life.

2008-08-29 13:38:25 | Weblog
 僕は1979年2月4日に生まれました。つまり1979年2月4日が誕生日だということになります。ところが、これも昨日の夜中のぼんやりしている時に見た白昼夢のようなものなのですが、1979年2月4日は僕の誕生日であると同時に命日でもあるというビジョンが見えて、怖くなってはっと目が覚めました。
 輪廻転生、というのが本当にあるのかどうか僕は知らない。科学的に考えてなさそうだと思うけれど、このへんてこな宇宙では何が起こっているのか知れたものではないから、もしかしたらそういうこともあるかもしれないなとは思う。
 でもまあ、それが本当にあるとしても、僕は生まれる前から母親のお腹の中で生きていたわけで、誕生日に死んだ僕の前世である僕(ややこしい話ですね)が生まれた瞬間の僕に宿るというのは考え難い。でも、基本的にわけの分からない宇宙なので実は胎児には意識も何もなくて生まれたときに本当の意味での生命体になる、ということだってなくはないのかもしれない。論理的に考えるとないだろうけれど、宇宙が論理的にできているかどうか誰も知らない。それに僕達の知っているこの宇宙に関するロジックというのはまだとても浅い。

 とまあ大風呂敷を広げたところで、日々のせせこましい解釈に戻ると、僕がそういった白昼夢なり夢なりを見たのは、先日あった発生生物学者竹市雅俊さんの公演の所為に違いない。
 この公演のことは恥ずかしいから書かないでおこうと思ったのですが、実は僕はとても強くインスパイアされました。
 竹市さんは一通り発生の話をされた後、最後に「我々は大昔から、先祖代々繋がっていると、なんとなくは思っているけれど、実際のところそれは生殖細胞を次の世代に渡すという形で物理的実態を伴って、モノとしてちゃんと繋がっているのです」と括られた。
 前回の記事に書いたように、情報というのは物理的実態を必ず伴うので、先祖から子孫に情報が伝わるというのはそこに物理的な伝達があることを意味している。もちろんそんなことはずっと分かっているつもりだった。でも改めて目の前で長い間生命現象の研究をされてきた科学者に言われると、違ったレベルでその意味を感じないではいられなかった。

 ここ1週間で、僕の生命に対する見方は劇的に変化している気がします。もちろん竹市さんの話がトリガーだろう。2,3個前の記事にけっこう詳しく鳥を拾った話を書いたけれど、そこに僕はこう書いたようです。

『 じっと見ていては親鳥の妨げになるかもしれないので、僕は机に座った。だけど鳥のことが気になって仕方ない。親鳥の声は覚えているので、遠くにでもその声がしないか耳を澄ませる。すると驚くほどたくさんの鳥や虫が鳴いていることに今更気付く。この声全てが何かの意味を持った言葉なのだ。僕には分からないけれど、でもそれは言葉だった。世界は意味に満ちていた。』

『イカル達は2本の木に別れて止まり、そして親はとてもきれいな声で、兄弟達は「ギャ、ギャ」と鳴いた。僕の鳥もギャ、ギャと鳴き、そして2、3分くらい何事か鳴き交わした後、鳥は窓を飛び出してやっぱり半分落ちるみたいに親鳥の木に飛んでいった。幹の中ほどに着くと、親がすぐに降りてきてそして何かをしゃべったり突付きあったりした。鳥って適当に鳴いているんじゃなくて本当に何か会話してるんだなと思う。ちゃんとお互いを認識していて絆があるのだなと思う。』

 本当にこんなこと今更な話で、鳥や昆虫が音で会話をすることは誰だって知っている。でも、僕はどうやら「通信が行われている」ということに主眼を置いていて、通信を行っている実体が意志をもった生命体であり何かを訴えていることをそんなに強く意識していなかった。ちょうど街に溢れんばかり歩いている人々を眺めていて、「そうかみんなが自分と同じようにそれぞれの主観と人生を持っているんだ」と思うと頭がクラクラしてくるように、鳥や虫の声がたくさんしていると頭がクラクラするようになった。生き物はみんな何を考えているのだろう。

 「これは科学の話ではないけれど」と断ってから、竹市さんは「やっぱり細胞が代々続いている以上、ここに生命誕生時からの記憶がずっと蓄積されて伝わっているってことがあってもいいんじゃないかなと思います」とおっしゃった。
 僕もそう思う。そして、実は一つの受精卵が60兆個の細胞に分裂して僕らの体を作っているように、もともとはある一つの細胞から世界中のありとあらゆる生き物は分化したのかもしれない。あの生き物とこの生き物の違いなんて、手の細胞と腸の細胞程度の違いでしかないのかもしれない。

log N.

2008-08-29 12:55:23 | Weblog
 係数と底は本質的ではないので無視して、Nビットの情報を消去するためにはlogNのエネルギーがいる。情報というのをあくまで仮想的な、何か実態のないものだと捕らえる人が多いと思うけれど、本当は全然そうではない。情報は物理的な実態を伴うものでほとんど物理量だと解釈しても構わない。逆にあらゆる物理現象は情報のやり取りだと見なすことができるので、情報という観点から物理学を組み立てなおしている研究者もいる。たとえばブラックホール周辺の理論は情報理論に基づく部分が大きい。そして話をもう一度ひっくり返すと、量子情報処理の大御所Seth Lloydはブラックホールというのは最も理想的な量子コンピュータだと解釈する。というかむしろ彼はこの宇宙というものがそれ自体巨大な量子コンピュータであると解釈していて、僕は基本的にその見方に賛成だ。

 どうにもしっくり来ない人は今僕達が使っているコンピュータのことを考えてみればいい、僕たちは主に電圧の高低という物理量を利用して論理回路を組み、計算機を動かしている。その昔手回し式の歯車で動く計算機があったように、ロジックさえ組めれば利用する物理的実態は別に何だって構わない。MITのある学生グループは子供用の木と紐からなるブロックのおもちゃを利用してコンピュータを作ったりしている。
 僕達がコンピュータを作るということは、あくまで自然法則の一部をうまく利用するということでしかない。当たり前だけど物理学の法則から外れた動作を見せるコンピュータというものはこの世界に存在しない。ならば、僕達が利用している自然法則それ自体であるこの巨大な宇宙をそれ自身がコンピュータであるという見方だってできる。

 外食や買ってきたものですませるのではなく、自分で料理をして部屋でご飯を食べると、実際のところそれはそれで問題も発生する。食べた後、満腹になって、さらに変な満足感も加わって眠くなり寝てしまうということだ。だからご飯を9時に食べると9時にうっかり寝てしまうことになる。そして12時くらいに目を覚まして、眠い目をこすりながらどうにかお風呂に入ると、もう目はすっかり醒めきって今度は眠りに着くことができない。
 そうして僕はめずらしく眠れない夜というのを過ごしていたのですが、そのときに情報とかエントロピーとかの観点から捕らえると僕達の意識というのはどう見えるのだろうと思った。
 いつも書いているのであれですが、僕達の意識が存在できるというのは超常現象です。深部までメスを入れることは科学の枠組みでは不可能にみえる。でもまあちょっとだけ意識はエネルギーを消費するのか、エントロピーはどうなっているのかを考えてみると何か分かったりもするかもしれないなと、これは前から思っていたのですが、それを昨日の夜中に思い出しました。

 もしも人間Aさんと全く同じように情報を処理して機能する、つまり見かけは意識のあるAさんと見分けのつかない(チューリングテストをクリアする)意識のないニンゲンAさんというものがいたとして、人間AさんとニンゲンAさんが全く同じ状況で全く同じ振る舞いをしたとしたら、そのとき人間Aさんの消費エネルギーとニンゲンAさんの消費エネルギーはどれくらい異なるのでしょうか、それとも同じなんだろうか。もしも同じだとしたら意識の動作にはエネルギーが要らないことになる。

 熱力学第二法則によってエントロピーが増大する一方であるはずのこの宇宙で、僕達生命現象はまるでエントロピーの散逸を防いでいるようにも見える。エントロピーが増えるとか減るとか、エネルギーがいるとかどうとかいうのは根本的には同じ話であり、なんとなく生命体が生命体を維持できることと意識を持つことはかなり近しいところにあるのかもしれないなとも思う。僕達は放っておけば壊れ行く体を意識でもってご飯を食べたりして壊れないように保っている。意識はエントロピーの増大を防ぐことができる。そのかわり意識が働くこと自体がべつのところでエントロピーを増やしているのかもしれない。だとすると植物も単細胞生物も含めたあらゆる生き物が濃度はどうであれ意識を持っているのかもしれないなとも思う。でも、意識を持たないロボットに事故修復機能と充電機能を持たせることもできるからそうとも限らないか。
 まとまらない話ですが、本当に訳の分からない宇宙だなと思います。

22.23.

2008-08-28 18:01:17 | Weblog
 そういえば22日に京都会館で発生生物学者の竹市雅俊さんの講演と高木正勝さんのコンサート、及び両者の対談があって、それに行ってきました。同じ1979年生まれで同郷の人を好きだというのはなんとなく悔しいけれど、僕は高木正勝さんの作品が好きだし、だからこの日もほとんど高木さん目当てに行ったのだけど思いがけず竹市さんの講演もかなり面白かった。話の組み立ても上手くて百戦錬磨の学者だなと思った。どこがどうとは細かく言えないけれど、かなりいいイベントでした。
 それで改めて高木さんの作品を見たり聞いたりしていると、どうして今回の「科学と音楽の夕べ」の人選が「竹市x高木」となったのか良く分かる気がした。

 そういえばこの日は京都会館へ行く途中に二条通りで高木さんを見たのはとにかく、そのあと会場に入ると斜め前にMさんが座っていて、それから次の日ジュンク堂へ行くと前からまたMさんが歩いてくるという変なことが起こった。



鳥。

2008-08-26 18:33:44 | Weblog
 鳥の声がいつもより近く、そして一定間隔でずっと聞こえていたので、僕は窓を開けて顔を覗かせた。こういう鳴き方は動物学的には親を求めてのものなのだろうけれど、そのとき僕は児童文学的に鳥が助けを求めている声なのだと思った。僕の研究室は5階にあり、窓の下には4階の床レベルに3階が少し張り出した屋根がある。その屋根の上に良く分からない変な鳥が居て、それがずっと鳴いているようだった。これは何かあったんだろうなと思ったけれど、鳥が自分で解決するかもしれないので夕方まで放っておくことにする。

 ずっとその鳥を気にしていたのだけど、夕方まで結局鳴きっぱなしで屋根の上をウロウロするばかりだった。僕はすこし迷った挙句、鳥の様子を見に行くことに決めた。どうして躊躇ったのかというと、もしも鳥が何かのトラブルでそこにずっといることを余儀なくされているのであれば、それを確認したあと僕はそれを放っておくことはできないだろうし、つまりそれは鳥の面倒を僕が見ることを意味するからだ。研究室でもアパートでも鳥は飼えないから、誰か飼ってくれる人を見つけなくてはならない。それに野鳥を飼うことは禁じられているはずなので、飼ってはいけないなんだか良く分からない野鳥を「飼ってください」と人に頼むのは少し気が引けた。それからもう一つ理由があって、その3階の屋根の上は4階にある僕の良く知らない研究室とか教授室のすぐ外で、屋根の上をうろうろするとその人たちの窓のすぐ外をうろうろすることになり、これはかなり気まずいし不審人物に思われるからだ。

 でもやっぱり鳥は鳴いてウロウロしてるし、そんなことも言ってられないので見に行くことにする。机の横にあった木片とネジでバードコールを作って試したけれどなんの効果もなし。誰かを巻き込もうとI君に電話すると「眠いから寝るからごめん」と冷たくあしらわれ、Sさんは来客があって駄目、Mちゃんはネットの工事で家に帰ってるとのこと。Oはバケーションでトルコに帰っている。仕方なしに一人で3階の屋根に出てみると変な鳥はやはり飛べないようだった。あとでこの鳥はイカルの子供だと分かるのですが、このときは何の鳥かも分からず、それどころか大きくて羽もしっかりしていたので僕は何かの成鳥だとてっきり勘違いした。この屋根ではまれに4階の窓に激突した鳥が死んでいるので、これもきっとぶつかったかなにかだろうと思った。軍手で捕まえてバケツに入れると鳴き叫んで大暴れ。大学に戻ってきたMちゃんが5階の窓から「大丈夫?」と手を振る。どうしようかと思いTに電話をすると「暗くすればいい」と言う。そういえばそうだ。僕も昔スズメを飼っていたのでそのときのことを思い出して、バケツには入れず両手で鳥を頭から包み込んだ。じっと包んでいれば鳥は安心して寝てしまう。

 さて両手で鳥を包んだはいいけれど、これでは部屋のドアも開けることができないのでMちゃんにカギを開けてもらったりして研究室に戻る。適当な箱がなかったので床に放すと椅子の下の方にある丁度止まり木のような部分にちょこんと止まった(写真はそのときのものです)。何か餌でもやろうと思い僕の野菜ジュースをお皿に入れて分けてやったけれど一向に興味を示さない。とりあえず、この鳥がなんという鳥で何を食べるのか調べて、要るものは買いに行く必要がある。ネットで日本の野鳥画像を検索するも該当するものがいない。このときイカルに似ているなとは思ったのだけど、写真では同じ鳥に見えなかった。まだ完全に成鳥になりきっていなかったせいだ。

 ネットで調べるのが段々と面倒になってきたので、ペットショップへ行けば自ずと鳥の名前も食べ物も分かるだろうと鳥を置いて、僕は自転車で買い物に出た。鳥は割り箸で作ったジャングルジムみたいな止まり木と水のコップと一緒にバケツにいれておいた。最初に行った川端のペットショップは鳥を扱っていなかった。そういえば北大路に鳥の店があったなと思いそこへ行くと店は潰れていて、百万遍の小鳥のお店へ行くとシャッターが閉まっていた。仕方がないので結局ニックへ行って、「粟の穂」を買う。それからスーパーで巨峰と自分で食べるお弁当を買って研究室へ戻る。部屋は電気を消していって暗かったので、帰ると鳥は首を後ろに曲げてすっかり眠っていた。お腹がぺこぺこだったのでまず自分のお弁当を食べ、そうこうしているうちに鳥が起きたのでまず粟の穂を与えてみる。ところが全く食べる気配がない。でも食べる気配はないけれど攻撃する気配はあったので、僕は粟の穂で軽く鳥を叩いてみた。すると鳥は怒って粟の穂に噛み付き、そのときどうやら食べれるのだと悟ったようで、ガリガリとすごい音を立てながら粟を少し食べた。次に巨峰を一粒与えてみるも、やはり全く興味を示さない。ナイフで果肉を露出させても興味がないようだったので、僕は鳥のクチバシに巨峰を突き刺してみた。鳥は果汁のついたクチバシを不思議そうに動かしてすこしだけブドウを食べた。

 この鳥をこれからどうすればいいのだろうと色々考え、動物のことと言えば動物園だと京都市動物園のホームページを開いてみると、トップページにちゃんと野生鳥獣保護センターというのが載っていて、そこでは野生動物を保護してちゃんと自然に返してくれるという。なら明日の朝ここへ電話してみよう。2粒だけ鳥に残して巨峰を食べ、それから鳥を水や餌と一緒にバケツにしまい、雨の中僕は家へ帰った。

 今日は7時前に起きて8時前に大学へ来た。鳥が朝早く起きて暴れていると困ると思ったからだ。でも僕が部屋に入ったときは実に静かだった。ブラインドを開けるとはじめて「ギェ ギェ」と変な声で鳴き始めた。粟はいくらか食べた形跡があったし、糞は大量に出してあったので、食べたり飲んだりはきちんとできている様子だった。しかも一晩眠って元気が出たのか、バケツの蓋を開けると止まり木と僕の腕を伝って勢い良く部屋の中へ跳び出し、そして本棚の影で全然隠れてないのに隠れている振りをしたりする。

 動物園に電話すると、まず雛の誤認保護ではないのかと散々聞かれるので段々とそのような気分になってくる。「良く分からないので写真を送るから同定してほしい」というと、「写真で見ても大人と子供の区別は難しいから、じゃあ持ってきてください」との返事。
 僕は「たぶん持って行きます」となんとも曖昧な返事で電話を切って、それから改めて鳥を見てみた。鳥は段々部屋にも僕にも慣れてきて、もう本棚の隅ではなく部屋の中をウロウロと空き放題に飛び跳ねていた。この鳥は一体なんだろう、と僕は考える。本当に野鳥なのかどうかも分からない。僕の手にも肩にも乗るのでもしかしたら誰かのペットだったのかもしれない。野鳥でなければ保護センターは引き取ってくれない。いや、でも、これは絶対に野鳥だ。ようやく僕は合点がいった。これが野鳥である理由は、外の木にある鳥が止まってきれいな声で鳴くと物凄く強い反応を示すからだ。昨日1度それがあった。そして鳥は良く見るとまだ毛が柔らかくて雛にも見えなくはない。なんだ親子なんじゃないか。僕はきれいな声の鳥が探しに来たとき、この鳥を離してやるべきだったのかもしれない。でも30センチも飛べない鳥を4階だとか5階の窓から放す気には到底なれなかった。

 これが雛だとすると僕は誤認保護して鳥の親子の運命を引き裂いてしまった可能性がある。一瞬ぞっとしたけれど、でも昨日1日ちゃんと様子を見たし、一日中同じところから動けないというのは問題があったからに違いない。先に結論を書いてしまうと、この鳥は何かの助けなくしてその屋根の上から出ることが出来なかったと思う。親がいくら呼ぼうとも。その屋根の縁には段が付いていて高くなっていて、その段はこの鳥には絶望的に高かったからだ。鳥は止まり木からの落下を起点とする飛行はできたものの、地面から上方向に飛び上がるという飛び立ち方ができなかった。だから屋根に縁があると外にでることができない。

 動物園へ持っていく前に、もう1日同じ場所において様子を見てみようと僕は思った。もしかすると親が来てなんとかするのかもしれない。鳥はすっかり慣れてきていたので、僕は手に鳥を乗せて4階へ行き、窓を開けて屋根の上へ出ようとした。
 そのとき、なんと鳥が僕の手から飛び、屋根の縁もぎりぎり飛び越して外へ45度くらいの軌道を描いて落ちるように飛び出した。そして向かいにあった大きな木の中ほどへ埋もれて見えなくなった。僕は大慌てで一階へ降りて木の下まで行く。小学生のときと同じ過ちをしているじゃないかと思う。子供のとき僕は、まだ飛べないだろうと思ってスズメの子供を外へ遊びに連れて行った。でもスズメは急に飛び、水田の中に落ちそうになりながらよたよた飛んで、そしてどうにか家のベランダに辿り付いたのだった。水田に落ちたら死んでいたかもしれない。僕はその危なっかしい飛行をハラハラ見守って、ベランダへ下りたのを見るがはやいが駆け出し靴のまま2階へ行った。ベランダへ出るとスズメは何事もなかったかのように僕のほうへ飛んできた。それは実に怖い時間だった。
 あのときと同じだな、と思う。降り出した雨の中、木の上を見上げたり、地面の草を掻き分けたりするけれど、なかなか鳥は見つからない。まいったなと思っていると、職員の女性の方が通られて、何を探しているのかと尋ねられたので簡単に経緯を話す。すると「私も昨日鳴き声を気にしてたの、鳥はイカルよ。クチバシ黄色でしょ?」と教えてくださった。

 探し続けていると、やがて木の上から鳥が鳴きはじめる。しばらく目を凝らしているとどこにいるのか見つけることができて、さらに10分も見ていると枝を飛び移り損ねたのかバタバタ羽ばたきながら地面に落ちてきた。
 僕は鳥をまた手に載せて、それで先ほどの職員の方がいらっしゃる部署に鳥を「見つかりました」と見せに行った。彼女は「これはまだ子供ね」と言い、鳥は植えてあった小さな木の枝をあちこち飛び移ってみせた。それから彼女は車で動物園まで連れて行ってもいいと申し出てくれた。

 今度は飛ばないように注意して、また3階の屋根の上に鳥を放してみた。鳥はウロウロして、樋に溜まったゴミを食べようとしたりし、僕が研究室に戻って窓からお米を落とすとバリバリ音を立てて食べた。
 じっと見ていては親鳥の妨げになるかもしれないので、僕は机に座った。だけど鳥のことが気になって仕方ない。親鳥の声は覚えているので、遠くにでもその声がしないか耳を澄ませる。すると驚くほどたくさんの鳥や虫が鳴いていることに今更気付く。この声全てが何かの意味を持った言葉なのだ。僕には分からないけれど、でもそれは言葉だった。世界は意味に満ちていた。

 僕は改めて鳥のことを考えてみた。あれしきの飛行能力で他からこの屋根にやってきたとは考え難い。屋根の周囲は巣がないことを確認している。ということはこの鳥の巣は屋上にあって、そこから飛び立とうとして3階の屋根に落ちたと考えるのが妥当ではないか。僕はまず先ほどの職員の方(Fさん。彼女はこのとき動物園に電話をして色々なことを聞いてくれている最中だった)に「屋上に巣があるかもしれないのであればそこに戻します」と言って、そのまま施設課へ行った。屋上に出たいというのはなかなかすんなり通る要求ではないかなと思いながら鳥のことを説明すると「じゃあ鍵ちゃんと返しに来てよ」と意外にあっさり鍵を出そうとして下さり、でも「そうだ、ごめん、あそこの鍵はここじゃなくて3号館の事務室にあるんだった」言われる。そこで僕はその事務室へ行き、また鳥のことを説明すると今度は「その3階の屋根って柵あるの?」と聞かれ「ないです」というと「じゃあ出たら駄目。鳥はかわいそうだけどそのまま放っておくしかない」と言われる。これは厄介なことになったと食い下がると「それに屋上も研究でとか、緊急でとかじゃないと鍵は渡せない」と言われる。そこで僕は「今も緊急事態です」と笑顔で応えてみて、すると屋根には出ないで網か何かで鳥を取るならいい、鳥が確保できたらまた来なさい、ということになる。網でというのは、つまりまあ大人の表現で、僕はまた屋根に出て鳥を捕まえ、それから研究室のバケツに入れて鍵を貰いに行った。

 屋上に出るのははじめてだった。夕立みたいな雨が降ってきて、避雷針のすぐ横に立ち、今雷が鳴ったら怖いだろうなと思う。エアコンの室外機の下を含め、ありとあらゆる窪みを探したけれど鳥の巣らしきものは一つも見つけることができなかった。考えてみたらこんなに日が当たって熱そうな屋上に巣なんて作りそうにもない。
 雨に濡れたTシャツが肩にまとわり付き、それがなんだか疲れの象徴である気がして、僕は強い空腹を覚える。「巣は見つかりませんでした」と鍵を返しに行くと、「硬いことを言ったけれど、色々あるから」と言われる。もちろんそれは重々承知しているし鍵は貸してもらえないだろうなとも思っていた、ありがとうございます、と事務室を出た。

 巣はなかった、とFさんに報告して「じゃあ動物園かな」「でもやっぱり動物園は忍びない。もうすこし考えます」という話をしていると、イカルの親達が近くの木にやって来た。5,6匹の群れだから親と兄弟かもしれない。これはチャンスだと思い、僕は研究室に走って戻り、バケツから鳥を出して手に乗せて窓を開けた。昨日一度親が来たときも鳥は窓から出て行きたそうにしたけれど、そのときはこのちっぽけな飛行能力じゃ5階から落ちたら死ぬだろうと思って網戸を開けることができなかった。でも今日はさっき4階から落ちても大丈夫だったのを見ている。イカル達は2本の木に別れて止まり、そして親はとてもきれいな声で、兄弟達は「ギャ、ギャ」と鳴いた。僕の鳥もギャ、ギャと鳴き、そして2、3分くらい何事か鳴き交わした後、鳥は窓を飛び出してやっぱり半分落ちるみたいに親鳥の木に飛んでいった。幹の中ほどに着くと、親がすぐに降りてきてそして何かをしゃべったり突付きあったりした。鳥って適当に鳴いているんじゃなくて本当に何か会話してるんだなと思う。ちゃんとお互いを認識していて絆があるのだなと思う。動物園に連れて行かなくて本当に良かった。鳥の親子が何かをしゃべっている光景は嘘みたいに完璧だった。

 しばらくすると親や兄弟はどこか見えないところへ飛び去り、その鳥だけが木に取り残された。でも親の呼ぶ声は聞こえていて、親は絶対にその鳥を見ているはずだ。あとは親がなんとでもするだろう。
 僕はFさんに、それから屋上の鍵を貸してくれた事務室にも鳥を親に返したと報告し、それからパスタとアイスクリームを買って研究室で食べた。当たり前だけどもう部屋に鳥はいなくてバケツの中にも止まり木があるだけだった。窓の外の木にももう鳥はいなかった。廊下で誰かのスニーカーがキュッと音を立てたり、別の似た鳥の声がするたび、なんとなくあの鳥が戻ってきたのかと思いながら僕はビスケットサンドのアイスクリームを齧った。床にこぼれ落ちたビスケットの欠片をあの鳥は食べただろうか。

 

many sells in the glider.

2008-08-25 13:14:51 | Weblog
 先日、文部科学省が若者はどうしてキレやすいのか脳を研究することに決めた、という衝撃的なニュースについて触れましたが、昨日テレビで評論家の宮崎哲弥さんが若い思想家を指して「文科省が最近の若者は頭がおかしいから莫大な予算、税金を投入してどうしてキレるのか脳の研究するって言ってんのを聞いてなぜ若者は誰も怒らないんだ!」というようなことを言っていらっしゃいました。

 僕はこのニュースに衝撃を受けて、ちょっと皮肉っぽいことを書いて、でもそれは怒りとはちょっと違った。だから、どうして誰も声を荒げて怒らないのかなんとなく分かるような気もします。
 僕達はそれが真実かどうか明確にはしらないものの、やっぱり狂いつつあるのではないかというぼんやりとした不安を抱えているのだと思う。アレルギーの子供が異常に増加しているように、僕達の精神を司るであろう器官、脳にもなんらかの異変が起きている可能性を否定できない。たとえばある環境ホルモンの作用としてイライラしやすくなる、ということがあるのであれば、僕達は生活環境からその物質を取り除きたいと思うし、そういうことはちゃんと研究されるべきだと思う。僕達は毎日ドープされた状態で生きているのかもしれない、ということを僕達は薄々感じていて、ならばそういうことはちゃんと研究してほしいと思う。

 宮崎さんの言われることは非常に良く分かる。教育を考えるべき文部科学省が「最近の子供がちゃんと生きないのは社会や大人の責任ではなくて子供の頭がおかしくなっているからだ」と言うのは滅茶苦茶なわけです。でも、今はその可能性を視野に入れなくてはならないような時代で、それに文科省だってそれで全てを解決しようというわけではないし、冷静に状況を見れば妥当な判断だと思う。

 話は少し変わるけれど、一昔前の日本の企業について「結婚出産した女性が職場に復帰し難い理由」は「独身でなくなったからだ」ということがまことしやかに言われていた。これがどういうことか理解するには企業を単に「企業」と読んだのではいけない。企業はその人の「全て」になろうとしていた。ある人がある企業に就職するということは、その企業に人生を捧げることに近かった。それは精神的にというかシステムとして。まず若い男女が独身で入社して来る。彼ら彼女らは社内という場を通じ恋に落ちて結婚する。妻は寿退社して子供を生み育てる。夫は家庭を守るためにより一生懸命働くし、家庭ができた以上首が飛んではならないと会社の無理難題にも耐える。妻と出会ったのもその会社なので思い入れは深い。このとき企業は一時期「企業戦士」と呼ばれたようなタフな部下を手に入れる。つまり、企業は若い社員を企業戦士に変えるため結婚斡旋所の役割も果たそうとした。従って社内には一定数の独身女性が必要だった。だから結婚してしまった女性はもう職場に復帰することができない。
 橋本治さんの本か何かで読んだのだと思うけれど、僕はこれを読んだときぞっとしました。政略的な結婚みたいなことが市井のレベルでも、ある企業の利益の為に行われていて、そして多くの人がそれに気付いていないとするともう人生って本当になんだよって話だからです。

 今回、文科省のプロジェクトに僕を含めた若い世代が対して強い反感を抱かないのは、実は長い間かけて僕達が文科省に教育されてきた所為なのかもしれないなと思うと、自分の判断というものに対する疑いがますます大きくなる。
 僕達は実は巨大なプログラムの一部なのかもしれない。

No5.012.

2008-08-24 22:40:43 | Weblog
「see ya」と言って、スカイプでシアトルの彼女と話をしていた二ノ宮がこっちへ戻ってきた。二ノ宮のガールフレンドはドイツ系アメリカ人の女の子で、半年前まで京都に住んでいたけれど、留学期間が終わってシアトルへ帰ってしまった。国をまたいでの遠距離恋愛なんて実にヘビーだなと思うけれど、今のところ二ノ宮の口から弱音が出たことはない。
「ごめんごめん、ちょっと長くなっちゃった」
 二ノ宮はIBM thinkpad x300からヘッドセットを外した。
「ほんとに長いこと。ハイディ元気って?」
 イクちゃんが読みふけっていた今月のカーサ・ブルータスから顔を上げる。僕のだけど。
「元気。デトロイトに引っ越して妹と暮らすかもって」
「デトロイトって自動車産業の街だっけ?」
 美加子が社会科で習ったような杓子定規なことを言うので僕は言った。
「データが引っ越すことになってた街で殺人率が高くてモータウンの街だよ」
「なにそれ?」
「グーニーズ」
 僕の代わりに二ノ宮が答えた。
 グーニーズは僕がもっとも好きな映画の一つだ。1985年のアメリカ映画で、監督はリチャード・ドナー、製作はスピルバーグ。子供達が海賊の宝の地図を見つけてそれを探しに行くというのはありがちな物語に見えるけれど、実はそういった話はそんなにゴロゴロしていない。映画の後半は洞窟探検だ。この映画をはじめて見たとき僕は小学生だった。僕は友達と探検できそうな場所を探しては毎日のようにグーニーズごっごをして遊んだ。下水だの古い防空壕だの廃墟になったマンションだの、暗くて人気のない所へはどこにでも入り込んだ。
 二ノ宮もこの映画のことが好きだった。僕は小学生の時も京都に住んでいて、その頃二ノ宮は滋賀に住んでいたので、当然僕達は完全なる赤の他人だった。でも、場所は違えど彼は彼で僕と同じようなことをしていたらしい。僕が豆塚のことを二ノ宮に一番最初に言ったのにはそういう理由もある。はじめてグーニーズを見たときからもう20年近くが経ったわけだけど、僕達はつまるところ本当にどこか誰も知らないような、謎に満ちた場所を探検してみたいと思っているわけだ。
「面白いから一度見てみるといいよ。持ってるから貸すよ」
「まあ、そのうち見てみる。それより映像見せてよ」
「はいはい」
 8月31日に僕達は野外パーティーを計画していた。これまでも何度かパーティーはしてきたけれど、どれも場当たり的というかいい加減極まりないものだったので、今回はきちんと考えてやってみようということにした。それで今日は当日流す二ノ宮が作った映像を全員で見てみようということで集まった。

Education is an expensive proposition.

2008-08-20 12:24:40 | Weblog
 一昔前、パウロなんとかさんというイタリア人みたいな名前の人の「反社会学講座」というような名前の本(ほとんど何にも覚えていない)が流行っていました。
たしかに社会学の中には好き勝手なことを言ってるだけにしか見えないものがときどき見られます。でも面白いときは面白い。
 内田樹先生のブログが面白かったのでそのまま引用しました。

(以下引用)
____________________

90分間お時間を頂戴して、どうして子どもたちは学びを拒否するようになったのかという論件を、80年代以降の消費文化と市場原理から説明する。
話の内容はみなさんご案内の通りである。
子どもたちが学びを拒否するのは、それが消費者として当然のふるまいだからである。
教師は学校教育のコンテンツの有用性や意義を六歳の子どもには理解させることができない。
子どもたちが「まだそれを理解できない」という当の事実こそ彼らが学校に通う第一の理由なのである。
ふつうはこれで話が済む。
しかし、消費社会ではそうはゆかない。
子どもたちはまず消費主体として自己規定する。
消費主体であるならば、六歳児であっても、商品についてその有用性と意義について説明を要求する「権利」があり、「義務」がある。
その商品の使途を知らない商品を購入するということは消費者には許されない。
だから、子どもたちは「これは何の役に立つんですか?」と問う。
「ひらがなを学ぶことに何の意味があるんですか?」「算数を学ぶことに何の意味があるんですか?」
教師はそれに答えるべきではない。
いいから黙ってやりなさい、というのが教師の言うべき言葉である。
というのは、教師自身、どうしてそのような教科に有用性があるのか、よくわかっていないからである。
自分の教えている教科がいったいどれほどの可能性を潜在させた知的活動に結びついているのか「よくわからない」というのは教師であるためのたいせつな条件である。
私は自分が教えていることの意義と有用性と適用範囲について熟知していると嘯くような教師は(老師の言葉を借りて言えば)「学ぶことを止めてしまった教師」である。
学ぶことを止めてしまった教師から学ぶことは(不可能ではないが、たいへん)むずかしい。
すぐれた教師は自分が教えていることについて「自分は十分に知らない」ということをよくわきまえており、それゆえ、自分が教えていることにどんな意味があるのか、いまだ確実なことが言えないでいる。
だから、「先生の教えていることは何の役に立つんですか?」と訊かれてもはかばかしい答えができない。
「さあ、何だろう。先生にもよくわからないね」というのがおそらく望みうる最高の回答であろう。「いいから、黙ってやりなさい」
しかし、消費主体としての生き方をすでに内面化した子どもにはこの回答は理解不能のものである。
商品を購入するときに、「売り手」がその有用性と意義を「買い手」に説明できない場合、その商品は「無価値」なものと判定される。
消費主体としては、それが合理的である。
無価値であれば、もとより勉強する必要はない。
子どもはそう結論する。
だからといって、子どもの「何の役に立つんですか?」という問いに子どもにもわかる答えを処方しても、事態は少しも変わらない。
それは「学校というのは、子どもにもその有用性や意義がわかる商品を扱うところである」という理解に子どもを導くだけである。
となれば、消費主体のその後の仕事は一つしかない。
それは、その商品を「最小限の対価」で手に入れるためにはどうするか工夫する、ということである。
商品を「買い叩く」ための基本は当該商品に対する欲望をできるだけ示さないことである。
だから、子どもたちは可能な限り授業に集中せず、教師に対する敬意表現を手控え、「学びたくない」というメッセージを全身でアピールする。
それは学校に来たくないということでも、学校で教わっている教科が無意味だと思っていることでもない(現に学校には来ているし、教科の有用性も理解している)。
彼らの関心は「どれだけそれを安い代価で手に入れるか」なのである。
使用価値の高い商品をかなうかぎりの安値で手に入れる消費者が「賢い消費者」だとされているからである。
だから、もし学力をほとんど身につけない状態で(四則計算ができない、アルファベットが読めない、漢字が書けない)大学卒業資格を手に入れた子どもがいたとすると、その子どもは「きわめてクレバーな消費者」だったということになる。
論理的にはそうなるし、現実的にももうそうなりつつある。
世間では一流とされる大学を卒業していながら、「こんなことも知らないのかよ」と仰天するほど無知な若者たちが簇生しているが、その無知を指摘されても、彼らはまったく動じない。
むしろ、「だって、オレ、ぜんぜん勉強してなかったですから」とそのことをほとんど誇らしげに語るのである。
ぜんぜん勉強しなかった(ので、幼稚園児程度の学力しかない)けれど、一流大学を出たというのは、いわば「五円玉一個で自動車を買いました」というのに類する「賢いお買い物」なのである(それは、小学校高学年程度の情緒の発達段階であるにもかかわらず、現実には就職し、結婚し、子どもまでいるという「中身は子どものままのおじさん・おばさん」たちの大量発生と同根のものである。これもまた「市民的成熟のための努力抜きで、市民としての権利を行使できる立場になれた」という点では「賢いお買い物」なのである)。
消費者マインドで教育にかかわるということは、そういうことである。
だから、子どもが消費主体として教育の場に登場することを許してはならない。
それは学校が破壊されるだけでなく、子ども自身を「自己破壊」のプロセスに押しやることだからである。
教育者の急務は市場原理、消費文化の教育への浸潤を全力をあげて防ぐことである。
子どもたちを「同時代のドミナントなイデオロギーから守ること」、それが教育の存在理由である。
学校は対抗文化の拠点でなければならない。
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(引用終わり)

ヘッド博士の世界塔。

2008-08-19 16:36:02 | Weblog
「私達、そろそろ病院へ行ったほうが良さそうね」
 小枝子が菊池にそう言ったのは、この間の木曜日だった。「そうかもしれないな」と菊池は応じた。たしかに小夜子の言う通り、ここのところ夫婦仲はあまり良くない。たぶん夫婦倦怠症が発病したのだろう。軽いうちに病院で見てもらうほうがいい。昔はフェニールエチルアミンやなんかの知識が不足していた、あるいは薬学の方が追いついていなかったから、人は結婚後配偶者を疎ましく思うようになると離婚していたそうである。それ以前に夫婦倦怠症が脳の病気だという認識すらなかったらしい。今はいい薬があるので夫婦倦怠症は簡単に治療することができる。なんだか配偶者といても詰まらないなと思ったら病院に行って薬を貰えばいいだけのことだ。もちろん夫婦倦怠症の薬は結婚していないカップルにも有効なので、最近は倦怠科を受診する若いカップルもとても多い。


香苗が強度親性依存に掛ったのは幼稚園入園直後だった。朝迎えのバスが来ても香苗は泣きじゃくって友江にしがみつき、一向に幼稚園へ行こうとしなかった。「親性依存発病しちゃいましたね」川上というまだ若いその幼稚園教諭は手馴れたもので、エプロンからヤクルトのような飲み物を取り出した。「これ治療薬なんで香苗ちゃんに飲ませて上げてください」「はい、ありがとうございます、すみません」友江は「ほら、先生がジュースくれたからちょっと飲もうか」といって香苗にそれを飲ませた。大抵の治療薬は子供でも飲みやすいようにメロンだとかなんだかの味付けがしてある。薬さえ飲んでくれればもう大丈夫だ。「おいしかった。オレンジ。じゃあいってきます」


 文部科学省が「キレる」メカニズムの解明に乗り出すそうです。
 このニュースを読んで色々な意味で怖くなりました。
 ときどき人類というのは発狂しつつあるのではないかと思うからです。世界中にばら撒かれ続ける変な化学物質やあるいは電磁波を浴びて、もしかしたら僕達は機能を失いつつあるのではないでしょうか。天空の城ラピュタに「人は土を離れては生きていけない」というような言葉があったけれど、空こそ飛んでいないものの僕達は土を離れて生きていて、これは人体という有機物にとって過酷なことなのだろうなと思います。

 人の振る舞い、性格、脳に関する問題はデリケートなものだし、それから込み入っています。込み入ってるといってもただ絡まっているわけではなく、僕達はそのごちゃごちゃした問題についてどこを拠り所にして解法を進めていけば良いのか知りません。たとえば、酷く心が沈んでいて何もしたくないという人に抗うつ剤を与えて働けるようにする、というのがどういうことなのかも僕には分かりません。いいことなのか悪いことなのかも分からない。働いて稼げないと生きていくことができないのだから、働けるようにしてあげて薬は助けになってるのだ、ということも言えるだろうし、何もしたくない人を薬で動かすのは社会の要請であって本人の意思ではないとも言える。明るくしてくれないとなんとなく困るから、不安だから、薬でなんとか元気な素振りを見せてくれたら嬉しいな、みたいな。このとき明るく振る舞っている人は誰なのだろう。それは魔法の惚れ薬を飲んだ女の子に好きだと言われても全然嬉しくないのに似ている。好きだと言っているこの人は誰なのだろう。

 僕達が誰かを尊重するというとき、それはその人の何を尊重することなのでしょうか。脳内に分泌される僅かな化学物質に喜怒哀楽を左右され、ある部位に電流を流すと無上の幸福感に満たされる。人とはその程度の存在なのだ、という人もいる。ピルで精神状態なんてどうにでもなる。人の心とか精神なんて所詮はそんなものだって。
 でも僕はとりあえず薬品を摂取しない状態をその人であると捉えるのがもっとも自然なんじゃないかと思います。かつて凶暴な人の前頭葉(人格や精神の宿る部位)を切除するロボトミー手術が大流行したのと、今の精神医療の在り方はとても似ているような気がしてなりません。
 


 2008年8月18日月曜日
 昼下がり、大学の図書館へ行くと今日から点検だということでメインの図書ゾーンに入れない。必要な本があったのでカウンターで申し込んで夕方に取りに行く。
 夜、I君と好来屋へ行くと新町通りの店は潰れて違う中華の店になっていた。この店は中国人の友達が教えてくれた本当の中華料理屋で、なんだか滅茶苦茶な店なんだけどとても気に入っていたのでがっかりする。僕はそれほど食べ物にこだわりがなく、特にどの店の料理が食べたいと思うことはない。でもここだけは唯一「この味じゃなきゃ駄目だ」と思う店だった。あの眼光鋭いコックさんたちはどこへ行ったのだろう。

Jacta alea est.

2008-08-18 14:53:21 | Weblog
 お盆が過ぎてすこし涼しくなりました。
 地面はセミの死骸だらけで、すこしだけ生きたり死んだりすることについて考えます。

 確率のことを考えて頭が混乱した経験はないでしょうか。
 たとえば、サイコロを振って1が出る確率は本当に1/6でしょうか。

 なにが言いたいのかと確率の定義のことです。

「1から6までの目が同じようにでるなら、そのサイコロを振ってある数が出る確率は1/6である」

 というのはほぼ自明であるかのように扱われています。でもこれはもしかしたら馬鹿みたいな話かもしれないわけです。なぜなら、「1から6までの目が同じように出る」ということは「1から6までの目の出る確率がそれぞれ同じである」ならということだからです。

 つまり、
「1から6までの目が同じ確率で出るのであれば、そのサイコロを振ってある数が出る確率は1/6である」
 ということです。

 サイコロの話だと具体的すぎてかえって分かりにくいかもしれないので一般化すると
「同じ確率で起こる事象がn個あるとき、その中のある事象が起こる確率は1/nである」
 ということです。
 確率を使って確率を定義しているのでトートロジーのようにしか見えません。

 現代物理は量子論も統計力学も使うので、確率とは切っても切れない繋がりがあるのですが、確率というのは実に悩ましいものだと思う。

ハローなんて気楽にいってはみたものの。

2008-08-10 16:23:55 | Weblog
 なにかを考えるときに頭の中でしている声は誰の声だろう、と時々思う。骨導でいつも自分が聞いている自分の声に似ていると言えば似ているけれど、そうではないような気もする。僕がこれまでの人生で作り上げてきた誰かなのだろうか。

 僕がこの日記に書いていることのほとんど全ては最初の一文から始まっている。作文が最初の一文から始まるというのは当然のことだけど、そういうことではなくて、ある瞬間にその謎の声がある一文を突然言うので、僕はその一文を書き、そうするとあとは自動的に作文が書きあがる。

 運の悪いことに、まれにそれが日本語ではなくて英語であることがある。たぶんこれは海外ドラマの影響で、ここしばらく見ているgrey's anatomyでは必ず各回の冒頭と終わりに誰かのモノローグが入るので、そのモノローグの感じがなんとなく好みだとついつい真似をしてしまう。特に主人公Greyの声としゃべり方は、きっとこの人はこの話し方のお陰で主人公に抜擢されたに違いないと思うほど独特なので随分な影響を受けた。
 そういうときは苦手だろうが恥ずかしかろうが英語で書くほかないわけだけど(ニュアンスは翻訳できないから。たとえば町田康の小説を英語に翻訳することを考えてみると良く分かる)、英語を使うときに立ち上がってくる別人格の自分というのもなかなか興味深いなと思う。

 興味深いというか、日本語よりも英語を使っているときの自分の方が好ましいような気分すらする。何人かの友達からも同じ話を聞くので、これを感じているのは僕だけではないと思うけれど、日本語で会話しているときよりも英語で会話をするときの方が(うまく話せなくて不便というのに目をつむると)楽だ。その場を支配している言語が日本語であるか英語であるかで、場の親和性というのには差ができると思うし、英語の方が圧倒的に高い親和性を見せると思う。

 たとえば、日本語には英語の"hi"に相当する言葉があるだろうか。「こんにちは」「どうも」は明らかに丁寧すぎる。「よっ」とか「おす」は無礼すぎる。職場やなんかでときどき時間帯を構わず使われる「おはよう」はまあまあ近い気もするけれど明らかに違う。
 hiみたいにユニバーサルに使えて、短く発話するのが簡単な挨拶というものを日本語は持たないのではないかと思うのです。その代わりに会釈というものがあるけれど、無言で頭だけ下げるというのはあまり近しい印象を与えるものではないしコミュニケーションの起点にもなりにくい。

 どちらがいいとか悪いとかいう問題ではないけれど、hiのあと躊躇なくファーストネームを交換してはじまる英語の会話というのは本当に楽だと思う(相性だとかは別の問題として)。ときどきI君と話すのだけど、Oは僕の研究室に海外から来ている研究員でいわば僕やI君といった学生より身分も年齢も上で偉いわけです。それを普通にビール買って鴨川で花火しようとか荷物運ぶから手伝ってと言えるのは、もちろん彼の人格によるところもあるものの英語のお陰だと思うのです。これが日本人の研究員ならば「○○さん」と呼んで色々気を使っていたと思う。Oはfriendだけど、○○さんを紹介するときは「友達」という表現はできない。

 僕が精通している言語は日本語だけだし、そこそこ知っている言語も英語しかない。だから世界の色々な言語における「親和度」がどれくらいなのかは分からない。でも、もしかしたら英語がこんなに世界中で使われているのは、その政治的経済的学問的な勢力図によるものだけではなく、実はかなりの数の人々が英語で会話するのが「なんだか楽かもしれない」と感じているからなのではないかとも思う。