dog.

2009-02-06 16:10:20 | Weblog
 年末にYさんと犬の話をしたことを思い出した。どうして犬の話になったのかは良く覚えていないけれど、彼女が飼っている犬と僕の実家にいる犬が同じ種類の犬だから、きっとその辺りことがきっかけだろう。大人になってそれほどでもなくなったものの、子供の頃僕は動物がとても好きだったし、「犬は友達」というそれぞれの犬種に関する説明と、大昔に人類と犬が仲良くなった経緯を(勝手に)描いた漫画のついた本を愛読していた。だからなんとなく犬のことはそれなりに知っているような気分になっていたけれど、彼女の話を聞いていると僕は犬のことなんて全然知らないのだということを思い知らされた。考えてみれば僕は「犬は友達」以外の犬の本を読んだことがないのだから当然のことだ。

 彼女が教えてくれた事のなかで一番驚いたのは「コーギーはもともと尻尾を持っているけれど、生まれたときに切り落とす。ドーベルマンに到っては耳も尻尾も切る」ということだった。最初は彼女が冗談を言っているのか、それとも何かの噂を信じ込んでいるだけなのではないかと思った。でも彼女は真剣だったし確信も持っていた。

 その時のことをふと思い出して、ネットで簡単に調べてみるとこの写真が出てきました。http://www.geocities.jp/mt_with_dog2003/danodanmimi.htm からお借りしています。

 まさかドーベルマンがこんなに愛嬌のある犬だったとは。子供の頃、ある山に遊びに行くときは必ずドーベルマンの前を通らなくてはならなくてとても怖かった。実際にドーベルマンは強い犬だし、僕は耳の付いたこの顔でも吠えられたなら恐れたかもしれないけれど、でも印象は随分違ったに違いない。

 どうして耳や尾を切るのかというと、家畜や獲物を追うときに尻尾を踏まれたりしては困るからという古い理由がかつてはあったのだ、とコピペか何かで沢山のサイトに書いてある。だから生まれたときに切るのだと。その説明を読んだところで、そんなに高い確率で尻尾を踏まれるのだろうか?という疑問を覚えただけで全く納得できないけれど、まあ昔はそれなりの理由があったことにしても、現在では尻尾を切ったりする理由は全くない。 尻尾がないほうが見栄えがいい、みたいな謎の価値観が犬を飼う人の世界いにはあるということで、そのために、つまり犬を飼う人々の間に存在しているゴミみたいな常識の為に生まれたての犬は尻尾だか耳だかを切断されている。生まれたての子犬に麻酔はできないので麻酔のない状態で切断される。赤ん坊のときに体の一部が切り取られる痛みを体験するというのはきっと僕達が想像するよりももっと大きなダメージを犬達に与えていることだろう。

 ヨーロッパでは犬の尻尾を切ったり耳を切ったりするのをやめようという動きが起こっているそうです。そんなの運動するまでもなく当たり前のことに思えるけれど、まだこんな訳の分からないことが平気で起こっているなんて。そういうことが他にもたくさんある。

30.

2009-02-05 12:53:00 | Weblog
 2009年2月3日火曜日。

 夜10時からTと吉田神社の節分祭に出かける。1日降り続いた雨も僕達が神社に着く頃には上がっていて、雨上がりのすっとした空気の中、屋台の合間を歩き、階段を登り境内へ入る。境内には5メートルくらいの高さに堆く燃やすための供物が積まれていて、初めて見るには圧巻。
 抽選くじ付きの福豆を買う(トヨタ「ヴィッツ」を当てる気満々だったけれど何も当たらなかった)。お酒を片手に出店の前を歩き、適当に神さまに手を合わせ、普段はほとんど人気のない境内が人で一杯なことに新鮮な気分を覚える。途中でMさん一向にすれ違う。

 11時になると詰まれた供物に日が点けられる。僕達はそれを見るために11時前にメインの境内に戻る。既に人が沢山供物の山を取り巻いていて、3列目くらいに陣取る。しばらくすると神主が祝詞を上げたり巫女が供物の周囲を一周あるいたりして神事がいよいよはじまる。5メートルの高さに詰まれた物を重要文化財の境内で燃やすというのは思い切ったことだというようなことをTが言っていたけれど全くその通りで、神事だと言えばなんでもありだなとぼんやり思う。僕達日本人のもっともファニーな部分は神道の中に封じ込めてあるのかもしれない。あるいはもっと古く遡り、中沢新一の言うようなシャグジの中に。

 こんなに大きく燃える日を見たのは生まれて初めてだった。顔が放射熱で熱い。でも熱い空気はすっかり上へ登っていくようで、熱くなった空気も煙も煤も僕達観衆のところへは来なかった。それらは真っ直ぐと空へ上がっていき、境内のなかでは小学校のロウソクの実験みたいにきれいな燃焼が起こっていた。
 時折消防士が放水して火の勢いをコントロールする。供物の山が四方を金属の柱で支えた金属ネットの蓋を被っていることもあって、炎は勢い良く燃えるものの結界に閉じ込められた何かみたいだった。僕達は火をコントロールする。それは文字通りテクノロジーのことであり、象徴的に神道のことだ。巨大な炎を制御するとき僕達は単に興奮するのではなく本当のところ神性に到達する。産業革命以後の内燃機関に支えられた社会は、本当は荒れ狂う炎をコントロールするという神に向かい合うような行為だったのだと思う。

 火を眺めているとAから携帯にメールが来た。吉田神社に来てるけれど、階段の近くで火を見てるけれど、いる?という内容でだったので、火に飽きてきた帰り道Aを探す。Aとその友達に挨拶をしたあと、TとAと三人で神社を後にする。12時を過ぎて誕生日になったので二人がおめでとうと言ってくれた。

 一人になってからタクシーを拾おうと今出川を歩いているとPに会う。僕は彼女に報告することがあったのでそれを言うとやっぱり驚かれる。しばらくお互いの近況を交換したあと、僕はタクシーに乗って北山へ。


 2009年2月4日水曜日

 誕生日なので(30になりました)研究室には行かないでYちゃんと神戸へ行く。といっても恥ずかしいけれど目的はイケアで、実は一度も行ったことがなかったので一度は見ておこうと目指した。元町でランチを食べた後に三宮からシャトルバスでポートアイランドのイケアへ。一度だけイケアに行ったことがあって「もう二度と行くつもりはなかった」というYはシャトルバスに乗っている間「まるでアウシュビッツへ送られるユダヤ人みたいな気分だ」と言っていて、実際に僕もそういう気分だった。それでも僕はこのお店の演出が嫌いというわけではないので、バスに乗っている間は軽薄な演出を楽しんでいた。
 でもお店へ入った瞬間になんとなく嫌な気分になり、そしてショールームに足を踏み入れて商品を一つ見た瞬間に帰りたくなった。もう少しまともかと思っていたのに、商品が全然良くなかったからだ。値段を3倍にしてクオリティーも3倍にした方がいいんじゃないかと思った。お店の空気も悪いし、陳列の仕方は普段僕達が目を瞑ることにしている大量生産大量消費のダークサイドをまざまざと見せ付けるし、動線も指定されているし、何一ついい点がなかった。象徴的だったのはある客がいくつか買うつもりでカートにいれていたクッションをやっぱりやめにして元の場所に戻すとき結構遠くから投げて戻していてことだった。そういう場所だった。

 小物は兎に角として家具の質が低いのには本当にびっくりした。昔建築の先輩が「形も機能も重要かもしれないけれど、俺は建築においては質感が一番大事だと思う」と言っていたのを思い出す。僕は当時彼の意見が理解できなくて、それから彼が何を言っていたのか理解するのに2年くらいかかったのだけど、家具だって同じことだ。質感が駄目なのであとは形を工夫しただかなんだか知らないけれど全部が駄目だった。神は細部に宿るって本当だよなと納得しながら出口目指して足早に店内を抜ける。

 シャトルバスで三宮に戻り、それから街をうろうろしていて気が付いたのは、街では僕のほしいものなんてほとんど何も売られていないということだった。欲しいものなんて本くらいしかない。服は嫌いじゃないから欲しいなと思うけれど気に入るものが売っていることは滅多にない。たとえば京都では2軒しか服を買いに行くお店がない。買い物をしないなら街にはほとんど用がないということになる。年をとってきたせいか、それとも偏屈になったせいなのかは良く分からない。

 以下に吉田神社節分祭の動画をいくつか。編集していないので見難いです。
 時系列は下から上へという風になっています。炎だけさっと見たい方は一番上のものだけも。尚レンズの収差で実際よりも小さく見えています。












high quality.

2009-02-02 18:59:47 | Weblog
For very long time, ever since I could remember, I have assumed that "originality" is one of the most important thing in our world. I don't know the reason why does originality look so important for me. I've just believed in it without thinking, indiscreetly. But recently I threw away the value judgment at last. Well, originality is not key. Rather I can say "quality" is key. Quality, high quality.

I remember once I read about Dumas who wrote "The Three Musketeers". The book said that when Dumas got sued by his disciple with Dumas's plagiarizing from the disciple, Dumas answerd "Yes I did but still mine is better than yours". What a greate guy he was.
But this story is a fake made by Yasutaka Tutui one of Japanese writer. He wrote a parody literature dictionary. In the book.

It's very long ago my reading this parody book. All I remember was just Dumas's this episode. Except this, I can't remember any article in this book totally. Without realizing I forgot others, not only articles but also the concept of the book, namely I forgot the book is just a parody. Insidiously I assume it is a true. Awful!

I found out my this miss-memory by internet. Without internet maybe I cannot be aware this forever. Only in the case of meeting a man knowing about this book accidentally and talking about the episode accidentally, I can get aware. Actually I cannot say I like internet so much but I have to say sometimes internet give me something special, like knowledge, relationship and so on. Then I feel technology changes our life literally.

For instance, we have camera and picture. So It's very easy to watch scenes in your past via pics. your ex-something or something. But imagine if this was a era before the invention of camera. Of course we don't have cameras and pics. We cannot see the past scenes, never ever. Everything is just in your mind. In the aspects of NATUER, this is natural. Life without camera is natural. So sometimes I am not sure we can take our life with camera and pic. Sometimes old memory kills people you know. Today, in addition, we hava video camera. Movind good old memories with sound! It's lost and digital fuckin' high quality, Crap!



view.

2009-02-02 13:27:08 | Weblog
 大人になって初めて気が付いて驚くことが当然のようにたくさんあります。たとえば僕は人間の白目というのは固い何かだと思っていました。人形の目に嵌めたガラスの眼球のように、つるっとした表面を持っていて硬質な何かだと。でも実際には人間の白目は結膜の一部で、つまりは目蓋の裏の赤い部分とそのまま繋がっているもので、膜だから動く。指先で目じりを押さえて上下させてみれば、白目を走る細かな血管が指につられて動くのを観察することができる。

 結膜だから白目が意外にぷにゅぷにゅしている、ということに初めて気が付いたとき、僕は鏡を覗き込みながら思った。そうか、もう長い間生きているのに、今まで一度も白目に触れてみてどういう手触りなのかを調べたことはなかったのだと。自分の体の一部で、実に身近なものに、僕はまともに触れたことすら(コンタクトを出し入れするときに接触するくらいのことはもちろんあるけれど)なかったのだ。外側にむき出しになった体の一部分に触れたことがないというのは不思議な気分だった。昔I君が「自動車は作られてからスクラップにされるまで他の物とは接触しない(人の手とかタイヤの触れる地面は覗いて、他のものにぶつかるのは事故だ)、これはある意味驚異的なことだ」と言っていたけれど、白目というのもそういう種類の器官に違いないなと思った。

_________________________________________

 スタジオジブリの映画に「耳をすませば」というのタイトルのものがあります。僕はそれを一度だけみたことがあって、でもストーリーは良く覚えていない。だけど、ストーリーは兎に角としても、実はその映画は僕に結構な影響を与えました。
 映画のどの部分が影響力を持ったのかというと、基本的には丁寧に描写された普通の日本の街並みです。特別にきれいな街でも、風情ある田舎でもなく、極々平均的な現代日本の住宅街や何か。それらは一昔前の僕が批判の対象としていたどうしようもない風景だった。僕はいつも「どうして日本の最近の家ってこんなにペラペラでダサいんだ」「街はどうしてこんなに汚いんだ」「車はどうしてこんなにダサいのばかりが走っているんだ」という風な文句ばかりを言っていた。街はもっときれいになるし、もっと楽しいものにできるのに、どうして誰もそういうことをしないのだろう、どうして最初からクオリティの高いものだけを作るようにしないのだろう。そんなことばかりを考えていた時期がある。
 「耳をすませば」を見たのはそういう時期だった。そして僕は考えを改めた。なんでもない光景が丁寧に丁寧に描写されていて、その描きなおされた普通の街並みは僕の中の認識に関わる経路を変更した。急に街並みがいとおしくなった。もしも整ったヨーロッパの街並みと文化に僕が一つの憧憬を持っていたのだとしたら、日本の持つ混沌を急に好きになった。以来ずっとその感覚は消えない。この世界には様々なものが存在する。好きなものも嫌いなものもあれば、美しいものも醜いものも存在する。だけど、実はそれらは全部誰かが丁寧に描写したとたんに意味を変えるのではないだろうか。何かを丁寧に描写するという行為には「受け入れる」ということに関する強大な力があるように思う。