Magic and all.

2009-11-26 12:29:27 | Weblog
 ピクニックへ持っていくようなポータブルラジオのスイッチを久しぶりに入れてみた。電池は入っていたみたいだ。FMのDJが話し始める。いつの間にか夜は9時を過ぎて、外は真っ暗で、机のスタンドライトと間接照明だけの部屋。窓際にラジオを置くと、流れているのは只のおしゃべりなのに感傷を強く煽られる。ポータブルラジオの安いスピーカーから出てくる音は知らないはずの何かを懐かしく思い出させる。

 ああ、この旅は気楽な帰り道
 のたれ死んだところで本当のふるさと
 あー、そうなのか、そういうことなのか

 って遠い昔にヒロトが歌ってた。

 一昨日街を歩いていたらおじいさんが通りに倒れていた。彼は頭から血も出していて、立ち上がることもできないみたいだった。女の子が一人、それから男の人が2人老人の周囲にしゃがみ込んで様子を見ていたので、僕は本当のところ通り過ぎても良かったのだと思う。でも僕は気が付くと119をコールしていた。老人が倒れて頭を打って立ち上がれないというのはシリアスなことだし、無駄になったとしても早く対応したほうがいい。救急車を待つ間に、彼はどうにか座って、耳が遠くて僕達の言うことは分からないものの比較的しっかりした言葉を口にした。救急隊がやって来て、全てを任せると僕達は何事もなかったかのように解散した。
 彼は多分大丈夫だろう。通りを歩きながら、人々の行動が白血球みたいだと思う。普段は偏在していて、傷口から細菌が侵入しようとすると集まって戦うような。普段はまるで無関心な通行人が有事の際には即席のチームを組み、目的が達成されるとまた人ごみの中に戻っていく。道路というのは血管に似ているのかもしれない。ティッシュを差し出してくれた高校生の女の子や周囲のお店の人、それから僕達はT細胞で、救急隊はマクロファージ。チラッと見たり無視して通り過ぎていく人々は赤血球や血漿。電話をすれば救急隊がやってくるというシステムにはみんなの税金やテクノロジーが使われている。無視する人々も実は今ここで起きていることを支えている。あの人は医療機器の部品を作っているかもしれないし、この人は携帯電話の会社で経理をしているかもしれない。
 僕達は全くのバラバラに見えて、実は統合されたシステムを潜在的に持っている。

 グーニーズという映画が好きだ。
 バンプ・オブ・チキンの天体観測という曲のPVが好きだ。
 子供達がカバンに荷物を詰め込んで、コートを羽織り外へ出て行くのは心地が良い。戻る場所なんて本当はいらないんじゃないかと思う。帰れなくなってもいいから行きたいところが本当はあったんじゃないだろうか。
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「お前は無理だよ」と言う人の言うことを聞いてはいけない。

もし、自分で何かを成し遂げたかったら、出来なかった時に、
他人のせいにしないで、自分のせいにしなさい。

多くの人が、僕にもお前にも無理だよ、と言った。
何故なら、彼らは成功出来なかったから。

途中で諦めてしまったから、
だから、君にもその夢を諦めてほしいんだ。
不幸な人は不幸な人を友達にしたいんだ。
決して諦めては駄目だ。

自分の周りをエネルギーにあふれ、
しっかりした考え方を持っている人で固めなさい。
自分の周りを野心であふれ、プラス思考の人で固めなさい。
近くに誰か憧れる人がいたら、その人にアドバイスをもとめなさい。

君の人生を考えることができるのは君だけだ。
君の夢が何であれ、それに向かっていくんだ。

「NBAマジック・ジョンソンから黒人の子供達への言葉より」

ギター。

2009-11-15 14:53:42 | Weblog
 この間みんなの前でギターを弾いたとき、最近は全く練習もしていないし、ちゃんと覚えている曲がなくて悔しい思いをした。一番熱心にギターを練習していた10年以上前には完全に空で覚えている曲が20か30はあったと思う。

 そう思って、昨日実に久しぶりにブルーハーツのスコアを引っ張り出して弾いてみた。かなり照れくさいことだけど、僕はその昔ブルーハーツというバンドが本当に大好きだったし、夜の木屋町に出掛けて行っては弾いて歌っていた。だからこのスコアブックはボロボロで、昔自分が書き込んだコードなんかを見ると本当に懐かしい当時のことが色々思い出される。すっかり忘れていた好きだった歌を歌うと謎の感傷的気分になったり。10年経ってるなんてほんとになんてことだ。

 僕が道端で歌を歌うようになったきっかけのことを書こう。

 それはとある酷いアルバイトの面接兼講習会だ。あまりにも酷かったので僕は講習会の会場を途中で出た。馬鹿らしいので帰ります、みたいなことを僕が言うと会社の人は怒って僕のプリントを「これも返せ」と取り上げた。会場には何十人かのアルバイト希望者がいて、僕の他にも数人の男女が会場を後にした。

 会場を飛び出した僕達は、初対面だけどそれなりの連帯感を感じていたので、ロビーやエレベーターや道路でしばらく話をしてから帰った。会場は大阪で、僕は京都から、他にも奈良や滋賀から来ている人達がいた。僕が京都からだと言うと、滋賀から来ている女の子は「私は木屋町で友達と歌ったりしてるから、土曜の夜に来れば大抵いると思う」と教えてくれた。

 次の土曜日、僕はMを誘って木屋町へ出掛けた。
 そうそう、Mのことを少し書いておこう。Mは僕の学部同期における数少ない友達の一人で、ギターの師匠でもある。彼がいなかったら僕はギターを弾いたりしなかっただろうし、買うこともなかった。口先三寸の僕は大抵のことを言うだけで実行しなかった。だから「ギターを買う」というのも半分は口からでまかせだった。ところがそのとき僕達は隣り合って大学図書館の情報コンセントにラップトップを繋いでいた。懐かしい記念すべき僕の最初のコンピューター。当時20万円以上したのにpentium1, 64M(まさか32ではなかったはず), 4G, Windows95。僕は見るだけのつもりでまだこんなに大きくなかったヤフオクを見ていた。7000円でクラシックギターが売られていた。Mもいいと思うというので、僕はその場で入札して、そのギターを買ってしまった。僕の記念すべき1台目のギター。

 出品者が大阪の人だったので、僕はギターを取りに梅田まで行った。ウオッチマンの前で待ち合わせて、その場で7000円とギターを交換した。そしてどうしてか大学から遠く離れた場所に部屋を借りていたMのところへ行き、一番大事な最初の手ほどきを受ける。たぶんGCDくらいのコードで弾けるbeatlesのlet it beか何か。自分の手でギターを鳴らして、一応は音楽に聞こえる音が出たときはとても嬉しかった。もしも自分の人生をいくつかのパートに区切るならば、ここにも確実に区切りは入る。大袈裟でもなんでもなく、自分の世界が変わった瞬間だ。

 Mと木屋町を歩いていると、この間の女の子達がギターを弾いて歌を歌っていた。たしか、あらゆる意味での若さと青さと古さを感じるけれど、彼女達はゆずの歌を歌っていた。
 僕達はしばらくそこにいて話をした後、多分なんとなく手持ち無沙汰になって帰ることにした。

 帰り道、土曜日の夜の木屋町を歩いていると、僕の感覚では当時今より沢山のストリートミュージシャンがいて、ポールスミスの前で一人の男が斉藤和義か何かを歌っていた。僕達は立ち止まり、歌を少し聴き、それが終わると会話を交わした。彼は僕らと同じ大学の学生で、父親に捧げるような感じのオリジナルソングを歌ってくれた。
 変なカメラマンが通り掛かったのはそんな時だ。
 彼は僕達の写真を撮りたいと言い、どこからか脚立を持って戻ってきた。僕達は彼の注文通りに3人並んで歌を歌い、カメラマンは脚立に乗ったりしながらシャッターを切った。
 このカメラマンの注文が、僕の人生における「道端で歌を歌った」最初の瞬間だった。3人で一緒に歌える歌がなかったので、何かのサビの部分だけをカメラマンの気が済むまで繰り返し歌った。大袈裟なカメラを抱えたカメラマンが脚立に乗って写真を撮っているので、みんながこっちを見るし、なのに僕達と来たら同じフレーズを繰り返すばかり。一人ではなかったけれど、ものすごく恥ずかしくて、だけどとても楽しかった。

 次の週末、僕達は自分のギターを抱えて出掛けた。
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 追記;この酷いアルバイトの講習会をモデルにして、昔小説のワンシーンを書きました。大体の雰囲気はこんな感じです。

『 僕だっていい加減に腹が立っていた。中川さんが3列目に座っているヒゲを生やした男の人に向かって、あなたそんなのでこの仕事やっていけると思ってんですかあ、頭悪いんですかあ、今からトイレでも行ってヒゲ剃って来ませんかあ、そんなヒゲの顔、お客さん見たら失神しちゃうかもしれないですからあ、と言ったときにその怒りは頂点に達して、そして僕はおもむろに立ち上がった。ヒゲの人は実に人懐っこい人相をしていて、それに比べたら中川さんの方がよっぽど人相が悪かった。僕がもしも客だったら、彼の舐めるような目つきにはどうしたって耐えられそうにない。そういったことを言おうとしたとき、不意に誰かが言った。
「ウンコしたいので帰らせて頂きます」
 部屋の中が一瞬奇妙な静寂に包まれた。排泄の由をこんなに堂々と宣言する、というのはなかなかこの世界で起こることではない。僕は立ち上がってまだ何も言わないまま、声のした方を見た。声の主は男だった。たぶん年は僕と同じくらいで21か22に見えた。
「はああ。ウンコオ? あなたそんな恥かしいことよく言えますねえ。一体どういうつもりでここに来てるんですかあ。これは仕事の面接兼講習会ですよお。遊び半分ですかあ。なめてるんですかあ。そんな奴はさっさと帰ってえ。それからあなた何? あなたあ。立ち上がってえ。なにい?」
 中川さんは僕の方を向いた。
「僕はシカにシカ煎餅でも食べさせてやろうかと思うので帰らせて頂きます。あなたの下らない話を聞いて下品な立ち振舞いを見ていると、無性に大仏様が拝みたくなったので、奈良にでも行こうかなと思うんです。清々しい古都の空気を吸って解毒でもしないと耐えられないので」
 僕はウンコ発言の男の方を見た。彼もこっちを見た。そして僕達はクククと笑った。
「なんですかああ君はああああああああ。失礼なああああああ」
 中川さんは瞬間的にピンクを通り過ぎて真っ赤になった。真っ赤と言うか、それは不健康な黒い赤だった。あと3回くらい僕達が同じことを言えば、彼は血圧が高くなりすぎて倒れてしまいそうにも見えた。
 僕はそのまま折り畳み机と椅子と人が詰め込まれた殺風景な部屋を、すみませんちょっと通ります、と言いながら横切って外に出た。ウンコの男も立ち上がって同じようにすみませんすみませんと言いながら部屋を横切っていた。座っている人達が椅子を前に動かして通路を確保してくれる度に、事務用のパイプ椅子がガチャガチャと鳴った。そして当然だけど、彼らが椅子を元の位置に戻すときにもまた椅子はガチャガチャと鳴った。

 ウンコの男に続いて、二人の女の子と一人の男が部屋から出てきた。椅子がまたガチャガチャと鳴っていた。静かなビルの中で、その音はやけに大きく聞こえた。「はいっ。もう馬鹿な連中は放っておいて先に進みます」中川さんのキーキーした声がした。
「変なバイト」僕は誰ともなしに言う。
「うん、もう最低」
 僕とウンコ男の後に出てきた女の子の一人は耳たぶに付けたピアスのことで中川さんにキーキー言われて泣き出した子だった。
「ごめん。本当は君がごたごた言われてるときにでも助け船出せば良かったんだけど」
 ウンコ男はそう言ってピアスの子に謝った。
「うん、全然いいよ。大丈夫。でも、もーなんか今思うと腹立つよ」
「私も、聞いててすごいかわいそうだった。目茶苦茶言ってたよね、あの人」
 もう一人の女の子は特に中川さんに何かを言われた、という訳ではなかった。彼女は単に中川さんのあまりにもひどい傍若無人に嫌気がさしたのだろう。僕と同じだ。僕も個人的には特別に攻撃をされなかった。
「確かに。目茶苦茶だった。日頃のうっぷんや何かを全部僕たちにぶつけてるとしか思えなかったよ。僕も最後あの人に結構ひどいこと言っちゃったけど」
「いや、あいつにはあれくらいは言わないと駄目だよ。結構みんな清々してるんじゃないかな」
 彼はスケートボードを持っていて中川さんにガミガミ言われていた。当たり前だけど、何も部屋の中で乗っていた訳ではない、彼は単にその日バックパックの後ろにスケートボードを収納していて、そのバックパックが中川さんには気に入らなかったのだ。
「そういや結構きついこと言われてたね」
「ちょっと信じられないくらい。大人になってからあんな風に死ねとか言われたの初めて」
「私も聞いたときびっくりした。あの人頭おかしいよ」

 部屋の中からまたガチャガチャと音がして、キーキーとした声が言った。「それじゃあ始めますよお。まずはいらっしゃいませからあ。イラッシャイマセエー」「イラッシャイマセ」
「もっと元気よくう」キーキー「イラッシャイマセエ」「はいもう一回」キーキー「イラッシャイマセエ」「もう一回」キーキー「イラッシャイマセエ」。「うん、まあいいですう。ちょっと次は一人づつで。一回全員座って下さいい」キーキー。ガチャガチャ。「えっとお、一番前の右の人から、立ってえ」キーキー、ガチャガチャ「イラッシャイマセ」「いいですねえ次ぎい」キーキーガチャガチャ「イラッシャイマセ」「はいい」キーキーガチャガチャ、イラッシャイマセ、ハイ、キーキー、ガチャガチャ、イラッシャイマセハイキーキーガチャガチャイラッシャイマセハイキーキーガチャガチャイラッシャイマセハイキーキーガチャガチャ。』

医学部廃止論。

2009-11-13 16:14:07 | Weblog
 中学からの同級生に、京大の経済を出たあと、今度は医学部へ入り直して、今ちょうど研修医をしている友達がいる。僕は学部でダラダラと長い時間を過ごした上に博士課程まで進学していて、彼も経済にいたとき留年していて、さらに医学部へ入ったので、春に会ったとき、2人ともいわゆる標準的な学生である年齢を大きく外れてまだ学生だった。中学のときの僕達のことを思い出すと不思議な気分がした。
 研修医生活を目前に控えた彼の言葉がとても印象的だった。

「なんか、俺、医学部行って頭悪くなった気がする。暗記以外特にすることないし、頭全然使わないし」

 そのとき彼と話していたことが、これを読んで腑に落ちました。

 医師増員のため、医学部を廃止せよ - 井上晃宏(医師)

 前半を引用すると

『医師不足を解消するため、医学部定員の増加が必要とされているが、設備や教員の拡充がままならないため、すぐに定員を増やすことはできない。しかし、今すぐ、養成医師数を増やす方法がある。それは、医学部を廃止することである。
医師国家試験で問われる水準の医学知識は、高卒程度の基礎知識があれば、独学で習得可能である。学校教育は要らない。「国家試験は必要最小限度の知識であって、医学部の教育目標は、それよりも、ずっと上にある」と医学部教員は言うだろうが、実際には、医学部を卒業するのに必要なものは、国家試験程度の知識だけである。それだけが、医学部卒業者の品質保証となっている。』(引用終わり)

 この記事の後半でも触れていますが、2005年までの司法試験も別に学歴に関係なく誰でも受けて受かればOKという感じでした。別に法学部なんて行こうが行くまいが関係ない。
 ちまたに溢れる学校は、技術や知識の習得という意味では半分以上が無駄で、基本的には何かのコミュニティとして機能しているのだろうなと思う。正規の教育を受けていないのに大物になった代表格として建築家の安藤忠雄がよく上げられるけれど、彼が実践した「大学に行かなくても、授業で使っている教科書が何かを調べてそれを買って自分で読めばいい」というのはとてもシンプルで正しい発想だと思う。


ジル・ボルト・テイラー。

2009-11-05 18:35:49 | Weblog
 テレビに脳のイラストが映って、聞けばどうやら脳梗塞の話をしているようだった。話をされている方はJT生命誌研究館の中村桂子さんで、話題に上がっているのはジル・ボルト・テイラー博士だった。

 ジル・ボルト・テイラーさんのことを知ったのは最近のことだ。ある人が日記にテイラーさんのTEDスピーチをリンクしてくれていたので、僕はそれを見た。第一線で脳の研究をしていた科学者がある日脳梗塞になる。彼女は言葉も運動能力も失った。通常6ヶ月のリハビリで効果がなければ医者は回復を諦めるが、テイラーさんは母親の介抱によって8年後ほとんど完全な回復を成し遂げた。このTEDスピーチは脳梗塞を起こした自分の脳が機能を失っていく過程を、本人が、一人の脳科学者としてが語ったものだ。

 http://www.ted.com/talks/lang/jpn/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight.html

 はっきり言って滅茶苦茶面白いです。
 話は途中から科学ではなくなって、ほとんどスピリチュアルだとかオカルトだとかサイケデリックとかトリップとか呼ばれるような方向へ向かうので、拒絶反応を示す人もいるだろうけれど、僕はもうなんかものすごく真実なんじゃないかと思った。

 簡単にいうと、テイラーさんが脳機能を失うにつれて感じたものは一体感と幸福感だった。僕達は言葉や認識によって世界を切り取っている。ところが脳がそれらの作業をやめると「自分が一体どこからどこまでなのか分からない」という状況になる。全てのものが一つであり、ただ幸福を感じる。これをトリップに過ぎないと片付けるのは早急だろう。あまりにも。
 逆に考えてみれば良く分かる。僕達の脳がこの宇宙になければ、これとかあれとか、ここまでとかあそこまでとか、そういう区別なんてこの世界のどこにも存在しない。

 哲学者の永井均さんは、子供の頃から「どうしてあの人でもこの人でもなく、この僕がこの僕なのか?」という疑問に取り付かれていたと何かの本に書いていらした。これは僕も悩んでいたことがあったので、ときどき人に言ったりしたこともあるのだけど、分かってもらえない人には本当にどれだけ説明しても分かってもらえない。そりゃ自分が自分だろ、で片付けられてしまう。

 どうして自分が自分なのか、という問いは形而上の問題だが、もっと現実的な自分問題として、身体のどこからどこまでが自分なのか、という物質的な問題も挙がる。これを僕は森政弘さんの本で読んだと思うのだけど、まだ子供だった僕には刺激の強すぎる話だった。頭から離れなくなって、しばらく「体がどこからどこまでか」の話しかしなくなっていた。
 たとえば、食べたハンバーグがいつから自分の体になるのか考えてみると、それは永遠に自分の体になんかならないことが良く分かる。腸から吸収されたって、自分の一部ではない、単に自分の中に異物が入ってきただけだ。筋肉の一部にくっついても自分の一部ではなくて、単に異物がくっついただけのことだ。そして、しばらくしたら代謝されて排出される。それどころか、腸も筋肉も、全部そうして外からやって来た異物の塊でしかない。ちょうど川の中に岩を置くと周囲に渦ができるように、僕達の体というのは流れる物質達の中にできた渦でしかない。
 じゃあ、その岩に相当するものは何だろう? 物質は全部「水」の方だから、岩に相当するものは非物質だ。それを僕達はとりあえずシステムと呼んだり、やっぱり気とか魂とか呼んだりもするんじゃないだろうか。

 中村さんは、実は脳なんてないほうが幸福なんだけど、でも我々は脳を持ち、言葉を話し考えて生きていくのです、というようなことをテレビでおっしゃっていて、これは視聴者になかなか理解してもらえないんじゃないかなと思った。
 「全部で一個のなんか幸福なもの」から自分を分離する為の器官が、我々の脳、あるいは体なんじゃないかということです。もうまるっきり原始仏教みたいな話だけど。生まれるってそういうことなんじゃないかと思う。なぜ、わざわざ幸福な一個の何かから分裂して生きるのかというと、それはやっぱり遊ぶためだと思うのです。ヘンリー・ミラーが言ったみたいに、この世は楽園で、僕達はそこで遊ぶために生まれて来た。ゼロが、スタート地点が既に「一個の何かすごい幸福なもの」なわけです。生まれる前も死んでからも。そして、生きている今も、故意に脳でブロックしているだけで、その「何か」はいつもずっと全部の場所にある。

レビ・ストロース死去。

2009-11-04 12:03:35 | Weblog
 朝、身支度をしながらネットラジオでニュースを聞いていて、さあ行こうとPCにシャットダウンの指示を出した瞬間”レビ・ストロースが亡くなった”という言葉が飛び込んできて驚いた。無情にもPCはシャットダウンのプロセスを着々とこなし、おまけにwindowsのアップデートまではじまったので、僕は諦めて部屋を出た。
 研究室についてから大急ぎで調べるとニュースに出ていました。

人類学者レビストロース氏死去=構造主義の父-100歳
11月4日1時48分配信 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091104-00000013-jij-int


 実は僕はレビ・ストロースはもう死んでいると勝手に思っていて(彼の活躍した年代を考えれば妥当な思い込みだと思う)、まさか100歳まで生きているとは思っていなかったし、ニュースを聞いたとき何かの聞き間違いではないかと疑念を持っていたけれど、聞き間違いではなかった。
 そうか、この間まで彼は生きていて、そして死んでしまったのか。

 1962年『野生の思考』。
 この書物を持ってして、西洋を中心とした世界は変わった。僕達だって多大な影響を受けている。『野生の思考』でレビ・ストロースが主張したことは「未開に見える民族にも、その民族なりの文化や考え方があって、それを西洋の物差しで測って野蛮だとか下等だとか言うのはおかしい」という現代の僕らにしてみれば至極当然のことだった。それが強烈なインパクトのある思想だったわけだから、1950年代までの世界がどんなに了見の狭い、窮屈なものだったか想像に難くない。
 それをぶち壊した彼は一人のヒーローだ。

シナプス。

2009-11-02 18:29:46 | Weblog
 そういえば最近のサイエンスに、neurogliaform cellはシナプスなんて関係なしにバーっと周囲にGABAを放出して信号をやりとりしている、という記事が出ていました。neurogliaform cellはGABAのレセプターも持っているようです。
 すごい。今まで脳のケミカルな信号伝達と言えばシナプス経由だったけれど、シナプスだけじゃない、ということがやっと実証された。
 常識がまた一つ書き換わりました。