Tibet.

2008-04-28 15:54:57 | Weblog
 以下は友達が日記に転載していたものの転載です。
 聖火リレーの現場へチベット支持者として行った人の日記のようです。非常に興味深いことが書かれているので、判断はともかく一読していただけると嬉しいです。ここに書かれていることは、多少のバイアスはあったとしても真実に極めて近いのだろうなと僕は無根拠に信じています。
 僕はテレビをほとんど見ないので、ニュースでどのような報道がなされたのかしりませんが、にこにこ動画でこの日の動画を探すと色々な、たぶんマスコミよりももっとダイレクトなものが見れると思います。


アリ@FREETIBETさんの日記より転載
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4/26日を振り返ります。

早朝、善光寺へ向かった。
Mちん、Tさん、F君、Yちゃんと5人で。

町には何台もの大型バスが乗り入れ、中国人が降りてくる。
僕らがそれぞれ旗を作り、プラカードを作り、前日からカラオケボックスで寝ていたのに対し、
彼らは中国大使館から支給された巨大な旗と、チャーターバスで堂々登場した。

善光寺参拝が終わり、街中へ。
とりあえず聖火リレー出発地点へ向かった。
ここで日本とは思えない景色を目にした。

出発地点に、中国の旗を持った人は入場できるが、チベットの旗を持った人は入れない。
警察の言い分。
「危険だから」
じゃあ、何で中国人はいいんだ?
「......ご協力お願いします。」

は?
それやらせじゃん。
中国国旗しかない沿道って、警察が作ってるんじゃん。

その時の抗議の様子

この後TBSの取材が来た。
チベットサポーターの1人が、
「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナウンサーに聞いた。
アナウンサーは「は?勝手に叫んでれば?」
と吐き捨てて消えた。

街中に行くとどこに行ってもFREETIBETと叫んでいる。
そこに中国人が押し寄せ、罵声を浴びせてくる。


交差点で中国人と僕らが入り乱れた。
突然Mちゃんが顔面を殴られた。
僕は殴った中国人のババアを捕まえて、目の前の警察に言った。
「こいつ殴ったぞ!!」
警察は何もしなかった。

ババアが俺の手を噛んだ。手から血が出た。
警察と目が合った。
警察は何もしなかった。

ババアが僕の顔面を殴ってきた。
周りのチベットーサポーターが、
「おい、警察、現行犯だろ、捕まえろよ!!!!」
と言ったのに、
警察は何もしなかった。

これが抗議活動中じゃなかったら、普通にブチ切れて乱闘になってる。
でも非暴力を貫く為、ひたすら耐えた。

Mちゃんが1日かけて一生懸命書いたプラカードを、
中国人が叩き落とした。
拾おうとするMちゃん。踏みつける中国人。
「おい、てめー何やってんだよ!」と制止に入った。
2mくらいの距離に警察がいたが、何もしなかった。


街中いたるところで抗議合戦。
救急車が来たり大騒ぎ。
僕らはひたすら抗議活動をした。
(動画あり)

雨が降ってきた。
それでも誰も抗議を辞めなかった。
中国人がかたまってる交差点を、
Tさんと旗を振りながら渡った。
沿道の中国人は蹴りを入れてくる。
とても沿道に入れず、車道を歩いていた。
警察が来て言った。
「早く沿道に入りなさい!!」
は?今入ったらボコられるじゃん。
なんで日本人の安全を守ってくれないの?
「じゃあ、あいつらに蹴りいれるの辞めさせろよ!!」と僕は叫んだ。
警察は「ご協力お願いします」と言った。


雨の中、聖火リレーのゴール地点へ向かった。
何故か中国人とチベットサポーターに分けられた。
警察は、「後で聖火の方に誘導するから。」と言った。
嘘だった。
ゴールの公園の外の何も無いスペースにチベットサポーターは閉じ込められた。
聖火なんか、どこにもなかった。
目の前には警察が何十人も取り囲んでいた。
こんな場所じゃ、声すら届かない。
数百人のチベットサポーターは、泣きながら警察に向かって叫ぶだけだった。
国境無き記者団もこちら側に来させられていた。
代表がマスコミのインタビューに答えていた。
(裏から撮影した動画あり)

聖火リレーがいつ終わったのかも分からないまま、
土砂降りの中僕らは叫び続けた。
この声を、伝えることすら出来ないのかと思ったら涙が溢れてきた。
MちゃんもF君も泣いていた。
こんなのってあんまりだ。
せめて伝えて欲しいだけなのに。
この叫びを聞いていたのは目の前に並んだ警察だけだった。



チベット人の代表が弾圧の現状を訴えた。
涙が止まらなかった。
内モンゴルの代表が弾圧の現状を訴えた。
涙がとまらなかった。

伝えたい。ただ伝えたいだけなのに、国家権力によって封殺された。
悔しい。悔しい。

日本は最低な国だ。
平和だ、人権だと騒ぐ割には、
中国の圧力に負けて平気でこういう事をする。
警察を使って。

帰りに携帯でニュースを見た。
「聖火リレーは無事終了。沿道は大歓迎ムード。」
「聖火リレーで日本人5人逮捕。中国人留学生に怪我。」

僕は愕然とした。
この国のマスコミは終わったと感じた。

あの怒号は、
僕らが受けた痛みは、
彼らの悲痛な叫びは、
どこに反映されたのだろう。


警察によって意図的に中国人のみの沿道を作り、
そこをマスコミは撮影し、
中国人の暴力を黙認して、日本人を逮捕する。
これが日本のやることか?
ここは本当に日本なのか?
中国の旗を持たないと歩けない沿道って何なんだ?

この国は最低な国です。
チベット人は泣きながらありがとうと言っていたけれど、
僕は彼らに謝りたかった。
初めて日本人であることを恥じた。

帰り道、僕らは泣いた。


これが真実です。
僕は日本政府は中国以下だと思った。
弾圧にNOを言えずに、言いなりになって彼らの叫びを封殺したこの国は、もう民主主義国家ではない。

4/26日長野。
そこには言論の自由はなかった。
歩行の自由すらなかった。
中国人を除いて。


追記:どなた様も、転載の許可必要ありません。
報告だけしていただけると、反応が見れて嬉しいのでお願いします。
動画が消えたりするるみたいですが、また報告していただけたら何度でも載せなおします。
マスコミの嘘つき。大嫌い。
FREE TIBET!!

paint it black.

2008-04-23 20:41:26 | Weblog
 大学の近所にこのこいのぼりが飾られているのを何度も見た。
 そんなに注意して見ていた訳ではないので全然気が付かなかったけれど、去年からなかったんですね。
 あまりにも馬鹿げていて俄かには信じがたい話です。
 ある人が昔「悪法も法なり」って毒杯を仰いだけれど、まさか誰がそんな詰まらない決まりごとために死を選択するだろう。彼が毒ニンジンを飲んでから2500年くらいたって、日本ではザ・ブルーハーツというバンドができて、それで甲本ヒロトというボーカリストは「ルール破っても マナーは守るぜ」と歌っていた。

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こいのぼり「けばけばしい」? 左京 高野川名物姿消す
4月23日11時39分配信 京都新聞

 京都市左京区の高野川に、毎年この時期に川面を渡して飾られ、地元の風物詩として親しまれていた交通安全祈願のこいのぼりが、昨年春から姿を消している。河川敷の交通安全の横断幕とセットで掲げていたため、市屋外広告物条例で「広告物」とみなされ、「けばけばしくないこと」という努力目標に触れることが分かったからだ。8年続いた恒例行事だけに、住民からは「色鮮やかで楽しみにしてたのに」と惜しむ声も出ている。
 こいのぼりは1999年から毎年、下鴨署管内の幼稚園や保育園の園児が作り、4月中旬から5月中旬にかけて河合橋上流で泳いでいた。近くの河川敷には「交通ルールを守ろう」などと書かれた横断幕も掲げていた。
 広告物の規制強化の流れを受けて、下鴨署は昨年3月、市に問い合わせた。屋外広告物条例の努力義務に反していると分かり、掲出を断念したという。
 市によると、季節の風物詩のこいのぼり自体は規制の対象外だが、横断幕などを一緒に掲げると、こいのぼりも広告物とみなされ、色などの規制の対象になる。交通安全などの公共目的の場合は規制を受けないものの、「けばけばしくないこと」などの努力義務が課せられる。
 市市街地景観課は「こいのぼりは色鮮やかなので、公共広告物であっても色などが努力義務の対象になる」と話し、下鴨署は「交通安全は、こいのぼり以外の方法でも訴えられる」としている。
 園児がこいのぼりを作っていたメグミ幼児園の安藤百合子園長は「入園の直後に飾るので、こいのぼりを見に行くのは交通ルールを教えるいい機会だった」と残念がる。近くの松尾光男さん(78)も「派手とは思わない。季節感があって心が和んだ。条例なんて形式的なことを言わなくてもいいのに」と復活を望んでいた。

football.

2008-04-23 13:53:35 | Weblog
 昨日大学から帰る途中、出町柳から下流の方に強い明かりが見えて、それはもう本当に強い光だったので、一体何が行われているのだろうと見に行くと、荒神橋のところで映画の撮影のようなことをしていました。橋のところにある喫茶店の中で撮影が行われていたのですが、物凄い数の機材が道に並べられていて、投光器が何台か河原に置かれ、それらがまばゆい光を放っていた。
 少し遠くて、ちらっと見ただけでは誰が演技をしているのか分からなかったけれど、あとでAに言ってみると「鴨川ホルモー」の撮影に違いない、ということだった。

 映画の撮影はさておき、最初に灯りを見たとき、もっと普通の人がレイブみたいなことをしているのかと思った。昔I君ととりあえず強い明かりを空に向けて放ちたいという話をしていて、そのときイメージしていたことに近いことが実際に行われていたので、どきどきしながら現場を見に行ったわけです。
 その灯りは映画の撮影の為の1道具に過ぎなかったわけだけど、あんなに強い明かりを僕は手に入れられないだろうし、映画をちゃんと撮るというのはすごいことなんだなと思う。いつでも、プロの持っている道具というのはすごいなと思う。工事現場に止まっているトラックの荷台を覗いたときとか、当たり前だけど、必要な道具が全部揃っていて、使い勝手がもちろん最優先で、見ていて心地いい。

 昔、イベントの為にたくさんの椅子と机を作らなくてはならなくて一夏費やしたことがある。そのとき、友達の知り合いの大工さんがときどき覗きに来て、最初僕はそれがなんとなく嫌だったんだけど、段々助けになるときは素直に従った方がいいなと思うようになった。一番助かったのは携帯式の作業台を貸してくれたことだ。大抵の大工さんが同じようなものを使っているので、知っている人も多いと思うけれど、2枚の板に切り込みを入れてXの形に嵌め合わせるやつです。意地を張って、要らないです、と言っていたけれど、使ってみたら非常に便利だった。半分消耗品のように扱えるので、丸ノコの歯が台に入っても全然問題ないし、作業のしやすい高さだし、畳むのも組むのも簡単だし、「これは知恵だ」とやたら感心したのを覚えている。

 今もまだその傾向が消えないけれど、子供の頃僕は教わるのがとてもきらいな子供だった。たとえば父親は昔サッカーをしていたので、僕がサッカーボールで遊んでいると、正しいボールの蹴り方はこうだ、みたいなことを教えてくるのだけど、僕はそれが嫌で嫌で泣いたり怒ったりしていた。今思えば愚かなことだと思う。こうすればいいということを人が親切に教えてくれると僕はそれをしないように勤めることが非常に多くて、そういうことはもうやめなきゃなと思う。

crackerjack a.i.

2008-04-16 13:25:44 | Weblog
 先日、「予防」のことを少し書くと、D君が「予防って、ある意味きりがないよね」というようなことを言ってくれたので、予防というのが哲学だか人工知能だかでいうフレーム問題に相当することに気が付きました。

 フレーム問題というのは、間違っているかもしれませんけれど、だいたいこういうお話です。
 ある開発チームがロボットを開発していました。なるべく賢い人工知能を搭載したロボットを目指しています。この世界にはいたるところにドアがあるので、ドアくらいは自分で開けられるようにプログラムしました。そうしてプログラムしたロボットを研究所に置いておくと、困ったことに次々とどのドアもお構いなしに開けてしまいます。トイレのドアだって何だってです。遂には研究所の機密事項が仕舞われていて、勝手に開けると爆発するドアまで開けてしまい。そのロボットは粉々に吹き飛んでしまいました。
 研究チームは新しいロボットを作り始めたのですが、今度はちゃんとドアを開けてもいいかどうかを判断するプログラムを組み込みました。「あの扉には、”開けたら爆発する”ってちゃんと書いてあったんだから、それをきちんと読んで判断するようにしよう」
 新型ロボットは、今度は機密事項の部屋の前に行っても、注意書きを読んで開けることはしませんでした。ついでにトイレも開けないようにプログラムされています。ロボットはトイレに行かないので別に困りません。ところが、今度は研究員の宿舎の部屋を次々に開け始めました。
 やや腹を立て気味の研究チームは話し合いました。
「一個一個何に注意してドアを開けなくてはならないのかプログラムしていてはきりがない。自分で考えるようにプログラムしよう」

 ドアを開ける失礼なロボットは、今度はドアを開ける前にそのドアを開けても大丈夫か考えるようにプログラムされました。そうして、研究所の中をうろうろし始めたロボットを、研究員達もじっと見守ります。「今度は大丈夫だろう」
 さて、一つ目のドアの前にロボットはやってきました。
 コレハ トイレ デハ ナイカ? 
 コレハ バクハツ デハ ナイカ?
 コレハ プライベート ナ ヘヤ デハ ナイカ?
 コレヲ アケテモ ダレモ コマラナイカ?
 コレヲ アケテモ アイスクリーム ハ ショウメツシナイカ?
 コレヲ アケテモ タイヨウ ハ バクハツシナイカ?
 コレヲ アケテモ ウミ ハ ヒアガラナイカ?
 コレヲ アケテモ ペンギン ハ ビョウキニナラナイカ?
 ・・・
 ・・・
 ・・・

「おかしいなあ」研究員は言いました。「動かなくなっちゃったぞ」
「わあ、駄目だこれは。今人工知能を解析してみたら、どうでもいい心配ばかりしてるよ」
「ああ、本当だ。よし、関係ないことは考えないようにプログラムしなおそう」

 優秀な研究者達はさっそくプログラムを書き換えました。

 コレハ トイレ デハ ナイカ? 
 コレハ バクハツ デハ ナイカ?
 コレハ プライベート ナ ヘヤ デハ ナイカ?
 コレヲ アケテモ ダレモ コマラナイカ? ハ イマ カンケイナイカ?
 コレヲ アケテモ アイスクリーム ハ ショウメツシナイカ? ハ イマ カンケイナイカ?
 コレヲ アケテモ タイヨウ ハ バクハツシナイカ? ハ イマ カンケイナイカ?
 コレヲ アケテモ ウミ ハ ヒアガラナイカ? ハ イマ カンケイナイカ?
 コレヲ アケテモ ペンギン ハ ビョウキニナラナイカ? ハ イマ カンケイナイカ?
 ・・・
 ・・・
 ・・・

 僕達は普段どうやってドアを開けて良いかどうか決めているのだろう。

mixed state.

2008-04-16 09:58:46 | Weblog
 人権が守られていない。ということで、地球連邦政府は緊急会議を開くことにしました。「今年こそ、人権の年にしよう」アメリカというわがままな国の大臣まで意気込んでいます。おっと、アメリカという国をわがままだと決め付けるのも人権無視になりますかね。前言撤回しましょう。
 とにもかくにも、世界中の大臣が集まって、1週間会議を開いて話合ったところ、素敵なアイデアが出てきました。ロシアという国の大臣が、「私は歴史を勉強したことがあるのですが、実は昔私の国とアメリカさんは仲が悪かったのです。いつ戦争をしてもおかしくないような状態でした。しかし、お互いが地球を滅ぼすくらいの核兵器を持っていたので、それが抑止力となり戦争をしませんでした。歴史ではこれを冷戦時代と呼んでます。私はこの抑止力というのを応用して人権も守れるのではないかと考えます」
「なるほど。抑止力とは素晴らしいものだ」各国の大臣も肯いて、またたくまに素敵なプランが出来上がりました。地球人全員が強力な核ミサイルを持ち、人権が侵害されるようなことがあればミサイルを発射して地球を滅ぼす、というものです。そうしておけば抑止力が働いて、誰も人権を侵害するようなことはしなくなります。

 この素敵なアイデアが採択されたので、世界中の工場は大忙しです。地球人全員分の核ミサイルを作るのは大変なことですからね。学校でも、数学や歴史や外国語の時間が減らされ、人権の授業が増やされました。何が人権侵害に当たるのか、それを一人の生徒がたった一項目知らなかっただけで地球が滅びてしまうのですから、それはもう先生方も大忙しです。生徒達も自分が地球を滅ぼすことになっては困るので真剣に人権の勉強をしました。覚えることはとてもたくさんあります。なぜなら、「どういうときに人権侵害が起きたと見なして核ミサイルを発射すれば良いのか基準が曖昧だ」ということで、この世界で起こりうるありとあらゆる種類の人権侵害について、それぞれが吟味され、数値化され、リストにされたからです。その項目は厳選され100万個になっていましたが、それでも100万個を覚えることは大変です。1日100個覚えても30年くらいかかる計算になります。そこで、30歳からを成人と見なし、それ未満の年齢の者が人権侵害を行った場合はそれは核を発射する場合には該当しない。という決まりができました。また、このことから法律の施行までには30年の猶予が置かれることになりました。そんなのめちゃくちゃじゃないかという市民の声に対し、「大変なことは分かっているが、人権社会を築くための第一歩だ」と連邦政府の大統領は言いました。悪者は、それならこの30年のうちにやりたい放題、めちゃくちゃに暴れてやろうと考えました。

 こういうことを言うと御幣があるかもしれないけれど、僕は「人権」というものはこの世界に存在していないと思う。人権というか「権利」というものは本来的にこの世界に存在していない。もちろん、権利という言葉が表しているもののことは分かるけれど、僕らの世界というのは権利というものをなるべく構造に繰り込むべきではないと思う。「私にはそれをする権利がある」なんて胸を張って言われると蹴飛ばしてやろうかと思うことがときどきある。
 人権という言葉がないと、たしかに僕達は人権のことを考えることができないのかもしれない。だけど、人権というのは人権という言葉をつかったのでは守ることができない。なぜなら人権という言葉とその人自身の間にはかなりのギャップがあるからだ。「あの人の人権を守るためにいじめるのをやめた」というのは物理的にはいいのかもしれないけれど、とても違和感のあることだと思う。ほんとうに”人権”が守られている状態は何も記述しないことによってしか記述できない。僕らは生きる権利があるから生きているわけじゃない。もしも誰かのことを考えるのであれば、その人の人権なんて考えないで、その人そのもののことを考えなくてはそれは所詮なにかの振りでしかないと思う。別に何かの振りで十分なのかもしれないけれど。

chat a bit.

2008-04-15 15:43:02 | Weblog
「オレの友達さ、なんかすっげえ変わっててさ、でもすごくてさ。今度一回紹介するけど、絶対会ったら面白いから。なんかこないだまで南米放浪しててさ。2年くらい。スペイン語とかもぺラペラで。アーティストで絵描いてるんだけどね。絵もやばくてさ。なんかぐろくて、だけど新しい感じの。服とかもいっつもどこでそんなの売ってんだよって感じの着てて、海外とか変な骨董市とか自分で作ったりだとからしいけれど、こないだもクラブ一緒に行って、全裸になってマジックで自分でボディペインティングしてワインラッパ飲みしながら踊り狂ってて、外人とかもいっぱい居たんだけど、外人もみんなびびってる感じで、でもすっげえ盛り上がってて、超面白かったからお前も来たら良かったのに、まじすごかったよ。それで、今度の土曜日もそいつの主催でパーティーするんだけど来るでしょ? すごい仮装して来るからってあいつ言ってたし、絶対面白いよ。それから友達のバンドも、超パンクでいっちゃってるのが来るし、あとライブペインティングとかパフォーマンスもあるって。そうそうゲストでナカザトユキヒト来るんだけど、すごくない? えっ、ナカザトユキヒト知らないの。ヨーロッパとかでも回してる有名なDJ。天才的。なんかこううまく盛り上がって。オレCD持ってるから今度焼いとくよ。聞いてみて、すごいし。そういえばCDって言えばノイズ系の音作ってる友達がいるんだけど、今度そいつのレコ発イベントもあってさ。ちょうやばいし良かったら行ったほうが絶対いいよ。トリーノでやるらしいよ。えっ、トリーノ知らないの。多分この辺で一番有名なクラブ。店長がノリさんってすっごいいい人で、オレちょっとだけ知り合いなんだけど、行ったら気さくな人だししゃべったらいいよ。トリーノの奥にちっちゃいギャラリーもあるんだけど。そこで知り合いが個展してて、よかったらそれも見てみて。写真だけど、なんか壊れたカメラで取ってて面白い感じの写真が撮れてるんだよね。壊れたカメラばっか持ってるんだけど、面白くない? 搬入オレも手伝ったんだけど、展示の仕方も途中で全部さかさまにしようってなってさ、全部さかさまで面白いんだよ。さかさまってバカと思った? バカだよね。変人なんだよ彼。でも会ったら面白いからさ。雑誌も取材来てたし」

 って話を延々とする退屈な人とか。
 本当は本人も違うって心の底では分かっているくせに幽霊を見た話を延々とする人とか。ときどき自分がいかにアブノーマルなことを考えているかを自慢する人とか。

accurancy in calculation.

2008-04-14 17:19:55 | Weblog
 「君は顎が小さいから大変だ」というようなことは子供の頃から良く言われていたのですが、それほど深刻に受け止めることなく29年間生きてきて、今になってようやくどういったリスクを抱えているのか理解しました。

 親知らずの抜歯の為、僕は6,7年ぶりくらいで歯医者を訪れ、それで色々とトータルに口の中を見てもらっています。細かい虫歯だとか、傷んだ詰め物だとか。それで、今日は今の自分の状況を把握して、今後の治療のことを考える日だったのですが、見せてもらったレントゲンを見て、まず愕然としたのは下顎の親知らずが2本ともほぼ真横に深い位置で存在していることです。一番やっかいなタイプの親知らずだけど、その前の歯の根っこの吸収が始まってしまいそうなので抜く必要があります。もちろん、大学病院の口腔外科での作業で、歯茎を切開して骨を削って歯を分割して、という聞きしに及んでいた恐ろしいことが遂にわが身に降りかかることとなるようです。先日、上の親知らずを抜いて、それで全てが済んだような気分になっていたのに甘かったようです。

 さらに、なんと僕はまだ乳歯が2本残っているのですが、その下で出てこれないまま埋まっている永久歯が、斜めに前歯の歯根を押しているので、将来的にいろいろと厄介なことになる可能性があります。ひいては乳歯を抜歯して、一体どうするのか分からないけれど矯正して永久歯を正常な位置に持ってくるのが良い。とのことです。この矯正の為にも、親知らずの抜歯は必要だとのこと。

 これらを実行するのであれば、大学病院と矯正歯科を紹介してもらい、まず親知らずの抜歯で2ヶ月くらいみて、その先2,3年は矯正生活が続くことになります。参ったなあ。本当ならこういうことは子供のうちにやっておくべきだったのだろうけれど、僕はそれこそどのようなリスクがあるのか良く分からなかったし、歯医者さんもそんなことを強くいう人ではなかった。

 こんなに丁寧に将来のリスクにまでわたり説明してくれる歯医者さんははじめてで、予防歯科の立場を表明しているだけのことはあるなと思う。僕の乳歯周辺の問題は、以前の歯医者でも話題に上ったのだけど、「様子を見て将来的に問題が起こったときに」ということを言われてすっかり安心していて、でも今思えばその判断は良くなかったのだろう。変な方向に歯が伸びていくのは明白なので、問題が起きる以前に手を打ったほうが良いに決まっている。今の歯医者さんは「悪くなるに決まっていることは様子を見るよりすぐに手を打つ」という感じで、短期的に見れば患者として非常に面倒だけど、長期的に見れば当然だし気分がいい。

 もっとも、問題は僕自身にあり、昔は「予防」というものになんらかの注意やコストを払える性格ではなかった。辛気臭いしバカらしいような気がしていたし、面倒だし、起こるかどうかは100%はわからないわけだし、そんなに心配しなくても問題が起きたらそのとき対処すればいいじゃないか、と親知らずのことも何も真剣に考えてみたことがなかった。そのとき僕が真剣に考えていれば、状況がもうすこし軽いうちに対応が取れたはずで、今頃親知らずに悩まされることもなく、きれいな歯並びで生活していたことだろう。

 「予防」というものを、なんとなく馬鹿にしてしまうのは、別に僕に限ったことではないと思う。家の窓に取り付けた防犯センサーが役に立っているのかどうかは誰にも分からない。家に泥棒が入れば、僕達は泥棒が入ったと分かるけれど、防犯センサーを見て泥棒が侵入を諦めた、ということは知りようがない。未然に防がれた悪い出来事を誰も直接体験することはできないし、自分の人生に「それ」が起こらなかったことがどれだけ幸せなのかということを感じるには豊かな想像力が必要だからだ。すくなくとも僕にはその想像力が決定的に欠けていた。
 

since when have you liked flowers?

2008-04-13 22:32:02 | Weblog
 「カギ括弧で括られた文章は無視してください」と彼は書いた。

 これを読むかもしれない10年後の僕へ。
 もうすっかり忘れているかもしれないけれど、このブログというものに書かれていることは別に日記なんかじゃない。当たり前だけど、日々は文章に書き残せるほど単純じゃないし、もしかすれば時々は記憶を引き出す助けにはなるかもしれないけれど、ここには書かれていないことが、思い出されることがないからといって起こらなかったわけではないし、逆にここに書かれていることがその脚色と共に起こらなかったことの記憶を作り出すかもしれない。
 それから、これはもっと大切なことだけど、感情を示したものにせよ、考えを示したものにせよ、それらは僕が思ったり考えたりしたこととぴったり一致するものではない。これも当然のことだけど、言葉でそれらのことをぴったりと表現することはできない。常に何かが多すぎるか、少なすぎるか、方向がずれているか。だから、今僕が書いている、この文章自体も、別に僕の何かにぴったりしたものではない。その自身と言葉との乖離こそが思考を進めているのだ、と書いてみたけれど、僕は別にそんなことは思っていない。自身と言葉の乖離、というところまで書いて、そのあとはなんとなく良いような気がして、乖離こそが思考を進めているのだ、と勝手に書いてしまって、それは只の言葉の組み合わせでしかなく、思考でもなんでもないのだけど、修正案も浮かばないし、別にそういうことを言っても悪くはないようだから、だからそのままでもいいかと先に進めているだけで、今もそんなことを言いたかったわけではないのだけど、やっぱり書き直そうかなと少しは迷いながら、もちろん、なにもこのセンテンスに限らず、今書いた書き直そうかというのも書き直そうかと思っているし、すべてのセンテンスに同じことが言える。つまり、作文というのは何かの結論に向かうものではなくて、僕にとっては迷いの層を一枚一枚深く重ねていくことに他ならない。
 つまりこういうことだ。日本語として可能な言葉の並べ方が、ある言葉を置き、次に選べるのが仮に100通りしかないと仮定して、ある単語から作文を始めるとき、二つ目の言葉を選ぶのは100通りだから、ここまでで100通りの可能性があり、その中から一つを選んだわけだからその確率は100分の1、3番目で10000分の1、4番目で100万分の1、5番目で1億分の1。指数関数的にオーダーが上がって、原稿用紙一枚分の言葉が、その並びが選択される可能性はもう限りなく0に近い。さらに、最初の一言が選ばれる可能性は一体どれだけレアだっただろうか。数えられないくらい多くの可能性の中からある言葉の配列を選んだということは、つまりそれだけの迷いの海に潜り込んだということに他ならない。それが無意識の行為であったにしても。
 という意見にはあまり意味がないかもしれませんね。


decomposition algorithm.

2008-04-11 18:44:37 | Weblog

 カントールが対角線論法を使って「無限」にも色々な無限があり、各無限の密度が定義できると示したのをはじめて知ったとき、僕は驚愕して、それからしばらくして違和感に苛まれ、すこし考えて「なんだか良く分からない」ということに落ち着いた。数学というのは厳密に組み立てられた体系だし、カントールはビッグネームだし、きっと僕の頭が悪いのだろうと思っていたら、実はあまり厳密でもなくて、カントールに異を唱える人々もたくさんいることを最近知りました。

 つまり、多くのことがそうであるように、カントールについても、賛成する人があれば反対する人もあるようです。どうしてそのような意見の相違が生まれるのかというと、その根底にある立ち位置の違いが全ての原因で、その立ち位置は「実無限」と「可能無限」に分類されます。

 実無限というのは「無限というのは本当にある」というスタンスのことで、対して、可能無限というのは「無限を生み出すプロセスはあるけれど無限そのものはない」というスタンスのことです。
 カントールという人は「実無限」の立場をとって議論を進めた人で、「可能無限」の人々から見ればちゃんちゃらおかしいということになります。

 僕は詳しいことを知らないので、明確に立場を表明できませんが、どちらかというと「可能無限」に傾倒しているのではないかと思う。基本的に高校までの数学は「実無限」の数学なので、僕達日本人というのはいつの間にか「実無限」で生きています。二つのうち一方しか教えないというのはフェアじゃないような気もするけれど、実無限でも可能無限でも別にどうでもいいじゃないか、何か違うのか? 無限は無限。みたいなアバウトさで成立しているようにも思えるし、それはそれでいいのかもしれません。
 もちろん実生活にはほとんど何の違いも現れないけれど、直線一つとっても本当は見方が二つ(以上)あるのです。普通、高校までの数学教育によって、僕達は「直線というのは点が無限に集まったものだ」と思っています。しかし、可能無限の方ではそんなことはなくて、「直線は直線であり、ある部分を選ぶという作業が点を作り出す」です。

 たとえば、目の前に一本のヨウカンがあるとします。それをナイフで切ったとき、切ることで断面は生まれる、というのが可能無限の立場で、最初から断面は無限個あって、断面の無限の集合がヨウカンだ、というのが実無限の立場です。

 円周率πは”無限”に桁が続くわけですが、「無限桁まで決まった何かの数字が本当にある」というのが実無限の立場で、「無限に続く数字を計算する方法があるけれど、どこかに最後まで決まった無限桁の数字があるわけではない」というのが可能無限の立場です。

 こんなことをOに言っていたら「別にどっちでも同じようなことじゃないか」と言われました。もちろん、物理学者としては別にどっちでもいいのだろうけれど、と最初は思ったけれど、本当は物理学においてもどっちでもいいということにはならないかもしれないなと思う。

 どうしてかというと、現代物理では「区別できないものは同じもの」という考え方が中心的な役割を果たすことも多いけれど、もしかしたら区別できないものを区別する方がいい場合だってあるかもしれないからです。式の中にπを書くとき、可能無限だろうが実無限だろうが、別に計算結果に変わりはないけれど、でも、意味は変わってくるのかもしれない。そして物理学の数式で表現された意味というのは理想的には僕達のこの世界そのもののことだ。区別できない複数個の同種粒子を区別することが、あるいは良い見通しを与えないとも限らない。

 そうだ、一つだけ実生活に比較的近いところで役立つことがあります。役立つというと言いすぎだけど、可能無限を使うと多くの人が一度は耳にしてなんだか分からないままになっている「アキレスと亀のパラドクス」がいとも簡単に解けます。
 実無限の立場というのは、「アキレスが亀の元いた場所へ着いた時には、亀はほんの僅かだけど確実に前へ進んでいて、それの無限回の繰り返しだからアキレスは亀に追いつくことができない」であり、普通に提示される問題はこの形です。
 さて可能無限ではこの状況をこう記述します。「アキレスが亀に追いついた。その過程を詳細に見たいならあらゆる時点での状況をあなたは見ることができます」

 ヨウカンの例えに戻れば、このパラドクスというのは「切り口を無限個集めればヨウカンができるけれど、無限個の切り口を集めるには無限の時間がかかる。だからヨウカンは存在できない」ということを言っているにすぎなくて、可能無限的には「ヨウカンはここにある。あなたがそれを切りたいならその切る位置というのはどこでもいいですよ。無限の選択肢がありますよ」という当たり前のことにすぎない。パラドクスなんて最初からなかったのだ。

eco.

2008-04-06 21:58:10 | Weblog
「白熱灯は全廃」蛍光灯へ入れ換えを 甘利経産相
4月5日19時18分配信 産経新聞

 甘利明経済産業相は5日、北海道洞爺湖町で開かれた「地球温暖化問題に関する懇談会」で、「平成24年までに家庭用照明の白熱灯を省エネタイプの電球型蛍光灯に総入れ替えしたい」と述べ、白熱灯を全廃する意向を表明した。産業界に比べて家庭部門は温暖化対策が遅れており、消費電力が少ない電球型蛍光灯の普及をさらに進めることで、二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出を削減する。電球型蛍光灯は、価格の高さがネックになっており、今後、家電メーカーや販売店で統一組織を設け、製造コストの削減など具体的な普及策を検討していく。
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 だそうです。
 ものすごく馬鹿げたことのような気がするのは僕だけでしょうか。
 僕は部屋では一つも蛍光灯を使っていないのですが、ボール型の蛍光灯って白熱灯と同じ色合いの光が出せるのか心配です。というよりも、製造が終了しても海外から輸入したり、買いだめしたりして僕は白熱灯をずっと使うと思う。

 こんなことを言うと怒られるのかもしれないけれど、もうばかばかしいから省エネなんてやめればいいと思います。エコロジーごっこ。

 今日から家の明かりは蛍光灯だけにしてください。点灯時間は一日3時間以内に限定します。どうしてもそれより長い間明かりの必要な場合はLEDの小型ライトでどうにかしましょう。水の節約のためお風呂は3日に一回に限定します。1日2リットルの水分があれば人は生きていけるので、2リットル以上は水を飲んではいけません。運動するともっと水が必要になるので運動は生活習慣病にならないぎりぎりの量に抑えてください。紙を節約し限りある森林資源を守るため、紙に文字を書くときは一文字当たりの大きさが8ミリ四方を越えないようにしなくてはなりません。また文字と文字の間は2ミリ以上空けてはいけません。大型の自家用車(二輪車を含む)は禁止します。省エネカーが原動機付き自転車のみが道路の通行を許されます。許可された特別な施設以外では午前1時から5時までの電灯の使用を一切禁止します。必要な場合はLEDの小型ライトでまかないましょう。というかいっそのこと建築物に照明設備を取り付けることを禁止します。各自LEDの懐中電灯を持ち歩いてください。必要なところだけそれで照らせば良いでしょう。家庭の台所で使用されるエネルギーを削減するため、調理における一切の加熱を禁止します。今日から刺身とかサラダだけ食べてください。テレビはなくてもそんなに困らないので、本日よりテレビの販売、使用、所有、をすべて禁止します。そうだ、それからCDプレーヤーなどの音楽再生機器も別に要らないですね。禁止します。テレビゲーム。もちろん禁止します。パソコンは5世帯に1台までの所有を認めます。情報インフラとしての使用のみが許されるので、インターネットブラウザとメールソフト以外はインストールできません。どうでもいいサイトを見るのはエネルギーの無駄なので、どうでもいいサイトが見れないようにするフィルタリングソフトのインストールを義務つけます。どうでもいいサイトを作った者、あるいはそのデータを置いたサーバは直ちに罰せられます。1日の睡眠時間を20時間に延ばし、活動は4時間に抑えましょう。とても省エネです。そうそうエアコン。省エネ型もなにも、我慢してください。禁止です。ってか家いらないですよね。家を一軒建てるのにどれだけのエネルギーが必要か知っていますか。今後建築物の建造を禁止します。テントで寝てください。外でもいいです。むしろ外をお勧めします。なぜならテントを作るのにも家よりは少ないですが原料とエネルギーが必要だからです。めんどくさいな。まだまだたくさん法律を作らなきゃならないけれど、きりがない。こうしよう。今日から一般人のエネルギー使用を禁止します。なんとか生き延びてください。活動時間4時間以内で。1日5000歩以上歩かないでくださいね。いっとくけど焚き火とかもしないように。それでは、本日よりこれを施行します。