トレンチコート。

2005-12-22 20:39:47 | Weblog
 今日はものすごい雪だった。
 雪が降り積もるとなぜか暖かくなったような気がする。

 最近ブログを更新できないのは、考えてみたら単に忙しいとか、気分が乗らない、という理由によるものではないような気がしてきた。

 僕は最近「なにもかもが分からない」という気分に陥っていて、何も分からない人には何も書けやしないのは当たり前のことだ。基本的には考えるというのが一体どういうことなのか、最近ではますます分からなくなってきて、僕は物事の考え方を自分自身が知らないという愕然たる事実に呆然とする他ない。もしくはケーキを食べてみたり。

 考えるって一体どういうことなんだろう?
 僕は考えているときに自分の頭の中で何が起こっているのかをあまり良く把握していない。難問を目の前にして「うーん」と唸っているとき、たいていは考えている振りをしているだけで本当に頭がドライブしていることはあまりない。

 そう思うと今までどうやって生きてきたのだろうかと怪訝に思う。何も考えてなんかいなかったのかもしれない。それとも、考えるということ自体にそんなに意識を向けなければ、意外と物事はうまく考えられるのかもしれない。ちょうど、どこかの国の御伽噺に出てくるムカデのように。
 ムカデはそれまで普通に歩いていたのに、あるとき「君はそんなに沢山の足を一体どういうふうに動かして歩いているのだい?」と質問されて、それから考え込んでうまく歩けなくなってしまった。

 高橋源一郎さんは「考えるということは”どもる”ことに似ている。○○だから××だ。ということではない」とおっしゃっているけれど、僕もそれには同意する。
 本当に考えているときは足が絡まって歩けないのだ。

 それから、僕たちの思考は言葉で表現されるけれど、言葉は思考を表現しきれないという限界がある。

 「思考」⊃「言葉」

 でもないか。包含関係じゃないですね。多分、言葉と思考は何かの写像関係にあって、しかも一対一には対応していないという自由さと不自由さ。

 という時期ですが、Mちゃんからミニコミ誌に文章の依頼を貰いました。
 ありがとう、がんばるよ。
 マルクスも言っているように、人の思考は社会的なポジション、そこで何を成すのかによって影響される。文章を書いてください、と言われると、僕は物書きの思考に変化することができるのだと思う。

 タイムマシーンに乗ってフリッパーズ・ギターのライブに行きたい。


THE LOST PICTURES,ORIGINAL CLIPS&CM’S plus TESTAMENT TFG Television Service

ポリスター

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パウダーランド。

2005-12-20 00:47:33 | Weblog
 土曜日の夜、6帖の部屋に20人近くという無謀な餃子パーティーのあと雪が降り積もった。本物の冬だ。

 最近、考えることとすべきことが多すぎて、日記を書く余裕がない。

 メモ。

 夢の大きさは測れない。と何処かの大学のポスターにコピーが打ってあった。測れない訳じゃなくて、測らないだけだ。それは基準や単位を決めていないというだけのことで、単位をきめればなんだって測れる。そんな勝手にきめた計測結果に意味はないのだ、というのはおかしい。計測結果には本来意味はない。意味は僕たちが付けるのだ。

 「気楽にやってみる」と安藤忠雄さんが講演のときに連発していたけれど、本当に気楽に物事を進める人間は「気楽にやる」なんてことを言わない。「気楽にやった」というのは「思い切った」という意味なのだ。

 高橋源一郎の「文学じゃないかもしれない症候群」を読んでいると、今までばらばらだった「文学」と「量子力学」に橋がかかった。

「量子力学者の書いた本をいろいろ読んでみた。そして、かれらの言葉に対する感覚が、最高の(現代の)文学者のものであることを知ってびっくりしたのだった」 ―(「文学じゃないかもしれない症候群」高橋源一郎、朝日出版社)

「ぼくたちは経験と類推によってことばを使う。だから、まったく新しい事件に遭遇した時には何もいえない。言葉がないからだ。でも、どんな言葉ももってこられないような真に”新しい出来事”は滅多に起こらない。量子力学ではそれが起こったのだ。」―(出典同じ)

 若きハイゼンベルクに「我々の言葉で原子内部の様子が記述できないのなら、我々はいつまでも原子内部の様子を理解できないのではないか」という問いに答えて、ボーア曰く、

「いやいやどうして、そう悲観的でもないよ。われわれは、その時こそ”理解する”という言葉の意味もはじめて同時に学ぶでしょうよ」―(「部分と全体」W・ハイゼンベルク、山崎和夫訳、みすず書房)

「量子論は、われわれがある事柄を完全に理解することができるのが、それにも関わらずそれを語る場合には、描像とか比喩しか使えないことを知らされる1つの素晴らしい例だ。」―(出典同じ)

 まさしくこのことで随分と頭を悩ませているのだけど。

 予想外のことがたくさん起きる。
 いいことも悪いことも。
 ある事象が素敵であり、同時に素敵でない場合、僕たちはその贈り物を受け取るか受け取らないか悩む。


文学じゃないかもしれない症候群

朝日新聞社

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テルミン。

2005-12-14 23:39:28 | Weblog
 ドキュメンタリー映画「テルミン」を見た。
 電子楽器の元祖であるテルミンを発明したレオン・テルミン博士、その他テルミンに関わった人々のインタビューと昔の映像で編まれた作品。

 荒い白黒画面に焼きついた古い時代の記憶。若き日のテルミン博士が、恋人と一緒に映っている。二人はタキシードとドレスに身を包み、部屋の中でカメラに向かって微笑む。

 フレットも鍵盤もないテルミンという楽器の可能性は、楽譜に書かれた音楽の、楽譜には書かれていない部分を演奏できるということにもある。
 音楽と楽譜の関係は、僕たちの思考と言葉の関係に似ている。音楽は楽譜には収まらない。思考は言葉には収まらない。

 僕たちは失い続ける。時間が流れ、歳をとる。何かが伝えられ、伝えられず。有機的に交換されるメッセージの果てに、やはり失われ削れて、良くても悪くても思い出は悲劇的であり、すべてのものは消え去った。
 ここは今ではない、未来なのだ。僕たちはここに来てしまったのだ。

 かつて真空管を弄繰り回して、天才の名を欲しいままにした科学者は、トランジスタの詰まった製品が並ぶ明るいショーウィンドウを無造作に眺める。彼はすでに96歳になっている。

 鮮やかなカラーフィルムに切り取られた現代の町並み。年老いたテルミン博士が、長い長い時間と生活の果てに再開したかつての恋人と、通りを向こうへ歩いていく。そして二人は立ち止まり、こちらを振り返った。カットオフ。エンドロール。ビーチボーイズ、グッドバイブレーション。


テルミン ディレクターズ・エディション

PI,ASM

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にぎやかな楽団。

2005-12-13 14:29:44 | Weblog
 金曜日の夜、タヒチ80を見にいくことができなかった。
 土曜日の夜、フライドポテトを食べる。
 日曜日の昼、フライドポテトを食べる。
 日曜日の夜、フライドポテトを食べる。

 どうやらこないだAちゃんとポテト談義をしたせいで、ポテトスイッチが入ったみたいだ。僕はジャガイモがとても好きで、昔はスーパーマーケットに行けば必ずジャガイモを買っていた。ある一時期は、毎日カルビーポテトチップスのビッグバックを一袋食べていた。
 長い間、ジャガイモのことなんてすっかり忘れていたけれど、そういえば僕はジャガイモが好きだったのだ。ジャガイモを買いに行こうと思う。フライにするための油も動物性から植物性まで色々と取り揃えて、塩もスパイスも選び抜いて、世界で一番おいしいフライドポテトを作ろうと思う。その気になれば、世界で一番おいしいフライドポテトを作ることはそんなに難しくはない。

 ポテトチップスを毎日食べていたときは、ポテトチップスを一気に5袋くらい買って、部屋にストックしていた。いつでも食べたいときに食べることができるように。だから、ときどきはついつい一日に2袋食べてしまったりすることがあって、そんなときは全身が油まみれになったような錯覚がした。
 僕は基本的に好きな食べ物があると、それを毎日飽きるまで食べて(もちろん経済力が許す範囲でですが)、飽きるとぱったりとそれを食べなくなる、という傾向がある。たぶん、あまり体にいい食べ方じゃないな、とは思うのだけど、でも思い起こせば子供のころからずいぶんと長い間このパターンを続けている。ポテトチップスの他にチョコレートを何種類か、フルーチェ、チーズ、トマト、グレープフルーツ、水羊羹、サラミ、アイスクリーム無数、雑炊、煎餅…。

 それから、お菓子と言えば、僕にとっては明治「カール」は特別な意味を持った食べ物です。
 僕は幼稚園、小学校1年生と名古屋の名東区で育ったのですが、その当時とても仲の良かった友達と「カールは一生食べ続ける。それからゼビウスは一生やり続ける」ということを誓ったからです。ゼビウスというのは僕たちがそのころ遊んでいたテレビゲームのソフトで、残念ながら僕はテレビゲームをしなくなったのでゼビウスは続けていませんが、でも、カールはときどき食べます。誓いがあったからではなくて、自発的に食べるのですが、でも食べるとき必ず誓いのことを思い出す。間の抜けた誓いだけれど、でも、誓いというのは内容よりも誓うという行為と、それを持続させることに意味がある。

 日曜日はCちゃんと宇治まで出かけた。平等院鳳凰堂。ものすごく寒い冬の風に煽られた夕方の宇治はとても閑散としていて寂しい場所だった。桂川のおかげでどうにか観光地の雰囲気を保っているけれど、でも、現代のぺらぺらな建物と鼠色のアスファルトを走るくだらないデザインの車のせいで、平等院は息も切れ切れに耐え残っているという感じがした。
 僕は平等院そのものよりも、ときどき建築の本に出ている、鳳凰堂に併設された博物館の方に興味があったのですが、でも鳳凰堂は一目で驚くような質感を湛えていた。それは単に美しいとか厳かというのではなくて、なんというか”奇妙”だった。古いことは知っているけれど、古いという以上に古っぽいのだ。みすぼらしいと表現しても差し障りはないと思えるくらいに古めかしい。
 僕はこの建物のことをうまく表現することができない。まるで今さっき土の中から掘り起こしたようにも見える。それは、ここにあってはならないもののようにも見えた。もうとっくの昔に朽ち果てていなければならなかった建築物。
 そうか。僕はこの建物を美しいと思い、それから違和感を感じた。その違和感が一体どのような種類の違和感かというと、それは生きている死者に対して抱くのと同じ違和感だと考えられる。つまり、僕には平等院鳳凰堂は平等院鳳凰堂のお化けに見えたのだ。

 博物館は期待したほどの建築ではなかった。でも、よくできたモダン建築だった。中に展示されているたくさんの小さな仏像が楽器を持っていたので、「なんだ、これってバンドじゃん」ということに僕たちは気が付き、一旦そのことが分かると仏像観察がとても面白くなった。隣のおじさんが「これは悟りの世界を表している」と奥さんにいい加減な解説をしているのを聞きながら、僕たちはバンドの分析をしていた。「あいつは楽器を持ってないね」「ボーカルなんじゃないの」「そうか。あっちも楽器もってないけれど、あれはポーズからしてダンサーだよね」「きっとそうね。それにしても打楽器が矢鱈と多いわね」

 博物館を出ると、日はほとんど落ちていて、再び見る鳳凰堂はよりみすぼらしく見えた。ピカピカのモダン建築を見た直後だからだと思う。博物館に入るまでは、それなりに美しいと思っていたけれど、今やそれは単なるオンボロな建物にしか見えなくなった。そういうことか。

 大きくて声がかわいくない鳥の飛び交う、暗い桂川を渡す橋を歩き、僕たちは駅へと戻った。その後もちろん、夜ご飯にはフライドポテトを注文した。


Puzzle
Tahiti 80
Minty Fresh

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アンダルシアのシナモンガーデン。

2005-12-10 14:48:47 | Weblog
「これって何?」

「ムール貝」

「ふーん、ムール貝って何?」

「これ」

 僕たちが食べていたイカ墨パエリアにはムール貝が載っていた。僕はムール貝のことを良く知らないし、ムール貝を見ても、それがムール貝だなんて分からなかった。だから、これは何かと質問する。これはムール貝だよ。ムール貝って何なの? ムール貝ってこれのことよ。だから、ムール貝って何なのさ? だから、ムール貝ってこれのことよ。いや、だから、これって何のこと? これってムール貝よ。…

 [ムール貝  ⇔ (目の前にある)これ]

 独立して切り取られた、どこへも行かない世界。それだけで完結している世界。このとき言葉は意味を持たないトートロジカルなものになる。ソシュールが言ったように、言葉は物の名前ではない。

 お腹がすいて、ご飯を炊いて、トマトバターライスを作る。絶対にまずくなるに違いないと思いながらも、目の前にあったシナモンを入れてみたいという誘惑に負けて、僕はシナモンを少しだけ入れるつもりだった。ところがシナモンはビンからどばっと大量にフライパンの中に入ってしまった。べつに取り除けば問題はないのだけど、僕は5秒くらい考えて、ままよとばかりに掻き混ぜた。案の定、出来上がったトマトバターライスはとても食べられたものではなかった。まるで漢方薬だ。途中で食べるのをやめて、今度は普通のバターライスを作って食べた。その後ついでにバターをまたフライパンに加えて、砂糖を入れてバター飴を作って食べた。

「ねえ、いったい何するのよ、痛いじゃない」

「叩く」

「やめてよ」

「もうやめてる」

「そういう意味じゃないでしょ」

「じゃあどういう意味さ。それに君は小学校で習わなかったのかい。人の嫌がることを進んでしましょう」

「それもそういう意味じゃないわ。あなた馬鹿なんじゃない。人の嫌がることはしないで」

「そうか、なら今日から掃除するのやめるよ」

 言葉は言葉では説明できない。

フレンチフライと赤いスプラッシュオレンジ。

2005-12-09 18:09:55 | Weblog
 1980年12月8日。一人の偉大な芸術家が銃弾に倒れた。彼の名はジョン・レノン。つまり、昨日はジョン・レノンの命日だった。日本時間なら今日になる。どれだけの数の人間が、世界中で「今日はジョン・レノンの命日だ」と日記に書いただろう。たぶん、それは相当な数に違いない。でも、残念ながらまだ世界は一つにはなっていない。

 昨日トルコから来たOと話していると、「部屋が寒い」という話題になった。僕もそれには同感だし、実際にとても寒い部屋に住んでいる。それから彼は、日本人はエアコンをたくさん使うけれど、電気を使いすぎなのではないか? 日本って電気安いの? というようなことを聞いてきたので、電気代は気にしながらでも使っているのだ、と僕は答えた。
 セントラルヒーティングのほとんどない日本の暖房設備を僕は貧しいと思うし、セントラルヒーティングの国を贅沢だと思いもする。電気ばかり矢鱈と使うくせに、そのくせ寒い暖房事情をなんだか変だと思う。Oも同じように感じているようだった。

 日本の家は寒い。と言うと、「それは日本の風土が良いからだ。日本は住みやすくて、しかも自然の変化を感じ取ることを大事にする国だから」という人がいるけれど、僕は単に手を抜いているようにしか思えない。改良の余地が十分に残されているくらいに寒い。こういうのを住みやすいとはあまり言わない。

 Aちゃんに「はじめてあった時、この人活字みたいなしゃべりするな、と思った」と言われた。
 僕たちはフライドポテトの話をしていた。僕が子供のころから探し求めている幻のフライドポテト(中まで衣みたいになっている)のことを言うと、彼女は同意してくれて、それからそのポテトを売る店を知っていた。このフライドポテトの話に同意してくれた人は初めてだった。しかも売っているところを知っているなんて。
 それで、この日僕たちはフライドポテトを食べたのですが、メニューにはないのに「できないことはない」と言ってお店の人が出してくれたフライドポテトは最高においしかった。いつも、一番好きな食べ物は? と聞かれても返答に困っていたのですが、これからはフライドポテトだということにした。

 活字のような話し方、というのが一体どういうことなのか僕にはよく分からないけれど、僕はこのときはたと思い付いた。僕は話し方が完全な関西弁ではない。結構な割合で標準語が入っている。それは一つには言語習得期に関西圏で育たなかったということが原因にあり、他にも関西弁ではない人々がたくさん周囲にいることと、あと僕自身が関西弁をあまり好きではない、という事情がある。

 僕は自分で自分の話し方について、その様な分析をしていた。だけど、もう一つ、実は大きなファクターがあったのかもしれない。それは僕が活字中毒に近い、ということだ。僕は電車に乗ったり、ご飯を食べたり、何かするときに読むものがないと落ち着かない、と言った性質だし、本ばかり読んでいれば「話し方が活字みたい」になっても何の不思議もない。そして、本というものは大抵が標準語で書かれている。ならば僕の話し方が標準語よりになったって何も不思議はない。


Imagine
John Lennon
Parlophone

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回転するプラスチック・パレード。

2005-12-08 04:15:53 | Weblog
 今日、久しぶりに、昔使っていたパソコンに電源を入れてみました。そうすると、中にはいろいろと懐かしいものが入っていて、以下に示すのはそのひとつです。これは僕がもう3、4年前にデザイン関係の授業で書いたレポートです。課題は「エンジニアリングプラスチックを10個挙げて説明を付けなさい」という簡単なものでしたが、怠け者の僕は提出日まで何もしないで、提出日当日に急いで書きました。調べる時間があまりなかったので、なんとかお茶を濁そうとして考え出した苦肉の策が「物語風」です。



   「すれ違う風のようなプラスチック達」


 「植物物語」と名付けられた、一連の石鹸やシャンプーなどの製品は「100%植物原料の洗浄成分を使用」というのがウリの一つである。しかし、原料が植物であれば体に優しいであろうというのは一種の幻想に過ぎない。当たり前のことだが原料は加工を繰り返し製品に至るので、消費者はその間に何が起こっているのかを知る必要がある。何故ならば、物質は時に信じられないくらいにその姿を変化させるからである。
 たとえば、プラスチックはその一例である。
 良く知られているようにプラスチックの原料は石油であるが、その石油は太古の生物の死骸が変化したものだと考えられている。つまり、我々の周囲に溢れているプラスチック製品の原料は太古を生きた生物の死骸である、ということができる。これは少し不気味であるが、同時に時間軸の大きいロマンチックな事実でもある。我々は随分とかわったものに囲まれて生活しているのかもしれない。

 さて、ここで一つの大胆な仮定を設けたい。
 それは随分と非科学的であり、かつ根本的に論理性を欠く仮定である。更にはそうして論理性を無視してまで行う仮定によっていかなる面白い効果が得られるものか、私自身全く確信めいたものがないのであるが、それでもここに一つの試みとして始めたいと思うものである。かかる無謀と冗長を、どうぞお許しあれ。
 その仮定とは、「プラスチック製品が自意識と五感を持っている」と言うものである。いやはや、生き物の死骸から作られたものならば、あるいは精神を宿している可能性もあるのではないか。とのこじつけはあまりにもあまりにもだが、話は始まってしまうのである。


 一枚の薄い紙。表面には広告が印刷されている。その上に、最近発売のピリ辛い味付けのチキンを挟んだハンバーガーと、ミネラル豊富な自然塩がかかっているというフライドポテト、それから紙コップに入ったジンジャーエールが載せられる。私は街のはずれにあるファーストフード店Mバーガーのトレー、所謂お盆である。名はトラオという。なぜトラオなのかというと一度訳の分からない幼稚園児にトラの落書きをされたからである。しかも全面的にである。なにせ、しきりに憎むかのようテーブルの足を蹴りつづけるという訳のわからない子供が描いたので、一体それが本当にトラなのかそれとも何か他の生き物なのか、我々にははっきりと分からなかったのであるが、それでも縞模様の具合がトラであろうということで私はトレー仲間のうちでトラオと呼ばれるようになったのである。

 そのトラの落書きはアルバイトの原田がアルコールの入った液体で拭いて消してくれた。
私はメラミン樹脂で出来ている為アルコールには強いのである。ちなみに私は酸にもアルカリにも強い。それからこれは重要なことであるが、耐水性に優れている上に食用油にも強い。更に表面が固く、まあ陶器に似ているので食卓用品としては最適なのである。耐熱温度も110℃~120℃と高めなので熱いスープもへいちゃらである。だから、私と同じメラミン樹脂でできたモノ達は食卓用品に多いが、他に化粧板や接着剤、塗料といったあたりをやっているものもあるらしい。

「でも、兎に角山の中で止まらなくて良かったよ。実はヒヤヒヤしながら走ってた。ここまでこれて本当に良かったよ」

「そんなにやばいの、あれ?」

「かなり。エンジンのピストンにはリングが嵌ってるんだけど、多分もう消耗しきってると思う。4サイクルエンジンなのに一瞬でオイルなくなるし、シリンダのなかに漏れてんだよ、きっと。今日は少し無謀だった」

 先ほどから私を使用しているのはオレンジのTシャツを来た男である。不吉なことにTシャツには「Tiger」というロゴと、小学生の版画のようなトラの絵が描いてある。また、落書きなどされないと良いが。そういえば向かい側に座っている、多分この男の友人も、何故か左腕にカラフルな腕時計を3個も着けている。あまりまともそうな2人ではない。少し順番が違っていれば端っこの席に座っておとなしく本を読んでいる女の子に使われたのだが。あのトレーは誰だろうか?カケオか。いいなカケオ。ああTシャツ男よ、せめてタバコをギリギリに近づけるのをやめてくれ。熱硬化性ではあるが、そういうのは無理なのである。頼む。



 水と言えばミネラルウォーター。バカ売れ。そういや昔、オアシス族だかなんだかって水を持ち歩くやつらがいたが、考えてみたら自分の家を出るときに水くらい持つのは当然じゃないか。外には7人の敵だよ。どんな目に遭うか分からない。体に必要なものくらい持ってないと。いつでも飲み物くらい手に入ると言うのは平和ボケだよ。まあ実際に平和な国だけど。それにしても彼女はさっきからほとんど水を飲まない。小柄な体に似合わず、ピリ辛な味付けのチキンを挟んだハンバーガーとロースカツを挟んだハンバーガー、それからフライドポテトとスティック状のケーキを食べたにも関わらず僕に口をつけたのはたったの一度きりだ。ずっと寺山修司の「書を捨てよ街に出よう」を読んでいる。

 そうそう、僕はMバーガーで出されるミネラルウォーターのペットボトル。勿論、PETことポリエチレンテレフタレートでできている。無色透明。耐熱温度は60℃から150℃。耐薬品性、電気特性、耐候性に優れてる。そして強靭、踏んでも壊れない。聞いた話では1.5リットルのコカコーラを入れていた仲間は中身が飲み干された後、水道水を満たされてかわった健康マニアのおっさんに枕として使われているらしい。本人は随分と気持ち悪いらしく、さっさとリサイクルされて他のものになりたがっているってさ。三角のリサイクルマーク、堂々のナンバー1をつけているのに俺は一体いつまでこのおっさんの枕を続けなくてはならないのかと嘆いているのを、こないだ一緒になったジャスミン茶のボトルが聞いたと言ってた。
 ブルブル、ブルブル。
 メールが届いたみたいで、水を飲まない少女は携帯を見る。ちょっと吃驚しているみたいだ。巨大な鞄から素早く手帳を取り出すとなにやらチェックして、そして素早くメールを打ち返すと素早く僕を巨大な鞄に放りこみ素早く店を出た。
 夏の終わり、山の向こうから夕方の空にまだ湧き上がる入道雲はピンクに色着いて、まるで山の向こうにキリマンジェロの雪山が現れたみたいだ。夕日に映える雪山。
 少女は巨大な鞄を真っ赤なホンダスカッシュのハンドルに掛けると、やはり素早く坂道を走り出した。



 えーい、一体ナンなのだこの妙にのんびりとした男は。それから女も女である。二人はドラッグストアでオレを籠に放りこんでから店の中を1時間も物色していた。レジでは男はポケットを、女は小銭入れをのんびりと探り、「ユウスケ、2円ある?2円」「うん、あるよ」などという会話の果てに少しイライラしている様子の店員の前に1587円を2枚の500円玉と4枚の100円玉、そして1枚の50円玉と13枚の10円玉と7枚の1円玉でぶちまけた。イライラはしているものの、そこは手馴れた緑エプロンの店員。てきぱきと小銭を数えると「1587円丁度お預かりしますレシートのお返しになりますありがとうございましたいらっしゃいませ」と無愛想とも言えるスピードで二人を送りだし、次の客を迎えていた。
あっ、見て見て、犬がフリスビーしてる。

 二人は今公園の横を歩いているのだが、何故にこれほど歩みが遅いのか。良く見てみると女は首から南米のオカリナをぶら下げているし、腰の辺りに鳥の羽を一つくっつけている。変わった格好だ。そういえば男は下駄を履いていてカランコロンわざとらしく音を立てている。

「ほんとだね。なかなか上手だねえ」

「私もフリスビーやりたいな」

「今度買おうか」

「イヤッ、今。あるじゃんフリスビー」

 女よ。オレはお前が今一体何を考えているのか、たぶん分かっている。しかし、それはしてくれるな。オレは洗面器だ、空を飛ぶようには作られていない。高密度ポリエチレンで作られていて、比較的高い剛性を持っている、電気絶縁性も良くてパイプをやっている仲間もいるし、耐薬品性にも優れていて灯油缶というきつい仕事についているものもある。熱には弱いが基本的にはタフである。しかしなるべくなら飛びたくはないのだ。
 そおれぇー。
ピュー。フラフラ。
 女よ。
 なんなのだこのコントロールは。
 女よ。
 向こうから走ってくる赤いミニバイクにどうやらぶつかりそうじゃないか?
 ああ、女よ。万事休す。と思いきや、パコーンと軽軽しい音でオレはハンドルに掛けられた巨大な鞄に跳ね返された。コロコロコロコロと道を転がり、川に落ちる。



 シュッ、シュッ、ハッ、ハッ。
 シュッ、シュッ、ハッ、ハッ。

 1週間ぶりのランニングね。時々でも走るだけまだましだけど、この人って基本的に怠惰。こんなので本当にオリンピック目指すつもりあるのかしら。大体、持久力付けたいならタバコくらいやめればいいのに。ワタシとタバコはいつも彼のポケットに入っている。こういうトレーニングの時でさえ。
 そうそう、ワタシは100円ライター。使い捨ての女。AS樹脂で出来ているの。耐熱性と耐衝撃性に優れているからライターにはもってこいね。しかも透明だからガスの残りも見えるし、言うことないでしょ。100円のイメージが強くて、世の中物価は上がるのに私達は値上がりしないの。古風に頑張っているのよ。

 えっ、もう休憩なの?さっき走り始めたところなのに。なんだか胡散臭いといって合気道を止めた後に、たまたまテコンドーがオリンピック種目になることを知って昔から足が高く上がるのが自慢だったあなたはテコンドーを始めたけれど、まさか世の中そんなに甘くはないのよ。こんな1キロも走らないうちに息を上げてしまうようでは。女の子が通るからって髪を直している場合じゃないわ。走りなさい。って、本当に走り出したわね。まさか聞こえたのかしら。チラチラと川の方を見ているけれど一体何があるのかしら?洗面器じゃないの。なるほど、この人洗面器と競争してるわけね。意外と負けん気が強いというか、すこし間が抜けているというか。それにしても何故洗面器が川を流れているのかしら。まあ、兎に角走ってくれれば何でもいいけれど。



「そうねぇ、音楽で一番好きな人はエリス・レジーナね」

 2週間程前、知り合った女の人にそう言われ、それまでMBPどころかボサノバというのが一体どのような音楽なのかも知らなかった彼は急にブラジリアンミュージックに目覚めてしまったらしい。CDを買い、書物を読み、日本のポップスと非常に有名な欧米の音楽しか聴いたことのない彼は、世界にまだまだ沢山の知らない音楽があるのだということに感激した。人生には時々、信じられないくらいにうまいタイミングで次のステップが飛びこんできてくれることがある。南米の音楽に目覚めたばかりの彼が滅多に乗らないタクシーを拾ったところ、運転手の趣味がボサノバギターであった。

「やっぱりなんだかんだいっても自分で弾くのが一番気持ちいいですよ」

 その一言で彼はクラシックギターの購入を決意した。ボクはその第1弦だ。ポリアミド(PA)で作られている。別名ナイロン。こっちのほうが馴染みが深いか。なにせナイロンはエンプラの草分け的存在だ。発明者は確か自殺してしまったという悲しい話もある。ナイロンは化学構造の異なるものが沢山あるが、基本的に耐衝撃性、耐磨耗性、耐油性、ガスバリア性に優れている。乳白色。ただし、吸水性があるので剛性や寸法の変化に注意が必要である。ナイロンと言うとなんだかナイロン袋といったペラペラなイメージが強いが、歯車やファスナーなどの硬いものにも使われている。滑りが良いので油をあまり必要としない。それからレトルト食品の包材にもなっている。

 なにはともあれ、まずはイパネマの娘。という結論に達したらしい。自分の部屋で練習していると隣の住人が壁をドンドンと叩くのでいつもこの川岸で練習。散歩やランニングの人が意外と大勢いるが、音楽に目覚めた彼は恥ずかしがったりしない。パワフルだ。オイリャキコイザマイジリンダ…。カタカナ読みで意味も分からずポルトガル語の歌詞を暗記したらしい。コードチェンジもぎこちないし、バチューダ奏法も出来てるのか出来てないのか分からないが、なんとか様になってきたじゃないか。あれっ。ランニングしていた男が立ち止まったぞ。タバコに火をつけるとこちらをじっと見ている。まさか。はじめてのオーディエンス。



 夕暮れの川辺をのんびりとサイクリング、といきたいものだけど。この子は大きなスチレンボードとあたしを左腕全体での脇の下に挟むように持っているものだから危なくてそうはいかない。随分と下手なボサノバが聞こえている。あたしは黄色いサンプライの板。この後多分この子に切り刻まれて、彼女の建築模型の壁やなんかになるの。恐くはないわ。人間とは精神の構造が違うのよ。切り刻まれてもあたしが増えるだけという感覚。人間ではそうはいかないものね。そういえば人間の精神はどこに宿ってるんだろう。脳?脳のどこ?あれは神経のネットワークになっているから脳のここに精神が宿るとは言えないのよね。左脳を全て摘出した子供がちゃんと生活していたりするし。そうそう、左脳と右脳は脳梁っていう神経の束で繋がれているんだけど、癲癇の手術なんかで脳梁を切断してしまうと奇妙なことが起こる。ガザニガって人が行った実験じゃ、脳梁を切断した人に指示を出してポーズをとってもらう。指示はカードに書いて左視野にだけ、つまり被験者の右脳にだけ見せるのだけど、そうすると被験者は右脳の支配する左半身をつかって、例えば指示がボクサーならボクサーのポーズをとる。そして質問、「あなたの受けた指示はなんですか?」そうすると被験者は答えるわけ、「ボクサーです」これはいたって普通のこと。でもここで被験者の左半身を固定して動けなくすると妙なことになるの。固定して、またボクサーの指示。でも体は動かせない。そして質問「あなたの受けた指示はなんですか?」「指示など出ていません」
 ここで質問に言葉で受け答えしているのは左脳の働きなの。指示は右脳にのみ見せられているので、脳梁がカットされてしまっていては左脳はどのような指示を受け取ったの分からない。だから左脳は何も答えることができないのかというとそうではなくて体の動きを見てから出された指示が一体何だったのかをもっともらしく考えるわけ。だから体が動いてボクサーみたいな格好になっているときはボクサーと答えられるけれど、体が動いてないと指示などされていないと思ってしまう。

 ここで重要なのは、被験者はそのようなことを客観的に理解できないということ。彼は体を固定されているとき、ボクサーの指示が出ているし右脳はそれを見ているのに左脳では本当に何も指示がないのだと思っている。また、体が動くときは左脳自身ボクサーの指示なんて見てはいないのにボクサーの指示を見たと思っている。本人は本当にそう思う。これがどういうことを示唆しているかというと、人間は自分の意思で物事を決めて行動を起こしているように感じているけれど、本当のところでは体が勝手に動いていて、意識はその理由付けをもっともらしく行っているだけなのにそれを自分の意思だと勘違いしているのだ、ということ。

 閑話休題。
 あたしはポリプロピレンでできている。比重0.9。ポリエチレンに似ているけれど、もっと艶がある。耐熱性、耐薬品性、耐油性に優れていて半透明。浴用製品とか、自転車の部品とか、荷造り紐なんかもポリプロピレンね。
 かわいそうに、あのオレンジでトラのTシャツ着た人、バイクのエンジンかからないみたいね。あっと。そろそろ到着。6畳一間に製図台。意外とタフね。ウーロン茶飲んで早速カット。どうぞどうぞ。それにしても模型用カッターの刃先30度は機能美だと思う。



 The Clash, London calling を流している。大きなヘッドホンで外界を遮り、大きな板を抱えて階段を上がってきた女の子に挨拶もしない。無視。昨日、動物番組を見て涙していたから、冷たい奴ではないみたいだけど。
 ちなみにワタクシはCD。クラッシュが録音されている。本当はワタクシ程も容量があれば、もっと沢山のアルバムが録音できるのだが情報が圧縮されずに入っているのでこれだけになっている。ワタクシはポリカーボネートでできている。無色透明。酸に強く、アルカリに弱い。対衝撃性、耐熱性に優れている。自動車部品、ほ乳ビン、食器、ドライヤー、建材にも使われる。
 驚いたことに、自転車に乗ると彼はJimmy Jazzを結構大きな声で歌い始めた。なんだ、今日は機嫌がいいのか。



 たぶん、英語の歌を大声で歌いながら男が自転車で通りすぎていった。我が主人は目で彼を追う。恐れているのか?ぼくは我が主人のコンタクトレンズなので我が主人と視界がほとんど同じだと思う。だから主人の考えていることが何となく分かる。
 ぼくはメタクリル樹脂でできている。無色透明で光沢を持つ。有機溶剤に溶ける。まあ透明度を活かして水槽だとか自動車ランプレンズとか照明とか風防ガラスとかに使われている。
 我が主人はまた本屋へ向かっている。立ち読みが長い、時に3時間を記録する。一度、「よくいつもいつも本屋にいれるね」と友人に言われ、「それはそうだよ、本はどんどん新しく入ってくるし、だいたいあれだけの書物を読み尽くすことが出来ると思うかい」と答えていたがそういう問題ではない。
 本屋に着いた。大きな本屋ではあるが、我が主人は髪の毛を真っ赤に染めているので目立つ、きっと店員もよく来る人だな、しかもあまり買わない、とか思っているはず。ちょっと恥ずかしい。



 今日は生徒が少なかったのか?男にしては髪の長い彼が近づいてくる。バイトの終りが早い。なんとまだ9時にもなっていない。彼は旅館で修学旅行の生徒相手のバイトをしているので、たいていバイトが終わるのは10時を過ぎるのだけど今日は早い。
 おれをホルダーから外して被る。おれはヘルメットだ。彼によって変な鳥のステッカーとヨシムラとカタカナで書いたステッカーが貼られている。おれは不飽和ポリエステル樹脂というものでできているのでめっぽう強い。実はガラス繊維で補強されているのだが。でも本当に強くて船なんかも作られている。あと、浴槽とか。電気絶縁性、耐熱性、耐薬品性もいい。
 本屋に寄るのか。またあの髪が赤い奴いるな。何なんだ、いつもいる。なんとビトゲンシュタインを読んでる。前は手品の本を読んでいたような。本当になんなんだ。



 平日火曜日の夜。一般的にあまり魅力的ではない。週末のような輝きを持ってはいない。しかし今日は恒例のイベントである。古臭い音楽ばかりがかかり大した人数は集まらないが、それでも何やら騒がしくしている。
 店が開いた様子である。一番に入ってきたのは意外なことに女人である。しかも3人もおり、一人は矢鱈滅多と巨大な鞄をさげている。「ごめんね。今日約束すっかり忘れてて」「いいよ、いいよ」必死に鞄をロッカーに押し込んでいる。

 次に入って来たのは男と女であった。
「僕さ、実はギター練習してイパネマ弾けるようになったんだよね」「へえ、そうなの」男は女に気があるような仕草であり、女もまんざらではなさそうである。

 そろそろ名乗ろう。我輩はレコードである。フロアが一通り盛り上がったあとで、我輩は随分と年配のDJによってターンテーブルに乗せられる。
 我輩は塩化ビニルでできている。塩化ビニルというのは所謂塩ビであり、なかなか有名である。比重は1.4である。燃え難い。みず、空気を通さないのでパイプによく使われる。軟質のものと硬質のものがあり、やわらかなものはホースなどにもなっている。子供のおもちゃにもよく使われていたが、環境ホルモンが騒がれてからはどうであろう。

 だんだんと人が集まってきたようである。無意味に足を高く振り上げているものがあるが一体どのようなつもりであろう。オレンジのTシャツをきた男に足が当りそうである。
 カウンターでは何かで切ったのか指にバンソウコウをまいた少女と首にヘッドホンをつけた少年が乾杯をしている。その隣ではなんと下駄履きの男と腰に羽根をつけた女が話しをしている。ピョンピョンと飛び跳ねてる女の2人連れに、髪の赤い男と長い男の怪しい2人が話しかけた。

 制作仮定をゴダールがドキュメンタリに仕立て上げた、悪魔に同情する意味の歌が流れている。DJが代り、彼はたぶんビートルズをものすごい速さでかけるだろう。そしてその後、多分我輩の出番である。愛こそすべて。

everything.

2005-12-07 01:37:19 | Weblog
 たしか今週の金曜日、二条のラブ・トライブにタヒチ80が来ます。DJはFPM。

 この頃、クラブもライブもどうでもいい気分で生きているので、そういったイベントには興味がない筈なのですが、このイベントには多分行くと思います。タヒチはアコースティックでライブをするみたいなのですが、実は僕はタヒチのCDに入っていたオマケ映像の中で、ボーカリストが部屋の中で座って、無造作にアコースティックギターを弾きながら歌を歌ったシーンを忘れることができない。弾き語りも良いけれど、やっぱり音楽はバンドで演奏しなきゃ迫力がない、と当時の僕は考えていたのですが、その映像に収まっていた、短い、ほんの一瞬の演奏はものすごい存在感を持っていた。

 テレビで洗剤のコマーシャルが流れていて、その洗剤は梅干しとレモンのクエン酸から作ったのだ、と誇らしげにアピールしていた。だから安全だし、地球にも優しいという。
 それはそうだろうけど。でも、僕は自然のもの、天然のものだから安全だという発言には少し距離をとってしまう。石油だって自然のものだし、トリカブトの毒だって天然のものだ。

 自然を疑うことが時々は必要なんじゃないだろうか。
 自然は別にうまくできてないし、絶対的な何かでもない。食べ合いをしなくては生き物が生存できないこの自然のどこが「すごい」のか僕には全く理解することができない。年をとって死ぬのは「自然」だから仕方がない、というのは思考停止だし、狂信的なロジックだ。僕たちは僕たちの生きるこの世界をもっと美しくできる。

 もっとも、今のところ僕たちは自分達の世界を汚し続けている。それは誰にも否定できない。
 乾電池には使用しなくなったけれど、相変わらず蛍光燈には水銀を使っているし、コンピュータや携帯に欠かせない半導体は砒素を含有している。つまり、頭の上には水銀があり、ポケットには砒素がある。僕たちのハイテク社会というのはそういうものだ。

ワンダータワーと赤い葉っぱ。

2005-12-05 13:10:10 | Weblog
 土曜日の午後、私はKと嵐山へ出掛けた。時期に少し遅れた紅葉狩りの為である。西院から、ややすれば薄曇りの冷たい空の下を至って頼りのない線路に引かれた京福電車に乗り込み、終着の嵐山で駅を降りると、前の通りをびっしりと人が歩いていた。私達は特別の目的地を立てずにふらふらとやって来たので、駅前の往来を右へ進むのか、それとも左に進むのか、立ち止まりしばし考えやがては左の道を歩くことに決めた。「とりあえず川へ行ってみよう」左へ行けば渡月橋の架かった桂川へ出る。

 川に沿って走る道を渡ろうと、観光客に塗れて信号を待っている間に、私達は川向こうに見える山肌の色合いが深緑であることを見知った。そこには赤色も黄色もほとんど見られはせず、あるのは只深く静かに、重々しい緑を身に付けた木々の葉の、曇天に気圧されたかのように低い山並みだけであった。加えて川をひゅーっと冷たい灰色の風が駆け上る。私達は川に背を向け、もと来た道を戻ることにした。

 まだ駅へも戻らぬうちに、Kが入ると言うので私達は器の店に立ち寄った。私が並べられた器を無造作に扱い過ぎると言って、Kは私のことを非難したが、器というものは、特に精巧な器というものは一寸ぞんざいなくらいの扱いが丁度良いのである。
 それから、また暫く歩くとコロッケを売る店が出ていて、「嵐山名物コロッケ」と書いた看板を掲げていた。私達は嵐山でコロッケが名物になっているということを知らなかったので「また勝手を言う」と笑い飛ばしていたのであるが、なるほどその店の周囲には立ってコロッケを齧る人間がそこここにあり、私達は勝手な宣伝文句の効用を目の当たりにした。
 美空ひばり館の存在はずっと昔から知っていたが、私は美空ひばりという人物にそれほど関心がなく、また観光地にのみ存在することのできる独自の軽薄感を覚えるので、美空ひばり館に入ってみよう等とはこれまで一度も考えたことがなかった。それでも、前を通ったついでに入場料を覗くとなんと1600円であった。実に強気の値段設定に違いない。

 それから、僕たちは天龍寺へ入った。
 最初に雲龍図を見たのですが、只大きいだけでなんてことのない絵だった。もっと迫力があるのだろうと思っていたのですが、本当になんてことのない絵で、新しいことは知っていたけれど、それはやけに現代的なイラストのような線を持っていた。イラストレーターか何かのソフトで書いて大出力のプリントアウトをしたみたいに見えた。
 寺の建物自体は、明治に再建されたということで、なんだか普通の家のような書院造りでお寺という感じがしない、それから僕は照りを持たないお寺の床というものをとても久し振りに見たと思う。でも、流石に書院などはうまくできていて、こういうところに住むのもいいなと思う。
 Kは紅葉狩りに主眼を置いていて、遅い時機のくすんだ紅葉に期待を失っていたけれど(それに彼女は天龍寺には一月くらい前に来たところだった)、僕は建物自体により強い興味があるので、ほとんど建物ばかりを見ていた。瓦の模様や木の様子や、何もかも京都の寺という基準からすればやけに新しくて、僕はお寺のオーラみたいなものを感じることはできなかった。

 曹源池を取り巻く庭を北へ抜けて、私達は北門から天龍寺を出た。庭にはいくらか鮮やかな紅葉も残っていたのでKは時々立ち止まって「この木はきれいだ」と言っていた。私はこのように紅葉に対する感覚の高い人を初めて見たので少しく私自身を恥じて、かつ影響を受けた。それまでの私はといえば、木の葉よりも地面の砂利石ばかりを気に掛けて、その灰色の味気ない石がどれだけ庭を駄目にしているのか寺の人は気が付かないのだろうかと文句ばかり考えていた。私も空を見上げることにした。

 竹林を抜けると常寂光寺という寺があって、僕は入り口の階段になんとなく惹かれたので、「ここに入ってみよう」と言って良く分からない寺に入った。すると驚いたことに、ここは小倉山で、なんと藤原定家の山荘があった場所で、しかも歌仙嗣という定家を祭ったものまであった。僕は新古今のアバンギャルド、藤原定家が最近結構好きなので変に嬉しくなる。

 小倉山しぐるヽこころの朝な朝な昨日はうすき四方のもみぢ葉

 鎌倉時代、この小倉山というところには宇都宮入道という人の家がありました。彼はもちろん宇都宮の出身で、お金持ちだったけれど、当時の感覚から言えばど田舎の出ということで、文化に憧れて京都に来てみたけれど、でも本人は至ってセンスのない、やっぱり只の田舎の人でした。だから、彼が藤原定家に命じて編纂した超有名な「小倉百人一首」は”やけに分かり易い”歌ばかりになっていて、歌集としてみればその質はけして高くない。定家が宇都宮入道のレベルに合わせて選んだからです。お金を出す人は宇都宮入道だから、貧乏人の定家にしてみればそうする他なかった。だから百人一首というのはとても有名だけど、いいのか悪いのかは別の話だということです。

 夕方になり寒さも一入になったので、街に引き上げようと小道を歩けば柿落舎の前に出た。私の希望でそこへ立ち寄ってから駅に向かうことにした。途中、小物屋へも寄り一頻り物色してKは色紙を買った。
 まだ六時も回らぬうちに日は暮れ落ち、もともとの空曇りも手伝い道は暗い。和風に設えた建物の窓から漏れる明かりに半身を照らされ、会魔刻に沢山往来する人の流れを美しく見る。賑わいの江戸の夜を描いた北斎を思い起こす。あるいは夜のカフェを描いた孤独時代のゴッホ。私達はKの鞄より取り出した菓子を摘みながら寒い寒いと歩を進めた。

 電車の暖かい席に座って、僕がポケットから芥川竜之介の文庫本を取り出すと、Kも羅生門がとても好きだと言った。それで二人して本をぱらぱらと眺めて、芥川竜之介や彼が王朝物として書いた時代の京都の話をしていると電車は終点の大宮に着いてしまった。僕たちはその手前の西院で降りる予定だった。つまり間の抜けたことに乗り過ごしてしまったのだ。
 反対方向へ出る電車に乗って西院に戻った僕らは、鍋を食べたりお酒を飲んだりして、すぐに朝方がやってきて、僕は慌てて自分の部屋へ戻り、2時間ほど眠ってからシャワーを浴びてアルバイトに行った。どうやら僕が眠っている2時間の間に雨が降り出したようで、寒く濡れた冬の朝を電車は通り抜けた。


これで古典がよくわかる

筑摩書房

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流線形。

2005-12-02 14:07:02 | Weblog
 12月の空に向かってしゃがれた声で歌うのさ。冷たい空の向こうでは小さくて青い星が光を放ちながら回転している。青白い星ほど温度が高いなんて本当は出鱈目なんじゃないだろうかと僕は思う。星は冷たいアイスキューブのように見えた。あるいは深い海を泳ぐ魚の鱗。僕は堤防のベンチに座っている。そしてボブ・ディランの歌を真似ていた。西暦はまだ1900年代、20世紀の終りで、僕はまだ二十歳を過ぎたばかりだった。

 全ての物事には始まりと終りがある、という一般的な見解は多分誤りで、本当はまったくの反対だ。全ての物事には始まりも終わりもない。全ては永久に長く、無限光年の彼方まで織られた一連の葛篭なのだ。ただ僕たちは小さくて、すべてを見ることはできない。でも、見えないからといって存在しない訳ではない。

 時間が流れ、知らなかった人と知り合い、知っていた人と会わなくなり、それでも僕は少し歩けばまだそのベンチに座ることができる。もちろん、座ることができるというのと実際に座るというのは別の話だ。歌わない歌は忘れてしまう。思い出そうとして、歌詞とコードがびっしりと詰まった本を、ボロボロに使い込まれた本を引っ張り出してみても、そこには大切なものが失われていた。僕は自分がどうしてこんなにボロボロになるまでその本を使っていたのか、今となっては全然理解できなかった。それはとっくの昔に使い果たされたのだ。

 一昨日、Eちゃんとあるお店に御飯を食べに入るとPがいた。Pが昔そのお店で働いていたのは知っているけれど、最近は彼女と疎遠だったし、それに随分前に「もう辞める」というような話を聞いたことがあるので、まさか僕は彼女がまだそこにいるとは思わなかった。
 Pは僕にとても大きな影響を与えた人の一人だ。もう本当に何年も何年も前に、あるイベントで彼女は映像を流していた。僕たちは簡単に話をして、彼女は何かのお土産だと言って何かの饅頭をくれた。そしてカチンと明確な音を立ててポイントが切り替わった。

 ポイントはこれまでに何度も何度も切り替えられた。その度、僕は進行方向を変えた。やがて、自分が一体どこの線路を走っているのかも良く分からなくなった。ようやく最終到着駅を見付けたと思えば、その駅は果てしなく遠いし、電車ではそこへ行けないかもしれないと言われる。「電車では無理じゃないかな。飛行機か、もしかしたらタイムマシンが必要になると思うよ」

 飛行機は恐るべき速さで飛び去り、Eちゃんは一瞬にして500キロの彼方へ戻って、今頃はケーキでも焼いているんだろうと思う。そして人類は楽園を探す旅を再び始める。もしも本当に人類がサルから進化したのなら、探さなくても昔は楽園だった。森の気候は温暖で、天敵もなく、食べ物は豊富にあったのだ。メーテルリンクが言ったように、それは本当は旅に出る前にそこにあった。
 だけど、僕らの祖先は遥か昔に楽園を出た。戻るには飛行機か、もしかしたらタイムマシンが必要だという。全く無茶な話だ。

 そのとき、キャロルは小さな声で言った。

「私は本当は、別に楽園なんて好きじゃないの」