関曠野さんのこと、仏教のこと

2014-01-31 22:28:02 | Weblog
 去年の暮れに、仁和寺でベーシック・インカムの講演会がありました。講演者は関曠野さんという方で、僕は関さんのベーシック・インカムに関する講演録を一度見たことがあるけれど、それ以上のことはどういう方なのか何も知らず、まあベーシック・インカムの講演会なので出掛けたというわけです。

 最初、登壇されて話を開始された時、正直なところ「この人大丈夫だろうか…」という不安が頭の中のかなりを占めました。けれど話が進むにつれ、僕は関さんの知性を思い知ることになります。
 この日、もともとベーシック・インカムのことで講演会を訪ねたはずが、印象に残ったのは関さんの存在そのものと、あと関さんが少しだけ話された仏教のことでした。

 実は、去年僕は仏教関連のイベントに一度参加しています。
 イベントといってもそんなに大げさなものではなく、単に僧侶と話すという会なのですが、友達が司会をしていて誘ってくれました。僕が「お坊さんとか嫌いだし、今の寺のあり方とかも嫌いなんだけど」というと、そういう役回りの人間が欲しかったのか「参加費はもう免除でいいから来て、ガンガン攻めて」と言ってくれたので出席させて頂きました。
 詳細は省きますが、その日は色々なことが起こり、嫌いだと言っていた僧侶の人とも友達になり、でも仏教ってこういうことだっけなあ?という感じで話ながら、結局夜まで飲むことになりました。

 仏教ってこういうことだっけなあ?という問いの一部は、この関さんの講演が解いてくれたと思います。
 関さん曰く、「仏教という言葉はそもそもなかった。これは明治に”キリスト教”に対抗して作った言葉だ。もともとは、仏教なんて言わずに、仏道ってみんな言ってたんです」

 お坊さんもお寺も嫌いだ、なんて書きましたが、僕はブッダが言ったことのかなりの部分は好きだし、一休さんとか一部の禅僧のことも好きです。でも、それらはあまり”宗教であり、教えである”という感じがしない。その辺に転がってる、もっとしっとり確かなものに感じます。
 その質感を、教わるではなく行う、仏道という言葉が上手に表現しているような気がする。
 とは言っても、明治より前からおかしなことにはなっていたことはなっていたのではないかと思いますが。

 仏教が扱うものが、「苦」ばかりで、だから仏教というと暗い人みたいなイメージがあるけれど、それも違う、と関さんは言っていました。「苦」以外は放っておいても、別にそのまま味わえばいい、楽しいことは放っておいても楽しいのだから、別に放っておけばいい。でも苦しみはそういうわけにはいかない。ここはどうにかして知力を振り絞って立ち向かわねばならない。だから仏教は苦しみとか死とかそんな暗めの話ばかりになってしまう、ということだった。それは医者が病気の話ばかりしているのに似ている。病気の話ばかりするからと言って、医者がみんな暗いわけでもない。
 なるほど。
 そう、仏教の話を書いているからといって、それは必ずしも僕が暗い人間であることを意味しない、と思いたい。

 「暗い」よりも、「なんか堅苦しい」というイメージが仏教にはついて回ると思う。
 それは「酒も肉もセックスもダメ!」みたいなことが言われるからですよね。「欲はダメ、煩悩ダメ」

 僕はブッダという人に勝手な幻想を抱いていて、アバンギャルドな天才だったのではと思い込んでいました。だから「ブッダが禁欲とか詰まんないこというわけないじゃん、あれは全部ヒンドゥー教とか儒教とかがヘンテコリンに絡まったからで、もともとブッダはそんなこと絶対言ってない」と、仏教書の中で最も古いらしいスッタニパータを読んでみると、これも本当にブッダが言ったのかどうか分からないけれど、禁欲的なことが書かれていました。

 古い経典に書かれているのであれば、嘘か真かは、本当の本当のところは分からなくても、ブッダが禁欲的なことを言ったと仮定する方が自然なので、僕は「ブッダは禁欲的なことを言った」というのを採用することにしました。ややがっかりしつつ。

 ここで、ちょっと話がそれますが、現代の仏教寺院どころか、かなり古いお寺に行っても、当たり前のように「仏像」が置かれていますが、これって不思議じゃないですか?
 仏教が、ブッダの生老病死に挫けてしまわない思想の賜物だとしたら、彼が一体いつどこで「阿弥陀如来様が」とか言ったというのだろう。むろんブッダはそんなこと一言も言っていないはずです。仏像を拝むのは仏教というより、仏教という思想に乗っかって日本までやって来たヒンドゥー教の神々を拝んでいるのに近いのだと思います。日本人はヒンドゥー教徒なのかもしれません、どちらかというと。

 閑話休題。
 がっかりしながら、僕はどうしてブッダが禁欲なんて詰まらないことを説いていたのだろうかと、結構長い間考えていました。
 彼が、ただの詰まんない変な人だった、というのはまだ採用せずに、アバンギャルドな天才思想家、という肩書は被せたままにして、そんな如何にも自由な思想の持ち主が、どうして禁欲を説いたのか。

 僕が導き出した答えは、「欲望なんて満たさなくても大丈夫!元気出して!」という、「解除」でした。
 そのことは実は一度このブログにも書いたと思うのですが、次回改めて書きたいと思います。

民族とは何か (講談社現代新書)
関曠野
講談社

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
岩波書店

長期休暇と海外旅行では解決しない

2014-01-30 20:08:36 | Weblog
人類を仕事の苦しみから開放したい。と僕は結構本気で思っている(労働を否定するものではないです。嫌々なものだけです)。
 社会は豊かに、科学は発展して、物もサービスも溢れかえっている。でも、それらのモノやサービスをいくら消費したところで、多大な時間を取られる仕事が苦しみであるのなら、心からの開放感と幸福を感じて生きていくことはとても難しいはずだ。
 たとえ、運良く長期休暇が取れて、1ヶ月の海外旅行を謳歌しようが、その1月間にどれだけ素晴らしい非日常の世界を旅しようが、たった1月で元の会社へ嫌々通う生活が戻ってくるのであれば、旅行へ行ったからといってどうだというのだろう。

 鍵は「休日に体験する素敵な非日常」になんてない。
 鍵があるのは「この毎日の生活」の中だ。それの大半を仕事が占めていて、しかもそれが嫌なら、そこをどうにかしない限り人は幸せになんてなれない。過酷でストレスの貯まる日々の生活の代償で手に入れた家庭だかマイホームだか、それがあるから自分は幸せなのだと必死に言い聞かせることになる。
 もしもそれが目的ならそれで構わないと思う。僕はそれでいいと思っている人のことをとやかく言う気は全くない。そんなのは何様のつもりだと思う。
 でも、ただ、嫌々日々を過ごしている人がたくさんいることも知っている。

 僕は「癒やし」とか「自分へのご褒美」みたいな言葉が嫌いです。仕事の苦しみを消費行動で埋め合わせる日々というのは煉獄のようだと思う。
 「朝専用に味付けしたから朝はこれを飲め」とコマーシャルされる、どうってことのない缶コーヒーなんかの温かさに癒やされて、それで電車に詰め込まれ、胃の痛む会社で夜まで過ごすのでは、きっとどこへも行けない。

 誤解のないように書いておくと、これは全然、そういう生活をしている人への批判でも非難でもありません。
 僕自身が楽しい仕事で生活を成立させているわけでもないし、この1月は他のなにも出来ないくらい忙しかった。
 僕達は、容易に、仕事に追われてストレスだらけの生活に陥ります。たまの休日には「たまの休日だから!」と言って観光地プライスで何の変哲もないうどんに1200円出したりして、お金を吸い取られる。お金が溜まって来たら「夢のマイホーム」とか言って、ベニヤ板と石膏ボートに壁紙を接着剤で貼り付けた家を3000万で買わされる。
 この文章が非難がましいとしたら、僕が非難したいのはそういう社会自体です。
 非難でもない。必然的にこうなっているわけではなく、なんとなくこうなっているのに、なかなか変わらない、なんだろうこれは。

「一部の運か才能か何かに恵まれた人間、あるいは努力した人間だけが、安心で幸福な生活に到達出来、その他の人間は嫌々毎日働くしかないのだ、餓死しないだけ有り難いと思わなくちゃ、労働は尊い、どんな仕事の中にだって楽しみや喜びは見出すことができる、今の仕事が嫌いなのは自分の思い込みにすぎないはずで、明日からこの仕事のいいところを見つけていくようにして、そしたらきっと何もかも上手くいくに違いない。忙しくて時間がないのも自分の時間管理能力が低いからで、ライフハックしてアプリで時間管理して、そうだ今まで通勤電車でボーっとしてたけれど、ここでも英語の勉強くらいできるし、昼休みもボーっとしてたけれど、15分は資格の勉強に当てて、一日15分でも毎日続けたら。時間がないなんて言い訳に過ぎない、どんなに忙しくても時間はスキマ時間の活用で作り出すことができるはず、忙しいというのは管理能力の低さを露呈してるだけでカッコ悪いことでそんなの口にしちゃいけない。隙間時間の活用しすぎでものすごい疲労感だけど、これは食事のバランスが悪いせいだし、野菜の摂取量と年収には相関関係があるってそういえば、もっと野菜食べて、いや食べる時間も大事だから、規則正しく、そうそう寝る時間もダラーっと寝るより効果的な時間帯にサクッと寝て、15分の昼寝で全然違うらしいから昼寝もしなくちゃ」
 というような思い込みに、あまりにも社会が毒されているような気がする。
 
 けれど、それは思い込みにすぎない。
 僕達は、「選ばれた、勝ち取った」者だけではなく、誰もがみんな安らかに楽しく生きることのできる社会を構築することができる。
 1つの手段として、ベーシック・インカムのことをずっと考えているわけですが、今回は、だからベーシック・インカムをというのではなく、都知事に家入一真さんを!と書いて終わりにしたいです。

新装版 こんな僕でも社長になれた
家入一真
イースト・プレス

真鍋博さんのイラストと未来

2014-01-29 23:56:00 | ベーシック・インカム
悪魔のいる天国 (新潮文庫)
星新一
新潮社


 真鍋博という名前を聞いたことはなかったが、その絵は何度も目にしていた。彼は星新一の本の表紙を描いていたことで特に有名なイラストレーターということだ。そう、あのイラストだ。小学生の僕は、あのイラストがあまり好きではなかった。どことなく殺風景なような、なんだか怖いような。

 星新一のことを単に「SF作家」と呼んで良いのかどうか分からないけれど、有名SF作家の本にイラストを描いていた彼は、他にも、未来志向、テクノロジー志向のイラストや本を描いている。そのいくつかは科学少年だった僕も目にしていたと思う。

 ウィキペディアには、真鍋さんは、21世紀を見たいから長生きしたいと、健康に気を使っていたと書かれている。
 でも、1957年生まれの彼は、2000年に亡くなってしまった。それも2000年の10月31日に。21世紀がやって来る、わずか2ヶ月前のこと。

 テクノロジ-は別に世紀の境目で劇的に進歩するものではないし、世紀という区切りには本来意味などないだろう、それでも未来を描き続け、21世紀を見たいと言っていたイラストレーターの、21世紀目前の死はとても残念だ。

 それに、2000年と云えば、それなりにPCもネットも携帯も普及していたけれど、その他の点でどれ程の「思い描いていたあの未来」に類するものがあっただろうか。
 曲がりなりにもリニアモーターカー「リニモ」が走るのは2005年愛知万博でのことだし、iPhoneが発売されるには2007年を待たねばならない。

 かつて橋本治は「1960年代で時間は止まっても良かったんじゃないか、既にテレビも車も飛行機も新幹線あって、ビートルズもいた」というようなことを書いていたと思う。
 読んだ時、なんとなく僕はそれが腑に落ちてしまった。
 無論、細部では目覚ましい変化が起こっているものの、この50年で一体どれ程の"劇的"技術的進歩があって生活が変化したのだろう。
 1960年代に関してはもう1つ付け加えておかねばならない。1969年にアポロは月へアームストロングを送り込んでいる。その後45年、人類は誰も地球外の大地を踏んでいない。

 人類の歴史は、別に科学発展の歴史ではないので、目に見えるテクノロジーの進化だけを追っても仕方ない。でも、僕は科学がとても好きな子供だったというか、今だってそうなので、どうしても科学を中心に物事を見てしまう傾向がある。
 その様な傾向が小さくなってきて、段々と「社会的」なものの見方も大きくなってきたことに気付いたのは、真鍋さんの名前を昨日知り、検索してみてのことだ。

 子供の頃、僕が思い描いていた、見たいと強く願っていた未来は、ほとんど真鍋さんと同じものだった。そのアイデアの何割かは彼自身が描いたイラストに由来するものだから当然のことだ。
 でも、今の僕が思う、見たいと思う未来には、その中心に随分社会的なことが居座っている。
 僕が望む未来の中心には、なんと「人々が嫌々する仕事から開放されている」というものが来ていた。

 何度かこのブログにも書いている通り、僕は今ベーシック・インカムというものに強い関心を持っていて、京都で小さいながらもそれを世に広める活動をしています。
 ベーシック・インカムというのは「最低限生活できるだけのお金を、無条件に、全員に給付する制度」のことです。たとえば毎日家でゴロゴロしているだけ健康な大の大人でも、毎月8万円が国から振り込まれます。
「そんな無茶苦茶な!?」
 という話に聞こえるのですが、良く考えてみるとそうでもなく、むしろ無茶苦茶なのは生活の為に嫌々働いている今の社会の方なのです。この話は、またベーシック・インカムのことを書く時に譲る、あるいはブログに「ベーシック・インカム」というカテゴリを作ってあるので、そちらを読んで頂くとして、閑話休題です。

 僕がこのように「科学技術的な」未来像を描くことから、「社会的な」未来像を描くようにシフトしたのは、よほどベーシック・インカムのインパクトが大きかったからなのかと思ったのだけれど、これも良く考えてみると、元々科学技術というのは1つの象徴に過ぎなかったのかもしれない。

 たとえば、宇宙船で宇宙旅行をしているような未来像を想うとき、そのイメージに含まれる誰が「嫌々何かしている」だろうか?
 もちろん乗客は宇宙旅行を楽しんでいて、(いるのであれば)パイロットも最新鋭の宇宙船を楽しく意気揚々と操縦しているはずで、(いるのであれば)キャビンアテンダントの人だって、クールな制服を来て、楽しく、やや得意気にサービスをしているはずだ。

 描かれている誰もが、楽しくしていること。嫌々、無理矢理何かをさせられていないこと、僕が未来のイラストを眺めて素敵な気分になっていたのは、そういう要素のせいだったのかもしれない。
 僕は未来の人は働く時も楽しく働いているものだと思い込んでいた。科学というのは、そういう世界を実現する為の1つの手段であり、自分自身が最も興味ある手段ということだったのだろうか。
 子供の頃よく目にしていた真鍋さんのイラストを、ウェブで改めて見ながら、自分が暮らしたい世界について少し思い直しました。

 
妖精配給会社 (新潮文庫)
星新一
新潮社