JaPaNeAsE.

2009-09-24 19:31:45 | Weblog
 1986年のアメリカ映画『gung-wo』を見たときに、私が最初に連想したものはソフィア・コッポラの『lost in translation』(2003年、アメリカ)であった。前者においてマイケル・キートンが日本へ圧搾自動車を誘致しに行った場面と、後者の映画で大部分を占める東京の街でビル・マーレイが困惑するシーンはとてもよく似ている。試みにインターネットで検索すると、この2つの映画の類似を指摘する声はとても多く、ここで私が再びその類似性を論ずることは大した意味を持たないと思われる。また、「外国人が日本を訪れる」というシーンを撮影すれば、それらが似通ったものになる可能性は高い。

 そこで以下では、『gung-wo』と『lost in translation』を「アメリカ人の見た日本」として同列に扱い(注1)、「アメリカ人の見た日本」である『lost in translation』を日本人が見るということに焦点を当て、そこから現代日本人の日本に対する視点について考えてみたい。
 
 実は『lost in translation』という映画をコッポラの意図通りに理解できるのは英語圏の人間だけである。それはビル・マーレイがCMのスチール撮影を受けるシーンにおいて最も顕著に現れている。ビル・マーレイは日本人のディレクターに次から次へと指示を出されるのであるが、このディレクターは始終「#=%$フォーカス!%&<(記号部は日本語)」という様に片言の英語を挟んだ言葉使いをする。そして、コッポラの仕掛けたギミックはこのディレクターの台詞には英語字幕を入れないという、物語自身よりもメタな枠組み、映画そのものの性格をうまく利用したものである。
 英語圏の鑑賞者はここで物語中の人物であるビル・マーレイと同じように「#=%$フォーカス!%&<」という台詞を聞く。字幕はない。もちろん日本語は理解できない。しかし、何故かディレクターの台詞の中にはフォーカスなどの英語が随所に入っている。それだけは聞き取ることができる。一体彼は何を話しているのだ。鑑賞者は混乱する。つまりlostするわけである。
対して、日本人鑑賞者はディレクターの台詞を多少風変わりではあるが理解できるので、この場面でlostしたりはしない。
 ただし、ここでは人が物語を読むときに何が起こるのか、ということに留意しておかねばならない。私達は「物語」を読むとき、実に簡単に物語中の人物に自己を同化させる。たとえば日本人の鑑賞者が映画館に入り、ジャッキー・チェン扮する香港警察が日本の忍者を殴り飛ばすのを見るとき、彼は日本人として忍者を応援したりはしない。彼はやはり主人公であるジャッキー・チェンを応援するはずである。それは彼がジャッキー・チェンに同化している所為に他ならない。物語というものは本来、そのように国や時代、性別を超えて発動する。
 従って、『lost in translation』を見る日本人は、ここでビル・マーレイに同化しlostすることになるのである。つまり日本人は「本当はlostしていないのにlostしている」という矛盾した2つの状態を抱え込むことになる。
この相反する2つの状態を一人の人間が抱え込むという特殊な状況は生産的なものだと考えられる。Lostした人間はlostした状態しか理解することができないし、lostしていない人間はlostしていない状態しか理解することができない。しかし、lostしていてかつlostしていない人間はその両方を理解し比較することができる。つまり、「lostしている」「lostしていない」という状態をさらに外側から俯瞰することが可能となる。この人間にのみ、はじめて「ではlostとは一体どういうものなのか?」というラディカルな問いかけが許されるのである。もちろん、その位置に立つことができるのは日本人および日本語を操ることのできる外国人のみである。
 従って、私達日本人はコッポラの意図を超えて、この『lost in translation』という映画を深く読むことになるのである。

 さて、今取り上げている事象“『lost in translation』を日本人が見ること”は、より一般的には「アメリカ人が見た日本を日本人が見る」という行為に当たるが、残念ながら事はそんなに単純ではない。「アメリカ人」と言っても、それは日本を映画の題材にしようという特別なアメリカ人、日本を欲望するアメリカ人である。したがって、上記の事象は書き直される必要がある。

「日本を欲望するアメリカ人が見た日本を日本人が見る」

 まだ、これでは不十分だ。コッポラが見た現代の日本というのは既にアメリカナイズされた日本であるし、同時に映画を鑑賞する日本人は既にアメリカナイズされた日本人である。
 再び書き直せば、

「日本を欲望するアメリカ人が見たアメリカ化した日本をアメリカ化した日本人が見る」

 となる。
 これこそ、日本人が『lost in translation』を見るということの、より正確な表現である。
同様のことが『gung-wo』についても言える(ただし、『gung-wo』に出てくる日本人役の日系人は日本人の目から見れば全然日本人には見えないので、この映画では最初から日本人は観客に想定されていないとしか思えない)。『lost in translation』が2003年の作品であるのに対して、『gung-wo』は1986年と17年昔の作品であるが、もちろん1986年には日本は十分アメリカナイズされていた。それは劇中で日本を訪ねたマイケル・キートンがマクドナルドでハンバーガを買うことにも象徴されている。

 それではこの「日本を欲望するアメリカ人が見たアメリカ化した日本をアメリカ化した日本人が見る」 という状況を精査してみよう。
 この文章に出てくる名詞に着目すると、出てくるのは

・①「日本を欲望するアメリカ人」
・②「アメリカ化した日本」
・③「アメリカ化した日本人」

の3つである。

① は日本を欲望しているが、その主体はアメリカ人であり「アメリカ人が欲望してい
る」ので、これはそのまま「アメリカ人の一部」、「アメリカに内包されたもの」である。
② の主体は一見日本に見えるが、しかしその主体は既に「アメリカ化」している。つまり、これは「アメリカに内包されたもの」である。
③ も②に同様である。これも「アメリカに内包されたもの」。

 要するに全てが「アメリカ」なのだ。
では、一体どこに「日本」というものが出てくる余地があるのであろうか。『lost in translation』は日本を舞台に撮られた映画ではなかったのか。そういえば多くのシーンはパーク・ハイアットの中だけで完結している。西洋式ホテルの中というのはある意味では日本ではない。
 この疑問に対する解決は『lost in translation』において何の必然性もなく「京都」という街が表れることにある。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンソンは劇中、特に理由もなく東京から京都に一人で旅をする。果たして、この「京都」とは何であろうか。その答えを私たちは次の文章から読むことができる。

《また同じように、1970年代後半から80年代にかけて、さまざまなレベルでそれまでのアメリカナイゼーションとナショナリズムという二項対立的な構図ではとらえきれないような状況をみることができる。ひとつの例が、国鉄(現・JR)の70年代と80年代のキャンペーンの違いである。70年代の国鉄の代表的なキャンペーンのコピーは「ディスカバーキャンペーン」であったのに対して、80年代前半にはそれが「エキゾチックジャパン」というコピーに変わったのである。「ディスカバージャパン」とは、世に知られていない所謂「秘境の地」へ行って、土着の自然や伝統を発見するというもので、つまりそれは日本のナショナルな空間のなかに、まだ発見されていないネイティブな場所とそのなかでの「私」を再発見しようということを表明していた。ところが80年代に入り「エキゾチックジャパン」にコピーが変わると、高野山や京都の典型的な神社・寺というようないかにも日本的な風景を表わすようになった。たしかに、ヨーロッパやアメリカに対して日本が広告されるときには、エキゾチックに描写されるのは当然である。しかし、この「エキゾチックジャパン」は、日本自体をエキゾチックなものとして当人である日本人に示しているのだ。》
【 “アメリカナイゼーションの視座と文化受容~ポップミュージックから読む日本社会~” 竹村美紗、2006年 】(注2)

 一目瞭然である。「京都」とは「日本」のことなのだ。しかも、現実の日本がどこかに取りこぼして来た。アメリカ人と、アメリカ化した日本人の作り上げた日本像のことなのだ。コッポラにとっても、そして我々日本人にとっても東京は日本ではない。無論、かつて坂口安吾が「日本文化私観」でブルーノ・タウトを批判したように、日本人は何をしてもあくまで日本人であるから、東京はどんなにアメリカナイゼーションを被っていようと日本である。日本人は日本を発見する必要がない。
 ただ。
ここで再び竹村の文章を引いてみたい(出典同じ)。

《ここまで70年代から80年代、そして90年代前半にかけて、ポップミュージックがどのように日本で受け入れられていったのか、について考察してきた。そしてわたしはここにひとつの大きな問題を見出す。それは日本のポップには一貫して確固とした「拠り所」がない、ということである。
 先の松本(元「はっぴいえんど」の松本隆、横岩注)の発言に、“ハリウッド映画の中の「日本」を自ら演ずる滑稽さのことを考えれば、まだ自分の住む、首都高速に貫かれた街の灰色を基調色にした「日本」を見つけることの方が興味深い”というものがある。そう、彼にとって日本は「首都高速に貫かれた灰色の街」であったのだ。彼にとって日本の風景とは、特色のない無味乾燥な世界であり、一方で日本語ポップが結局「想像のアメリカ」の模倣でしかありえない、という現実を知ったとき、彼らはこのように歌った。

さよならアメリカ
さよならニッポン
バイバイ バイバイ
バイバイ バイバイ

アメリカから輸入されたポップはアメリカの現実とは無関係のものであった。一方でポップは伝統的な日本共同体からの離脱を意味していた。このために、「アメリカ」と「ニッポン」の両方に別れを告げたポップは、その後「どこにもない場所」という現実遊離したイメージの世界をさまようことになった。そして、そのようにイメージ化されたポップはどこか「バブル」と似ている。実態のないものを基盤として膨れ上がったバブル経済は、実態のないもののうえに成り立っている制度が大きく現実を動かし人間の人生を左右してしまう理不尽が、また地に足のつかない<空虚感>を生み出した。そこには伝統的な意味での「アメリカ」とか「ニッポン」によって裏打ちされた共同体=ポップは存在せず、むしろ「想像の共同体」=イメージ化されたポップ(Jポップ)が日本社会をさまよいだしたのだ。 そして今もJポップという体験を伴わない音楽のイメージが、街のあちらこちらで、ブラウン管の向こうで、日本全土の家庭ステレオ装置から、わたしたちを覆っているのである。》

 つまり、こうは描けないだろうか。

場所  :  アメリカ  ――――  東京    ――――  京都
___________________________________
コッポラ: (アメリカ) ―――― (カオス)  ―――― (日本)
音楽  : (アメリカ) ―――― (Jポップ) ―――― (ニッポン)

 竹村曰く、Jポップとは「想像の共同体」である。ならば東京とは、現代日本とは「想像の共同体」なのだ。小林紀晴(注3)は東京を見て「東京装置」と絶妙な言葉を生み出したが、それは「想像の共同体」を現実化する装置である。Jポップが日本全土を覆っているならば、それはこの日本という国全部が「東京装置」だということを意味する。ここに来て「ニッポン」は失われたのだ。少なくとも「東京装置」を上から構築されてほとんど見えなくなったのだ。
日本人は日本を発見する必要がない、などとは単なるトートロジーにすぎない。我々は現在只今の事にのみ気をやっておれば良いというわけではない。我々は時間的にも空間的にも、「自分がどこに立っているのか」ということを常に鳥瞰図的に把握しておく必要がある。
 『lost in translation』を見たあと、私はときどき日常においてlostするようになった。歩き慣れた繁華街と人々の言葉に違和感を覚える。ビル・マーレイやスカーレット・ヨハンソンに同化する体験によって身に付けた「外国人旅行者」の視点にチェンジしてしまうのである。これについては多くの『lost in translation』鑑賞者から同じ症状を聞くことができる。私達は今まで見えなかった「東京装置」をくっきりと見るようになったのだ。それは私達が「東京装置」から開放されたことを意味している。これ同時に「ニッポン」の発見でもある。私たちは映画の中で「lostしていて、かつ、lostしていない」状態を体験し、次に現実の中で同様の状態を体験することにより、日本人が何をどうlostしているのかを知るのである。


・ 注1; 2つの映画は共に、決して真実の日本を描こうとしたものではなく、それぞれが意識されたデフォルメを含むことは計算に入れておく必要がある。コッポラ自身も「日本を描こうとしたわけではない。混沌のシンボルとして日本を用いたにすぎない」という意味の発言をしている。もっとも、裏を返せばこの発言は「日本は混沌のシンボルになり得るくらいに良く分からない国だ」という意味にもとれる。
・ 注3;小林紀晴、写真家、文筆家。代表作「アジアン・ジャパニーズ」など。

yoke.

2009-09-11 18:42:38 | Weblog
 恥ずかしいことを告白しようと思う。
 僕はこのとき意気地無しで無能だった。昔話ではありません。つい、先週の金曜のことです。

 金曜日の夜、僕は携帯電話で話をしながら自転車に乗っていた。近所のある交差点に警官が6人くらい立っていて、事件でもあったのかと思いながら通り掛ると、中年の警官が「携帯切りなさい」というようなことを言った。僕はそういえばそんな決まりもできていたような気がするなと思い、一応「はーい」と言ってそのまま通り過ぎた。すると10メートルも進んだ頃に彼は若い警官一人を伴って走って追いかけてきて、僕は強制的に止められ、そしてお決まりのやり取りが始まった。そうか、事件ではなくて、また自転車の取り締まりをしていたんだこの人たちは。夜中に6人で道端に立って。

 若い方の警官が自転車から降りてもらえるかと比較的丁寧に言い。僕はこれはスタンドの無い自転車だから自立しないし面倒だし嫌ですと比較的丁寧に断った。そして彼が現れた。

 彼は喚きながら現れ、正直な話、僕はまた面倒に巻き込まれたと思った。様子が尋常とは程遠く、僕は最初彼が一体何を言っているのか分からなかった。彼は中年の方の警官に昨日僕と同じように捕まえられたようだった。結構な暴言で中年の方の警官にたて突き。若い方の警官は僕に「あの人は関係ないんで、お時間とらせてすみません、これに名前と住所書いてもらえばそれで結構ですんで、すみません。これ書いたからって罰せられるとかそういうことは無いんで、書いてもらって行ってもらって結構です、自転車のりながら携帯は禁止されているんで重点的に今取り締まっていて」と言った。
 男は僕の方を向いて「にいちゃんそんなん書かんでいいで、もう行っていいで」と言った。まったく表現できていないけれど、彼はそのとき本当に危険な人間に見えたので、僕は言葉を返さなかった。すっかり剣幕に飲まれていた。
 彼の態度は異常で、使う言葉も酷かった。それでもスタンスとしては多分僕は彼に近いんじゃないかとは思った。だけど、僕は警官が差し出した紙にサインした。反抗して面倒なことになるのが本当に面倒だったし、どうでもいいからさっさと終わらせたかった。この紙はこの後、せいぜい何人が書いたか数を数えられて、その後適当に数年保管され、誰に読まれることもなく捨てられるのだから、名前を書いて帰ればいいと思った。若い警官だってこんな紙切れにサインをさせることに意味はないと分かっていたと思う。僕は判別不可能なくらいの汚い字でそれを書いた。

 申し訳ないけれど、僕もこんな取り締まりには不服だし、ちょっとサインなんてできない、って言ったらどうなっていたんだろうか。そうすべきだったのかもしれない。

 「いつから携帯が駄目なのか」と聞くと、若い警官は去年の6月だかなんだかと答え、ヘッドホンも禁止なんです、法律じゃなく京都の条例です、と教えてくれた。僕もこんなことするために警察に入ったんじゃないんだけれど、という表情だった。彼は僕より5歳は若いに違いない。

 一旦僕はその場を後にした。彼は益々ヒートアップして、「助けてー、警察にいじめられてるー」等と叫び、警官は6人がみんなわらわらと寄ってきて、ついでに近所の家から野次馬も出てきた。その交差点には交番もあって、彼はその交番の方へ連れて行かれた。僕は後悔を始めていた。彼とちゃんとした会話を交わしてみるべきだったのではないか。でも僕が今まで見た中で最も危ない状態の人間にも見えたので、遠巻きにして暫く迷っていた。野次馬や通行人はみんな彼のことを嘲笑って面白がっていた。僕は薄ら笑いの野次馬に彼が本当にそんなにおかしいかと問い詰めて、それから彼と同じように警官を罵倒したかったのだと思う。自転車の取り締まりだけ熱心で、本当の事件が起きた時には何にもしてくれない彼らに。でもそうはしなかった。臆病で、面倒は嫌だと思ったから。それはミクロでは合理的だけどマクロでは合理的でない判断だったと思う。

 その後、彼はパトカーに乗せられてどこかへ連れて行かれた。
 僕はかろうじて彼に連絡をとるラインを確保し、そして自己嫌悪でうなだれながら帰った。


<暴力容疑>娘の中学に乱入 30代の夫婦逮捕 埼玉

 私服で登校する娘が注意されて学校に入れてもらえなかったので、両親が金属バットを持って中学校に出向いたそうです。金属バットを持っていったといっても叩いたのは床だけで、あとは暴言を吐いて胸を手で突いたとのこと。
 たしかにやり方はまずいと思う。それは認める。だけど、何だろうこのいやったらしさ。モンスターペアレンツって困るよね、馬鹿じゃないの、といったコメントに対して覚える憤りって。この子はどうして制服を着なきゃならないんだ。そんなこと一体いつ誰が決めて、どうして僕達は後生大事にこんな決まりに従っているんだろう。

20090822-0908.

2009-09-08 22:29:24 | Weblog
 2009年8月22日土曜日。
 Tにテキサスから客人があり、一緒にワールドへ行く。2,3年ぶりでMちゃんにばったり会うと、以前会ったとき「3年もフランスへ行くらしい」と言っていたSちゃんが丁度三日前に帰国したとのこと。時間というのはこういう風に流れる。

 2009年8月25日火曜日。
 研究室。
 夜、帰国間際の友達とアンデパンダン。

 2009年8月26日水曜日。
 研究室。
 ランチのとき、Aがニヤニヤしながら現れる。昨日アンデパンダンに来なかったのは転寝してたからとのこと。
 夜、帰国間際の友達と回転寿司へ行き、それからまたアンデパンダン。

 2009年8月27日木曜日。
 研究室、最近研究から逃避してばかりで良くない。ちゃんとやっていることを整理すれば進むはずだ。
 夜、KとAとは最後なのでMを加えた4人で下鴨神社や鴨川でお酒を飲む。

 2009年8月28日金曜日。
 朝Kを見送る。後研究室。夕方カナートへ行くとKと同じ国籍のAにばったり会う。Aとは計画的に会うよりもばったり会う回数の方が多い。友達はいなくなったんじゃなくて遠くへ行っただけだ、本当に友達をなくすというのは裏切られたりもっともっと酷いことだと慰められ、それは言葉のあやだと言って笑う。


 2009年8月29日土曜日。
 Kを見送ったのは昨日の朝だった。シャトルは7時25分なんて早い時間に予約してあって、少し遅れて来た運転手は「もっと遅れてきた方が良かったみたいですね」と粋なことを言ってから運転席に乗り込んだ。シャトルはスムーズに発車して、Kは半年間暮らした京都を離れドイツへ帰っていった。
 今日の夕方彼女から届いたメールには、オレンジジュースを買ったとき「arigato」と無意識に日本語で言っていて変な顔をされた、日本を出たなんて変な気分だ、もう自分の故郷に戻っていて、さっき最後のおにぎりを食べた、私の植物を引き取ってくれてありがとう、ちゃんと育ててね、というようなことが書かれていた。
 夜10時から少しだけNと飲みに行く。Nはワールドに行きたいと言い、僕はそんな気分ではなかったので部屋に戻って本を読んで眠る。


 2009年8月30日日曜日。
 両親が呼んでくれるので選挙も兼ねて実家へ。
 寮を出るときにばったりAに会う。彼はエジプト人で一昨年に博士号を取ったばかりの若き研究者。自転車のカギをなくして困っているというので、ドライバー一本あれば簡単に外せると教えてあげる。
 駅へ向かう途中Rにばったり会いしばらく話し込んでしまう。彼はイギリス人で博士の1年、日本語もうまいのでまじめなのかと思っていたら、集中力がない上にだらしないということが判明して大笑いし、それから博士号って僕らにとれるんだろうかと悩み相談。
 夜は変わったセラミック製品で野菜や、肉などを焼いて食べる。肉は要らないと言ってあったけれど、父は賛同するものの母は「肉も食べないと駄目だ」という人なので用意されていた。
 お酒も飲んで深夜ころ寮に戻るとまたばったりAに会う。京大に止めたままの自転車のカギを外しに行くのだと言ってマイナスドライバーを見せてくれるので一緒に行ってカギを外す。いつもポケットに入っているレザーマンsquirtP4で手伝うとなんと驚いたことにプライヤーが壊れた。レザーマンがこんなに脆いなんて。

 2009年8月31日月曜日。
 全然研究が進まないというか五里霧中で気が付いたら夜。

 2009年9月1日火曜日。
 すこしだけ糸口が見えて、すこしだけ気持ちが軽くなる。
 夜、丁度Sが一乗寺に来て行きたいというので何年かぶりにキッチンあべに行く。帰りに夜風がとても心地良くて秋だなと思う。月がとても明るい。研究室に戻ってしばらくするとOがビールを買って来てアーモンドと一緒にくれた。

 2009年9月2日水曜日。
 昨日糸口が見えたと思ったのに、ちょっと計算を進めると訳の分からないことになる。夜にようやく解消。夜ご飯をOと(たまには誘ってみるとI君は栄養ドリンクとカップラーメンの摂り過ぎで腹痛とのこと)ジーニョに食べに行くと珍しく賑わっていて「ごめん食べるものがもうない」と言われる。僕が「えー」と困っているとカウボーイハットを被ったおじいさんが「酒だけ飲んだら」と言い、眼鏡を掛けた白人が「ソールド・アウト!」と両腕を交差させてXのジェスチャーをした。結局大学の隣のおばあちゃん家で食べる。研究室へ戻って道筋を忘れないうちに計算。

 2009年9月3日木曜日。
 昨日行きそびれたのでワイルドワンへ夕方Oと行く。アクアソックみたいなものを買おうかと思っていたけれど特に欲しい物もなく、Oとナイフ等を見ていると店員さんが色々対応して下さり結局僕の壊れたレザーマンもワイルドワンから送って貰うことになった。レザーマンジャパンを抱する三星刃物に出したメールには遂に返事が来ない。こんないい加減な会社の製品を買うのは癪だけど、でもレザーマンよりいいツールを知らないから仕方ない。もうすぐOも国へ帰るのでお土産に肥後守を上げようと思っていたのに、「父親になにかお土産を買いたい」と言いながらレザーマンを物色しているので、「なら日本のナイフにしなよ。レザーマンはアメリカのだし。肥後守は安いし日本の物だし、肥後守がいいんじゃない」とネタをばらしてしまう。

 2009年9月4日金曜日。
 全くひょんなことから京大博物館に立ち寄ったり、必要な靴などの買い物。翌日の準備が思ったよりも多くて、研究室へは少ししか行けない。

 2009年9月5日土曜日。
 2009年9月6日日曜日。
 滋賀県永源寺町のバンガローにみんなで一泊する。半分はOのお別れ会。夜はバームクーヘンを作ったり塊のラムの腿を焼いたり満月を眺めたり、それから普通のバーベキューも。

 2009年9月7日月曜日。
 疲れが抜けていなくて使い物にならない。
 右脳派と左脳派で回転方向が逆に見えるという絵をYに見せられる。右脳派、左脳派がすでに怪しいなと思って色々考えて試してみると、その絵についている説明文は間違っているということが分かった。それを指摘するとYが「あなたはなんて頭がいいの!」と驚き、久々に天才扱いされたので、研究でナイーブになっている身としては素直に嬉しかった。

 2009年9月8日火曜日。
 計算が少しづつ進む。24x24の行列各成分を計算しているけれど、16x16にサイズダウンしても第一段階としてはいいかと思う。それにしても僕は計算が遅い。各ステップで自信のようなものがなく、恐る恐るやっているようなところがあるから余計に時間が掛っているのだと思う。たくさんこなしていい加減に確固たるものを身に付けたい。

open source.

2009-09-03 17:40:12 | Weblog
 僕がはじめて「近しく」という言葉を目にしたのは漱石の小説だか随筆を読んでいるときだったと思う。本当にもううろ覚えだ。「近しく」じゃなくて「少しく」だったかもしれない。どちらにしてもあまり目にすることのない言い回しで、その違和感が心地良く、しばらくその形容をしきりに使った。

 そのとき、僕はこんな言葉の使い方って本当にOKなんだろうか、と辞書を引いたりしなかった。辞書になんて載っていようがいまいがどうでも良かった。漱石なんてビッグネームが書いたのだから間違いだとは思わないし、もしもそれが正式じゃなくて”間違い”だったとしても、漱石が考えた表現なら僕達は日本語にそれを組み込むほか無い。
 漱石は訳語も含めて、多くの言葉を作った(漱石だけではなく、明治の所謂知識人達は輸入した概念を翻訳した際新しい言葉を沢山作った)。
 
 彼に新しい言葉の創造が可能だったのは、何も漱石が著名人だったからではない。単に彼が日本人だったからだ。僕達日本人は、全員が日々の営みとして言葉の新陳代謝に関わっている。意識的にせよ無意識的にせよ(たぶん多くの場合は無意識的に)、新しく作られた言い回し、間違っているけれど便利な言い回しはどんどんと日本語空間中を伝播する。

 最初は誰かが間違いを指摘するかもしれない。
 例えば、すっかり定着した「全然大丈夫」という言い回しは最初馬鹿にされた。でも馬鹿にして「全然は否定を伴うときに使うんだよ」と指摘するような人々でさえ、その意味するところは完全に理解していた。言語の使用目的が意味の伝達であるならば、「全然大丈夫」は間違いだ、と言う人は自分がその意味を理解しているということで既に矛盾を抱え込んだことになる。間違いなら伝わらないはずなのだ。伝わらないことを間違いだと呼ぶのだ。それは間違いではなく、まだ発見されていなかった言葉の使用方法だった。

 僕達は日々、日本語という言語体系を変化させている。ある意味では、それこそが僕達の”ネイティブ”性を担保している。どんなに滅茶苦茶な日本語を使おうとも、それが意味を伝達するのであれば、それは正しい日本語だと言える。日本語に堪能なフランス人に「それって間違ってるんじゃないの?」と聞かれても、堂々と「文法的には間違いでもちゃんと伝わるから、今日本人である僕が実際にそれを使っているんだからOKなんだよ」と反論することができる。

 逆に僕たちは「日本語以外の言語は改造できない」ことになっている。それは他言語を使うとき僕達はネイティブじゃなくなるからだ。さっき書いた例のフランス人に相当する立場に今度はこっちが置かれることになる。下手なフランス語を喋れば「それは間違いだ」とフランス人に指摘されて、こちらとしては問答無用で「そうですか」と修正するしかない。

 ただ、いくつか反例を上げると、シンガポールの人々は英語を若干変化させたシンギッシュと呼ばれる独自の英語を話す。それから「国際英語」というシェイプアップした新しい英語を作ろうという運動もある。こういうのは他言語に思いっきりメスを入れる試みだ。
 僕達はなんとなく気後れしているだけで、絶対に他言語に手を加えられないわけではない。

 長々と前置きを書きましたが、僕は今日から英語で11から19までの呼び方を変えてみようと思っています。実験的に。僕の周りにはネイティブではない英語話者が非常にたくさんいて、たまにだけど fifty と fifteenとか、特に電話口では取り違えることがあって、なんとも不便だなと思うからです。21=twenty one, 35=thirty five などにならって、onetyという新しい十なんとかを表す言葉を作ってもいいのではないかと思うのです。15はもうfifteenじゃなくて、これからはonety fiveというように。ついでにeleven, twelveもonety one, onety twoと読んでもいいことにするといい。10年後には広まっているかもしれません。