孤独な現代の若者という幻想

2012-09-27 20:17:42 | Weblog
 しばらく前に「土間の家(http://d.hatena.ne.jp/doma_house/)」で、座談会「北京と京都の大学生が見た町家」( http://d.hatena.ne.jp/doma_house/20120821/1345542150 )が行われました。

 北京と京都における、古い家の空き家問題や使用例についての話だったのですが、使用例としてはやはり「シェアハウス」というのが上位に挙がってきます。

 同じようにしばらく前、ツイッター上で社会学者、古市憲寿さんと@May_Romaさんの喧嘩のようなやりとりが話題になっていて、その中で@May_Romaさんは「シェアハウスって昔の長屋そのもので貧乏人がしょうがないから集まっているだけ、お金あったら誰が好んで他人と住むの」というようなことを言われていました。これはなんてことない発言ですが、僕は改めて「なるほどな」と思い、ちょっと今回は「シェアハウス」というものについて考えてみたいと思います。

 土間の家での座談会で、大学生の女の子がプレゼンの途中「寂しくない」のがシェアの利点だと言い、僕はものすごい違和感を感じました。
 寂しくない。寂しさを感じなくていい。
 まだ二十歳くらいの、見たところ友達もたくさん居そうな女の子が、どうしてそのようなことを言わなければならないのでしょうか。僕達はそんなにも孤独な時代を生きているのでしょうか。

 色々と考慮すべきことはありますが、彼女の話を聞いていた時に思ったのは「この子は、ただなんとなくこう言っているだけなんじゃないか」ということでした。多分、本当に孤独だとか寂しいとか思っているのではなくて、シェアということに関して何か発表する機会があって何かを言わなくてはならないので、一番簡単に思いつく「寂しくない」というのを持ってきたのではないかというのが僕の考えです。意地悪で申し訳ないけれど。

「地域、家族等の共同体は消費社会によって解体されてしまった。
 孤立した若者たちが新しい形の共同体を模索してシェアが増えてきた」

 いつの間にか、このような文脈が大手を振って流通するようになっていて、誰かが「シェア」ということを考える時、最初に浮かぶのは「共同体」、もっと端的に「さみしくない」ということになってしまっています。
 しかし、僕達は、仮に"現代の若者"という括りが有効であると仮定して、"現代の若者"は本当に孤独なのでしょうか?

 孤独な現代の若者というのは幻想ではないのか。
 というのが僕の答えです。

 先程のプレゼンテーションに関しては、発表者の方には本当に申し訳ないけれど、僕は彼女の意見を全然信用していません。自分の考えではなく、なんとなく世間の漂う無難な意見を拝借したまでだと思っています。
 世の中にはアンケートというものがあって、僕もこれまでの人生で何度も答えたことがあります。おいしかったかとかサービスには満足したかとか部屋はきれいだったかとか、ただ、あのアンケートというものはどれくらい真剣に集計して利用しているのか知りませんが、あそこに書いた僕の答えは全然僕の本心ではありません。別に意地悪で嘘を書いてやろうとかそういうことではなくて、それなりに素直に答えているつもりですが、それでもやっぱりその答えがとても自分の本心だとは思えないのです。
 だから、あんなものを参考に誰かが何かを考えているのだとしたら、僕はなんとも申し訳ないような、でもちょっと間の抜けた人だなと思うような、そんな気持ちになります。

 しかし、もしも自分が何かのアンケート結果を渡されて何かの企画を考えなくてはならないとしたら、そのどうにも信用の置けないアンケート結果を「真実」だとして用いる他ありません。この結果はどうせみんな適当に書いただろうからまあ気にしないでいいや、ということにはできないわけです。その結果、僕は「世間の30代の75パーセントはこう考えているのでこういう企画を作りました」とかもっともらしくプレゼンテーションをでっち上げるわけです。
 そして、そのプレゼンを聞いた人が、「へー、75パーセントの人がそう思っているんだ」とか思ってそれを誰かに言いふらしたりネットに書き込んだりして、そうしてどんどんとなんでもないアンケートの結果がオーソライズされていきます。つまりデマですね。

 だから、今回の「シェアは寂しくなくていい!」も、もしも何も疑うことなく真に受けてしまうと、僕はこのブログに「友達がたくさんいそうに見える大学生の女の子でも寂しさを感じていて、シェア生活の最大のメリットとして”寂しくない”というのをあげている。現代はやっぱり孤独の時代なのだ」とかなんとか書いてしまって。そして読んで下さる方の何人かは「大学生の女の子が寂しいというくらいに孤独な時代なのか、そうか」と思われて、誰かにその話をなさるのではないかと思うのです。
 たとえ発表者の女の子が適当に言っただけのことだったとしても、僕達はそれを真に受けたりするし、また真に受けたいと思っている。折角、その場で発表を聞いたのだから、それを間に受けて誰かに伝えたいと思う。だって実際に大学生の女の子が目の前でそう発表したのだからと自分の発言に説得力を持たせることができる。そういう説得力のある話を人にするのは気分がいい。だから嘘かもしれないと微かに思っていても、そんな疑いは無視して気分良く人に言いふらす。
 そして「寂しい現代の若者」というイメージがまた強化されます。

 プレゼンに難癖付けるだけで長くなってしまったので、続きは次回にでも書きます。
 「寂しい現代の若者」というのは、

 1,誰かが故意に流したイメージではないのか?
 2,インターネットの普及で人々が寂しさを口にしやすくなっただけではないか?
 3,自分の孤独が自分の問題ではなく社会一般の傾向なのだという言い訳に都合が良いのではないか?
 4,でももしかしたら本当に大量消費社会の反動で分断された個がコミュニティを再構築しはじめたのかもしれない。

 というような観点から書ければなと思っています。

住み開き: 家から始めるコミュニティ
クリエーター情報なし
筑摩書房

イメージとしてのアメリカ、オタク文化と敗戦

2012-09-27 15:34:01 | Weblog
 なにを隠そう、僕はアメリカ文化育ちです。
 アメリカの映画とアメリカのテレビドラマとアメリカの小説を、子供の頃たくさん消費しました。
 実になんというか、クールじゃないですね。
 これはつまり、ハリウッドのドンパチボカーン映画と西海岸の高校生ロックバンドの演奏みたいな音楽を好む大人になったということです。ええ、ヌーベルバーグでもスタン・ゲッツでもなく。スターウォーズとゼブラヘッドです。
 20代のある時期、反抗期のようなものがやってきて「アメリカはバカの国だ」と言いながらゴダールやトリュフォーを見ていましたが、漫然と見ていただけでそんなに面白いとは思えませんでした。
 挙句の果てに今はパリに住んでいる友達に連れて行かれたフランス映画祭では

   幸せこの上ない若い夫婦と子供の家庭
 → 夫がある女に一目惚れして浮気 
 → 奥さんに浮気相手も君も両方本気で愛していると告白
 → 奥さん承諾
 → 翌日の楽しい家族ピクニックで昼寝
 → 目が覚めると奥さんいない
 → 池に奥さんの水死体

 というなるべくなら見ずに一生を終えたかったような映画を見てしまいました。それでも我慢してフランスの映画を見続けていたらベッソンのヤマカシとかタクシーなどのバカな映画に当たりずいぶんほっとしたものです。

 そうして、いつの間にかやっぱりアメリカ文化が好きだと公言する状態に戻りました。
 嘘をついてよその国に爆弾を落とそうが騙してお金を吸い上げようが、アメリカがどんな悪事を働こうが、やはり僕は自分の中にあるこの国への憧憬を否定することができません。
 理性はなんとでも理知的なことを言います。「お前が憧れているとかいうあの文化は弱者を搾取した上に成立している大量消費社会のイコンそのものなのだ」と。ちょうど「戦車がかっこいいなんて馬鹿じゃないのか、あれは人殺しの道具だぞ」というのと同型です。
 でも、僕はやっぱりアメリカ文化や戦車のことをかっこいいという思いを否定することができない。一つの病理として。特に一人の日本人として、僕はこれを重い病理だと受け止める他ない。

 このまま、僕なりの敗戦後論を書ければ良いのですが、今はちょっとした別の浅はかな思いつきについて書いてしまおうと思います。
 というのは、「イメージとしてのアメリカ」とオタクの人達が好きな「2次元の女の子」は同型だなと先程ふと思ったからです。
 実は僕は、アメリカが好きだとか、アメリカ文化で育った、とか言いながらアメリカへ行ったことが一度もありません。このことに関して友人に「イメージとしてのアメリカ」だけで満足してしまっていて、本当のアメリカには興味がないんじゃないか、という風に指摘されたことがあります。それは半分当たっています。僕は本当にアメリカを訪ねたいと思っています。諸事情によりまだ行っていないだけだとも言えますが、裏を返せば必死で行こうとはしなかった、ということです。つまり実はそんなには行きたいと思っていなかったということなので、指摘は半分当たっているわけです。
 僕の本心に関係なく大袈裟に書いてしまうと、カリフォルニアの地を踏むことより日本の自分の部屋でOCのDVDでも見ている方がいい、OCは本当のカリフォルニアには関係なくカリフォルニアという虚構のイメージの上に成立した虚構の物語であり、それはそれ自身で完結している。ということです。

 この「イメージとしてのアメリカ」というのは、僕に限らず広く日本に蔓延しているのではないでしょうか。戦後日本を代表する作家の村上春樹も「イメージとしてのアメリカ」について触れています。彼の場合はアメリカの小説によって独自の「イメージとしてのアメリカ」を頭の中に作り上げていて、実際にアメリカへ行ったときも「実体としてのアメリカ」が「イメージとしてのアメリカ」を消すことはなかったというようなことをインタビューで言っていたと思います。

 アメリカは言うまでもなくたくさんの国とそれぞれの関係を持っていますが、日本とアメリカの関係はそれでも随分特殊なものに見えます。一例として最近読んだある文章を引くと、

『市街地に絨毯爆撃を加えて一般市民を大量虐殺した上に核兵器による人類史上最悪のホロコーストを行ったアメリカが、憲法だけはすばらしいものを与えてくれたと本気で信じているの?』(適菜収「いたこニーチェ」より)

 結構多くの人がそう信じているし、僕も子供の頃は学校でそう教わって素直に素晴らしいことが書いてあるのだろうと信じていました。

 ここからはかなりインチキな社会学者みたいなことを書きますが、僕はこの「関係が複雑でなんだかうまく処理できないもの」から上澄みだけを取り出して「イメージとしてのアメリカ」を構成したのと同じ手順をいつの間にか一部の人達が「女の子」に対して適応した結果「二次元」という世界が日本オリジンで生まれたのではないか、と思いそうになっています。
 逆の言い方をすれば、オタクの人達が「2次元」を扱うのと同じ手法で、戦後日本人はアメリカを扱ったのではないかということです。なのでもしかしたら二次元の研究は敗戦後論の助けになるのではないかと思いそうになっているのですが、二次元についても戦後日本についても良く知らないので、戦後日本の研究者である友人に聞いてみたいと思います。
いたこニーチェ (朝日文庫)
適菜収
朝日新聞出版

動物園はいらない

2012-09-17 15:04:56 | Weblog
 この春、京都市、梅小路公園に水族館がオープンしました!
 僕はまだ行ったことがないのですが、イルカやアザラシがかわいそうなのでさっさと潰れてしまえばいいのになと思っています。どうして海に住む知能の高い哺乳動物を内陸部のビルに監禁して見世物にしたいのか、僕には全然わかりません。
 他の水族館にしても同じ事で、さらに動物園だって、どうしてあんな狭いところにゾウやゴリラを閉じ込めてニコニコ子供に見せたりできるのか僕には全然わかりません。水族館も動物園もなくなってしまえばいいのになと思っています。
 ペットショップも同じで、近所のショッピングモールには犬猫専門のペットショップがあって、アクリルのショーケースに閉じ込められた子犬を眺めては客がキャッキャとはしゃぎ、これもアクリルの箱に入れた子犬をテーブルに乗せて店員と客が取引をかわしているのだけど、狂気の沙汰ですね。年間何十万頭もの犬や猫がペットショップから廃棄されるわけですが、水族館、動物園と同様にペット業界も潰れしまえばいいのになと思います。

 僕は結構動物の好きな子供でした。
 犬、鳥、ネズミ、リスをはじめとして色々な生き物を飼っていました。ムツゴロウさんのテレビ番組がとても好きでした。後にムツゴロウさんはただの動物好きの変なおじさんではなくて作家なのだということを知って、彼の著作のほとんどを読みました。
 動物園なんてなくなってしまえばいいのに、とは書きましたが、子供の頃は動物園に行くのが嬉しかった。だから動物園の楽しさだって本当は分かります。たぶん動物園で働く人達はみんな動物が好きな人達だと思うし、漠然と複雑な気分は持たれているのではないかと思います。動物が好きであればペットを飼いたくなるのも当然のことですし、実際僕の実家にも犬がいて、ペットショップなんてなくなってしまえ、と言いつつもやはり複雑な気持ちを持つことは確かです。
 僕達はどのような距離で彼らに接すれば良いのでしょうか。

 ここまで書いてふと思い出したのですが、僕は同じようなことを以前にも何度かこのブログに書いていました。。。
 たとえば、旭山動物園の悪口を少なくとも2回は書いています。2009年の記事「セラピー的な動物園 http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/70666fce7a517d7d2a00c670f0694640 」に、

 『 旭山動物園は、動物の習性をうまく利用した動物園として有名になったわけだけど、僕はもうその「習性をうまく利用した」というのがとても嫌だった。見に来た人々の頭が水面から顔を覗かせたアザラシの頭に見えるように設計されたシロクマの水槽。シロクマは人の頭目掛けて水の中に飛び込んで、そしてあの力強い前足でいくら叩いてもけして壊せないような分厚いアクリルにぶつかる。人間の子供達はその様子に大喜びする。すごい迫力だとかなんとか。
 オランウータンは地上高くに張られたロープを、遠くに置かれたエサに釣られて長い距離渡り、それを見上げる人々はここでも流石サルだと大喜びする。

 こういうのって、良いとか悪いとかいう以前にいびつだなと思う。オランウータンの新しい住処を作るときの様子がテレビで流れていて、動物園の人が「オランウータンは手の力がものすごいので、触れるところにボルトやナットがあると指で回して開けてしまうかもしれないので心配です」というようなことを話していた。彼らだって外に出たいんだよ。高い木の上で生活する動物だから、高い所で移動できるようにして環境を再現しました、みたいなことを言うけれど、だからなんだという話だ。

 小沢健二の「セラピー的」という言葉を借りるなら、旭山動物園はセラピー的な動物園だ。動物園って動物を閉じ込めて見世物にしてなんか嫌だなあ、と思う人に「なるべく動物が暮らしている自然な状態を再現しました。だからほら、動物達の本来の習性行動が現れています。それを見るほうが人間だって、寝ているだけの動物を見るよりも嬉しいわけですから、動物の生活環境もよくなって人間もより楽しめる素敵な動物園なわけです」と囁いて丸め込もうという魂胆にみえる。動物園を作る人がそういう意地悪なことを考えているわけではないと思うけれど、背景にそういう思想があることは否めないんじゃないだろうか。

 動物達の生活環境が改善されても根本的な問題は解決されていない。ジャングルや草原から捕まえて運んできたり、狭い檻の中で繁殖させたり、そういうことをやめない限り問題は解決しない。
 でも、こういう新しい動物園ではこれくらいマシに動物は暮らしています。ということをアナウンスされると、新しい素敵な動物園の誕生ですとテレビで楽しそうに放送されると、人々の感じる痛みはいくぶん和らぐ。そしてまあいいかと問題の本質を忘れた気分になる。

 とても残念なことだけど、僕がこうしてこういうことを書いているのもセラピー的だ。ここでごちゃごちゃ書いても何にも解決しないのに、誰か読んでくれた人が何かを考えたりしてくれて、そういう考えが伝播して何か起こらないとも限らないとか、そういう慰めを自分でしていることを告白しないわけには行かない。

 セラピー的な行動とセラピー的な生き方。
 心の底では現実は変えられないと信じ込んで、一応は変える為の行動を中途半端に行って、それで心の痛みを紛らわして「仕方がないんだよ」と騙し騙し生きていく生き方。心の一番底にあきらめのある生き方。』(引用終わり)

 というようなことを。
 自分が同じ事を昔にも書いたと気付くまで、僕は「動物が可哀想だと言いながら動物園廃止運動を行わない自分はコストやリスクを考えてそのようにしているのだけど、もしかしたらこういうのこそ実は頭が狂っているということなのではないだろうか、僕はもしかしたら狂っているのかもしれない」という感じで書き進めるつもりでした。つまり、以前「セラピー的」と表現したのを狂気で置換しただけですね。

 「セラピー的」というのがどういう意味かというと、これも自分のブログ(「セラピー的な社会」 http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/9d7b6535de2d6f091d772663022d9d36 )からの引用になりますが、

 『 タイトルにもある「セラピー的な社会」というのは的確な言葉だ。
 ある人が社会生活に疲れてセラピーに行くと、セラピストはその人の内面的な問題をどうにかしようとする。本当は環境の方を変えなくちゃ本質的な解決にはならない。「周囲を変えることはできないから自分の考え方を変えましょう」ということを仄めかして丸め込む。嫌な暗い気分になったというのは「何かがおかしい」というシグナルなのに、それを無かったことにする。

 人々が本質を考えないように、本質には関係がないのに関係があるように見せかけた出口の無い問題を与えて、その中でエネルギーを使わせる。本当はとても具体的な目の前にある問題なのに「大昔からの難しい宗教問題」とか「脳科学」とか「遺伝子に組み込まれた人間の性質」とか、なんかぼんやりとして解決のできないように見える問題に摩り替えて、現実の世界を変えようなんて気にさせないようにする。』

 という感じのことです。
 小沢健二はこれらの考え方を母親である心理学者の小沢牧子から学んだのだと思いますが、彼女の著書「「心の専門家」はいらない」には詳しいことが書かれています。
 僕達は物事の本質に目を向けるのが辛いので、ついついセラピー的になりがちですし、人々をコントロールしたいと思う広告会社や政治家は、

 『社会の問題について人々が考え始めたら、こっそりとある枠組みを与えて、その中でだけ自由に活発に議論させて、本質には目が行かないように操作する』(小沢健二「企業的な社会、セラピー的な社会」)

 という方法でいとも簡単に人々を騙すことができます。みんな騙されたいわけですから。放射性物質さえ「意外に大丈夫らしいよー」とあっさり信じる大衆に、深刻な環境問題も「エコって書いてある商品買っとけばそれで大丈夫、どのエコな冷蔵庫にしようかな!」と考えさせるのはとても簡単なことです。僕達は面倒なことは考えずに広告の振りまくエコでクリーンなイメージに縋りたいわけですからね。
 もしも世界がほんとのほんとに素敵だったらなあ。


「心の専門家」はいらない (新書y)
クリエーター情報なし
洋泉社

動物園にできること (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋

書評『「ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体」』適菜収:その時代は既に来た

2012-09-15 01:17:27 | 書評
 先日、ある女の子に「あそこのチョコレート屋が最近雑誌に良く出てて行列もできているから私も食べてみたい!!!」と言われて、「それはB層グルメですね」と返答したあと、B層という言葉の定義を教えてあげて雰囲気を悪くしてしまいました。

 B層というのは、ウィキペディアから概要を引っ張ってくると、

『 2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。
スリード社の企画書では国民を「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。B層には、「主婦と子供を中心した層、シルバー層」を含み、「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層、内閣閣僚を支持する層」を指すとされる』

 同様にウィキペディアには、

『適菜収によれば、「今日ではより普遍的な概念として、人権や平等などの近代的価値を盲信する層のことも指す」のだという。』

 と書かれていますが、その適菜収さんが言い出したのが「B層グルメ」です。
 適菜さんの書かれた文章を引用すると、

 『 こうした状況の中、隆盛を極めているのが《B層グルメ》である。《B層》とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに踊らされやすい知的弱者」を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が《B層グルメ》だ。

 いわゆる《B級グルメ》が「安くて旨(うま)いもの」であるのに対し、《B層グルメ》は必ずしも安いわけでも旨いわけでもない。しかし、《B層》は誘蛾灯(ゆうがとう)のように引き寄せられていく。なぜなら《B層グルメ》は、行動心理学から動物学まで最新の知見を駆使し、《B層》の趣味嗜好(しこう)・行動パターンを分析した上でつくられているからだ。店の立地、席の配置、照明の角度がマーケティングにより決定され、さらに「産地直送」「期間限定」「有機栽培」「長期熟成」「秘伝」「匠の技」といった《B層》の琴線に触れるキーワードが組み合わされていく。こうして、日本全国、駅前からデパートのグルメアーケードまで、同じようなチェーン店が立ち並ぶようになってしまった。「豚骨と鶏ガラ、魚介、30種類の野菜を3日間煮込んでスープをつくりました」みたいな闇鍋系ラーメン屋もこれにあたる。鍋に水と材料を入れただけなのに、「これが私の作品です」と一端(いっぱし)の料理人のような顔をしている素人が増えている。』
 (引用終わり、引用元:産経ニュース2012.4.6 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120406/trd12040603050002-n2.htm )

 僕はいくつか前のブログ記事にこういう愚痴をこぼしています。

『 人の行いの、何もかもが丸っきり下らないように、ここしばらく感じていた。誰かが一生懸命に工夫したデザートだとか、絵画だとか、個展だとか、とにかく人が作った何かとか、あれが面白いとか、これがしたいとか、あの店がいいとか。もうほんとにどうでもいいじゃんそんなのアホらしい、と思っていた。本当はみんなそんなの全部アホみたいだと分かっているのに、でもそれらをアホみたいだと認めてしまったらもっとシリアスな何かと向き合う必要があって、それは非常に面倒なことだから、だからアホみたいだと思わないことにして、アホみたいだなんて全然思ってない振りして、アホみたいだという人をあの人変わってるからと嘲笑でなんとかやり過ごして、こんなに楽しいこと沢山あって良い人に囲まれた私は本当に素敵な人生を生きているのだと信じるように努めて、明日の下らない会社への出勤とその憂鬱を実際には大して気にしていないコーヒーの淹れ方にこだわる振りで誤魔化して、抑圧された日常の景色が詰まらないのは自分の見方が詰まらないからだ、そうだカメラを買って違う視点で街を見なおしてみよう、そうすればこの町も素敵に見えるはず、車で通り過ぎていたあの道路を歩いてみよう、そうすれば今まで見えなかった素敵が見つかるはず、とカメラを抱えて徒歩でウロウロして野良猫の写真を撮ったり、ほんとにみんなそんなことしたいのかよって思っていた。』

 「人の行いの、何もかもが」というのはちょっと言い過ぎで、それは強意の為の技巧でしかないのだけど、大概のものに対してはこういう気持ちでした。
 そして、これを投稿した翌日の夜、これも「911」という記事の冒頭に「昨日の夜、大宮通を自転車で走っていると、タコ焼き屋の店頭でタコ焼きを買っている友人にばったり会った。」と書いた友人が適菜収のことを教えてくれました。
 僕はまだ適菜収の著作をきちんと読んではいないのですが、彼の書いたものはいくらかネット上で読めるので断片的には読みました。適菜さんは大学時代にニーチェの研究をしていて、発言の根幹にはニーチェがあります。ニーチェは「現代人はサル以下の馬鹿で何言っても聞かないし、もう知らない」ということを言いながら発狂して死んでいった天才で、所謂「大衆」のことを「畜群」と呼んでいました。適菜さんは「B層」に「畜群」を見ています。
 見ているというか、以下のように「B層」=「畜群」と書かれていますね。

『 畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。ありとあらゆるプロの領域、職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を導こうと決心する。これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ。』
 (MSN産経ニュース2012.5.4 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120504/art12050403110001-n3.htm より)

 そして、この引用中の「近代大衆社会の最終的な姿」というのが、適菜さんの著作の中ではこう書かれています。

『 なんだか世の中がデタラメになってしまったと感じます。
 三流のものがもてはやされ、おかしな考え方が幅を利かせています。
 本当に価値があるものは、ないがしろにされ、軽く見られ、「つまらないもの」「古くさいもの」「過去のもの」として扱われている。
 かつてドイツの古代史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブール(一七七六~一八三一年)は、「野蛮な時代が来る」と警告を発しました。
 その言葉に巨匠ゲーテは呼応します。
「その時代はすでに来た。私たちは野蛮な時代に暮らしている。野蛮であるということは、すぐれたものを認めないということだ」
 そしてなおも今は、野蛮な時代です。
 嘘に嘘を塗り重ねて、八方ふさがりになっている。
 どこかで道を間違えて、行き先もわからず右往左往している。
 希望が持てない。
 街を歩けば居酒屋チェーンやファストフードばかり。
 テレビをつけても面白くない。
 書店に行けば、くだらない本が山積み。
 聴くに堪えないJポップ。
 大手商社がつくった表面上シックだけど安っぽいグルメアーケード。』
 (引用終わり 「ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体」立ち読み電子図書館 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/17799 より)

 僕は、自分には「本物の審美眼」があって畜群ではない、ということを主張したいわけではありません。単に、みんな本当はどう思っているのだろう、というのが分からなくて、どれくらいの人が「本当はこんなの嫌だけどしょうがない」と思っているのか、どれくらいの人が「こういうの素敵!」と思っているのか、そういうのが全然わからなくて、どうしてこの人達はこんなに詰まらない話をこんなに楽しそうにしているのだろうとか、本当は詰まらないけれど気を使って楽しそうに笑っているだけなのか、本当にこんな話が面白いのか、掛けるのが醤油かソースかどっちなのかというのを本気でそんなに熱弁しているのかとか、新発売のお菓子を一つ分けてもらってオーバーなリアクションをとらないと「冷めてるね」と言われるけれどそんな下らないことで人の熱い冷めてるを判断するのはどうしてかとか、だって僕は全然人生に対して冷めてなんかいないしオーバーなリアクションはとらなくてもキチンと感想は言うのに、どうしてキチンとした感想を語ることが「冷めて」いて、一言「なにこれー!超まっずーい、最悪」とか大袈裟なしかめっ面で言うのがOKなのか。どうしてちょっと自分の考えを話すと「いつもそんなこと考えてるの、頭いいんだねw頭悪いから全然わかんない、勉強きらいだしww」であっさり片付けるのか。
 そういうのが全然わからなくて、ときどき酷い孤独感に苛まれます。
 本当にみんなこういうのはどうでも良くて、ああいうのが好きなんだろうか。
 下らないものを下らないと言わないで、「楽しまなきゃ損」とか言って無理矢理テンション上げて遊ぶのが好きなんだろうか。そして、「考え方一つで嫌いな仕事を”好き”に変える方法」みたいな本を読んで、嫌いと思うのは損だからと嫌いを好きになったつもりで生きていくのだろうか。朝から深夜まで働いて休みもロクに取れない人が「忙しいから」と口にするのは時間管理のできない人間の証拠で言い訳でカッコ悪いとかみんな本当に思っているのだろうか。それは言い訳ではなくて事実なんじゃないだろうか。それでも「隙間時間を効率的に活用して趣味をこなす」人がカッコイイのだろうか。何かが嫌なのは「自分の考え方が間違っているから」で、忙しいのは「自分の時間活用法が間違っている」からなのでしょうか。
 ちょっと話がそれて来ましたが、僕には色々なことが良く分からなくて、街を歩くと全てが嘘に思えて何がなんだかまったく不思議に見えます。まるで、誰も行きたいと思っていないのに、行きたくないと誰一人言い出せず行く事になった、誰も楽しくはなく、楽しい振りだけがやりとりされる2次会のように。


ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体 (講談社プラスアルファ新書)
クリエーター情報なし
講談社


ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒 (講談社プラスアルファ新書)
クリエーター情報なし
講談社

911

2012-09-11 12:43:52 | Weblog
 昨日の夜、大宮通を自転車で走っていると、タコ焼き屋の店頭でタコ焼きを買っている友人にばったり会った。彼は、僕も知っているみたいなのだけど、どうにも誰かだ思い出せないアメリカ人と待ち合わせていて、結局そのアメリカ人は来なくて、色々と二人で話し込んでいるうち、時計は深夜を周り、そこで彼は「911になった」と言った。

 さて、911です。
 僕達は単純に「忘れてしまう」という方法で911を消化しましたが、11年前の9月11日に、あのなんだか良く分からない事件は起きました。事件は起きたけれど、なんだか分からないことはないんじゃないの? アルカイーダがテロをアメリカに仕掛けて、アメリカが「テロとの戦い」で戦争して、そして終結した。何が分からないの。イラク戦争ごたついたけど、別にわからなくはないんじゃないの? と言われるかもしれない。
 でも、やっぱり僕にはこの事件に関して良く分からないことが多いのです。事件そのものについての疑問と、事件の取り扱いについての疑問と。大まかに二重の疑問がある。疑問ではなくて不満かもしれませんが。

 ええ、平たく言うと、僕は「陰謀論」の話をしようとしています。
 はい、陰謀論です。
 「ええー、実はアブナイ人だったんだ。。。」と言われても書きます。
 なんというか、ちょっと変わった分析がでると「それって陰謀論でしょ、ププー、馬鹿じゃないの、頭悪いw」と簡単に否定して蓋をして常識で編まれた日常に浸って、さらにそれで何かに勝った気分になれるような人には、まあ「ぷww」って言われるのだろうけれど。

 でも、いくつもの国を巻き込んで一つの戦争をはじめるには、周到な作戦というか、「陰謀」なんて、むしろあって当然なのではないでしょうか。

 911のビルの崩落に関しては、「なんか変」という意見がたくさん出ています。ビルに飛行機は突っ込んでいないとか、そもそもあのビルは飛行機が突っ込んでも大丈夫なように設計されていたとか、火災でビルはあんなふうに崩落しないとか、ビル解体で爆薬を仕掛けたときと同じように柱が切れているとか、911の真実を解明する科学者集団とか、そういう人達もいてそれぞれに見解を発表したりしています。
 僕が自分で解析したわけではないですが「ビル崩落速度が自由落下の速度である」という発表もされています。つまり下になんの支えもない状態でビルは崩れたわけです。下の階がきれいにダイナマイトで吹き飛ばされて。
 他のことは良く分からないにしても、たとえば飛行機が突っ込むことが事故として想定されていて、それに耐えられるように設計されているビルが、似たような他のビルが大火災を起こしても崩落しなかったにも関わらず、どうしてか飛行機が突っ込んでから僅かな時間の火災でビルの解体工事のようにきれいに崩落した、というのが、「どうしてか」起こったのだとしても、崩落速度が自由落下速度に等しいというのは重力異常地帯でもあるまいしそれだけでビル崩落が人為的なものであることを証明している。

 話はここからなんです。
 911に関しては、実は飛行機の残骸だとかそういった証拠は何も提示されていません。単に政府がそういっているだけです。対して、ビルの崩落が変なのはビデオで崩落速度を見れば科学的に明らかになることです。
 しかし、一旦政府のような「権威」がある発表を行い、その内容が「常識」に登録されてしまうと、もう科学もへったくれもありません。「なるほどね、科学的に明らかですね、でも、そうは言っても、やっぱり”なんらかの事情で”そういうことが起きたんじゃないですか」と奇妙な仕方で吸収されてしまうのです。僕達は一旦設定された周知の事実を書き換えるのに莫大な労力を必要とします。

 さらに、これをクリアしたとしても、それでも「ふーん、だから何?」ってなるんです。

 実際に僕がそうです。
 僕は911で起きたことは「変だ」と思っています。でも、同時に「だから?」という気分もあります。あるというかほとんど「だから?」という気持ちばかりです。
 たとえば、僕が911をアメリカの言うとおり素直に信じている人に出会って、そしてこの「陰謀論」を説いて、その人が完全に納得してくれたとします。でも、それがなんだというのでしょう。その人が「ふーん、そうだったんだ、ふーん」と言って、それで終わるわけです。説得できたのが一人に過ぎないからでしょうか。たぶんそんなことはなくて、仮に世界中の人が「ふーん、そうだったんだ、ふーん」と言ったところで、やっぱりそれがなんだというのでしょうか。
 もしも、真実を誤った歴史認識があったとして、その認識の主体というのは誰なのでしょうか。誰が認識を改めた時に僕達は「これで歴史は正された」と納得するのでしょうか。

2012-09-10 15:29:16 | Weblog
 実は春からこちら、自分で独占して使うことのできる机がありませんでした。約半年間です。それがこんなに辛いとは思わなかった。独占できる机がなくても、なんとか上手くやれるのではないか、と思っていたのは間違いで、先週はもう限界だった。昨夜、暫定的にではあるけれど自分のワークスペースを確保したので、このブログの一個前の記事を書いて、それから今日はこれを書いています。子供の頃から自分専用の机と椅子なんてずっとあって、当たり前の物過ぎて大事さが分かっていませんでした。こんなに大事な道具だったなんて。
 昨日まで3週間くらいグラフィックデザイナーのイギリス人がうちに居候していたのだけど、彼とは2,3回、自分のワークスペースがないことの辛さについて話をした。彼はリビングのソファにずっと寝起きしていた。そこで日本語の勉強をしたり何かの作業をしたりするのはとても大変だったと思う。

 さて、暫定的なワークスペースとは言っても、実態は卓袱台一つのことなのですが、それがこんなに嬉しいならば、今早急にと思っている机と椅子を揃えて必要な本と道具を並べて、ということを行った暁には随分と気分のいいことになるのではないかと思っています。

 そういえば。昔、深澤直人さんが「キャンプに行って、カップを置こうとしたら、自然界にはそういうものを置くのに適した平面がないことに、まあ当たり前なんだけど気付いた」というようなことを言っていた。確かに自然界には水平平面はほとんどない。だから、これも当然すぎる話だけど、大昔には机なんてなくて、机はある時点で人間が創り出したものだ。これまで僕は机の上で成されたことにばかり目を向けて来たけれど、考えてみれば机の発明それ自体、人類にとってとても大事なものだ。

 そういえば。先日、人と話していて僕は「机、みたいに真に新しい言葉を作りたい」と言った。つまりはその言葉に対応する何かを。もう「机」とか「椅子」みたいに真に新しい単語はあまり生まれない。大抵が既存単語の組み合わせや変形で作られている。たとえば「携帯電話」のように。

 そういえば。佐藤文隆さんが物理学上のネーミングについて書いていらした。
 ある概念を物理学会に提出すると、その概念には大抵その提出者である物理学者の名前が付く、後にその名のついた概念は変化して意味合いを変える。たとえば宇宙のどこもかしこもが大体同じ感じであることをコペルニクス原理というけれど、地動説を唱えただけのコペルニクスが聞いたら「そんなこと言ってない。。。」という風になる。けれど、物理学というものはみんなで発展させていくものなので、誰かが提出した概念にみんなの考えが加わっていって変化するのは当然のことというか健全なことだ。
 じゃあ、もう個人名なんて使わなきゃいいじゃないか、という話にもなるのだけど、そうすると今度は新しい概念の名前を考えるのが面倒になる。素粒子の一つであるクオークの名前は、鳥の鳴き声だかなんだか全く意味のないものから名付けられている。それは意味のある名前を付けてしまうと後で概念に変化が生じた時面倒なことになるかもしれないからだ。なんとか粒子と名付けたのに、あとで「粒子でない」ことが判明したりするかもしれない。
 人名をやめて、全部クオークみたいに名付ければいいのかもしれないとも思いはするけれど、それはそれで人間味が失われる気もするし、きっと今のままでいいのだろう。
 
 そういえば。佐藤さんがそういうことを書いていらしたのは「量子力学のイデオロギー」という、タイトルに期待して注文したところそんなは面白くない本の中でのことだった。その本は色々なところに書いたエッセイを集めたような形になっていて、中には量子力学と身体性といった感じの文章もある。大体、量子力学に触れた人間であれば一度は考える内容だと思うけれど、僕達が「わかる」と言っているのは「身体的アナロジーで分かる」ということで、身体性の限界を超越したものは「わからない」、だから量子力学は「わからない」というような感じの話だった。そして、僕達は量子力学という身体性の外側を扱う道具を手に入れたのかもしれないし、ならばそれは我々の身体性を記述できるチャンスかもしれない、ということが書かれていた。

 僕達は人間である以上、体から逃れることができない。面倒でもしんどくても体を通じなければ、世界を味わったり、機能を発揮することができない。それは多分、机の上に置かれた道具を実際に手で触ることと、PCやiPadで作業をこなすことの間にある隔たりをある側面から説明するものだと思う。いつでもどこでも、その場でできることで作業をどうにか進めていく、それでかつパフォーマンスを落とさない、というタフネスを残念ながら今のところ僕は持ち合わせていなくて、紙に書きたいときにラップトップでしか作業できないとか、作業出来る場所が自分の本棚から随分遠い(これは家とスタバとかそういうことです。。。)とか誰かが勝手に片付けてしまってるとか、何かをはじめるときにまず作業場所探しから始めなくてはならないとか、僕にはそういうのは結構辛かった。正直にいうと何もできなかった。そこへ卓袱台が手に入って、嬉しいというか、本当に救われた気分になっている。
デザインの輪郭
深澤 直人
TOTO出版

花火

2012-09-10 00:55:34 | Weblog
 残念なことに湖面は全く見えなかったが、それでも空へ勢い良く広がった花火は圧倒的な美しさで迫り、左から右までパノラマに、連発された高輝度の造形と、少しく遅れて胸腔へ響く爆発音が、四角く囲まれた日常にそこだけ穴を開けている。
 空を見上げて、救われた気分になる。
 この一瞬で散りゆく花火の、一玉を作るのにどれくらいの労力が費やされるのか僕は知らない。けれどそれは当然、一瞬よりもとてもとても長い時間が掛けられたものだ。一瞬間につぎ込まれた大量の労力の炸裂。その容赦ない連続。
 こういうものは、やっぱり要るのだ。

 人の行いの、何もかもが丸っきり下らないように、ここしばらく感じていた。誰かが一生懸命に工夫したデザートだとか、絵画だとか、個展だとか、とにかく人が作った何かとか、あれが面白いとか、これがしたいとか、あの店がいいとか。もうほんとにどうでもいいじゃんそんなのアホらしい、と思っていた。本当はみんなそんなの全部アホみたいだと分かっているのに、でもそれらをアホみたいだと認めてしまったらもっとシリアスな何かと向き合う必要があって、それは非常に面倒なことだから、だからアホみたいだと思わないことにして、アホみたいだなんて全然思ってない振りして、アホみたいだという人をあの人変わってるからと嘲笑でなんとかやり過ごして、こんなに楽しいこと沢山あって良い人に囲まれた私は本当に素敵な人生を生きているのだと信じるように努めて、明日の下らない会社への出勤とその憂鬱を実際には大して気にしていないコーヒーの淹れ方にこだわる振りで誤魔化して、抑圧された日常の景色が詰まらないのは自分の見方が詰まらないからだ、そうだカメラを買って違う視点で街を見なおしてみよう、そうすればこの町も素敵に見えるはず、車で通り過ぎていたあの道路を歩いてみよう、そうすれば今まで見えなかった素敵が見つかるはず、とカメラを抱えて徒歩でウロウロして野良猫の写真を撮ったり、ほんとにみんなそんなことしたいのかよって思っていた。

 日常にある小さな幸せを否定するわけじゃありません。
 ただ僕は、ときどき、この人はそんなことを本当にしたいわけじゃないのに、仕方ないから、何かから気を紛らわせるためにそれをしているだけなんじゃないかと思うことがあります。それが良いとか悪いとか、人のことをとやかくいうつもりも何もなく、単にこの人の「楽しそうさ」はなんとなく紛い物っぽいなと感じる瞬間があるということで、楽しいんじゃなくて楽しいと思われたいし自分も楽しいと思い込みたいんじゃないかと、そう疑ってしまうことがあります。
 じゃあ目を逸らしているもっと本質的な何かってなんだよ一体、と言われたら明確には答えられない。けれど、その何かの一つは「社会」なのではないかと思うときがあります。社会という言葉だって随分と曖昧な言葉ではあるけれど、僕達は漠然と社会に対して、うーん、という感じを抱いていて、その「うーん」を解決することからは徹底的に目を逸らしているように思うのです。せいぜい「お金を稼いで上に昇って社会の問題を被る側からは抜けだそう」という戦略くらいしか考えないのではないでしょうか。

 そして「お金を稼ぐ」為に多くの人達が行なっているのは労働ですが、とても沢山の人達が「仕事イヤだー、辞めたい、もう嫌だ」と言いながら仕事を続けている社会というのは、実のところ物凄く変わっているような気が最近強くしています。怠け者の戯言だと笑われるかもしれないけれど。
 
金子光晴詩集 (岩波文庫)
金子光晴
岩波書店