スピン1/2。

2005-11-25 11:46:28 | Weblog
 これは春の日記にも書いたことがあるけれど、ときどき僕は自分の人生が以前にも一度、もしくは何度かあったような気分になる。本当はこの先自分に起こることを全て知っていて、体験していて、それをまたなぞっているに過ぎない。ただ全部忘れているのだ。きれいさっぱりと、まるで初期化されたノートパソコンみたいに。そんな気分になる。とても強力な既視感のようなものだ。それが何故なのかは分からない。本当に何度も同じ人生を繰り返しているなんて考えられない。でも誰にも否定することはできない。

 この間、アパートの前でバイクを修理しているとき、停めてあった知らない人の自転車の上に道具を置いているとその持ち主が現れた。僕が「すみません」と謝ると彼女は「全然大丈夫」と応え、それから「このアパートは部屋が寒々くて辛いですね」というような感じで、しばらく話をすることになった。
 彼女は中国からの留学生で、日本語は比較的良くしゃべれるけれど、でももう一息というところだった。だから時々コミュニケーションがうまくいかなくて、結局その言葉の真意が分からなかったのだけど、彼女は「私達の間であなたを良く知っています」と言った。僕は同じく中国からの留学生である友達のRと彼女は友達で、だから彼女も僕のことを知っているのかと思ったけれど、でも彼女はRのことを知らなかった。もちろん、僕は彼女のことを何も知らない。なのに彼女は僕の何かを知っているという。いや、彼女じゃなくて彼女達は。奇妙な情報のアンバランスを居心地が悪いと思う。
 僕たちは名前と部屋番号を交換して別れた。

 ここまでは正真正銘、一昨日書いた。日記を書いていたけれど、熱で少し眠った方が良いと思って投げ出した。
 そして、昨日の夜中、僕は村上春樹の”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”を読んでいて、こんな文章にぶつかった。

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「何もかも昔に起こったことみたいだ」と私は目を閉じたまま言った。
「もちろんよ」と彼女は言った。そして私の手からグラスをとり、シャツのボタンをいんげんの筋をとるときのようにひとつずつゆっくりと外していった。
「どうしてわかる?」
「知ってるからよ」と彼女は言った。そして私の裸の胸に唇をつけた。彼女の長い髪が私の腹の上にかかっていた。「みんな昔に一度起こったことなのよ。ただぐるぐるとまわっているだけ。そうでしょ?」
>>>>>>

 僕が6歳のときに村上春樹はこの文章を書いた。もちろん、当時の僕は村上春樹なんて作家のことを知らなかったし、みんなでかくれんぼか何かでもしているときに、どこかの作家がワードプロセッサーに打ち込んだのと同じようなことを20年後に自分も考えるなんて思いもよらなかった。大抵の人間は同じ事を考えるものだろうけど。

 このあいだAちゃんと見た「ハッピーアクシデント」という映画では、未来世界に住む主人公の男が過去に起こった事故の記録を調べるうちに、そこに載っていたある女に恋をして400年未来から現代にタイムトラベルをして来る。そして彼女を見付けて恋人になる。でも彼女はタクシーに轢かれて死んでしまうことになっている。その事故が記録され、400年後に彼がその記録を読むのだ。そして彼は彼女の写真で恋に落ち、400年過去へとタイムトラベルをする。そして彼女と恋人になり、彼女はタクシーに轢かれ、記録され、400年後彼がそれを読み、タイムトラベルをして、彼女と恋人になり、彼女はタクシーに轢かれ、記録され、彼はそれを読み、・・・と延々続くループを打ち破る話なのですが、そのループに気がついた彼は言う、

「はじめて僕に会ったとき、どんな気がした? 以前にもどこかであったような気がしなかったか? まるで僕たちは何度も何度も同じ事をくりかえしているような気分になることはないか?」

 実は、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”という作品を読むことを、僕は長い間避けていました。現実と幻想の2つのストーリーが平行して進むという構成がどうにも受け入れられなかったからです。
 ところが、先月僕の研究室にやってきたトルコ人のOが”世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド”の英語版を嬉々として見せてくれ、その後パーティで出会ったYちゃんに「はやく読みなさい!」と言われて、フリーマーケットに行くと50円で僕の目の前に”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”が置いてあった。もう読むしかないのだ。

 そして僕はそれを読み終えた。参考文献にホルヘ・ルイス・ボルヘスの「幻獣辞典」が上がっていた。ボルヘスは最近僕が情報メディア特論で発表した作家だった。世界というのはだんだんと繋がってくる。そして思うに、やっぱりぐるぐると回っているんじゃないだろうか。ゴーギャンが言ったように、僕たちはどこから来て何者でどこへ行くのか分からない。実はどこからも来ていなくて、何者でもなくて、どこへも行かない、ということだって多いにあり得る。

マーブルガールはいつも黙っている。

2005-11-23 13:35:40 | Weblog
 昨日は熱があって学校を休んだのですが、アルバイトは休むことができないので、僕は大嫌いなスーツの上からクルクルとマフラーを巻いて電車に乗って出掛け、忙しく働いて、祝日前の所為か人のやけに多い終電で帰ってきた。こういうとき自分が重大にスポイルされているような気分になる。アルバイトは言わば最下層の労働者なので、上の層の人間に搾取されるのは当たり前だけど。

 アルバイトなんて本当はするもんじゃない。自分の大安売りだから。
 最近はニートの問題で少し影になっているけれど、ニートの前はフリーターの増加が社会的に問題だとされていた。あれは税金だとかそういった財政問題に終始する議論ではなく、自分を大安売りしている人間が異常に沢山いて、その大安売り商品を買った人間、つまり雇用者がボロ儲けしているという2極分化の話です。フリーターが増えるということは、ボロ儲けの社長がうまくやっているということでもある。
 正社員になっても搾取ばかりされている人もたくさんいるけれど。
 それにしても、病気になってもおちおち休めない社会というのは異常だと思う。風邪薬の宣伝とか「明日は大事な会議なのに熱が。○○飲んで」ってやってますが、あんなコマーシャルが成立するなんて実に不幸で不親切な世の中だとしか言いようがない。「明日の会議で発表のタナカさん、なんか風邪らしいから、会議は延期しましょう。代わりに明日、どうせみんな集まる予定だったんだから、パーティーでもしない? タナカさんには悪いけど。鍋とかどうですかね?」という世の中にならないかな。走り続けないと死んでしまうというこの資本主義競争社会がどうにか壊れない物かと、たぶんとても沢山の人が思っている。競争の好きな人ってそんなにたくさんいないんじゃないだろうか。

 僕は村上春樹さんという作家が好きです。
 でも、彼の作品の何が好きなのかが自分でも全然分かりません。日本でも海外でもとても売れていて、ノーベル文学賞だってありそうな勢いだけど、僕は彼の文学の一体何がそんなに優れているのか良く分からないのです。

 そこで少しだけ考えてみました。

 まず、僕は彼の丁寧な文体が好きです。好きだとか嫌いだという次元を超えて、僕は村上春樹さんの文体を真似するならいくらでも長く文章を綴ることができる。つまり、とてもしっくり来るということです。これは日本で彼の書籍がとても多く読まれている要因の一つだと思う。僕たちは、実際に自分で文章を書こうが書くまいが、自分なりの語る方法を必要としていて、村上春樹の語りから学んだ語りによって語られる自分の人生を心地良いと思うのではないだろうか。人生とは事実のことではなくて語り方でいくらでも変化するものだから、語り方を選ぶというのはとても重要なことだ。
 彼の小説においては、基本的に主人公は資本主義社会の競争から降りています。仕事を辞めて、毎日図書館に通ったり、変な事件に巻き込まれたり。仕事を辞めるけれど、でもとても健康的で規則正しく、清潔でゆったりとした生活。そういった観点で切り取る語り方を、僕たちは欲しているのかもしれない。

 それから、僕は春樹さんの本を読んでいて「結局彼はどうこう言わないな」と思うことが多い。

「Aである。でもAでないとも言える。結局のところどちらでもないのだ」

 という記述の仕方が他の作家よりも多いのではないかと思う。
 基本的に小説という物は、1次元のものなので、前から後ろに一本の線に沿って流れて行くし、そうすると構成としては大体が「正→反→合」という弁証法的なものになる。村上春樹の「Aである。でもAでないとも言える。結局のところどちらでもないのだ」という書き方は正しく弁証法だ。
 そして、「合」のところで、彼は結論をぽんと投げ出してしまう。結局、今の時点の僕には分からないと言ってしまう。世界は複雑で分からないことばかりなのに、人類は結論を求めて急ぐけれど、分からないことは分からないのだ。苦し紛れに先人達は多くの答えを提出してきた。でも、分からないという答えよりも正しい答えはない場合が多くて、分からないと言う答え方は最強なのだ。

 また、この分からないというのは只の「分からない」ではない。
 その前に出されたAとnotAの存在を僕たちは無視できない。Aというテーゼを提出し、notAというアンチテーゼでそれをぱっと引っ込めると、そこには何もなくなるけれど、でも状態は以前とは変っている。そこにはAはなくなったけれど、「Aという形の穴」が残されている。大事なものはAではなくて、この「Aという形の穴」の方なのだ。春樹さんは「正→反」で僕たちの頭か心の中に「Aという形の穴」を開けて、そしてこの穴をどうやって処理すればいいのか考えていると「→合」の部分で「それは誰にも分からないことなんだ」と語り掛けてくる。そうして、僕たちはただその”穴”を見つめる。人間にはその穴を見つめて、隣りの人と「穴があるね」「うん、穴だね」と肩を叩き合うことしかできない。

 と、いろいろ書き連ねてみましたが、結局のところ僕は彼の丁寧な感じが好きなのだと思います。近現代の日本文学は、あまりに過激で退廃的なものが多かったし、不健康で暗いのがまるで文学なのだ、と言わんばかりで、そういうのにみんな嫌気が注していたのだと思う。だって小説というのは生き方のお手本を提示するものなのに、どこにも健康なものがなければ嫌になるのは当然ですよね。村上春樹さん自身が「それまでの文壇にお手本としたい人なんて一人もいないし、彼らが深酒をして夜型の生活をするのなら、あえて僕は逆の早寝早起きの生活をしようと思った」というようなことを書いていらっしゃいました。

メキシコ人の赤いテーブル。

2005-11-22 11:02:32 | Weblog
 風邪を引きました。
 もう長らく風邪を引いていなかったので、もしかしたら風邪を引かない体になったのではないかと考えていたのですが、やっぱり引くようです。当たり前だけど。

 20日。
 Aちゃんがフリマ出店していたので、うちの学祭に出掛けると、なんと地元の同級生が彼女と仲良くフリマをしていてとてもびっくりした。彼と会うのは何年も前の友達の結婚式以来だ。彼はますます立派な会社にヘッドハンティングされて転職していた。
 その後、Aちゃんのブースに行って、すこしだけそこにいて、それからフリマを見て回った。本当はもっと沢山欲しい物があったのだろうけれど、僕は風邪でぼんやりとしていて商品を真剣に見る気にならず、村上春樹の本を一冊と、コーデュロイのパンツ一本だけを買った。

 それからカフェ「ノアール」へFと行ったのですが、とても凝っていて完成度の高い空間になっていた。僕は人の作った物を素直に誉めることができない捻くれた性質を持つのですが、今回のノアールは本当にとても良くできていた。壊すのがとてももったいない。しかも2階建ての大工仕事なのに、女の子だけでやったそうです。

 僕は学祭というものがあまり好きではなくて、出店したことも一度しかありません。そのときはワインバーを出して、ワインの勉強も結構しました(貴腐ワインを作るブドウにはボツリヌスシネレアというカビが付くとか、結構細かいことまで)。

 軽くAちゃんと夜御飯を食べて、その後彼女は研究室へ。明日から筑波の実験施設へ行くのでその準備とのこと。
 僕は少し勉強をして、本を読んでいると熱が出てきたので眠る。「ロミオとジュリエット」を今までどんな話か知らなかったのですが、やっと読んでみると悲惨な話だった。

 21日。
 風邪なので大人しくしていようと思いながら、バイクを全面的に修理した。久し振りにバイクに乗るとすごく楽で感動した。
 密かに只で住めないかと思っていた人気のないアパートがあるのですが、管理人さんに話すと「○○の社宅だから駄目」と言われる。これから家賃の要らない生活ができるという甘い期待が消える。
 夜、オスカー・ワイルドの「カンタービレの幽霊」を読んでみるとコミカルなゴーストストーリーの原点に思われた。読んでいると熱が出てきたので眠る。

 しばらく前に、僕はこのブログにヘンテコな話を書いた。変な男が「僕」に”ネジを巻かなくてはならない”という話で、自分で読んでも意味が分からないし、ネジを巻くというのがどういうことなのか明確な意識を持たないで、単に手が動くに任せて書いた。何故そんな話を自分が書いているのか良く分からなかった。でも、この間ある本を買うと”ネジの巻き方”が書いてあった。僕が昔から知っていて、でも大切だとは思わなかったことが、その本の中では”ネジを巻く”と表現されていた(村上春樹じゃないですよ)。だから、僕はそれからときどきネジを巻くようにしています。 

こんばんはサニー。

2005-11-19 16:28:05 | Weblog
 何日か前の日記「レコード」ですが、最後の引用文について何件か問い合わせがあったのでここに書いておきます。

 ジェイク&サマーボーイズの歌からの引用だとなっていますが、ジェイク&サマーボーイズというのは僕の頭の中にだけ存在している架空のバンドで、実際にはそんな名前のバンドはありません(僕の知る限り)。だから、グーグルで検索に掛けたりして調べて下さった方には申し訳なく思います。紛らわしいことを書いてすみませんでした。全く僕の創作です。

 もう今度こそ駄目になったかと思ったバイクを、ずっと放置していたのですが、先日家の前でしばらく人を待つ必要があり、暇だったのでキックしてみるとエンジンがかかって吃驚した。廃車にしなくて良かった。ときどき時間は強力に物事を解決する。決断を急がないで保留することも大事だと思う。保留しておくというのはとても気持ち悪い状態だけど、それに耐えることもたまには求められる。

 しばらく前に、養老孟司が「どうして日本ではこんなに漫画が読まれるのか」を論じた本を立ち読みした。そこにはとても面白い説が立てられていて、曰く「日本人は漢字を使うからだ」。
 漢字は日本のオリジナルではなくて、もともと中国のものだから、当然中国人にだってこれは言えるのだろうけど、使っている言語が「表音文字」によって記述されるのか、それとも「表意文字」によって記述されるのかで、言語使用における脳の使い方、あるいは使用部位というのは異なるそうです。

 僕たちは漢字を読みながら、その形から「音」と「意味」を両方同時に受け取っている。対して、表音文字では一つの文字から「音」だけを受け取る。漢字を読むとき、人は脳の2個所を活性化させ、アルファベットを読むときは1個所だけらしい。

 この本のアイデアで面白いところは、漫画の一コマを一つの漢字だと見なすことにある。
 漫画を読むときに僕たちがコマから受け取るものは「意味」と「音」の両方だ。コマに描かれた絵から意味を読み出すことは、漢字の形を見て意味をとることに対応する。同時に、コマに描き込まれた擬音後や台詞からそのシーンの「音」を拾う。これは漢字の音をとることに対応している。

 こういうややこしい作業を、漢字圏の人間は簡単にこなすけれど、アルファベット圏の人間にはちょっと負担が大きくて、彼らは普段音を拾うことしかしないので、日本人や中国人ほどすらすらと漫画を読むことができないのではないか、という意見です。

 という話をCさんにしていたら、「そういえば海外って字幕の映画少なくて、ほとんど吹き替えになってるけど」という意見を貰った。

 僕は表音文字の読者が、いちいちアルファベットを拾って、音に変えて、それから意味をとるのかどうかを知りません。もしかしたら、dog なら dog 一塊で形として捉えているのではないかと考えることもできるので、僕は今回の養老氏の意見に素直に頷くことはできない。

 でも、漢字と漫画をリンクさせた、そのアナロジーをとても面白いと思う。そもそも僕はどうして日本人はこんなに漫画を読むのか、という問いすら立てたことがない。あっても、単に日本人は漫画が好きで、優れた漫画が多いから、というような答えしか出せないし、ちょっと考えれば分かることだけど、これは全く答えになっていない。最初の問いの問い方を変えただけで、ポストモダンに生きる人間としてはお粗末この上ない。それなら僕は「どうして日本人は漫画が好きなのか」という問いに答えなくてはならないのだ。歴史には理由がある。

カーテン。

2005-11-19 01:43:20 | Weblog
 もしも誰かが謎の病原菌を作って、それを世界にばらまいたとしたらどうだろうか。

 さらに、彼はその病原菌のことをとても良く研究していて、治療薬も持っている。そして言う、

「さあ、みなさん、世界は今謎の病気に侵されつつあります。私の病院にはそれを治すことのできる薬があります。病気を治したければ私の病院に来なさい。来ない人は病気で苦しむしかありません」

 そうして、彼の病院は大儲けしました。

 ひどい話だ。
 でも、ニーチェをはじめとしたアンチクリストの思想家達はキリスト教をこういう物だと言った。
 イエスは本物の宗教者だったが、彼は死んだし、その思想は正しく受け継がれなかった。教会というシステムはイエスの教えの為ではなく、教会それ自体の保身の為に存在している。

 彼らは、「原罪」という名の病原菌を世界に一生懸命にばら撒き、そして教会に来て我々の前に跪くものだけが救われるのだという体系を作り上げた。人間は生まれながらにして罪深い生き物であるという、強力に民衆を抑圧する思想を世界中に垂れ流した。
 そして、「言うこときいて、お金を持ってきたら罪を消してあげるよ」と罪の意識に苛まれる人々に教えた。
 ニーチェ達はこれに対してほとんど激怒している。

 イエス自身は一言もそんなことを言っていない。
 彼はむしろ教会なんていうシステムに反抗する者だ。人間を抑圧するような「宗教」を解体しようとするものだ。

 最近、つくづくと思うのですが、西洋の思想や社会を学ぼうとするとき、キリスト教というものを避けて通ることはできないですね。
 2000年も昔に死んだ一人の男の思想がこんなに世界中で繁栄しているなんて、なんてすごいことだろうと思っていたけれど、より詳しく知るにつれ、実は今世界にあるキリスト教はイエスの思想ではなくて「イエスの思想を利用したもの」でしかないことが良く分かった。それはこないだYちゃんが「キリスト教って、なんか確固たるものがあるように見えるけれど、あれほとんど亜流ばかりだよ」と言っていたことからも伺える。

 もしも、どこかの小さな新興宗教がキリスト教と同じことをすると即座に叩かれるけれど、キリスト教は大きくなり過ぎているので、僕たちはその巧妙なやり方になかなか気が付かない。自分の周囲を取り囲む巨大なものを疑うことは、偏在するものを疑うことはとても難しい。ニーチェの天才の一部は、当時のヨーロッパをほとんどすっぽりと覆っていたキリスト教に「否」を突きつけたことにある。

 僕は日本人なので、この辺りのことを感覚的には理解できない。でも、日本人をすっぽりと覆っているものの存在を考えないではいられない。

キャデラックを磨け。

2005-11-16 13:17:13 | Weblog
 大学の図書館で本を9冊借りて、そのあと府立図書館で5冊借りた。
 図書館の中をうろうろしていると、英語の上達には辞書も引かないで単にたくさんの英語の本を読めばいい、というような主張の本があって、僕はシュリーマンのことを思い出した。

 シュリーマンは有名なトロイの遺跡を発掘した人だけど、彼は語学の天才でもあった。彼の語学学習方法はその言語で書かれた本を辞書も引かないで、文法の勉強もしないでひたすらにたくさん読む、というもので、僕は高校生のときにシュリーマンの本を読んでいてその件が出てきたときひどく驚いた。

 怠け者の僕はさっそく次の日、学校の英語の先生のところに行って、その話をした。辞書もひかなくていいなんて、とても楽な勉強方法だ。

「今日からテストとか文法の勉強とかやめます。シュリーマンみたいに英語を読みまくります。それしかしません」

「何を馬鹿なこと言ってるんだ、お前は」

 僕は受験生で、入学試験に備えた英語の勉強をする必要があった。それに、やっぱりシュリーマンの方法は虫が好すぎるようにも思えたし、昔は辞書も手に入り難かったからそれしか方法がなかったのかもしれないとも考えた。
 そして、僕は普通に英語を勉強した。

 でも、昨日図書館でその本を見つけて、一度シュリーマンの方法を試してみようと思った。少なくとも、既に最低ラインの文法も単語もクリアはしているし、今後はシュリーマンの方法で勉強するのがとても良いように思えて、僕はワクワクした。もう、今後僕は論文を読むときなんかを別にして、語学学習のためには辞書をひかなくていいし、好きな小説でも読めばいいだけなのだ。

 だから、図書館の帰りにgreen e books に寄って、洋書を三冊買った。すると、今日はエトワでパーティーをするから良かったらおいで、と誘われたので、僕は数時間の後にエトワに出掛けた。

 green e booksは洋書屋さんだから、パーティには外国人もたくさん来ていた。意外にも同じ大学で建築を勉強している人が数人いて、それからこの日初めて会った、green e booksでアルバイトをしているYちゃんは博覧強記の読書家で、社会学や文学の話でとても盛り上がった。この日ライブペインティングをしていたNさんは、Yちゃんの友達で、話をしていると僕の友達のSちゃんと友達で、別の方面の友達のBやUとも昔同じところでアルバイトをしていたことが分かった。世間というのは本当に狭い。

 この日僕はレポートを抱えていて、それに結構疲れていたから、本当はそんなにパーティーに行きたい訳でもなかった。でも、こういう偶然の流れには乗った方が良いような気がして出掛けた。府立図書館を出た時点で、既に疲れてお腹も空いていて、でも「今行った方がいい」と思い、僕はわざわざ少し道を引き返してまで green e books に寄ったのだ。そして、その夜にあるパーティーを知った。ならばもうパーティーには行くしかない。とても楽しいパーティーだった。

レコード。

2005-11-11 12:35:05 | Weblog
 メキシコ料理を食べた後、僕たちは「寒いね、キャッチボールでもしよう」なんて、99円ショップに行ってボールを求めたのだけど、あいにくボールは売っていなくて、Aちゃんの提案で代わりにミカンを買った(最初はグレープフルーツだった)。丁度いい大きさだし、丸いし、弾まないけれどボールだと思えばいい。しかも5個も入っているし、遊び終わったら食べられる。

 ところが鴨川はもう暗くて、キャッチボールは困難を極めた。ミカンを2つ、落として皮が破けたところでキャッチボールを断念して、僕たちは1つずつミカンを食べてから green e books に寄って洋書を眺めて、パンの作り方の本を眺めているときに僕が「主食がほとんど小麦でお米あまり食べないんだ」というと、Aちゃんが「小麦病という西洋人のかかる恐ろしい病気にかかるよ」というので、恐ろしくなってお米を食べることに決めた。

 本屋の出口にヴィム・ベンダースの言葉が書かれていた。

「持論を持てば持つほど、物が見えなくなる ―― ヴィム・ベンダース」

 こういうものは書いてしまった人間の、言ってしまった人間の勝ちだ。

 僕は言ってみた。

「ミカンは、落とすと皮が破れる ―― 横岩良太」

 川端通りを今日も沢山の自動車が走り抜ける。

「車を走らせるにはアクセルを踏まなくてはならない ―― 横岩良太」

 ただ車が走っているから言ってみただけだけど、でも、人によっては意味を誤解するんじゃないだろうか。そうか、始めなきゃ始まらないってことか、うん、今日から頑張ろう、とかなんとか。

 僕たちは自転車に乗った。

「自転車は、走り続けることによって倒れない ―― 横岩良太」

 これも事実の描写にすぎないけれど、でも、ますます意味がありそうだ。
 人によっては、努力し続けることが大切だとか、諦めないことが肝心だ、とか、そのようなメッセージを、僕が全然発信していないメッセージを受け取るんじゃないだろうか。

 人はこうして誤解を続けながら進化してきた。本当は僕たちのコミュニケーションというものは「正しく相手のいうことを理解する」ことにではなく、「相手の言うことをいかに自分なりに誤解するか」ということにかかっている。
 ちょうど伝言ゲームみたいなものだ。最初の人が言った言葉を、そのまま寸分違わず伝えるなんてなんにも面白くない。途中の人間がユニークな方法で間違えることに伝言ゲームの面白味はある。それから、この「ユニークな方法で間違える」ことこそが「創造」ということに違いない。創造というのは0から1を生み出すことじゃない。僕たち人間は0から1を生み出すことはできない。全て、先人の伝えるものの上に成立している。

「創造とは記憶である ―― 黒沢明」

 街はなんだか警官だらけだった。小泉さんとブッシュが来るからだろうか。僕は警官を怖いと思う。そういえば、日本にまだ公安警察が存在していることをどれくらいの日本人が知っているんだろう。公安警察って、つまり思想警察のことです。僕たちの思想が政府によってコントロールされていることを僕たちは知っていおいた方がいい。言論は自由になってはいない。過去の歴史を振り返り、僕たちは「昔って庶民は抑圧されて不自由で大変そうだったんだな」と思うけれど、本当は今だって同じ事なのだ。100年後、歴史を習う子供達は僕たちを同じ目で見るだろう。不自由な昔の人。権力者と庶民。

 御所を散歩しながら、この広い空間を何かに使いたいと思う。秋の終りの寒い夜に、御所にはほとんど人はいなくて、そこにはただ広々とした暗闇の空間が広がっているだけで、せめて年に一度はこの場所をキラキラさせても良いのではないかと思った。できないことではない。

「できることはしなければならないこと
 できることをするだけさ
 だからうまくいくんだよ ―― ボブ・ディラン」

 河原町を上がってシュハリに寄ると、オーダーストップが近かったのでサラサ鴨川へ行った。広くてゆったりとしたお店を僕は好きだと思う。

「国なんかないと思ってごらん
 むずかしいことじゃない
 殺し合いのもともなくなり
 宗教もなくなり
 みんなが平和な人生を送っていると思ってごらん ―― ジョン・レノン」

 僕は1979年に生れ、そして今は2005年の秋で、世界では戦争と暴動が起こっていて、大人も子供も男も女も死んで、家族も恋人も友達も殺されて泣く人がいて、僕はそのことを知っていて、でもソファに座って大きなカップでキャラメルミルクを飲んでいた。自分の周辺に存在する問題だけで手一杯だった。友達ととても楽しい時間を過ごしていた。

「昔の恋人がやって来て、もとに戻りたいのと泣き崩れた
 僕はごめんなさいとドアを閉めた
 昔の恋人のところへ行って 元に戻りたいと懇願した
 彼女はごめんなさいとドアを閉めた
 誰もが今日も扉の向こうを夢見て、平気なふりをしてドーナツを齧っている ―― ジェイク&サマーボーイズ」

ジョシュアの中の欠落した部分。

2005-11-10 12:35:59 | Weblog
 先日、ある講義で先生が、「これは、もしかしたらセクシャルハラスメントだとも取られかねないことですが」と前置きをしてから話を続けるというシーンがあった。話の内容は、ある眼科疾患における男女間での発生性差についてで、僕にはそれがハラスメントに繋がる話だとは全然思えなかった。それは単に、医学が提出したデータのことにすぎない。女性の方が男性よりも圧倒的に乳癌のリスクが高いとか、そういうのと同じ話で、男と女では体の作りが違うのだからかかり易い病気が異なるのは当然のことだ。

 だから、僕は話の内容には違和感を覚えなかった。
 僕は話の内容にではなく、「セクシャルハラスメントの可能性がある」というアナウンス自体に強い違和感を感じた。なぜなら、我々は言葉をそれに付随するイメージなしに、全く無意味なものとして聞くことはできないからで、セクシャルハラスメントという言葉はどのような文脈で、たとえどんなに丁寧で親切な文脈で使われても、その言葉自体がすでにハラスメントとなり得るからだ。
 つまり、「セクシャルハラスメントの可能性がある」というアナウンスは、それ自体が既にセクシャルハラスメントの可能性を持つ。これは考えてみるとフーコーが「性の歴史」の中で既に喝破していることで、僕たちはセクシャルハラスメントという言葉を作ることでそれ自体についてより多くを語ることになってしまった。

 もちろん、僕はこの文章を書きながら、この文章自体がそれをすでに体現していることを理解しています。だから、もしも不愉快を感じられた方がいらっしゃったらとても申し訳なく思います。僕がどのような書き方をしようと、ハラスメントという言葉は既にハラスメントになっている可能性を拭い切れない。

 その先生は「差別はいけない」ということも度々言われるのですが、この差別という言葉だって同じことだ。「差別はいけない」という言葉使いは差別を消そうとする文脈だけど、でも、この文章自体が「差別」という単語を有する以上、差別に関するもろもろのネガティブな意味を含まないということはできない。

 なんだか混乱してきましたが、僕が何を言いたいのかというと、その言葉が存在する以上はその言葉の持つ概念も存在し続ける、ということです。
 もしも、人類が完全に差別をなくすことに成功したとして、その時彼はこういうでしょう。

「我々は遂に差別をこの世界から消し去った」

 もちろん、このとき差別は目に見える形では存在しない。でも、目に見えない形で差別は存在している。それは”差別”という言葉が「差別をする」「差別をしない」という両方の文脈で使用可能な単語であり、「差別をする」という意味を含まないでは存在できない単語だからだ。人類は差別があった時代との対比においてのみ、「差別がない」と語ることができる。彼は頭の中に「差別をする」という概念を持っていなくては「差別がない」とは語ることができない。
 もしも、真に差別というものが消えたなら、そのとき差別という言葉も消えている。僕たちは「差別」という言葉を用いて、「差別が存在しない」とは言うことができない。差別がない、ということは、本当は「何も言わない」ということによってしか言うことができない。

 これは他の言葉全てにおいて同じことが言える。
 僕らは”○○”という言葉を用いて”○○がこの世界に存在しない”ということを言うことができない。なぜなら、”○○”という言葉を発するとき、僕たちの頭の中には○○の概念が既に存在しており、また○○という言葉がその文化圏において存在しているということは、その文化が○○の概念を持つということだから。
 だから、僕たちは○○が存在しない、ということを「何も言わない」ということによってしか言うことができない。

 これは丁度、「ゾウを思い浮かべてはいけません」という命令に似ている。
 僕たちはこの命令を聞いてゾウを思い浮かべないことはできない。もしも本当にゾウを思い浮かべて欲しくないのならば、ゾウ、という単語を使ってはならないし、何も言わないか、もしくはゾウに全く関係のない命令をするしかない。

 僕たちは、本当に言いたいことを言うことができないし、本当に言いたいことは言われていないことの中にある。

海を見下ろす都会の窓から。

2005-11-08 12:06:06 | Weblog
 佐藤雅彦さんの「毎月新聞」をとても久し振りに引っ張り出すと、第一回目の記事は「じゃないですか禁止令」というものだった。
 じゃないですか、という言葉は個人の感情に過ぎないものを、あたかもそれが一般的な事象であるかのようにみせてしまうずるいものだと彼は主張していた。たとえば、「こういう仕事って面倒じゃないですかぁ」「(私達)若者ってこういうの好きじゃないですかぁ」「暑いと外に出るの嫌じゃないですかぁ」。こういう言葉は自分の感情に一般性を持たせて正当化しようという意志の表われである。本当は「私はこの仕事は面倒だからやりたくない」「私はこういうものが好きだ」「私は暑いので外には出たくない」というべきなのに、視点を一般論に持っていくことで「私は」というのを消している。自身の責任を回避している。

 ニュースキャスターまでもが用いるようになった、このような言葉使いの果てに、僕たち日本人がどのような影響を受けるのかはわからない。でも、言葉というのは人類が使用するもののなかで最も強力なツールで、自分の意志を一般論に持ち込むこの用法が僕たちに影響しない筈はない。
 だから、佐藤さんは「じゃないですか禁止令」というのを出した。

 そのあと、Aちゃんと話をしているときに僕はこの「じゃないですか」というのは何かにとても良く似ているな、と思い、考えてみるとそれは「諺」だった。諺は学校でも習うし、古めかしいし、なんだか有り難いような気がするけれど、でも考えてみれば諺というものも「自分の思考、感情を一般論の世界に昇華する」という意味合いでは「じゃないですか」と同質だ。

 「あのさあ、仏の顔も三度までだろ。僕だっていい加減に怒るよ」

 本当は単に彼が腹を立てているだけなのに、わざわざ「仏の顔も」なんていって自分が怒ることを「一般的にも正論だ」としている。

 諺には相矛盾するものが多く存在することに、僕たちはとても幼いうちから気が付いている。それはどういうことかというと、場面場面に応じてその人が適当な諺を使えばいいということで、自分がゆっくりしたいならば「いそがば回れ」と言えばいいし、急ぎたいならば「善は急げ」と言えばいい。諺という一般論に自分の意見を溶け込ませて説得力を増す、ひいては自己責任を回避する。このとき「いそがば回れ」というのは「急いでいるときってゆっくりやった方がいいって言うじゃないですかぁ」だし、「善は急げ」は「こういうことってさっとやったほうがいいって言うじゃないですかぁ」なのだ。諺というのはそういう「ずるい」機能のことにすぎない。

 日本人は(海外にも諺はあるけれど)こういうふうにして、昔から「じゃないですかぁ」を使ってきた。これは日本の組織が責任の所在をなんとなく曖昧にぼかして、一体誰がどういった形で責任をとったのか良くわからないうちに物事が片付いていくというのに反映されているように思う。
 でも、僕はこういった共同体に責任を染み込ませるやり方を結構いいものだと思います。なあなあでどうにかやっていくというのは日本人の得意とすることで、それは今までとてもうまく機能してきました。なんでもはっきりしている欧米のやり方がいいとは単にはいえません。人の世は想像を絶するほど複雑で、最終的なものを「共同体」に委ねて消化するのは「共同体」構成員にとってはとても賢いやり方だと思えるのです。

 昔、テレビの討論番組で「死刑制度に賛成か反対か」という議題があって、そのときに誰かが「死刑、死刑って、あんなものは国家による殺人ですよ、殺人、人殺しに他ならない」と言い。それに対して、「だから、いいんじゃないですか、殺人には違いないけれど、それを”国家”が行うからいいんじゃないですか」という反対意見を誰かがした。
 このテレビはもう何年も前に放映されたものだと思うし、誰が出ていたのかとか、他に何が話し合われていたのかとか、そういったことは何も記憶になくて、ただこのやり取りだけを僕は忘れることができない。

 「国家による殺人だから良い」

 この意見には僕は与することができる。
 死刑までいかなくても、僕たちは罪人に罰を与えなくてはならない。そして、罰を与える、あるいは人を裁くという行為は本来人間が行うものではない。それは「国家」が行っているのである、としないことには刑罰という制度は機能しない。死刑を執り行うとき、最後のボタンを押す人間が「国家」の名を語らずに任務を完了できるだろうか、「ボタンを押すのは私ではなく”国家”である」というロジックを持たずに、彼はその仕事を行えるだろうか。裁判官が死刑を告げるとき、罰を告げるとき、「国家の名において」ではなく「私の名において」、そんなことが言えるだろうか。死刑を告げるとき、彼は実行力を伴って「君は死になさい」と言っているのだ。子供がケンカでいうのとは訳が違う。

 もちろん、歴史は「国家の名において」あるいは「陛下の名において」暴挙も繰り返した。だから、共同体にその意志と責任の所存を帰依するのは諸刃の剣だ。でも、僕たち人類が共同体を構成して生きている以上、僕らはこの機能をうまく使っていくべきだと思う。ひらたくいうと、これは単にみんなで仲良く問題を解決しましょう、ということになるのだけど。

 だから、僕は「じゃないですか」を部分的に解禁しても良いのではないかと思う。

ハロー、僕は今パナマにいます。

2005-11-06 11:59:54 | Weblog
 最近、本を読んだり、人に話したりしていて気がついたのですが、実は日本語というのは恋愛の言語です。

 よく知られているように、日本語は中国から朝鮮半島を経由して伝わってきた漢字が元になってできています。それ以前、日本には文字はありませんでした。もしかしたら特殊な文字はあったのかもしれませんが(竹内文書とか)、少なくとも日常で人々が使用するような文字はありませんでした。だから、人々は話はできるけれど、書くことはできないという状況にあったわけです。

 そこへ漢字が入ってきます。はじめて人々は(といっても一部の男だけですが)文字を書きとめることができるようになった。でも、どのようにして書くのかというと漢文でです。中国語が入って来たので、そのまま中国語で書くしかなかった。日本語には、話し言葉はあったものの書くためのものが何もなかったので、書くということに関しては中国語をそのまま真似る以外に人々は手だてを持たなかったわけです。
 だから、日本語で考えて、それを中国語で書くという難しいことを当時は行っていました。これは丁度、僕たちが日本語で考えて、日本語で話をするのに、でも手紙を書くときは英語でしか書けない、というような感じです。「僕は君が好きだ」と手紙に書こうと思ったら、「 I love you 」と書くしかない。日本語の文字がないとしたら、それしか方法はない。

 当然、これはとても面倒で難しい方法なので、だんだんと人々は楽をする手段を考えるようになります。その結果、片仮名が発明されました。これは読み書きの面倒な漢文をより簡単に読む為のものです。返り点や一二点、それからフリガナを漢文に付ける為に片仮名は生れました。「 I love you 」を「アイ ラブ ユー」と読めない人の為に「アイ ラブ ユー」とフリガナを打つのです。

 それなら、もういっそのこと片仮名で全部書いたら楽じゃないか、ということになるのですが、それは当時の人々のプライドが許しませんでした。もともと片仮名はフリガナなのですが、フリガナというのはそんなに格好の良いものではありません。英語の教科書に「 I love you 」という文があって、それに「アイ ラブ ユー」とフリガナを打つのはちょっと恥かしいですよね。だから僕たち現代人が教科書にフリガナを打つときは薄く、それも消せるようにシャーペンやなにかで書きます。あまりボールペンで書いたりはしない。当時も同じことで、片仮名のフリガナは墨を付けない竹串のようなもので、紙に薄く跡を付けるという形で書かれていました。片仮名というのはあくまでそういった影の文字だったわけです。

 片仮名は影の文字だけど、でも明らかに文字と音が対応した文字、というものはとても便利です。これを使わない手はありません。そこで、表の文字として、平仮名が発明されました。これは日本語をそのまま音で書く為の文字です。これを用いればとても簡単に文章を綴ることができます。
 ただ、ここでまた問題なのは「難しいものは格好いい」という価値観です。平仮名が発明されても、すでに漢文をマスターしていた男達は「あんなに簡単なのは馬鹿みたいだ」と平仮名には取り合いませんでした。

 僕はときどき海外へ出掛けた日本人の友達からメールを貰うのですが、海外のネットカフェでは日本語のフォントが使えないことが良くあるので、そんなとき彼ら彼女らは英文もしくはローマ字でメールをくれます。ここで「英語」を選択するか「ローマ字」を選択するかという作業には得手不得手もさることながら、すこしはプライドみたいなものも入ってくるのではないかと僕は思います。英語のほうがなんとなくかっこいいような気が、やっぱりしてしまいます。
 この時の「英語」が「漢文」、「ローマ字」が「平仮名」に当たります。

 昔の貴族というのは仕事がありませんでした。ただ、毎日天皇と遊ぶのが仕事でした。そして遊びといっても昔のことなのであまりすることがありません。歌を詠んだり、歌を詠む場所を変えたり、所詮はそんなものです。そんななかで何がその人の評価になるのかというともう教養をおいて他ありません。もちろん、教養というのは主に中国のことです。当時の貴族にとって都の外の日本には何もなかったのです。
 ならば、漢文がかっこいいのは当たり前です。
 男は漢文、格好をつけなくてもいい女は平仮名という区別が発生します。

 でも、「男=漢文、女=平仮名」では重大な不都合が生れるようになります。
 それはなにかというと男女間で意志の疎通が図れないということです。男が頑張って漢文でラブレターを書いても、女の子がそれを読めないのなら全く意味がありません。ということで男も平仮名を書くようになり、そうして「男=漢文、女=平仮名」の構図が壊れ出すと、あとは早いもので、実は一部の女性(紫式部や清少納言)はすでに漢文を読むことができたので、漢字と平仮名は一緒に使われるようになり、現代の和漢混交文ができたということです。

 だから、漢字と平仮名が交じった僕たちの日本語というものは、その成り立ちからして、男女で通じ合いたいという想いの成果なのです。僕たちは毎日そのように美しい言語を書いています。