管理下におかれる人々

2010-05-26 13:28:25 | Weblog
 昨日の夜、雨の中、百万遍から金閣寺まで自転車で友達を訪ねた。メインの話題は全く別のことだったのだけど、それとは別にこういう話をしばらくした。

 大学の管理の話。
 それは彼のこういう一言から始まった。

「立命ってやっぱりイモ大学だ」

 僕も彼も大学に所属している。
 彼は立命館大学の博士過程に、僕は京都工芸繊維大学の博士過程にいる。

 友達の話によれば立命館はキャンパス内全面禁煙に取り組んでいるということだ。あの衣笠キャンパス内になんと2つだけ喫煙シェルターがあって、タバコを吸えるのはキャンパス内でそこだけ。建物の中で、ということではなく、外も含めたキャンパス内でその二箇所だけ。各喫煙シェルターは6帖程の広さしかなく、当然だが、立命館のようなマンモス大学にいる喫煙者のニーズをそれが満足するはず無い。
 当然のように、校舎の裏や、キャンパスを一歩出たところで一服する人が続出し、大学はその対策として2人組の見張り係を巡回させているらしい。巡回係は一日中クルクルとキャンパスの中を歩きまわって、喫煙者を見つけると注意する。

 このヘンテコな話を受けて、僕も自分の大学の変な話を披露した。

 なんと、うちの大学の正門には自転車に乗ったまま構内に入る学生を止める係の人が一日中立っていて、乗ったまま入ろうとすると止められるのです。今はもうなかったと思うけれど、この係が立ち始めた頃、彼らはプラスチックの棒を持っていて、通ろうとする学生の前を塞いでいた。学生はそこで一旦自転車を下り、中に歩いて入って、そしてまた自転車に乗って構内を移動する。
 幸い、僕は正門を滅多に使わないので、この異常な光景を目にすることはほとんどなかったのだけど、それでも随分腹が立った。面倒だから黙っていたけれど、他の誰も文句を言わないので、そろそろ何かしなくてはならないようにも思う。
 自転車をおける場所も、どんどんと限定されている。
 僕がずっと止めていた場所には、いつの間にか「施設管理課」のコーンが置かれていて、誰も自転車を止めなくなった。代わりに道路の反対側に止めることになっていて、細い道路を渡るくらい別に大した不便もないし、みんなと同じ場所に停めても良かったのだけど、なんとなく腹が立つので僕は同じところに止め続けていた。もちろん、サドルに「ここは駐輪禁止です」って御丁寧に作ったステッカーをいつも貼られて。なんだかバカバカしくなってきて、今は根負けして道路の反対に止めている。
 自転車を今までの様に建物の出入口付近に止めるのは邪魔だ、という判断だろう。でも、自転車がなくなった代わりに、そこには施設課のコーンが置かれている。彼らが置いたものは邪魔ではなく、僕たちが置く物は邪魔、という判断だろう。

 みんなが勝手気ままに自転車を止めていたとき、本当にそんなに邪魔だっただろうか? 人が通れないような置き方をする人間がどれくらい居ただろうか? 自転車を建物の入口に置けなくなった不便さというものは考慮されないのだろうか?

 こういうことって一体誰が「こうしたい」って言い出すのだろう。
 全く理解できない。
 黙っているとどんどん管理は進む。それは多分管理の為の管理だ。おかしいと思っても、面倒だから、ちょっと目をつむれば良いだけだから、僕たちはすぐに黙ってしまう。でも、そろそろ声を上げた方がいいだろう。これは些細なことではない。他のみんなもすると困るからあなたもやめて下さい、という訳の分からない論理も常識にカウントするの辞めにしてほしい。

 もう本当にうんざりだ。
 誰のタメでもない管理の為のルールと、論拠に成り得ないもっともらしい言い回し。

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)
寺山 修司
角川書店


エグザイルス・ギャング (幻冬舎アウトロー文庫)
ロバート ハリス
幻冬舎

KyotoParis.

2010-05-20 14:21:50 | Weblog
 2010年5月17日月曜日

 夏みたいに明るい午前の日差しを浴びて、木屋町を抜けM君のお店へ向かった。自転車の前輪はパンクしてしまった様で空気があまり残っていない。耳元ではイヤホンからBBCのニュースが流れてるけれど、気もそぞろで英国アクセントの英語なんて全然聞こえやしない。僕はまだ未完成の店の前に自転車を停めて、それで開いたままの扉の前へ行くとホコリと工具だらけの店内にWが立っていた。一昨年の10月に彼女がフランスへ経ってから1年半以上が経過している。自慢の長い黒髪がバッサリと切られていて、それから微かに日本ではない場所で生活していた人間の表情をしていた。もちろん彼女は相変わらずタバコを咥えていた。

 状況というのは変わるものだ、M君は自分の店を持ち、Wはすっかりパリに住み着いた絵描きになった。同じ場所にまだいる僕と。3人でここにいるなんて全然予想もしないことだった。

「向こうにいるときは京都が恋しかったけれど、いざ帰ってきたらもう1日で日本うんざり、パリに帰りたい」と散歩中に彼女は言った。

 壁に絵を描いてジェットブラックのアクリルガッシュで手が真っ黒な僕らはオシャレなカフェで5人組の女の人の隣に陣取った。彼女達は結婚と美容と旦那の稼ぎの話しかしないみたいなので、僕たちは笑いを堪えるのに必死だった。世界にはたくさんの線が引かれている。手を出して握手くらいはできるけれど、跨いで向こうへ言ってハグをしようとは到底思えない種類のライン。握手だって向こうの方から御免かもしれないけれど。なにせ僕たちの手は真っ黒だから。

 きちんとした会社で働く収入の安定した男と恋愛結婚して家庭を築き家と車を買って聡明で可愛らしい子供を育てるいつまでも若々しくてきれいな私、をコンセプトとしたゲームは粛々と続けられる。
 それはもう単に僕たちとはあまりにも遠いルールだった。なぜか遠い過去を見ているような。

 夜がはじまって四条大橋を渡りさようならを言う。次に会うのがいつだか全然分からないけれどサバサバしたふりの得意な僕たちは手を一度だけ振って二度と後ろを振り返りなんてしやしない。

 天気の良い初夏、京都は夜の7時。まだ始まったばかりの夜に、待ち合わせへ急ぐ人々の雑踏を、鴨川から吹き上がる湿気た風が通り抜ける。うっすらと汗が覆う肌を感じ、手に残った絵の具が本当は何の跡なのか考えながら、僕は小さな路地に入り北へ向かった。

精霊の王
中沢 新一
講談社


沈黙の春 (新潮文庫)
レイチェル カーソン
新潮社

カウントダウンはいつも既にはじまっている。

2010-05-14 18:59:16 | Weblog
 カウントダウンはいつも既にはじまっている。それは、いつか僕たちが死んだり決別したりする、ということで全く自明なことだ。でも、これまでそれほど意識してこなかった。
 最近、僕にとってとても重要なある事のカウントダウンが始まり、そのたった一つのカウントダウンが、世界のありとあらゆる場所に仕掛けられたタイマーを可視化してくれた。今は今しかない、というこれも自明なことが、フィジカルにグンと迫って来て、生まれて初めて体験する謎の感覚で今日から生活しています。

 僕は死ぬ。
 そして、物事は失われ得られる。

 たくさんの留学生と生活している時、「これは僕にとっては日常だけど、彼らにとってはとんでもなく非日常なのだな」と思う瞬間がままあった。食べるものをカメラに収めたり、毎日を細かく日記に記したり、あらゆる週末に予定を詰め込んだり。半年や1年の日本滞在を、一日たりとも無駄にしたくないという意思の表れ。
 それは本当は京都にずっと暮らしている僕にとっても同じことだった。半年だろうが80年だろうが、同じことだ。

 数年前から父が、会う度に「人はいつ急に死ぬか分からない」というようなことを言うようになった。もう60歳を目前にすれば、数々の死を見ていることだろう。僕の知っている限りでも何人か父はかなり親しい人を突然に亡くしている。そういえば、僕の祖母はまだ僕が幼稚園だか小学校に入ったばかりの頃に突然亡くなった。当時僕は「おばあちゃんが死んでしまった」と思っていたけれど、今から思えば彼女は50歳を過ぎたところで”おばあさん”という年齢ではなかった。
 父が忙しい仕事の合間を塗って自転車のレースに出たりしているのは、もともと旺盛な好奇心もあってのことだろうけれど、僕よりずっとセンシティブにカウントダウンのことを感じているからだろう。

 カウントダウンに敏感になることは、焦って生きることとも違う。どちらかというと、「これは次回でいいや」と後回しにして発生する喉に小骨が引っかかったような感覚を捨て去って生きることに近いと思う。
 もう待てないし譲歩もできない。

ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)
マハトマ ガンジー
中央公論新社


狂雲集 (中公クラシックス)
一休 宗純
中央公論新社

志摩;間崎島

2010-05-07 17:25:28 | Weblog
 今年の夏、T君とM君が転勤でそれぞれカリフォルニアとドイツへ行くことが決まった。共に短くて3年くらい、長いといつ日本に戻って来るか分からないとのこと。
 そこで、五月の一日二日と、学部修士を共に学んだ5人で三重県へ行き、ロッジのような所で宿泊し壮行会のようなことをしました。僕たちは学年も微妙に違っているし、サークル活動をしていたわけでもないのに、いつの間にか出来上がったグループで、今はまだ大学に残っている僕を除きみんな京都を離れている。国内に散らばっているだけで、もう既に年に一度会うか会わないかという感じだったけれど、今度はいくつかの国に分散するわけだから、同じメンツが揃うのはしばらく先になるだろう。住む距離が離れるに比例して、僕たちの移動能力、つまりは経済力が大きくなればいいけれど。



pic,1 山科駅でSちゃんと合流しM君が車で拾ってくれるのを待つ間、正面にあったスピード写真でスーツを着た若者が写真を撮っていた。通りかかった子供が不思議そうにじーっと眺めていたので、僕も眺めてみると随分と変な光景に見えてきたので失礼ながらシャッターを切りました。


pic,2 夕方バーベーキューをしていたら海がとても綺麗だった。入り組んだリアス式海岸の深いところで波がほとんどない。


pic,3 伊勢だったので、もちろん伊勢エビも。味に関してみんな微妙な感じで、僕たちは現代っ子の舌を持っているのかもしれないと結論。


pic,4 ホタテもカキも松阪牛も奮発して買い揃えた豪華BBQだったが、夜に部屋で食べた残り物とお菓子がそれ以上に美味しかった。特にT君がアメリカのスーパーで買ってきたフランスのお菓子。
 誰も何も考えてきていないので、翌日何をするのか布団の上で相談しながら就寝。


pic,5 朝海辺へ行くと、船のフロートが擦り切れてカラフルな内部が露出していたのでコントラストに驚く。
 

pic,6 「えっ、あんな所行ってもなんにもないよ」と案内係りのおじさんに言われながらも、僕たちは遊覧船を無視して地元の定期便に乗り間崎島へ。店には商店一つとタバコ屋一つ、酒屋一つしかない。商店へ船のチケットを買いに行くとおばあさんが「何しに来たの?」と不思議そうな顔をし、それから色々島のことを教えてくれたり朝採れたタイを見せてくれたり。


pic,7 明るい太陽の中歩いていると島の廃校へ。いい雰囲気。


pic,8 間崎小学校。と覗き込む友人。


pic,9 中はこんな感じでした。入ってすぐ右が校長室です。


pic,10 廊下の色と光の入り方が本当に綺麗だった。


pic,11 こういう色で塗られています。


pic,12 内側の廊下。


pic,13 錆びたウンテイ。


pic,14 体育館。最後の卒業生は2人だったみたい、と友達がどこかを見て言っていました。僕はボールをカバンに入れていたので、このグラウンドでみんなでキャッチボールをした。


pic,15 入江にあった家。


pic,16 船から降りてすぐ、言わば島の玄関です。ちょうど写真の中央にある白い家が商店。


pic,17 さようなら間崎島。小学校も面白かったし、ここ降りたら登れる?というギリギリの高さの堤防を思い切って降りたり、釣り人のおじさんや商店の人や島の人と話せてとても幸福な感じですごせました。住人の方は全員老人だった。


pic,18 クタクタだったので、島へ渡る前に船から見えて気になっていたお店へ。海に浮かんでいます。


pic,19 上がったばかりのハマチを捌いて頂きました。これは現代っ子の僕たちにもとても美味しかった。僕としては今まで食べた刺身の中で一番美味しかった。


pic,20 次はカリフォルニアで集まろうと言いながら、ジャスコで解散。今まで何度か田舎の方でバーベキューをしているけれど、いつもジャスコにはお世話になっている。日本全国津々浦々まで、これだけの低価格でこれだけの数の商品を提供するなんて本当にすごい。今回は食料の仕入だけでなく、休憩、軽食、それから車の駐車と、何度もジャスコへ行き、ここが基地のようになっていました。

 途中でT君が「こういう感じの旅はこのメンバーでしかできない」と言っていたのがやけに印象深い2日間でした。

あやしい探検隊 不思議島へ行く (角川文庫)
椎名 誠
角川書店


日本の島ガイド シマダス
クリエーター情報なし
日本離島センター