか。それから、虫は自分の羽ばたきをどのようにコントロールしているのでしょうか。鳥はまだ、僕達が必死で手を振ってみるときの感覚に近いと思うのですが、虫はもうその何倍もの周波数で羽を動かしているわけですよね。ぼんやりと、「こんな感じで動け」と思うと、僕達が体の細部の動きを無意識に任せているように自動的に動くのか、それとも、ゾウの時間ネズミの時間的に虫の時間感覚は僕達よりもずっと素早いので一挙一動を全て意識できるのか、どうなっているのか気になるところです。

 ラジコンと比較するのもナンセンスだけど、僕が子供のころの飛ぶラジコンというのは2時間充電して飛ぶのは3分、みたいな性能でした。もちろん、これはバッテリーが生体と比べ物にならないくらいの効率の悪さだったから、ということだろうし、実際には飛行というのは歩行よりもエネルギー効率の良い移動手段です。でも、そうはいっても、ときどき花の蜜をちょっと吸ったりゴミを舐めたりするだけであんなに元気に飛びまわれるのか信じられません。

 実は、僕はもう本当に長い間、生き物が食べ物をちょっと食べるだけで元気に動けるという事実に驚愕したままなのです。鳥が地面をつつきながら、餌を探しまわって、それでときどき小さい虫とかを見つけて食べるわけですけれど、そんな虫一匹から得られるエネルギーよりも、それを探すために飛んだり歩いたり血液を循環させたりしたエネルギー、呼吸したり体温を保ったりしたエネルギー、飲み込んだり消化したりするエネルギーの方が大きいように思えて仕方ないのです。もちろん、そうでないから生物は命を永らえるわけですが、感覚的にどうも腑に落ちません。朝ごはんにご飯と味噌汁と魚を食べただけで、山に登れたり、たくさん考え事ができたり、おどろくべき効率の良さです。充電とかガソリンとかのほうがずっと分かり易い。

 生き物を見て、不思議だなと思うよりも、僕の場合はなんか騙されているんじゃないかと思うことがあります。

謎の飛行物体。

2008-05-16 14:07:40 | Weblog
 昨日UFOを見ました。生まれてはじめてだと思います。
 夜8時くらいに、大学からの帰り、荒神橋を渡っていると、南南西の空にやけに明るい物がゆっくり飛んでいて、最初僕も自転車で動いているものだから、それが静止しているのか動いているのか良く分からなかったのですが、止まって確認してみるとゆっくり移動していました。飛行機ではないと思う。毎日飛行機は見ているし、そんな勘違いはしない。日常的には飛ばない飛行機かもしれないけれど。

 僕がその光を見ていたのは10秒くらいのもので、橋の欄干に傘か何かをぶつけながら通り過ぎる人を一瞬振り返ると、もう消えていた。それから僕は5分くらい空を見ていたけれど、もう何もなかった。

 実にはっきり見えたので、見間違えたのではないと思います。色は白熱電灯みないな色だった。僕は宇宙人の乗り物だといいたいわけではありません。昔、電球を風船に付けて飛ばしたら面白いなと思っていたことがあるのですが、もしかしたらその手の悪戯かもしれません。でも、何にしても気になるので、なにか知っている方があれば一報頂けると嬉しいです。そうか、荒神橋というのは京都市の鴨川に掛っている橋のことで、つまりUFOは京都市の南南西の空にありました。

赤くて小さな生き物の謎の生活。

2008-05-16 13:41:52 | Weblog
 コンクリートの上なんかに、ときどき赤くて小さい虫を見ることがありますが、アパートの屋上にこの間からその虫がずいぶん沢山いるので、気になって調べてみました。本当にグーグルというのは便利だと思う。「赤い小さな虫」という漠然としたキーワードを打ち込むだけで、たちまち全ては解決しました。

 この虫は、昆虫ではなくてダニの一種だそうです、タカラダニという名前で、昆虫なんかに寄生するようです。昔、捕まえたセミにこれがついているとお金持ちになれる、といういい加減なことが言われていたようなので、そこから”タカラ”ダニという名前になったとのこと。

 驚いたことに、生態はほとんど明らかになっていません。餌も、花粉を食べることは確かだけど、他に何を食べているのか分からない。オスは発見されたことがない。5月から7月にかけてだけ発生して、あとはどうなってるのか分からない。

 ただ、この虫はもともと人間の生活圏にいたものではないのに、ここ最近は目撃談というか相談が多く寄せられていて、どうやら増加している傾向にあるらしいです。人を刺したり、とくに害になることはしないので、その点は安心してもいい、だけど、潰すと赤いシミになったり、そこらじゅうにいて深いなので不快害虫ということになっています。不快害虫ってすごい人間の勝手ですね。悪いことはしないけれど、なんか邪魔、という。そんなことを言ったらもうほとんど全部不快害虫だ。なんとこの世界に存在する虫というのはほとんど全部害虫だったんですね。

 タカラダニのことはなんとなく気になるので、何匹か捕まえて調べてみてもいいかなと思います。思うのですが、僕はあまり虫が好きではないので、そういうものを入れたビンを部屋に並べておくというのはちょっとぞっとしない。

 そういえば調べている途中、京都府保健環境研究所のサイトを見つけて、その中のタカラダニの記事(http://www.pref.kyoto.jp/hokanken/mame_takaradani.html)を読みました。一通りタカラダニのことを説明した後、このように書かれています。

『 気持ち悪いと決めつけず、この季節だけに現れてくる、不思議なダニ、タカラダニ。その生態をじっくり観察してみませんか?
 新しい発見があるかもしれません。』

 なんて素敵なサイトでしょうか。これを読んだだけで、京都府保健環境研究所で働きたくなったり、京都府に住んでいて良かったと思ってしまいます。

infinity.

2008-05-15 15:12:28 | Weblog
 日本語版ファインマン物理学の第5巻は量子力学について書かれたものなのですが、その最初の方にこういう記述があります。

「量子力学のことを考えなくても、古典論の範疇でだけ考えても、この宇宙の振る舞いは非決定論的である」

 どういうことかというと「物事の振る舞いは確率的にしか決まっていない」という量子力学が誕生する以前、ニュートン力学を中心とした古典物理(相対性理論を含みます)では「ある時刻における宇宙の全データが、つまりあらゆる粒子の位置と運動量が分かれば、その後のことは全部計算で分かる。現実的には全データを得ることはできないから、計算を実際に行うことはできないけれど、でも、計算できないだけで、本当は何もかもがこれからどうなるのか全部決まっている」という機械論的世界観がドミナントな立場でした。

 高校生くらいのとき、部屋から比較的近く見える山を眺めていて、急に愕然としたことを今でも忘れない。その日は強い風が吹いていて、山肌の木々は枝や葉を大きく揺らしていた。僕は「当たり前だけど、この無数にある葉っぱだとか木の動きというのは、木の剛性だとか風の強さだとか方向だとかによって決定していて、当たり前だけど、全部物理法則に従って動いているのだ」と思って頭がくらくらした。どこにも嘘はない。適当にそれらしく動いてごまかしている葉っぱは一枚もない。見渡す限り、全ての木々が法則の通りに動いている。それどころか見えないものも、この宇宙に存在するものは全部法則の通りに動いている。僕が整えないで起き抜けのまま放っておいた布団の形もそこに出来たどんな小さな皺も。全部だ。今下水管の中で割れた泡の飛び散り方も、中国から飛んできた黄砂の着地地点も。全部法則の通りに動いているだけで、もしかしたら全部宇宙ができた瞬間から決まっていたんじゃないだろうか。

 もちろん、そういった考えを打ち消すには量子力学を持ち出すしかなかった。当時僕は量子力学なんてほとんど知らなかったので、なんだか知らないけれど、非決定論的な物理学があるらしいから、それが「全部決まっている」という閉塞感を消してくれるのだろうと思っていた。

 ところが、量子力学というのは、もしかしたら「非決定論的宇宙」を肯定する最強のツールになるかもしれないけれど、かといって「僕達が自由意志によって生きている。未来を切り開いている」ということまでは肯定するものではない。ということが茂木健一郎さんだか竹内薫さんだかの本に書かれていた。
 最近はテレビや本で大活躍だけど、この頃、茂木健一郎さんと竹内薫さんはまだそんなに有名ではなくて、僕は「ちょっと怪しい人だ」と思いながらも、彼らの本を好んで読んでいた。
 どうして自由意志が肯定されないかというと、「確率的に、ランダムに決まるならそんなものは意志とは呼べない」からです。

 意志というのは存在することが難しすぎる。何かの入力を吟味して、そして「自立的に、自発的に何かの決定をする」という機構は物理学的に考えてポジションを持つことが難しい。
 決定論的な、つまり機械論的な理論を用いるなら、Aの次に起こるBというのは単にルールに則って決まるので、もちろん、ここには何の自発性も存在しない。あるのはプロトコルだけだ。
 だからといって、非決定論的な理論を持ち出して、Aの次に起こるBは適当に決まる、というのであれば、そんなランダムさが自発的な意志であろうはずもない、それは単なる出鱈目だ。
 だから、僕は人間には自由意志なんてものはないと思っている。
 でも、そう信じたくはないし、僕たちには自由意志があるのだと信じたい。幸いにも、僕達がこの宇宙に関して知っていることなんて雀の涙ほどもないので、いつかの未来には自由意志を認めるような理論ができるかもしれない。それは理論を越えた何かかもしれないけれど。

 閑話休題。
 僕はここで自由意志の話をしたいのではなくて、最初のファインマンの意見に関して書きたいことがあるのでした。

「量子力学のことを考えなくても、古典論の範疇でだけ考えても、この宇宙の振る舞いは非決定論的である」

 古典論で考えるなら、がちがちに法則で縛られたこの宇宙の振る舞いは絶対に決定論的だろうと僕は思っていた。でも、ファインマンはそうでもないという。どうしてかというと、僕達は何かの物理量を完璧に知ることができないからです。ある物理量Xを測定して、その結果が12でした。というのは便宜的なことに過ぎなくて、もっと精度の高い計測をすればそれは12.3435546564とかになって、さらにもっと精度の高い計測をすれば12.3435546564764899958473687874899987372200000000000000000012230222200002344887753とかになるけれど、もっと精度の高い計測をすれば...
 永久に終わりません。
 これは測定の問題ではなくて、もはや数学の抱える問題だともいえる。ある数を絶対的に指定するには無限桁の情報が必要だからです。

 科学が始まって以来、人類はこのように測定の誤差に向かい合ってきたので、誤差伝播の法則など、誤差を評価する数学的な手段はそろっています。そして、それらから明らかなように、誤差というのはちょっと放っておくととんでもない速さで成長して、あっという間に情報を破壊してしまう。
 だから、僕達は古典論の範疇でも未来のことを正確に計算することなんてできっこない。

「ちょっと待て」
 と思われた方がたくさんあるかと思います。
「今は、もし仮に、全部のデータが正確にわかったら、って話じゃん」と。「実際に計算できるかどうかという話なんてしていない」って。

 僕はそういう風にファインマンに言おうと(心の中で)したのですが、すぐにことはそんなに簡単ではないことに気がつきました。

 ある静止した粒子の位置を完全に知ることを考えましょう。結局、高い精度で、という話になると量子力学の話になってしまうのですが、ここでは完全に量子力学は無視します。ある粒子がどこかに存在していて、その位置を知りたい。位置を指定するには当然数字を使うわけですが、その数字というのは正確にあらわすために無限桁まで必要です。

 問題は、この無限桁というところです。
 以前、僕はこのブログで「実無限と可能無限」について書きました。簡単に説明しておくと、
「実無限」というのは「本当に無限桁までの数字がある」という立場で、
「可能無限」というのは「実際に無限桁までの数字があるんじゃなくて、無限桁まで計算する手段があるだけ」という立場です。
 たとえば、円周率3.141592...が、本当に無限に続く数字である、というのが「実無限」で、何桁目まででも計算のできるアルゴリズムはあるけれど、計算前に決まった無限桁までの数字があるわけではない、というのが「可能無限」です。

 だから、「実無限」の立場をとるのであれば、粒子はあるどこかに存在している、ということができるけれど、「可能無限」の立場をとるのであればそんなことは言えない、ということになる。
 つまり、可能無限の立場では古典論の範疇でも粒子の位置は不確定なのだ。

 実際には量子力学を僕達は持っていて、物体の位置なんていうのは決まっていないことを知っているので、上記のような考えはほとんど役に立たないけれど。
 ただ、僕のこの考察が正しいとすれば、ファインマンは可能無限の人だったのだといえるのではないかと思います。最初は、こういうことを少しひねると、哲学で争われている実無限可能無限の議論に決着を与えることができそうな気がなんとなくしたので書き出したのですが、それは浮かびませんでした。

torch-torch.

2008-05-13 18:10:16 | Weblog
 僕は神戸女学院の内田樹先生のブログをいつも読んでいるのですが、今日の記事は先日の聖火リレーに触れたもので、そのまま転載したいと思います。
 内田先生はコピーライトに関してはリベラルなことを述べていらっしたので、転載には全く何の問題もないのだと思うけれど、人の書いたものをそのまままるっと転載するのはとても奇妙な気分になる。でも、リンクを張ってわざわざクリックしてもらうよりもずっと楽ですよね。もとのブログを読まれたい方は「内田樹」と検索すればすぐにヒットします。タレントとかのを除くとたぶん日本で一番と言っていいくらい読まれてるんじゃないでしょうか。

(引用はじめ)
______________________
 2008.05.13
被害者の呪い
毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。
いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。
昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。
こんな話。

 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気鬱になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。
 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。
 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。
 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「厭な感じ」が議論の内容ではなく、論を差し出す仕方のうちに感知されているからである。語られている政治的言説の当否は私にとっては副次的なことにすぎない。
 私が「厭な感じ」を覚えたのは、たぶんこの政治的イベントに登場してきた人たちが全員「自分の当然の権利を踏みにじられた被害者」の顔をしていたせいである。
 チベット人の人権を守ろうとする人々も、中国の穢された威信を守ろうとする人々も、聖火リレーを「大過なく」実施したい日本側の人々も、みな「被害者」の顔で登場していた。ここには「悪者」を告発し、排除しようとする人々だけがいて、「私が悪者です」と名乗る「加害者」がどこにもいない。
 そんなの当たり前じゃないか、と言われるかも知れない。権利を主張するということは「被害者」の立場を先取することなのだから、と。
 まことに、その通りである。「本来私に帰属するはずのものが不当に奪われている。それを返せ」というのが権利請求の標準的なありようである。それで正しい。困ったことに、私はこの「正しさ」にうんざりし始めているのである。
 近代市民革命から始まって、プロレタリアの名における政治革命も、虐げられた第三世界の名における反植民地主義の戦いも、民族的威信を賭けた民族解放闘争も、つねに「被害者」の側よりする「本来私に帰属するはずの権利の奪還」として営まれてきた。
 私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。
  争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。
 私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
「妄想」という漢語の印象から、私たちはそれを「想念が支離滅裂に乱れる」状態だと思いがちであるが、実はそうではなくて、「妄想」が病的であるのは、「あまりに型にはまっている」からである。
健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。
病とはある状態に「居着く」ことである。
私が言っているわけではない。柳生宗矩がそう言っているのである(澤庵禅師も言っている)。
「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。
「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。
「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。
「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。
もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳するからである。
「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。
_________________
(引用終わり)

 この聖火リレーに関して、僕は人の日記を転載しただけで、なんにも自分の意見のようなものを書きませんでしたが、それは自分が何に対して何かを感じているのか、またその感じとは一体何か、ということがうまく認識できなかったからです。結構多くの人がそうなのではないかと思う。僕の場合はこの内田先生の記事を読んでいくぶん合点がいきました。

 主張に対する節度のほかに、僕は「思いついた”いいこと”をしない節度」というのもあっていいんじゃないかと思うことがあります。昔、Wとダンスに関するビデオの上映会に行ったとき、それはブレイクとかヒップホップとかじゃなくて、いわゆるコンテンポラリーだったんですけれど、最後の作品が吊るしたワンピースに扇風機で風をあててヒラヒラしてるのを大袈裟に撮ったもので、「ここからダンスに身体は必要なのか、身体のないダンスは可能か、ということを考えましょう」みたいなやつで、僕とWはなんとなく憤慨しながら帰って来た。
 という話を後日Tさんにしていると、彼女は「それ40分もビデオあるの!身体のないダンスって、気持ちは分かるけれど、でも思いついてもそんなビデオ作っちゃ駄目よね。見る人のことも考えてってはなし」ということを言って、それはそうだと僕は思った。
 ときどき人は「いいこと」を思い付く。「そうだ、身体のないダンス、というのはどうだろう!」頭の中がスパークして、次々にイメージが湧き上がる。こんな素敵なアイデアを考え付いたのは私がはじめてに違いない。ちょっと吟味してみると、そのイメージはあまり良くないんだけど、でも「身体のないダンス」というフレーズはピカイチだ。作品は下らないかもしれないけれど、このアイデアを人に言いふらしたい、作品を見せたい。
 そんな動機だけで作られているものが結構あるように思うのです。そういう節度のないものを持ってきて、芸術家なんで色々考えてます、と言われると憤慨するほかにできることはない。

sunscreen.

2008-05-09 15:03:22 | Weblog
 日焼け止めにも色々あるのだなということを最近知りました。

 僕は強い日光に曝されても小麦色の肌に日焼けしたりはしなくて、真っ赤になってヒリヒリするだけのタイプなので、夏はときどき日焼け止めを使います。昔一度そんなに気にしなくても大丈夫だろうと、海へ行ったときに日焼け止めを塗らなかったことがあるのですが、全身火傷状態で10日間くらい外に出れなかった。体中が痛くて熱くて、水風呂に入ってみたりしていたのですが、どうにもこうにも本当に辛い体験だったので、以来ずいぶんと日光には気を使っています。

 ドラッグストアへ日焼け止めを買いに行くと、「紫外線吸収剤不使用」という文句を付けた商品がたくさんあるので、「なるほど紫外線吸収剤というのはきっと悪い物なのだろう」と思い、不使用のものを買ったのですが、「吸収剤」の入っていないものは酸化チタン、酸化亜鉛といった「散乱材」が入っていて、それはそれで肌を乾燥させる、ということです。確かに日焼け止めを塗るとなんだかカサカサするなと思っていたら、そういうことだったのか。カサカサするのも困るので、どっちも入っていないSPFの低いものを使おうと思う。

 しかし、時代というのは変わるものですね。
 僕が子供の頃は日焼け止めというよりも、サンオイルを塗ってビーチでとことん肌を焼く、みたいなのが主流だったように思います。夏休み明けには、どれだけ黒くなったかがステータスだったし、日焼けしにくい僕は毎日外で遊んでいたにも関わらず、家で勉強ばかりしてたんだろう、と言われる始末でした。さらに妹は真っ黒に日焼けしていたので、それを比較して祖父に「お前ももっと外で遊べ」と良く言われた。別にいいんだけど、間違った判断材料で結論を下す相手に、それを覆す証拠を提示できずイライラするというのはあまりしたくない体験だなと思う。
 

see ya.

2008-05-08 14:44:49 | Weblog
 The O.C. を見ていたら急にそこだけカタカナのように「コウベビーフ」と聞こえる台詞があって、そのとき僕はご飯を食べながらぼーっと見ていたのでどきりとした。中国の56.comで見ているから、字幕が中国語なのですが、漢字の羅列の中にも確かに「神戸牛」という部分があって、なんだか奇妙な気分になる。このドラマはアメリカ、カリフォルニア州のオレンジカウンティが舞台で、基本的にはお金持ちの人々しか出てこないような物語です(みんなプールのある大きな家に住んでいて大きな車を乗り回している)。メインキャラクターの一人が漫画オタクなので、ときどきヤクザとかニンジャという日本語は聞かれますが、その他はスシくらいがせいぜい出てくる日本語で、そういう比較的日本から遠い世界でコウベビーフという言葉を聞くとは思いもしませんでした。特に僕は京都に住んでいて、神戸というのは身近なので、特別ドキリとしたわけです。

 とりとめのないことですが、最近「じゃあ」という日本語は外国人の好きな日本語のかなり上位にランキングされるのではないかという気がしています。「じゃあ」というか「じゃ」というか「ジャ」なんですけれど、「これでバイバイの意味だよ」ということを教えると、少なくともヨーロッパ付近出身の人はニタニタしながら大喜びでジャを使うようになる気がする。

 このO.C.というドラマは恋愛をメインとしてゴタゴタが展開していく、くだらないといえばくだらない話なのですが、海辺の町という舞台は悪くないし、それなりに面白いし、半分は英語の勉強のつもりで見ています。ドラマの常ですが、しばらく見ていると登場人物に馴染んできてやめられなくなる。本当は嫌気がさしてきて一度見るのをやめたのですが、また見ています。嫌気がさすのも当然で、この物語がどれだけどろどろしているかというと、それはもう相当なものです。主人公ライアンは貧乏な家の子供なのですが、彼があるお金持ちの一家に引きとられるところから全ては始まります。お金持ち一家は弁護士である父親サンディと建築家である母親キルストン、そしてその息子でライアンと同い年の高校生セスで構成されています。隣の家にはキルストンの元恋人で投機家のジミーが妻のジュリー、娘で後にライアンの恋人になるマリッサ、その妹のケイトリンと住んでいますが、ジミーが破産してしまいジュリーは離婚、そしてなんとキルストンの父親ニコルと再婚します。さらにジュリーはニコルとの結婚生活の間に娘マリッサの元彼ルークと浮気をします。ライアンはマリッサと破局を迎えるのですが、そのとき恋に落ちた転校生はなんとニコルの隠し子でした。そうそうセスにも恋人がいて、サマーという医者の娘なのですが、この家庭には母親がありません。サマーはマリッサの親友でもあります。そしてなんと高齢のためニコルがなくなると今度はジュリーはサマーの父親と結婚しようとします。親友が義理の姉妹になるわけです。もうなんだか滅茶苦茶ですね。これはあくまで荒い書き方をしているので、実際にはもっともっと事態は複雑です。それに、実際のドラマは結構ライトタッチで描かれていて、爽やかの一言に尽きる回も結構あります。

 なんだろう、特に書きたいことはないんですけれど、海外ドラマが僕は結構好きなので、だらだらと書いてしまった。ロストとか、すごい面白いですよ。

tannoy.

2008-05-08 14:15:13 | Weblog
 知恩院のミッドナイト念仏へ、僕はほとんど建物の内部を見たいが為に行ったので、そんなに真剣に念仏を唱えたりはしなかった。木魚はみんなこぞって叩いていたけれど、念仏を口にする人はほとんどいなくて、どちらかといえば寂しい行事だったんじゃないかと思う。参加者は必ず大きな声で念仏を唱えることを徹底すれば、それはそれでもっと神秘的な空間になったのかもしれない。

 僕は、このミッドナイト念仏の紹介みたいなのをブログに書いたとき、「どんなにデコレーションを凝らしたクラブよりも非日常的な空間になるのではないか」ということを書いたけれど、そういうことはなかった。逆にテクノロジーというのがいかに強力なものかを思い知った。あくまでクラブ的なノリを持ち込むならの話ですけれど。大きかろうが数が多かろうが木魚よりも、念仏よりも、仏像よりも、ロウソクよりも、ウーハーとかテクノとかハウスとかレーザーとかミラーボールとかプロジェクターの方がずっと良くできているなと思う。僕達は確実に昔よりも未来にいる。

 ある宗教的な行いに対しての、「トランスする」ということを中心に置いた視点は、今日では比較的多くの人が持っているのではないかと思う。特にそこにリズムや読経、長時間にわたる繰り返しが含まれる場合。かなり多くの人が、「あれは昔の人のトランスするための装置だ」というようなことを言うと思う。

 だけど、そういう認識は本来的に正しいものなのかどうかをあまり多くの人が吟味しているように思えない。なぜなら、読経とかはトランスするためのものだ、という解釈はなんかやけに腑に落ちて分かり易いからだ。でも当然分かりやすいことが正しいという保障はどこにもない。