カンブリア宮殿を見て思ったこと

2010-12-12 14:05:40 | Weblog
 カンブリア宮殿という村上龍のテレビ番組がある。村上龍と小池栄子がホストになって、成功している企業の経営者や政治家なんかを招き話を聞くというスタイルの番組で、僕は存在だけ知っていたけれど一度も見たことがなかった。
 これまでその番組を一度も見なかった理由は、僕がテレビを持っていないことと、村上龍の作品は好きでも作家自身にそれほどは興味がなかったからだ。

 ところが、先日ちょっと怒りながら批判的感想を書いた龍さんのエッセイ「逃げる中高年、欲望のない若者たち」を読んでから、俄然作品だけではなく村上龍その人に対して興味が強くなった。

 僕はもともと長編小説が好きで、短編小説はその作家の長編を読み尽くしてしまってどうしようもない時にしか読まない。
 エッセイというジャンルは好きだけど、実は村上龍のエッセイは時事問題を扱うものが多い割には出版されるのが遅いので、本屋に並ぶときにはどうしても「古い」感じがしてあまり読む気にならない。

 だから、長い間村上龍の本を読まなかった。
 それが、しばらく前にiPodとかiPhoneのアプリとして新作の長編小説「歌うクジラ」が出て、僕は数年振りに村上龍の作品を読んだ。
「歌うクジラ」をきっかけにして僕は「半島を出よ」を再読したり、どうでも良さそうだと思っていたエッセイ「案外、買い物好き」を読んだりした。
「この案外買い物好き」という気の抜けたエッセイは他の村上作品しか知らない人間にとってちょっと衝撃的なくらいに気が抜けていた。あのカミソリみたいな、たとえば最近の若者を「草食系という言葉では足りない。こいつらはまるで死人だ。死んでいるように思えたのだった」とか書くような村上龍が、このエッセイの中ではなんとも格好悪くて、イタリアでシャツを買ったら予想外に高くてぼったくられているのではないかと思いながらもそれを言えなくて震える手でクレジットカードを渡したりしているw

 その流れで「逃げる中高年、欲望のない若者たち」という、値段に対して驚くほど少ない情報量と表紙が険しい顔の龍さんのアップになっている、村上龍ファン以外に誰が買うんだというような本を買って読み、龍さん本人に対する興味が強くなったわけです。

 それでネット上にある村上龍の動画をいくつか見ていると、カンブリア宮殿の200回記念か何かの会見があって、その中で村上龍は「この番組では色々な経営者の方にお会いしたが、非常に謙虚な気持ちになった」ということを言っていた。

 番組のサイトを見てみると、過去の放送のいくつかが見れるようになっていて、その中に岡田武史前日本代表監督の回があり、僕は「わー」と思いそれを見てみた(村上龍とサッカーの両方が好きな人は必見)。
 収録はこの間のワールドカップが終わった後に、つまりかなり最近行われたもので、僕はそこで岡田監督と龍さんがどんな話をしたのかにとても興味があった。
 どうしてかというと、僕はいくつかの岡田監督のインタビューや講演の書き起こしから、この人は半端なくすごい人だと、すっかり監督のことを好きになっていて、同時にこの監督に対してボロカスに書いていた村上龍のことも好きだったからです。

 たとえば村上龍はワールドカップ直前にこのようなことを書いています。
「岡田監督が、目標はベスト4だと宣言したとき、違和感を覚えた。たとえば森光子のヌードとか、あまり見たくない、恥ずかしい異様なものを見てしまったような感覚だ。そしてそれは、最低でも県外、と宣言した鳩山前総理に感じたのと同じ違和感だった。岡田監督は、ベスト4という目標を達成出来ないとき、どのような形で責任を取るつもりなのだろうか。サッカー界から引退するのだろうか。ただし岡田監督がサッカー界から引退しても、何のインパクトもない。
 ベスト4という目標は、偏差値50の予備校生が、俺の目標は東大医学部だ、というのに似ている。あまりにも現実を無視した目標であり、実現できなくて当たり前なので、達成できなくても責任の取りようがないし、失笑を買うだけで、誰も避難したりしない」

 実際の二人の会話は、村上龍という一人の熱烈なサッカーファンと岡田武史というサッカーのプロがする会話で非常に面白かった。
 目標のベスト4ということに関しても岡田監督から明快な説明があって村上龍も納得していたし、あと「パラグアイ戦が眠い試合でした」という村上龍の質問にも岡田監督は現場にいて実際に指揮をしていた人間として答えていて、それは完全に納得のいく答えだった。

 やっぱり外から見ているだけでは何にも分からない。たぶん龍さんも本当は分かっていたと思う。僕如きと比べては失礼だけど、僕も時々強い言葉を使うことがあって、強い言葉を使うことには一種の快楽が伴う。なんかかっこいいような気がして、だから強いフレーズが浮かんでしまったら真実ではないと思いながらもその言葉を書きたくて仕方なくなる。そういうのはやっぱりダメですね。

「謙虚な気持ちになる」という村上龍の言葉は本当の本当に心の奥から出てきた言葉だと思う。実際に会って話すというのはとても大事なことだ、と改めて思った。

文体とパスの精度 (集英社文庫)
集英社


逃げる中高年、欲望のない若者たち
ベストセラーズ

個性という嘘、支配と被服の選択について

2010-12-06 14:20:45 | Weblog
『 若いときっていうのは、大人の着ているものを”崩す””バランスを変える””わざとだらしなくする”ことから、服を着はじめます。学生時代まではそういうふうに反抗していて、そして就職となると常識の中に入る。

 でも、そうでしょうか。
 一着の服を選ぶということは生活を選ぶことだから、実は大変なことなのに、学生時代は、あれは遊びだったんですか、みたいなクエスチョンマークがどうしてもつくんです。
 そうなると、子供の遊びの為に一生懸命作ってられないよ、という心境になることもある。
 
 一着の服装をするということは、社会に対する自分の意識を表現することですから、これくらいに髪切って、分けて、こういうシャツ着て、ネクタイつけて、スーツを着てってなれば、あの時代のあの選択をやめたんだな、残念ですね、と言うしかない。
 社会にそういう考え方があるということと、そういう考え方の中にずっといるという、この事実が、戦う相手としてはあまりにリアルすぎて、あるいは大きすぎて、まいったなあ、という感じです。

 ところが一方で背広は、服装に関してあまり訓練されていない人のためには非常によくできた服装です。誰が着てもみっともなくならない。ですから、どうしてもプラスマイナス両方の台詞が出てきてしまう。

 そんな中で、結局20年やっても何も変えられなかったじゃないか、という思いが去りません。 』


 これは映画「都市とモードのビデオノート」(監督;ヴィム・ヴェンダース)中での山本耀司の言葉だ。

 山本耀司は、この社会のどこにも属さないような服を提出し続けてきた。この映像が撮影されたのは1988年。20年やっても何も変えられなかったと彼は言っているが、それから22年が経った今も何も変わっていない。変わっていないどころか状況は酷くなっている。

 酷くなっていることは、橘玲さんのブログ( http://www.tachibana-akira.com/2010/10/807 )にあるJAL入社式写真に端的に表れている。
 1986年の入社式の写真と、2010年の入社式の写真が掲載されているのだが、1986年ではフォーマルとはいってもまだみんな色々な服を着ていたのが、なんと2010年の写真では全員がほとんど同じ服を着ている。
 橘さんも書いているけれど、「時代と共に人類はどんどん自由になる」と思っていたその逆のことが起きていて、僕はかなりの衝撃を受けた。

 先日、「ぼくらの七日間戦争」という映画を見直しました。
 子供の時に大好きだった映画だけど、今見ると物凄くチープに見える。
 古さとか、ストーリーの粗とか、そういうものから来ているチープさはどうでもいいことだけど、どうでもよくはない失笑を、今この映画を見ると覚える。
 その失笑は劇中に描かれる中学校の校則に対して起こる。
 映画は、ちょうど「都市とモードのビデオノート」の為、パリと東京でヴィム・ヴェンダースが山本耀司を撮っていた1988年に日本で公開されたものだが、劇中に「オン・ザ・眉毛」という有名な台詞が出てくる。

 そのシーンでは女子生徒が一列に並ばされていて、教師が一人一人服装をチェックしていく。教師は物差しを持っていて、女子生徒の前にしゃがみこみスカートの丈の長さを計る。そして「±5センチ、合格」とかなんとか言うわけだ。スカートのチェックが終わると前髪の長さをチェックする。前髪が眉毛に掛っていると長過ぎるということで切られる。
「オン・ザ・眉毛」と言って佐野史朗が女子生徒の前髪をハサミで切る場面はこの映画のテーマを象徴している。

 子供の時はこういうのを見て「くそー、学校め」とか「教師の野郎」と思っていたと思うのだけど、今見たら憤りも何もなくて只の馬鹿げた冗談にしか見えない。
 良いとか悪いとかどうすべきとか、そういう議題になること自体がバカらしすぎるというか、キリストの絵を踏まないとぶっ殺されました、とか、生類あわれみの令で犬に石を投げたらぶっ殺されました、みたいな話を聞いたときと同じような感覚しか持てない。

 こういうのがまるっきり馬鹿にしか見えないくらいに時代が進んだのだなあと、うっかり思っていたのですが、どうやら時代が進んだのではなく、単に僕がそういう管理体制から離れて暮らしているというだけのことでした。
 大学以外の全ての学校、つまり小中高で「生徒」という人々、それから多くの会社で「社会人」という人々は管理されている。毎年10万頭の犬が二酸化炭素で窒息させられて殺処分された結果日本からすっかり野良犬が居なくなり全ての犬が管理下に治まったように、ほとんどの人間も今では管理下に置かれているということです。
 年々自由になんて大嘘でした。
 JALの写真がその証拠だ。

 服くらいで何を大袈裟な、と思うかもしれない。
 山本耀司って、だって、ファッションデザイナーだもん、そりゃあ彼にとっては服って重いかもしれないけれど、でも普通の人にとっては服は服じゃん。服を選ぶことは生活を選ぶことだ、とか大袈裟すぎ。って思うかもしれない。

 けれど、それは断じて違う。
 服は高々服じゃない。
 ただのおしゃれの道具でも寒さから身を守るためのものでもない。

 たとえば、過去の多くの時代で身分と服装はリンクしていた。だから歴史の教科書にも「当時の農民の格好」とか「当時の町人の格好」とかいったイラストを載せることができる。
 今も同じだ。

 「個性」という言葉がある。
 服とか管理とかの話をしたら、すぐに「あっ、個性がないとかの話でしょ」となったりするのだけど、そんな話はしていない。

 個性なんてどうでもいい。
 個性というのはガス抜きの為の言葉だ。
 ガス抜きの為の言葉でしかなく本質的でも大事なものでもなんでもない。
 個性という言葉で多くのことが誤魔化されている。

 僕がしているのは「支配」と「支配されること」についてのもっと生生しい話です。

 多くの場面でいつの間にか「個性」が「支配から抜けたもの」に読み替えられている。実際のところ個性は支配者の定めた「この中では自由にして良し」という枠の中で比較的活性の高い人に付く形容でしかない。本当に支配の枠を出た存在には個性なんて生ぬるい呼称はつかない。

「うんうん、君は個性的だから自由なんだよー、支配なんてされてないよー、だからそれ以上何も考えないでおとなしくしててねー」

 というのが個性という言葉が使われるときの本質だ。
 嘘と誤魔化しとガス抜きの為に使われる言葉だ。

 ちょうど会社で理不尽にこき使われているビジネススーツの若いサラリーマンが、ipodに入れたおしゃれな音楽と高級ヘッドホンとピストバイクによる通勤で俺は本当は自由人なんだと誤魔化しているように。

 構造が明治時代から変わっていない。
 日本文学の代表みたいに扱われている明治文学は大半が「若いときは反抗的になるし滅茶苦茶するけれど、でも大人になったら国家に尽くす」というのがカッコいい生き方だ、というプロパガンダを含んでいます。
 今も同じだ。
 「学生のときは滅茶苦茶したけどね、ほんとに」とか言って。

 反対に「面白いこと一杯したい」とバックパッカー世界一周をしてきたような「インドでガンジス川の死体見て人生観変わりました」みたいな学生たちが、「会社の内定式の服ってやっぱりみんなスーツ着てくるのかな」とかいうことを気にしているのを見ると非常な違和感と同時に納得を覚える。

「学生まではなんでも許してあげる。そのあとは従ってね」
「はーい」

 支配というのは何も「特定の人々で構成された集団」がいつも行うわけではない。村上春樹はそれをシステムと呼んだ。日本では最近「空気」と呼ばれているようだ。

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